1章

 少女は雪の積もる小道を走っていた。
 針葉樹に包まれているかのようなひっそりとした道は誰も歩いていない。雪に残された足跡は少女のものしかなかった。
 左手には藁を編んで作った大きめの籠が、右手にはまだ火が灯されていないカンテラがあった。
 空からはとめどなく雪が降り続いている。ここ数日の冷え込みは激しく、少女のむき出しになっている手は恐ろしいほどかじかんでいた。
 しかし、少女は寒くて急いでいるのではない。
 遠くから聞こえてきたのは、教会の鐘の音。ちょうど昼を告げるものだった。
 間に合わなかった。少女はさらに急ぎ、走る。ブーツを履いて来なければよかったと唇を噛んだ。家を出た時はここまで雪が降るとは思っていなかった。ケープについているフードが突風に煽られて、亜麻色の髪が無邪気に踊った。
 少女が向かっているのは、このゴンド島の中で一番大きな町、ノースゼリアだ。
 レンガ造りの門には番はおらず、すぐに町の中に入れた。そのまま少女はまっすぐに町の中央広場に向かう。
 中央広場には、この町唯一の教会がある。
 小さな教会の中に入ろうと、たくさんの人が並んでいた。少女はこれのために来たのだ。
「ゲルダ! 待ってたよ」
 列の中から、老婦人が大きな声でゲルダに声をかける。
「ごめんね、ハーブの乾燥が遅れちゃって!」
 ゲルダは列に並ぶことはなく、そのまま聖堂の中へと入る。
 小さな町の小さな教会ではあるが、中はとても暖かかった。外のひどく凍えるような寒さはなく、その中で、神父は人々に小さなパンを渡していた。白髪の美しい、老神父だ。人々は神父に感謝しながらパンを受け取っている。かじかんだ手を揉みながら、ゲルダは神父へと声をかける。
「すみません、まじないを売ってもよろしいでしょうか、コサルフ様」
「ああ、いいですよ。あなたがいないので、心配していた方もいらっしゃいます。今日は遅かったのですね」
「湿気た風でハーブがなかなか乾燥しなかったのです。ママ・アルパも本当は一緒に来ようとしていたのですが、生憎、雪ですし、今日は私だけ参りました」
「そうですか。アルパ様は元気ですか?」
「はい。お陰様で」
 ゲルダはコサルフから了承を得て、大きな籠を木造のベンチの上に置いた。
 籠の上に被せてあった布を取る。
 乾燥させたハーブだけではなく、乳鉢、小瓶、蓋になるコルクなどの小さな道具も入っていた。籠の隣にカンテラを置き、火をつける。そして、羽織っていたケープを脱いで床に敷いた。ゲルダはその上に座り、ベンチを机代わりにした。
 これがゲルダの店だ。ゲルダは特に大きな声を上げもせず、ただ、座っていた。
 けれども、すぐにパンの包みを持った老婦人がゲルダの元にやってきた。
「いらっしゃい、今日はどんなまじないを?」
 ゲルダが声をかけると、老婦人は乾燥した手を差し出した。かさかさしていて、ひび割れている。
「あかぎれがひどいの。それに咳も。なんとかならないかしら」
「それなら体に潤いを与えるまじないがいいですね。咳があるなら飲む方を」
 ゲルダはすぐに籠の中から二種類のハーブを出し、乳鉢の中に入れてすりつぶし、粉状にした。それを小瓶の中に入れ蓋をし、軽く振る。
「一晩、瓶ごと水の中に入れて清めてください。冷たい井戸水がいいです。乾燥するということは、水があなたから離れています。このハーブは水と仲がよく、飲むことであなたの力と潤いを取り戻してくれます。蓋は開けてはいけませんよ。あと、火のそばに置くのもだめです。飲む時は、一度大きな鍋でぐらぐらと沸かして冷ましたぬるま湯と一緒に飲んでください。できるかぎり、たっぷりの水を使ってくださいね」
「ありがとう。ゲルダ。あなたのまじないはよく効くの。また来週も来てくれるかしら」
「はい。お大事に」
 紙袋に瓶を入れ、老婦人に手渡す。
 それから何人もの客がゲルダの元へやってきた。
 ゲルダの師であるママ・アルパが来ていないことに残念がった者もいるが、皆、ゲルダのまじないで満足をして帰った。
 籠いっぱいに入れてきたはずのハーブは徐々に少なくなり、その代わり、銀貨が籠の中にたまっていく。
 ゲルダはこの一連の流れが好きだったし、自分のまじないで皆が救われることに誇りをもっていた。
(ママ・アルパがいなくても、私はもう、一人前のまじない師としてやっていける)
 この銀貨の数は、ゲルダの自信の大きさを示していた。
 まじない師になるために、ママ・アルパの元で学び続けて十数年。もうゲルダは十六歳である。ハーブの調合は間違えたことがないし、まじないの手順も分かりやすく説明することができる。もう自分はじゅうぶんまじない師として知識も技術もあると自負していた。
 銀貨の数に満足したゲルダは、乳鉢や瓶などの道具を籠の中に入れ、帰り支度を始めた。家にある包丁の切れ味が悪くなってきているので、このお金で砥石を買おう。それから、晩ごはんに少し高めの肉を。などと考えていると、楽しくなってくる。
 最後にカンテラの火を消そうとした、ちょうどその時だった。
「もし。まだよろしいか――」
 しゃがれた声が背中にのしかかってくる感覚。ゲルダはすぐに振り返った。
 ボロ布で顔が覆われている、薄汚い男。腰の曲がった老人だ。着ている服も所々破れている。そんな服で、寒くないのだろうか、とゲルダは思った。
「いえ、もうハーブがないので、今日はしまいですが」
「話だけ聞いてほしい。来週でいいから」
 骨ばった手が、ゲルダの肩を掴む。
 気持ち悪さから、ゲルダは手を払いのけようとしたが、唾を飲み込み我慢をした。
「――分かりました。私ができることなら」
 ゲルダがそう言うと、老人は「よかった」と声をもらした。
 外から入り込んだ風で、顔を覆う布が少しだけ揺れた。その時、ちらりと見えた目に、微かに笑みが浮かんでいるのをゲルダは目にしてしまった。それがなんとも薄気味悪く、ゲルダは床に敷いていたケープの裾を握りしめた。
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