2章

 夜の国に朝が来る。夜と言いながらも、この国にも朝と昼があるようだ。朝日に照らされた草原は、冬だというのに、青々としていた。朝露でブーツが濡れる。
 広々とした草原に喜んだハルムは、風に乗って遊びに行きたそうにしていた。一晩中ハルムに助けられっぱなしだった。ゲルダは行っておいでと言ってハルムを見送る。
 森を出たゲルダとエリアスはしばらく、その美しい光景を目に焼き付けていた。
 ゲルダはそっとエリアスの顔を見た。
 月のようだと思えたエリアスの長く美しい髪は、島の市場でたまに見た上品な布――確かあれは絹といった――に見える。肌は白く、透き通っているかのように美しい。尖った耳では、森を思わせる石が光り、その石と同じく深い緑の瞳が目の前に広がっている光景を見つめていた。
 先程の、懐かしいという感情は、どこから来るものなのだろう。
 ゲルダは記憶を探ってみたが、何一つ思い当たるものはなかった。エリアスの声をどこかで聞いたことがあるような気もしたが、定かではない。
 ハルムが朝の清々しい風を楽しんで、ゲルダの元へと帰ってきた。
 そして、広い草原を前に佇んでいるゲルダとエリアスに驚いた。
「えっ、二人とも、何をしているの?」
 ハルムはゲルダの肩に乗り、ゲルダの髪の毛を引っ張る。
「ほら、今ならゆっくり聞きたいこと聞けるじゃない。話を早く進めましょうよ」
 ゲルダがちらちらとエリアスの方を見ているので、エリアスも気がついてゲルダに視線を向けた。
 エリアスの目は少しつり上がっているので、普通に目線を送られただけでも睨まれているように感じて、ゲルダはどきりとしてしまう。けれども、尻込みしていては何も分からなかったので、意を決してエリアスに話しかける。
「あの。あなたは森から出て良かったの?」
 エリアスは革手袋をはめた手で前髪をかき上げ、ああ、と言った。
「俺はもとから、あの夜に森から出るつもりでいた。そこへ、お前が森へ来てくれた。巨人を暴れさせ、エルフの兵たちが森から出ていくことになって、好都合だった。俺は奴らに閉じ込められていたから、息苦しかった。叔父上は許さなかったが、俺は叔父上が反対してでも森から出なければならなかった」
 ハルムはなぜ? と話の続きを求めた。エリアスは言おうか言わまいか悩んでいたが、深い溜息をつき、革手袋を取った。
 ゲルダとハルムはその手を見て、息を呑んだ。
 その手は、痣だらけだった。内出血をしたかのような色だ。エリアスの透き通った肌には似合わない色だった。
 エリアスは再び革手袋をはめ、両手を握りしめた。
「俺は、エルフだが、エルフではない。夜の賢者になりそこねたエルフだ。叔父上たちのように魔法が使えない。空も飛べず、夜の国の綻びを修正する魔力もまったくない。俺はエルフの王子だ。エルフの中で最も魔力を持ち、エルフを従え、しいては夜の国を支える柱として夜の女王へ力を捧げなければならないのに、魔法が一切使えない。だから俺は、森にいる意味がなかった。森の外に出れば、何か手がかりが掴めないかと思ったんだ。この痣のことについても」
 なるほどねえ、とハルムは頷いたが、ところどころ分からない言葉があった。
 夜の女王とは何なのか。夜の国の綻びとは何なのか。この国の住民ではないゲルダにとっては分からないものだ。
「その夜の国の綻びとか、夜の国の女王って何なの?」
 ゲルダの質問に、今度はエリアスが息を呑んだ。
「……は?」
 なぜ知らないんだ、というような顔だった。
「私、人間なの。だから、この国のことよく知らなくて。だから、何でも知っているというエルフを訪ねたの」
 エリアスは驚きと共に、ゲルダから距離を取った。手は自然と剣に伸びる。
「ち、近寄るな! 人間がなぜここにいる! おい、そこの妖精! お前はなぜ人間と共にいるのだ!」
 ハルムは面白そうに笑いながらエリアスの肩へと飛び移った。
「あなたは、なぜ妖精の私を知らないでいたのに、人間のことは知っているの?」
 エリアスは青ざめた顔でハルムを払い除けた。
「俺には記憶もない。ある日を境にまったく過去のことが思い出せない。だから妖精のことも、この夜の国のことも、ほとんどの知識がなくなった。それでも覚えていたのが、夜の賢者としてのエルフの役割と、人間という恐ろしい存在のことだけだ。人間は恐ろしい。それだけの記憶が俺の中に残っていた」
 へえ、とハルムは相槌を打つ。エリアスは忘れてしまっているものがあったりなかったりするようだ。
 ある日を境に記憶がない、というのはゲルダと同じだった。
 ハルムはエリアスの耳元で囁く。
「あの子、人間のようだけれど、少しだけ夜の匂いがするの。魔法は使えないかもしれないけれど、魔法に似たまじないは使えるそうよ。私はあの子のまじないで無理やり契約させられたの。」
「そうなのか」
 エリアスは剣に添えた手をそっとおろし、ゲルダの元に歩み寄った。
「妖精を従える人間。名は?」
「ゲルダ。まじない師のゲルダ」
 名を聞いたエリアスはそっと一礼をする。
「失礼をしてしまった。魔力を持たない俺からしたら、ゲルダは俺よりも優れた術師であろう。話をした通り、俺には魔力も、記憶の一部もない。欠点だらけのエルフだ。だから、この俺にしばらく力を貸していただけないだろうか」
 恭しく頭を下げられ、ゲルダはおろおろとしてしまった。魔力も記憶もないというが、それでもエルフの王子である。
 ハルムが面白そうにゲルダの肩に戻ってきた。
「しばらく一緒にいたら? あなたの中にある夜のこと、彼に聞くのは難しそうだったけれど、一緒にいたら何か分かるかもしれないわよ?」
 確かにそうだとゲルダも思う。
 記憶がないのは、自分も一緒だ。自分も、森でママ・アルパに拾われた以前の記憶は一切なかった。
 それに、ゲルダとハルムだけでは心細かった。自分と一緒にいてくれるだけでも頼もしい。エリアスは剣が使えるようだし、頼りになるかもしれなかった。
「分かった、エリアス。よろしく」
「ありがとう、ゲルダ。俺を森から出してくれたうえに、共にいてくれるとは、心強い」
 挨拶をしたところで、エリアスは何かに気がついて周囲を見渡した。
 何かを探しているようだ。
「場所を変えよう。叔父上が俺を探しているかもしれない。あの森から離れたほうがいい」
 ゲルダも周囲を見渡してみる。エルフはあらゆる魔法に通じている。何かに魔法をかけて、エリアスを探していてもおかしくはなかった。
 ゲルダは頷いて、草原の中を歩き初めた。
 
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