感光
お空を見たことはありますか。指先を伸ばして触れようとしても、ただその先に指は歩むことができませんでした。あれは酷く湿っていて、とても僕らには触れられないそうで。
海は見たことがありません。白いおふね に一面貼った、あのあつい水が海ですか。ややこの世界はちっぽけなもので。
草は。土は。星は。つめたいもの。あたたかいもの。やわらかいもの。かたいもの。ただ、思い出せそうな黒いもの、あ、それは、貴方の――なんだっけ。
「どうしたの、窓の外なんか見て。」
あたたかい声が背中から聞こえる。羽根を閉じて振り向いた。人がいた。その黒い瞳で僕を見つめて、その指で僕を撫でるのを、知っている。
この人は僕を愛している、らしい。愛しているって、なに、むずかしい。それは食べれるもの? あまい? しょっぱい? つめたい? やわらかい?
そんな事をいうと、この人は笑うので、ぼくはむずかしいひとつ、をあきらめた。
「なにか面白いもの、あった?」
「あれが、お空が……とう明な色でいいと思った。」
「そう。いい子だね」
そう言ってその人はまた僕の髪をなでた。その手のひらは暖かくてまたすり寄るけど、その人はなんとも黒いなにかを滲ませた瞳で、ぼくを見て向こうへ行った。
毎日、なにかを置き忘れてきたような。
毎分、なにかを水に滲ませるような。
毎秒、なにかを鍵穴に落としてしまって、もう指なんかじゃ掻きだせないような。
“いま”が過ぎていくこれを、生まれてずっと、そうして生きている。
霧やとう明な靄 を吸って、それを肺にため込んだまま綺麗だけを吐いて、それをくり返しつづけて、どんどん、なにも見えなくなって、そうして、そのまま。……どうなるんだろう。
なにも見えない気分になって、その日はそのままブランケットを抱いて、目から滴る水をそのままに、そのまま目を閉じ眠ってしまった。
――がつ――にち――ようび。今日も生きようね、春。な朝。
ぼくは久しぶりに起きたらしい。息は、あざやかに早まったように感じる。もやがふえていくのも、早くなる。
「おはよう。いっぱい寝ちゃったね。」
あたたかみのある声がする。ぼくはこれを知っている。なんだっけ、体を起こす。二つの目がこっちを見てる。ゆびはやわらかい。
「どうしたの、嫌な夢でも見た?」
「ううん、なんでもないの。やわらかくて、いいね」
「人は誰でも外は柔 いの。ご飯食べれる? お腹空いてる?」
すき通るように声がぬけていく。ここちが良くてただ見つめている。その人はやわらかな笑みをこぼした。優しい人だと思った。
「まだねてもいい? ねむくて。」
「……いいよ、おやすみ。」
とけるようにねた、気がした。
――にち――ようび。日付は変わらない。数時間で起きたらしい。あの人はまだぼくを見ていた。
「――寝れなかった。」
「……そっか。じゃあご飯食べよっか」
きらきらとした何かを皿に注いで、ぼくに差し出したその人は、目に水分をにじませていた気がした。
ぱくぱく食べる、光を、粒を。
「美味しい?」
「わかんない。」
カーテンから日差しが揺れていた。あたたかかった。
――、――、――、――。
ねむい。ここはどこ?
わからないがふえた。たくさんある。ぼやけてる。
しらないひとがいる。わらってる。ぼくもわらう。
そのひとはなく。かわいそう。どうしたの。
てで、ほっぺにさわった。あったかかった。ないてた。ぼくのことをだきしめて、ああ、ぼくってなんだっけ、なんだっけ、ただわかるのは、あたたかい、それだけで、ああ、ああ。
とける。
***
――また死んでしまった、私のかわいい家族。
もう何度これを繰り返しているのか、私には想像もつかない。
技術の進歩により、この世界は発展した。人間が言葉を発すだけで、何もかも全てが自動で動く時代。何もせずとも、自動機構がすべてを作り上げ、全てが機械で動き、元あった自然の様々などもうどこにもない。
人間と家畜動物以外の生物は殆どその過程で淘汰され、人間は愛玩動物の代わりとなる新しい生き物を作り上げた。
“Filament ”と呼ばれたそれは、初めてこの世界に愛玩動物として販売されるようになった人型の人工生命であった。
それ は人の言葉を発し、人のように覚え、愛らしい少年少女の姿のままで一生を終える。
フィラメントが発表された頃、私はペットのハムスターを喪っていた。人間以外の生き物というのはどうしても、私達よりも先に逝く。
だから興味があって、試したかった。私達と殆ど同程度の時間を生きる、そういう生き物を。
そんなふうに考える人が、大勢いたのだろう。
フィラメントがこの灰色の世界に広まるのに、そう時間はかからなかった。
問題が発覚したのは、それからしばらくのことだ。
フィラメント達の、致命的な|不具合《バグ》が発見された。
「呼吸をする度に記憶を忘れ去る」。
フィラメント達は最低限度の呼吸しかしないとはいえど、致命的な欠点であることは間違いなく。
記憶を忘れ去り、私達を忘れ去り、自分のことさえも忘れて、そうして呼吸の仕方さえ忘れて死にゆく。
ただ死にゆくだけなら、どんなによかっただろう。
フィラメントは、元々体質が弱く、そのためにすぐに死んでしまうのだった。
そこで付けられた機能が、“交換”であった。
フィラメント達の細胞には酸素や二酸化炭素と結合して死んだ身体を再生する機能があり――そのために、死んでもすぐに生き返り、初期状態にリセットされるようにまた再生するのだ。
その機能と致命的な不具合のせいで、フィラメントは何度も死んでは生き返る、永遠に終わらない苦しみを与えられる、そういう生き物 になってしまった。
今現在、フィラメントは社会問題に発展している。毎日テレビでは彼らの特集を放送している。
だから私は、初めての給料で買ったテレビを粗大ごみに出した。
永遠に終わらない、この彼らの生命を、人生が終わるまで見届けるのが、私達人間にできる最大限の贖罪である。
――こんな贖罪、私のためにも彼のためにも、終わらせられたなら良いのに。
虹の橋って、本当にあるのかな。二人で天国に行って、虹の橋を渡って、また出会って、今度は――今度こそ、一緒に幸せにあれたなら。
「……あれはなんですか?」
再生しかけの私のフィラメントがささやく。また何も知らない無垢な瞳で、私をただ見て微笑んでいた。
「あれはね、お空。私達は、ずっと触れないもの。」
海は見たことがありません。白い
草は。土は。星は。つめたいもの。あたたかいもの。やわらかいもの。かたいもの。ただ、思い出せそうな黒いもの、あ、それは、貴方の――なんだっけ。
「どうしたの、窓の外なんか見て。」
あたたかい声が背中から聞こえる。羽根を閉じて振り向いた。人がいた。その黒い瞳で僕を見つめて、その指で僕を撫でるのを、知っている。
この人は僕を愛している、らしい。愛しているって、なに、むずかしい。それは食べれるもの? あまい? しょっぱい? つめたい? やわらかい?
そんな事をいうと、この人は笑うので、ぼくはむずかしいひとつ、をあきらめた。
「なにか面白いもの、あった?」
「あれが、お空が……とう明な色でいいと思った。」
「そう。いい子だね」
そう言ってその人はまた僕の髪をなでた。その手のひらは暖かくてまたすり寄るけど、その人はなんとも黒いなにかを滲ませた瞳で、ぼくを見て向こうへ行った。
毎日、なにかを置き忘れてきたような。
毎分、なにかを水に滲ませるような。
毎秒、なにかを鍵穴に落としてしまって、もう指なんかじゃ掻きだせないような。
“いま”が過ぎていくこれを、生まれてずっと、そうして生きている。
霧やとう明な
なにも見えない気分になって、その日はそのままブランケットを抱いて、目から滴る水をそのままに、そのまま目を閉じ眠ってしまった。
――がつ――にち――ようび。今日も生きようね、春。な朝。
ぼくは久しぶりに起きたらしい。息は、あざやかに早まったように感じる。もやがふえていくのも、早くなる。
「おはよう。いっぱい寝ちゃったね。」
あたたかみのある声がする。ぼくはこれを知っている。なんだっけ、体を起こす。二つの目がこっちを見てる。ゆびはやわらかい。
「どうしたの、嫌な夢でも見た?」
「ううん、なんでもないの。やわらかくて、いいね」
「人は誰でも外は
すき通るように声がぬけていく。ここちが良くてただ見つめている。その人はやわらかな笑みをこぼした。優しい人だと思った。
「まだねてもいい? ねむくて。」
「……いいよ、おやすみ。」
とけるようにねた、気がした。
――にち――ようび。日付は変わらない。数時間で起きたらしい。あの人はまだぼくを見ていた。
「――寝れなかった。」
「……そっか。じゃあご飯食べよっか」
きらきらとした何かを皿に注いで、ぼくに差し出したその人は、目に水分をにじませていた気がした。
ぱくぱく食べる、光を、粒を。
「美味しい?」
「わかんない。」
カーテンから日差しが揺れていた。あたたかかった。
――、――、――、――。
ねむい。ここはどこ?
わからないがふえた。たくさんある。ぼやけてる。
しらないひとがいる。わらってる。ぼくもわらう。
そのひとはなく。かわいそう。どうしたの。
てで、ほっぺにさわった。あったかかった。ないてた。ぼくのことをだきしめて、ああ、ぼくってなんだっけ、なんだっけ、ただわかるのは、あたたかい、それだけで、ああ、ああ。
とける。
***
――また死んでしまった、私のかわいい家族。
もう何度これを繰り返しているのか、私には想像もつかない。
技術の進歩により、この世界は発展した。人間が言葉を発すだけで、何もかも全てが自動で動く時代。何もせずとも、自動機構がすべてを作り上げ、全てが機械で動き、元あった自然の様々などもうどこにもない。
人間と家畜動物以外の生物は殆どその過程で淘汰され、人間は愛玩動物の代わりとなる新しい生き物を作り上げた。
“
フィラメントが発表された頃、私はペットのハムスターを喪っていた。人間以外の生き物というのはどうしても、私達よりも先に逝く。
だから興味があって、試したかった。私達と殆ど同程度の時間を生きる、そういう生き物を。
そんなふうに考える人が、大勢いたのだろう。
フィラメントがこの灰色の世界に広まるのに、そう時間はかからなかった。
問題が発覚したのは、それからしばらくのことだ。
フィラメント達の、致命的な|不具合《バグ》が発見された。
「呼吸をする度に記憶を忘れ去る」。
フィラメント達は最低限度の呼吸しかしないとはいえど、致命的な欠点であることは間違いなく。
記憶を忘れ去り、私達を忘れ去り、自分のことさえも忘れて、そうして呼吸の仕方さえ忘れて死にゆく。
ただ死にゆくだけなら、どんなによかっただろう。
フィラメントは、元々体質が弱く、そのためにすぐに死んでしまうのだった。
そこで付けられた機能が、“交換”であった。
フィラメント達の細胞には酸素や二酸化炭素と結合して死んだ身体を再生する機能があり――そのために、死んでもすぐに生き返り、初期状態にリセットされるようにまた再生するのだ。
その機能と致命的な不具合のせいで、フィラメントは何度も死んでは生き返る、永遠に終わらない苦しみを与えられる、
今現在、フィラメントは社会問題に発展している。毎日テレビでは彼らの特集を放送している。
だから私は、初めての給料で買ったテレビを粗大ごみに出した。
永遠に終わらない、この彼らの生命を、人生が終わるまで見届けるのが、私達人間にできる最大限の贖罪である。
――こんな贖罪、私のためにも彼のためにも、終わらせられたなら良いのに。
虹の橋って、本当にあるのかな。二人で天国に行って、虹の橋を渡って、また出会って、今度は――今度こそ、一緒に幸せにあれたなら。
「……あれはなんですか?」
再生しかけの私のフィラメントがささやく。また何も知らない無垢な瞳で、私をただ見て微笑んでいた。
「あれはね、お空。私達は、ずっと触れないもの。」
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