2章

 懐かしい響きだとゲルダは思った。聞いたことがあるような、ないような。しかし、今はそれどころではない。剣が自分に向けられているのだ。
 ゲルダはハルムを肩に乗せ、正直に名を伝えた。ハルムの名もゲルダが伝えた。
 ハルムは水のような衣の裾を小さな指でつまみ上げ、恭しく礼をする。
 こんばんは、と挨拶をするハルムに、エルフは目を見開いている。
「その小さいものは何だ」
 え、とハルムもゲルダも驚いた。話と違ったからだ。ハルムの話では、エルフは”夜の賢者”と呼ばれていて、夜の国のことならなんでも知っている、ということだった。
 しかし、目の前にいる青年は、妖精の存在を知らなかった。青年よりも少し背が低いくらいで、一見青年と変わりがないゲルダについては、何とも思っていないようだが、明らかに自分と姿が違うハルムに青年は驚いているようだ。
 青年とゲルダの見た目の違いでいえば、耳の形が違うくらいだった。
「この子は風の妖精。あの、あなたは何でも知っているというエルフですか?」
「そうか、そのような者を妖精と呼ぶのか。いかにも。俺はエルフだ。だが、俺は今から、森から出ようと思っている。外で巨人が暴れているのは、お前たちのせいか」
「そう。今、エルフたちが巨人を鎮めに行ってるの」
 ハルムが歌うように言うと、青年は剣を鞘に納めた。
「ならばすぐに行こう。お前たちは、ここにいないほうがいい。奴らは危険だ。この森をよく知っている俺なら、お前たちを外へ連れて行ける。そして、俺も一緒に外へ出る」
 どういうこと、とハルムは首をかしげる。
 エルフはここから出ないのが普通なのに、このエルフの青年は森から出ようとしている。そして、同じ種族である者たちを奴らと称し、危険だと言っている。ハルムの知っているエルフではなかった。エルフなのに、エルフではないことをしようとしている。
 深い森の色をした石の耳飾りを揺らしながら踵を返した青年を、ゲルダは引き止める。
「待って、私たち、夜の国のことを知りたくてここに来たんです。あなたは、夜の賢者ではないのですか?」
 ゲルダの質問に、青年は足を止め、ゆっくり振り返った。
 ゲルダのカンテラに照らされたその表情は、どこか悲しげであった。
「俺はエルフだが、世間で言われているような夜の賢者ではない。だから、俺は外に出る。行かないのか。行かないのならば、俺は一人で行く。いいか、言っておくぞ。奴らは、外の者は嫌いだ。だから、お前なんか見つかったらすぐに捕らえられる。そこに対話はない。俺がお前に教えれるのは、これだけだ」
 青年は黒の革手袋をしていた。ぎゅっと握りしめ、月のような髪を風になびかせながら、紅玉の間から去ろうとしている。
 望みを失ってしまったゲルダとハルムは、ひとまず青年に付いていこうと決めた時だった。
「そこの者!」
 空から声が降ってくる。見上げると、青年と似たような異国風の装束を身にまとっているエルフが一人いた。
「エリアス様!?」
 急降下し、紅の絨毯の上に降り立ったエルフは、青年と全く同じ、月の色の長い髪をもち、森の色の目をもっていたが、青年よりもいくらか年上に見えた。
 明かりの消えているツリーハウス。謎の人物と、妖精。この紅玉の間で起こっている異変に気がついたエルフは、何か小さく呪文を唱えた。すると金色に輝く鎖が突然現れ、エルフの腕に巻き付いた。
「お前がエリアス様を逃したのか!」
「ち、違う! 私たちは……」
 ゲルダは素直に説明しようとしたが、ハルムはゲルダの耳を引っ張った。
「駄目よ、話しても無駄って言ってたじゃない! 逃げようゲルダ。あのエルフを追いかけて、外に出たら、なんとかなるかも!」
 ゲルダは頷き、水晶を握りしめ、再び森の中に入る。
「待てっ!」
 エルフが自分を追ってくる。魔法が使えるエルフから逃げるなんて無理だ! ゲルダは泣きそうになりながら、木々を縫うように走った。
 さっきからずっと逃げてばかりだ。こうなるくらいなら、夜の国になんて来なければよかった。そんな思いがこみ上げてくる。
 ママ・アルパは助けてくれない。助けるのは自分自身だ。でも、残る水晶は、あと一つしかなかった。こんなところで使い切ってしまったら、この先、自分は元の世界に帰れないかもしれない。ゲルダは走りながら石を鞄に入れた。
「ゲルダ、私に命じて」
 ゲルダは頷き、早口で言った。
「ハルム、私を風に乗せて、あの人のところに連れて行って!」
「分かった。あなたが一歩を踏み出す前に」
 ハルムが言った通り、ゲルダの踏み出した一歩はすごく軽かった。一歩だけで、飛ぶような速さで走ることができた。しかし、空を飛べるエルフにとって、ゲルダを追うことは簡単にできた。風に乗って走っても、エルフはゲルダを逃さない。
 青年はまだ近くにいた。ものすごい速さで追いついたゲルダたちにぎょっとしている。
 そして、ゲルダを追っている存在にも気づいたようだ。
「叔父上! 見つかったのか」
 青年は魔法を使っていなかった。やってきたゲルダを背後に庇い、青年は再び剣を取った。
「エリアス様! その者たちは!? それに、どこへ行こうとしているのです!」
「この者たちは森に迷い込んだ者たちだ。俺はこの者たちと外へ出る。許してください」
 話をしても無駄だ。そう小さく言ったエリアスは、ゲルダの手を掴んだ。
「さっきの魔法を使え。頼む、俺を外に連れて行ってくれ!」
「なりません、エリアス様! あなた様は――」
「早く!」
 エリアスと追ってくるエルフの様子が面白くてたまらないハルムは、胸を踊らせて言った。
「違うわ魔法じゃなくてよ、この風の妖精の力なんだから。さあ、ふたりとも、走って!」
 ゲルダは逆にエリアスの手を取り、走った。
 全力だ。走れば走るほど、風に乗って速くなる。風というのは、とても良いものだった。
 エリアスは驚く。ブーツが軽い。木々はまるで自分たちを避けているかのようだ。こんなに速く走ったことがない。
 森を出るくらいだったら、髪を切っておけばよかった。叔父に髪を掴まれてしまいそうだった。エリアスは振り向く。叔父は顔を真っ赤にして、風魔法の呪文をひっきりなしに唱えていた。けれども、叔父の魔法は、妖精ほど強い風を起こすことはできなかった。
 ハルムは笑う。後ろをエルフが追ってきている。自分の方が速いのだ。妖精は自然そのものだ。風なら誰にも負けない自信がある。
 いつか、風の妖精たちに言ってやるのだ。自分はエルフと追いかけっこをして、自分が勝ったのだと。
 それに、このエリアスという青年と、後ろを追ってくる叔父のエルフの関係も気になって仕方がない。
 これは面白そうだ。ハルムは楽しくて仕方がない。この出会いは、きっと何かあるのだ。興奮は、ハルムの風をますます強くした。
「エリアス様!」
 背後からエリアスを呼び止める声が聞こえてくる。
 視界が開けた。
 目の前には、草原が広がっていた。
 ゲルダは肩を上下させ、エリアスの手を放し、両手を自分の膝につけた。息苦しい。額からまた汗が垂れてくる。風に乗っていたとはいえ、全力疾走だったのだ。袖で汗を拭い、深呼吸する。
 エリアスもまた、苦しそうに肩を上下させていた。
「楽しかった〜! 今日って最高の夜になりそう!」
 満天の星空の下、くるくると踊るように飛ぶハルムに、ゲルダは苦笑した。これを楽しめる妖精が少しだけ憎い。
 もうエルフは追ってこなかった。森からは出てこなかった。
 気がついたら、東の空は白白とし、朝を迎えていた。
 
4/8ページ
スキ