1章

 その日の晩、ママ・アルパはいなかった。隣村の妊婦が産気づいたので、急いで家を出ていった。ゲルダも見てみないかと言われたが、怖いから家にいると断った。
 丁度良かった。ゲルダは胸を押さえ、大きく息を吸い、吐いた。
 鞄いっぱいにハーブと小瓶を入れ、さらに棚から三つだけ石をもらった。水晶なら自分でも使えそうだと思ったので、全て水晶にした。
 鞄の中にはもちろん占い石もある。カンテラにはお守り石をきちんと入れた。
 ワンピースの上に、ケープを羽織る。厚底のブーツを履き、紐をきつく括った。
 蝋燭に火をつけ、鞄を肩に下げた。いつもよりも重さがある。ハーブを入れすぎたようだ。
 外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。月はない。村は闇に包まれていた。
 凍えるような寒さに、一瞬だけ、ゲルダは不安に思った。しかし、ゲルダは自分を信じていた。
 家の裏にまわり、森をカンテラで照らした。水晶の輝きが、一面に広がる。森は恐ろしいところだとママ・アルパに教えられていたが、このカンテラさえあれば大丈夫なのだと自分に言い聞かせ、ゆっくりと森の中へ入る。
 自分の周りしか見えない。光の外は、闇だった。風に吹かれ、木々がまるで化け物のように踊った。自分の影も、化け物のように見えた。恐ろしいとは思ったが、後戻りしようとは思わなかった。
 ゲルダはカンテラを掲げ、森の奥へ進んだ。道なき道だった。木の枝がゲルダの頬を引っ掻くこともあった。
 しばらくすると、その傷ついた頬がしっとりと湿るようになった。足を止めて、ゲルダは足元を見る。
 自分の足に靄がかかっている。
(霧だ。ママが言っていた……)
 カンテラを目の前に掲げる。あのおどろおどろしい木の枝すら見えなくなっていた。
 自分がどこにいるのか分からなくなるほどの霧だった。腕より先は何も見えない。
(なにもかもあやふやにしてしまう霧……、ということは、昼と夜の境界に来たということかしら。きっとそう)
 今、自分は昼でも夜でもないところにいるのだ。期待に胸が踊る。やはり、占い石が言っていたことは正しかったのだ。そして、占い石が告げることを自分は正確に読み取り、現実にすることができたのだ。
 もう不安に思うことはなかった。このまま進めば”夜の国”に行くことができる。
 強張っていた顔に、笑みが浮かんでしまう。自分は過去のまじない師たちを超えるまじない師かもしれないとも思った。
 早くその地にたどり着きたい。走ってこの霧を抜けようとした時だった。
 びゅっと風が吹きつけ、ゲルダの足を止める。強い風に、ゲルダは目を瞑ってしまった。吹き付ける風に火が消えないように、カンテラを守るようにゲルダはしゃがみ込む。
『魔女、それとも人間?』
『どちらでもないわ、この子』
『あら、面白い、何それ』
 自分の頭の上で、何かが喋っている。見上げても、姿は見えなかった。それなのに、声は聞こえた。
「何、何かいるの」
 カンテラを頭上に掲げ、問いかけると、姿なき声はくすくすと自分を笑った。
『いるわ、あなたの目の前に。ここは狭間の道、ここに来る者は限られた者だけ。あなたは何者?』
 風が頬を撫でた。自分をからかっているかのような笑いが耳に入ってくる。
 ここが夜の国に近い場所である、というのは、この姿なき声が証明していた。臆することはなかった。
「私はまじない師、夜の国の存在を確かめに来た」
 答えると、声たちは驚きの声を上げた。
『まじない師たちは、狭間に来れなかった。まじない師たちは夜の国と昼の国を繋げようとして失敗した。それなのに、今になって、あなたが方法を見つけたというの?』
「そうじゃなかったら、何なの。私は、今、自分のまじないでここに来た。それは事実。私が夜の国への行き方を見つけたのよ」
 ゲルダは立ち上がり、カンテラを声のする方へ掲げた。しかし、何もいない。声はそこにあるのに、姿は目をいくら凝らしても見つけることができない。
「あなたたちは何者なの、夜の国への行き方を知っているの」
 ゲルダが問うと、声たちは大きく笑った。
『教えてあげる、けれど、私たちのうちの誰かを捕まえることができたらにしましょう。まじない師よ、私達と勝負よ』
 風が頬を撫で、髪を巻き上げた。自分を中心にして、風が渦巻く。ワンピースがはためき、目を開けられないほどの風に、ゲルダは顔を腕で覆った。
 傲慢なまじない師。結局その程度。声たちは自分を笑いものにする。
(カンテラのお守りは今、ここでは使えない……、声たちは、姿を何かで隠している。暴く古代文字――言葉――そうだ、言葉だわ!)
 ゲルダは右腕で自分の目を守りながら、左手をポシェットの中に入れた。
 ハーブたちが邪魔をして、必要なものがなかなか取り出せない。こんなに持ってくるんじゃなかった、と苛立ちながらも、やっとの思いで水晶を一つ取り出す。
 こんなことに使うとは思っていなかった。
「石に文字は刻めれないけれど――、文字は言葉、言葉なら複数選べるかも。だったら」
 水晶を握りしめ、ゲルダは古代文字を頭の中で選ぶ。それぞれの言葉には意味がある。今必要な言葉は、これだった。
「声、我が友となれ、光、照らせ!」
 大きく振りかぶり、ゲルダは思い切り言葉と共に石を投げた。
 どこに向かって飛んでいったのかは分からなかった。しかし、投げた瞬間、声が悲鳴を上げた。
「痛っ!」
 声と共に、石が地面に落ちる音が聞こえる。
「なあに、やだっ、これ小人の契約と同じものじゃない!」
 風が止まり、ゲルダは恐る恐る顔を守る右腕を下げた。
 目の前に、投げた石が転がっている。そして、その石に、小さな何かが座っていた。
 少女だ。しかし、その背丈はゲルダの顔ほどしかなかった。額が大きく腫れている。石が当たってしまったのだろう。背には蝶のような羽がついていた。ふんわりとした若草色の髪をもつ、可愛らしい少女だった。霧のような、水のような、薄い衣をまとっている。
「私の勝ち……?」
 目の前の小さな女の子を残し、他の声たちはどこかへ行ってしまったようだ。石の上に座っている少女は大きな声で泣いた。
「ああ〜ん、負けた〜! みんなに置いていかれちゃった〜!」
 大粒の涙を流し、悔しそうに声を上げる。ゲルダは困惑し、悩んだ末、ポシェットの中からハーブを取り出し、揉み潰した。
「ちょっと、我慢して……ごめん、本当に当たるとは思ってなかったの」
 大きく腫れた額に、ハーブの汁を塗る。痛み止めだった。つけすぎた汁が頬に垂れないように指先で拭い取る。それから、若草の髪を撫でてあげた。
 ゲルダに優しく薬をつけてもらった少女は、しゃっくりを上げながらゲルダの指を掴んだ。
「ありがとう、新しい……ご主人さま」
「え?」
「あなたは私と契約したの。あなたは私に命じたわ、友となれ、って。あなたの言葉は絶対のものだった。小人でもないのに。あなた、名前は?」
 ゲルダは素直に名前を告げると、少女は羽ばたき、ゲルダの目の前まで飛んだ。
「私は狭間の風の妖精、名はハルム。まじない師、ゲルダ、あなたが望めば、私は誰よりも速く飛ぶわ」
 ゲルダは訳が分からず、ハルムの話を一度止めた。
「じゃあハルムは、ずっと私と一緒にいるってこと?」
「ゲルダが私との契約を解除するその時まで。もしくは、この石が砕けるまで。妖精と契約を交わすとは、そういうこと。それができるのは小人だけだった。なのに、あなたは小人と同じことをしてしまったのよ。それを知らないで、ゲルダはここに来たの?」
 話は、ママ・アルパから聞いていたはずだ。小人が他の種族を使役するという話は。それと同じことをしてしまったと、この妖精は言っている。そのようなつもりではなかったのだが、まじないではそうなってしまったようだ。
 ハルムは水晶をゲルダに手渡した。
「この石が契約の証。あなたの言葉を私に繋ぎ止めるもの。大切にしてて」
「分かった。ところでハルム。夜の国へ私を連れて行ってくれるの?」
 ゲルダが聞くと、妖精は「一呼吸するあいだに」と答えた。
 それと、ゲルダはもう一つだけ聞いた。
「魔女でも人間でもないって私のこと言っていたけれど、それってどういう意味?」
「言葉の通りよ。ゲルダは自分のことをまじない師と言うけれど、それとは何か違う感じがする。契約の言葉に縛られた時にすごい感じたの……夜の国の住民に似てる匂いがするのに、人間の匂いもするの。ゲルダって、何者?」
 言っていることがよく分からなかった。ゲルダはハルムの問いにすぐに答えることができなかった。
 ハルムはゲルダにカンテラを持つよう言った。そして、面白そうに笑った。
「もしかしたら、夜の国で分かるかもね。この先には、夜の国の賢者、エルフたちが住んでいる賢者の森があるの。そこで聞くことができるはずよ、この谷を無事越えられたら――ね」
 ハルムが羽ばたくと、風が霧をはらった。
 ゲルダは自分が見ている空を、一瞬疑った。
 数え切れないほどの星。この世の全ての星を集めたかのような空。明るすぎる星空に、ゲルダは幻を見ているような感覚に襲われた。
 自分たちは谷にいた。むき出しになった山肌は、乾ききっている。こんな場所、ゴンド島にはなかった。
「ようこそ、夜の国へ、ご主人様。さあ、行きましょう。この巨人の谷を無事超えることができれば、夜の国のすべてを知る賢者たちに会えるわ」
 ハルムはいたずらっぽく笑い、軽やかに羽ばたいた。
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