2章

 カンテラをケープで隠し、巨人の谷を進んだ。ハルムは、エルフは存在する魔法のすべてを知っていて、だいたいのことはできてしまうのだとゲルダに教えた。
 巨人が暴れているのを聞きつけて、空を飛んで様子を見に来たのは、エルフの兵。捕らえられたら何をされるか分からない。カンテラで堂々と道を照らすのは危険だった。かと言って火を消してしまうのも、心細かった。この光自体が、お守りとして、ゲルダの心を支えていた。
 肩に座り羽を休めているハルムは、本当におしゃべりだった。
「さっきの話、絶対に、狭間の妖精に教えてあげるわ。あなたに脅されたこともね!」
「それはごめんって言ってるじゃん」
 ケープから微かに漏れる光で道を照らす。巨人の谷は深く続く。本当にこの先に森はあるのかと不安になり、何回もハルムに確認をした。
 ハルムは空を指差す。
「あの北風の星に向かって歩いていけばいいわ」
 ゲルダは空を見上げたが、この世の全ての星をかき集めたかのような星空では、北風の星と言われても見分けがつかなかった。
 どう見ても、自分の知る星空ではないのだ。
「北風の星は、冬の訪れを知らせる星なの。あの星が出ている間は、冬なの」
 ハルムは歌うように語った。
「それから、北風は私達の故郷なの」
「どういうこと? 星から生まれるの?」
「分からない。自分がどう生まれたのか、みんな分からないの。気づいたら、この世にいるの。気づいたら、風に乗って、面白い話を探すの。でも死んだらどうなるか分かるわ。風の妖精たちは、風になって、あの北風の星に帰るの」
 歩いている間、ハルムは妖精のことを教えてくれた。
 妖精は風、光、水、火の四種がいて、その中で風がもっともこの夜の国を知っているのだとハルムは自慢する。そのおしゃべりであるという特性から、様々な話が妖精の間で語られるというのだ。
 しかし、それをもってしても謎めいているのが、このエルフの森だった。エルフは妖精すらこの森への侵入を許さない。
 カンテラの光がなくとも分かる。目前に大きな闇が広がっていた。
「紅玉の間というのが、どこにあるか、私も知らないの」
「なんで王がいるって分かるのよ」
「だいたいの種族は皆、王を持ってるのよ。それは指導者と呼ばれることもあれば、市長と呼ばれることもあるわ。とにかく、その種族の中で最も力を持っている者がいるの。妖精はいろんなところにいるから、例外だけど……、でも、エルフだっているはずって思ったのよ」
 憶測じゃない、と言いながら、ゲルダはケープの中を見た。
 カンテラはきちんと火を保っている。
 鬱蒼とした森だ。曲がりくねり、自由に枝を伸ばし、葉を広げる木々は、何人たりとも侵入させまいと佇んでいるように見える。
 エルフはどんな魔法も使える。自分が足を踏み入れたら、何かが起きるかもしれない。ゲルダはそう考えて、鞄の中から水晶を出す。残りの一つだった。
 右手で石を握りしめ、ハルムを左手に乗せた。
 獣の遠吠えが聞こえる。遠吠えに目覚めた鳥が幅立つ音が聞こえた。ここはエルフだけではない。獣たちもいる。
 ママ・アルパの教えが耳の裏で蘇る。夜の森に入ってはいけないよ、と言われたのはいつだっただろうか。入ってしまえば、戻ってこれなくなる。そう教えられていたから、やはり森に入るのには勇気が必要だった。
 夜の国に来るために森に入った時は、自分を信じていた。けれど、ここは、自分の知る森ではないし、世界が違うのだ。
「ゲルダ? 行きましょうよ」
 手の中からハルムが声をかける。ハルムは怖いとは思っていないようだ。
 生唾を飲み込み、ゲルダは森へと入った。
 歩くたびに、かさり、と落ち葉が音を立てる。その音が、エルフの兵を呼ぶかもしれない。鼓動は早く、緊張で手に汗をかく。
 何かあった時、すぐに言葉が出るように、古代文字を頭の中に思い浮かべる。
 こういう時のためのまじないがあったはずだ。幼い頃、ママ・アルパがまじないをかけてくれた。その時はただ、転んで、膝を擦りむいて泣いただけだったが、すっと気分が落ち着いたことはよく覚えている。
「安らげ」
 古代の言葉で自分に語りかけ、石を握る右手で、とんとんと胸を叩く。激しく鼓動する心の臓を宥めるように、胸を撫でた。
 瞼を一度閉じ、呼吸も整える。
 その時に入ってきた空気に、ゲルダは、どこか懐かしさを感じた。木々の香り。土の香り。家の周囲に広がる森とはまた違う香りなのに、懐かしいと感じる。
(夢に見た森と似てる……)
 たった一度しか見ていない夢を彷彿させる香りに、ゲルダは不思議に思う。あれは夢だ。自分は幼い頃、森で迷ったことがあるという記憶が見せた夢だ。なのに、なぜ、懐かしいと思ってしまうのだろう。
 ゲルダはなぜだか、道を知っているような気がした。目を開けると、闇の中に道が見えたような気がする。不思議な感覚だった。
 木々は枝を大きく広げ、方角を示す星はまったく見えない。光はケープから微かに漏れるカンテラの光だけ。それなのに、どこに向かって歩けばいいか、感覚が教えてくれるのだ。
 突然まっすぐ歩き出したゲルダに、何が起こったのか、ハルムも分からなかった。
(この子、やっぱり何かあるわ。その正体は分からないけれど)
 ハルムは面白くなり、ゲルダの手から飛び立ち、よく周りが見える肩に再び座った。
 ゲルダは迷うことはなかった。ひたすらまっすぐ、森の中を進む。不思議なことに、ゲルダの行く先には木々がなかった。ゲルダが木々を避けているのではなく、木々が避けているようにも見える。
 しばらく歩いていると、突然ゲルダは足を止め、カンテラをケープの中から出した。
「やっぱりあった……」
 ハルムは、ゲルダの視線を追った。
 カンテラが映し出したのは、真っ赤な葉を蓄えた木々だった。葉が風に舞い、ゲルダとハルムの訪れを迎えた。その一枚をハルムは掴み取る。
 手のひらを広げたような形で、大きさはハルムの顔と同じほどだった。血の色のように見えて薄気味悪いと感じた。
 紅玉の間と呼ばれるだけある。その紅の葉が地面を染めていたからだ。紅の木々が囲むのは、一本の巨大な木と、ツリーハウスだった。
 夢に出てきたツリーハウスだ。そこで遊んだ記憶だってある。ゲルダはよく見ようと、巨木の根元まで歩みを進める。
 唇が震えた。夢で見た光景が、今、目の前に広がっているのだ。
 戸惑っていると、ハルムがゲルダの髪を引っ張り、後ろに注意を向けさせた。
「何かいる!」
 はっとしてゲルダは石を投げる姿勢を取り、踵を返した。
 目の前に、鈍く輝く剣先があった。動きが止まる。
「エルフではないな。お前は誰だ。どうやってここに来た。答えよ」
 剣を自分に突き出すのは、まるで月のように輝く美しい長髪をもった青年だった。異国を思わせる衣装に身を包み、長い衣を風になびかせていた。
 森と同じ、深い緑の眼が自分を見据えていた。
 
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