プロローグ

 そこは、波の音が聞こえる、静かなカフェだった。
 夜も眠らない都市、と呼ばれる大都市ティルハーヴェン。その街の喧騒を知らないような場所だ。ただ聞こえてくるのは、波の音。レンガ造りのカフェの門には「カフェ&バー・まじない堂」と書かれた看板がある。
 ドアには小さなベルがさがっており、開けると可愛らしくカランと鳴った。
 カフェに入ったのは、少年と少女。夜を思わせるような髪をもつ少年と、朝の光を思わせるような耀く金の髪をもつ少女だ。二人は似たような白シャツを着ている。それから、一匹の犬。ずんぐりとしていて、少し不細工な犬である。
 カウンターに置かれたサイフォンが白い湯気をもくもくと立てている。カウンターの脇に置かれた蓄音機から、優雅な曲が流れているのに、店内は誰もいなかった。
「ゲルダさん、こんにちは」
 少年が声をかけると、キッチンから「はあい」と返事が返ってくる。
 ゲルダと呼ばれた店主は、サンドウィッチを載せた大皿を持ってキッチンから出てくる。
 亜麻色の、ウェーブがかかった長い髪。なんでも見透かしてしまいそうな、透き通った琥珀の瞳。背が高く、美女と言われてもおかしくない女性だ。黒のロングスカートを来ているせいか、どこか不思議を秘めているような印象がある。彼女はこの静かな海沿いのカフェの店主、ゲルダは二人と面識がある人だった。
「そろそろ来ると思ってたよ。クラウスにフルダにマーオ、久しぶりだね」
「こんにちは、ゲルダさん。遊びに来たの」
 フルダも挨拶をし、クラウスと一緒にカウンター席に座る。
「なんでぼくたちが来るって分かってたの?」
「ふふ、まじない師はなんでもできるからね。ほら、サーモンとトマトのサンドイッチをたくさんあるよ」
 サイフォンで淹れたコーヒーを純白のカップに注ぎ、クラウスとフルダに出す。もちろん、犬であるマーオはマーオ用にごはんが用意されている。
「ありがとう、ゲルダさん……、うん、やっぱりゲルダさんのはティルで一番美味しいサンドイッチだと思う」
 クラウスが好きなサーモンとトマトのサンドイッチは、チーズやレタスも入っている。他にもシーチキンとコーンのサンドイッチや、チキンのサンドイッチもある。クラウスはここのサンドイッチが大のお気に入りで、よく食べに来ていたが、そんなクラウスでも食べたことのないものがあった。マッシュしたポテトを挟んだものだ。
 こんなにたくさん量があるということは、クラウスやフルダが来ることを見越して作られたということだ。
 ゲルダはこの街に唯一存在するまじない師だった。まじない師は占い師とも魔法使いとも違う職である。”おまじない”を専門とするのがまじない師だ。
「もしかして、ゲルダさん、ぼくたちがここに来るようになにかしてた?」
 カウンターテーブルの上には、数個の石が置かれていた。翡翠に水晶、瑪瑙。それらには、クラウスやゲルダの知らない文字が刻まれている。
「別に。私はただ”新しいサンドイッチの試食をしてくれる人”が来るようにまじないをかけただけ。そうしたらたまたま、君たちが来ただけだよ。私は君たちを呼んだのではなく、試食してくれる人を呼んだのさ」
 ゲルダは三つの石を大理石でできた大きめの桶の中へ入れた。桶の中には砕いた水晶と綺麗な水が入っている。
「そうだったんだ。このマッシュポテトのサンドイッチ、ぼく好きだな」
 クラウスが素直に感想を述べると、ゲルダはふふ、と微笑んだ。少し胡椒のきいたマッシュポテトの中には、刻んだハムも入っている。お腹がふくらむ、ボリュームのあるサンドイッチだ。それをぺろりと平らげるクラウスの食べっぷりは見ていて気持ちがよい。あっというまに大皿からサンドイッチがなくなっていく。
「それにしても、本当にまじないって不思議だと思うわ。ゲルダさんって、まじないを誰に教えてもらったの?」
 自分の分をあらかじめ小皿に取り分けてマイペースにサンドイッチを食べていたフルダが、ふとそのようなことを聞いた。
 フルダは勤勉で、気になったことはすぐに調べる癖がある。だから、まじない師に出会ってから、少しまじないについて調べたのだ。しかし、まじないに関する書物はなく、一体どこからその術が伝わっているのか分からなかったのだ。
「それから、ゲルダさんがなんでこの街に来たのかも……ゲルダさんは直感とか、たまたまとか、そういうことはしない人だと思うし。何か目的があって来たはずなのに、私はそれを知らないわ」
「フルダは、ゲルダというまじない師を知りたいって思うわけだ。それは君たちがこの街の夜警だから?」
 ゲルダはゆっくりとコーヒーを飲む。
「いいえ。怪しい人を任意で調査するのは夜警の仕事ではなく、警吏の仕事よ。それだったらアイヴィンがここへ来るはずだわ。私は、ゲルダさんのこと、すごい信頼しているの。ゲルダさんのまじないも。私やクラウスを救ってくれたまじない師だから。だから、ゲルダさんのこと、もう少し知りたいなって思うの」
「あ、それはぼくもだよ。なんか、面白そうだし」
 クラウスが言うと、ゲルダは大きな声で笑った。
「ぷ、あっははははは、面白そうだから! 面白いことを言うね。そうだったらいいけどね。けど、実際は、面白くないよ。馬鹿で、傲慢な、小さなまじない師の話を君たちは聴きたいのかい?」
 クラウスとフルダは頷く。
「そうか。その前に、コーヒー、もう一杯どうだい?」
「私、ゲルダさんのハーブティーが飲みたいわ」
「ぼくも」
 オーダー通り、ゲルダはハーブをポットの中に入れる。彼女の淹れるハーブティーは、二人のお気に入りだ。香りもいいし、落ち着く。フルダは一度、自分でもハーブティーを淹れてみたが、ゲルダのようにうまく淹れることができなかった。ゲルダはハーブのすべてを知っている。だから美味しいハーブティーを淹れることができるのである。
「眠らないでおくれよ。話は夕方までかかるかもしれないよ」
「大丈夫よ」
 フルダが力強く言うので、ゲルダはまた笑った。
 そして、一息つく。
「夜の国へと行ったことのある君たちなら、面白く聞けるかもしれないね――私がこの街に来た理由は、私も夜の国へ行ったからだよ。行ったらいけないって言われていたのにね。過去に一度、私はこの街に来たことがあるんだ。夜の国から昼の国に戻ってくるために。フルダやクラウスには申し訳ないけれど、私が、この街と夜の国を繋げる”道”を敷いてしまったんだ。それはとても不安定で、いつ消えてもおかしくないくらいの細い”道”のはずだった。けれど、その”道”は消えることなく、残されてしまった。その”道”の後処理のために、私はここへ来た。そうこうしてたら警吏に怪しまれて捕まってしまった、というわけさ。そもそもなぜ夜の国に行ったのか。その話からしよう。とても長い話だよ。最後まで聞いてくれると嬉しい」
 カップを両手で包み、ゲルダは過去を思い出す。
 十数年前の、雪の降る日。ティルハーヴェンよりもさらに北の地。海を越えた場所にある小さな町で鳴り響く教会の鐘――話はそこから始まった。
1/1ページ
スキ