英雄の笑顔、悪者の涙
【その35:停滞する思考】
人間が作った忌々しい白い機械鎧。そしてそれを纏う、これまた忌々しい男。
相手は「たかが人間」であるにも拘らず、ビショップは目の前の男……紅音也を完全に抹殺しなければならないと思ったのは、本能的に感じていたからなのかもしれない。
……その存在が、ファンガイアと言う種の未来を、決定的に変えてしまうであろう事を。
クイーンの気まぐれと言えばそれまでだろう。彼女は人間の言う「愛」に関して多少なりとも興味を抱いている。
クイーンはキングとの間に子を産み、そしてキングを支える為に存在する。キングとクイーンの間に……そしてキングとなるべき者に「愛情」などと言う感情は不必要。望む世界の為には、キングもクイーンも純粋かつそれ故の残忍さを抱いている存在であれば良いのだ。
……今まで通り他の種族を廃し、人間を家畜とみなし、そして世界そのものを管理するファンガイアの為の世界の為には。
それなのに、クイーンはあの男に興味を抱き、近付いている。ルークを止めてまで生かそうとさえしている。それは、既に惹かれ始めている証拠ではないのか。
――冗談ではない――
人間と恋に落ちたファンガイアを処分するのはクイーンの仕事。そのクイーン本人が人間と恋に落ちてしまっては、掟も何もあった物ではない。
だからこそ、確実に殺しておきたい。今ならまだ間に合う。クイーンを純粋なままに留めておける。
それなのに……赤い甲虫 の邪魔が入り、紅音也は再度立ち上がり、その後ろではウルフェン族の生き残りが低く唸りながらこちらを睨みつけている。
――愛? 運命? 馬鹿馬鹿しい――
苛立ちながらも、ビショップは燐粉を撒き散らし、小規模な爆発を何度か引き起こす。
だが、目の前にいる存在達は、それを軽くかわしつつビショップとの距離を詰めると、その拳を繰り出した。
「チッ」
右から来た次狼の鋭い爪を受け止め、左から来た天道の拳を払いはしたが、真正面から来た音也の拳は完全にビショップの鳩尾を捕らえる。
「ぐ、がはっ」
押し出された空気を吐き出し、体をくの字に曲げながらも、ビショップは再び燐粉を撒いて周囲との距離をとる。
鳩尾に喰らった一撃による痛みのせいで、更なる苛立ちが上乗せされる。
――邪魔です、鬱陶しい、死ねば良い――
燐粉と共に、自身の内に宿る憎悪と殺意を撒き散らしながら、ビショップはしきりに眼鏡のブリッジを上げるような仕草をとる。本来の姿を見せている以上、眼鏡もどこかに消えているのだが、癖のような物なのだろう。
キングの手を煩わせる程の相手ではないと言う高慢もあるが、それ以上にビショップ自身の手で葬り去りたいと思っていた。
……音也は勿論、この場にいる全員を。
――ああ、本当に……――
『殺してやりたい』
イラつきながら放った言葉は、何故かビショップの近くで反響し……
――違う――
反響したのではないと即座に気付いたらしい。ビショップは反射的に宙へ舞い、その場を離れた。
そして目にしたのは、今まで自分がいた場所にはにんじん色のウサギ……マーチヘアイマジンが、手に円刀を兼ねているソーサーを持ち、それを振り下ろしている姿だった。
耳は半ばから斬られて短くなっており、目は赤く血走っている。口は三日月形に歪み、体はゆらゆらと左右に揺らしているその姿は、明らかにイカレているのが分った。
今までも奇妙な……それこそ「イカレている」としか表しようのない言動が多かったが、今はそれとは別種のイカレ具合を見せている。
「うふ。うふふふふふ。何で逃げるんだよぉ? 君は僕の契約者だろぉ?」
虚ろな目でビショップを見上げながら、マーチヘアは今までと何一つ変わらない、奇妙なまでに明るい声で言い放つ。
だが、その言葉の意味をビショップが理解できるはずもない。彼は訝しげに首を傾げ、今しがた自分に斬りかかったマーチヘアを睨みつける。
「何を言っているのです?」
「擬態してる時の顔。揚羽蝶の異形。間違いないよ、君が僕の契約者だろぉ?」
訳が分らず問うたビショップに、マーチヘアはさも当然と言わんばかりに答えを返す。
その答えに、地上にいる他の面々……幸太郎達もまた、訝しげに首を傾げていた。
確かに、マーチヘアの「契約者」だったワームはビショップによく似た顔を持つ童子に擬態していたし、正体もスワローテール……即ち揚羽蝶だった。
しかし、共通点と言えばそれくらいだ。他は……特に身に纏う邪気は、全くの別種。自分の世界に帰りたいが為に逃げ回っていた契約者に比べ、彼は自分から積極的に攻撃を仕掛けてくるくらいの余裕すらある。
明らかな別人だと言うのに、マーチヘアはニタリと笑ったまま視線をビショップに固定し、更に言葉を続けた。
「契約者は殺さなきゃいけないんだよぉ。頭の中で『殺せ』って声が聞こえるんだ」
言うと同時に、マーチヘアは再びソーサーをビショップに向って投げつけた。
だが、その狙いは滅茶苦茶としか言いようがない。ビショップに向けてはいるが、その全ては近くの建物の壁に当たっては軽い音を立てて砕け散り、重力に従ってアスファルトの上にその欠片を落とす。
つまり、投げているのは普段マーチヘアが使っている円刀ではなく……「ただの」ソーサーである事を示す。
「なあ少年、これは一体どうなってるんだ?」
「……悪い、俺にもわからない」
囁くように問うヒビキに、幸太郎も困惑したような声を返す。
かつて……幸太郎の祖父である野上良太郎がイマジンと戦っていた時は、カイと言う名の首魁がテレパシーのような物で指示をしていたらしい事は、話に聞いている。
だが、今はそのカイは消え、イマジンに指令を出す存在などいないはず。
――耳を斬られた衝撃で、おかしくなったって言うのか?――
その割には、彼の変貌は唐突過ぎる。斬られた時はそれまで通りの、どこかふざけた印象を抱かせる物言いをしていたのに、今は余裕が感じられない。
本気でビショップを契約者だと信じ、更に本気で殺さなければならないと思っている。それなのに、投げているソーサーはただの陶器。とてもではないが、ビショップを殺せるような物ではない。
「あのウサギ、言ってる事とやってる事が滅茶苦茶だ」
小さく呟かれたゆりの声で、マーチヘアはようやくビショップ以外の面々の事を認識したらしい。
きょとんとした……しかし相変わらず血走ったままの瞳をゆり達の方へ向けると、心底不思議そうに声を上げた。
「何、君達。……誰?」
「何?」
「まさか、俺達の事を忘れてる……?」
まさかのマーチヘアの言葉に、ユウスケと天道の口から訝しげな声が上がる。
マーチヘアにとぼけている様子はない。本気でそう思っているらしく、何かを見極めるように彼らをじっと見つめると、やがて納得したようにしきりに頷き……
「今、声が聞こえた。君達、邪魔者なんだって?」
いっそ穏やかにすら聞こえる声で言った直後、ぶわりとマーチヘアの体から殺気が漲る。
それと同時に相手の周囲の空気が暗い紫に染まり、更にその空気はマーチヘアを侵食するように染めていく。
喰われている。
そう表現するのが最も近いだろうか。
毛色がにんじん色から暗い紫に変わり、マーチヘアの目はどんどん険しくなっていく。
だが、マーチヘアは幸太郎達を「見ていない」。視界には入っているかもしれないが、それだけだ。もっと別の……ここではないどこか、幸太郎達ではない誰かを見ているらしく、ソーサーを構えながら大声で喚きだした。
「邪魔邪魔邪魔っ! マッドハッターみたいに、僕の事も殺すつもりなんだろう! そうだ、そうに決まってる! あのピンクの戦士はどこだ!?」
「マッドハッターみたいにって……既にもう一体のイマジン、倒されてるって言うのか!?」
「驚いたフリなんかしても無駄っ! お前達が殺したのは分ってる! 分岐点の小娘と一緒になってマッドハッターを殺したんだそうだそうに違いない」
幸太郎の驚きの声に対して一息に怒鳴り返した瞬間、マーチヘアの体は完全に紫に変わった。
それと同時に、彼はビショップの方へ向き直ると大きく飛び上がり、周囲全方向へ向けてソーサーを放った。
その口から、壊れたような笑い声を上げて。
「あひゃ、あひゃひゃ、あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
放たれたソーサーは、幸太郎の知る「円刀代わりの物」、先程まで投げていた「陶器製の物」、そして屋上で放った時と同じ「爆発する物」の三種あるらしい。
時折ソーサーは破裂し、壁にぶつかっては砕け散り、そして肌に触れればそれを裂く。
見た目にはどれがどの効果を持っているのか分らないせいもあり、ソーサーの中央に立つマーチヘア以外は、極力当たらないように見極めながらも体を捩る。
それでも、満遍なく放たれるソーサーは、幸太郎とテディの前で炸裂し、音也と天道の鎧を削り、ユウスケとゆりの傍で砕け、ヒビキと次狼の皮膚を裂き、そしてビショップの体を刻んだ。
「加速、運命、世界、月、超越、統合、維持、崩壊、暗澹、悲哀、邪悪、過去、未来、紅蓮、漆黒、生者、死者、明瞭、曖昧、英雄、悪者、双璧、二重……」
喰われたのはその毛色だけでなく理性もなのか。
その口から漏れる言葉に脈絡はなく、放つソーサーも狙っているのではなくただ投げているだけ。自身の体の構造を省みず、無理な角度に腕を回し、その度にゴキリと嫌な音が鳴り、それすらも無視して腕を振るい続けてはソーサー以外の……ざらりとした白い「砂」をも撒き散らしている。
その無茶苦茶としか言いようのない攻撃に、流石のビショップも危険を感じたのか、裂かれた腕を押さえながら、更に高く上昇し……
「くっ……付き合いきれません。あなた方を殺すのは、またの機会にしましょう」
そう捨て台詞を吐くと、そのままソーサーの届かない範囲へと飛び去っていった。逃げた、と言っても良いだろう。
音也やゆり、そして次狼としては、野放しにしておくと危険だと認識している為に追いたいところだが、マーチヘアのソーサーの嵐の中ではそれもままならない。
悔しげに顔を顰めるが、今は逃げたビショップよりも完全に狂ってしまったマーチヘアをどうにかする方が先だ。
「なあ幸太郎、こういう事ってよくあるのか?」
「ある訳ないだろ。少なくとも、俺が知る限りここまでイカレた事はないし、じいちゃんの話の中でも聞いた事がない」
――まして、あんな風に自分を壊すような真似するイマジンなんて……――
イマジンの基本は、あくまでも「自分の時間を得る事」にある。それ故、自身の消滅につながるような事は、余程の事がない限りやらない。
だが、マーチヘアはなおも自身の体を構成する砂を撒き散らしながら、ソーサーを投げ続けている。
合間から見える相手の手足はありえない方向に曲がり、自身が放ったソーサーの欠片が全身に突き刺さり、更には気味が悪いくらいに上半身を仰け反らせて笑っていた。
「殺害、破壊、猛追、滅亡、絶滅、ころしてこわしておいかけてほろぼしてほろぼしてほろぼしてほろほろほろほろほほほほほほほほほほほ」
目を見開き、口から漏れる言葉が完全に意味を成さなくなったその時。
ソーサーの嵐が、ぴたりと止んだ。
否、ソーサーだけではない。それまで漏れていた声も、そして無茶だった動きも止まっていた。
上半身をこれでもかと仰け反らせ、ソーサーを手に何枚も持ち、口は笑みの形に歪ませ、そして血色の眼で、ここではないどこかを見つめたまま。
ビクンビクンと、その体を痙攣させていた。
「何が……」
起こった、と次狼が言うよりも先に。一際大きくマーチヘアの体が「跳ねた」。
同時にその体は大きく爆ぜ、そのまま大きく膨らんでいった。
――おをおをををををおをっ――
そこから現れたのは、白っぽい色をした巨大な獣。大きさは魔化魍と同じ位だろうか、その姿に元のマーチヘアの面影はない。
「イメージの暴走……!」
いち早くその変質の正体に気付いた幸太郎の焦る声は、マーチヘアだったモノの咆哮に掻き消された。
人間が作った忌々しい白い機械鎧。そしてそれを纏う、これまた忌々しい男。
相手は「たかが人間」であるにも拘らず、ビショップは目の前の男……紅音也を完全に抹殺しなければならないと思ったのは、本能的に感じていたからなのかもしれない。
……その存在が、ファンガイアと言う種の未来を、決定的に変えてしまうであろう事を。
クイーンの気まぐれと言えばそれまでだろう。彼女は人間の言う「愛」に関して多少なりとも興味を抱いている。
クイーンはキングとの間に子を産み、そしてキングを支える為に存在する。キングとクイーンの間に……そしてキングとなるべき者に「愛情」などと言う感情は不必要。望む世界の為には、キングもクイーンも純粋かつそれ故の残忍さを抱いている存在であれば良いのだ。
……今まで通り他の種族を廃し、人間を家畜とみなし、そして世界そのものを管理するファンガイアの為の世界の為には。
それなのに、クイーンはあの男に興味を抱き、近付いている。ルークを止めてまで生かそうとさえしている。それは、既に惹かれ始めている証拠ではないのか。
――冗談ではない――
人間と恋に落ちたファンガイアを処分するのはクイーンの仕事。そのクイーン本人が人間と恋に落ちてしまっては、掟も何もあった物ではない。
だからこそ、確実に殺しておきたい。今ならまだ間に合う。クイーンを純粋なままに留めておける。
それなのに……
――愛? 運命? 馬鹿馬鹿しい――
苛立ちながらも、ビショップは燐粉を撒き散らし、小規模な爆発を何度か引き起こす。
だが、目の前にいる存在達は、それを軽くかわしつつビショップとの距離を詰めると、その拳を繰り出した。
「チッ」
右から来た次狼の鋭い爪を受け止め、左から来た天道の拳を払いはしたが、真正面から来た音也の拳は完全にビショップの鳩尾を捕らえる。
「ぐ、がはっ」
押し出された空気を吐き出し、体をくの字に曲げながらも、ビショップは再び燐粉を撒いて周囲との距離をとる。
鳩尾に喰らった一撃による痛みのせいで、更なる苛立ちが上乗せされる。
――邪魔です、鬱陶しい、死ねば良い――
燐粉と共に、自身の内に宿る憎悪と殺意を撒き散らしながら、ビショップはしきりに眼鏡のブリッジを上げるような仕草をとる。本来の姿を見せている以上、眼鏡もどこかに消えているのだが、癖のような物なのだろう。
キングの手を煩わせる程の相手ではないと言う高慢もあるが、それ以上にビショップ自身の手で葬り去りたいと思っていた。
……音也は勿論、この場にいる全員を。
――ああ、本当に……――
『殺してやりたい』
イラつきながら放った言葉は、何故かビショップの近くで反響し……
――違う――
反響したのではないと即座に気付いたらしい。ビショップは反射的に宙へ舞い、その場を離れた。
そして目にしたのは、今まで自分がいた場所にはにんじん色のウサギ……マーチヘアイマジンが、手に円刀を兼ねているソーサーを持ち、それを振り下ろしている姿だった。
耳は半ばから斬られて短くなっており、目は赤く血走っている。口は三日月形に歪み、体はゆらゆらと左右に揺らしているその姿は、明らかにイカレているのが分った。
今までも奇妙な……それこそ「イカレている」としか表しようのない言動が多かったが、今はそれとは別種のイカレ具合を見せている。
「うふ。うふふふふふ。何で逃げるんだよぉ? 君は僕の契約者だろぉ?」
虚ろな目でビショップを見上げながら、マーチヘアは今までと何一つ変わらない、奇妙なまでに明るい声で言い放つ。
だが、その言葉の意味をビショップが理解できるはずもない。彼は訝しげに首を傾げ、今しがた自分に斬りかかったマーチヘアを睨みつける。
「何を言っているのです?」
「擬態してる時の顔。揚羽蝶の異形。間違いないよ、君が僕の契約者だろぉ?」
訳が分らず問うたビショップに、マーチヘアはさも当然と言わんばかりに答えを返す。
その答えに、地上にいる他の面々……幸太郎達もまた、訝しげに首を傾げていた。
確かに、マーチヘアの「契約者」だったワームはビショップによく似た顔を持つ童子に擬態していたし、正体もスワローテール……即ち揚羽蝶だった。
しかし、共通点と言えばそれくらいだ。他は……特に身に纏う邪気は、全くの別種。自分の世界に帰りたいが為に逃げ回っていた契約者に比べ、彼は自分から積極的に攻撃を仕掛けてくるくらいの余裕すらある。
明らかな別人だと言うのに、マーチヘアはニタリと笑ったまま視線をビショップに固定し、更に言葉を続けた。
「契約者は殺さなきゃいけないんだよぉ。頭の中で『殺せ』って声が聞こえるんだ」
言うと同時に、マーチヘアは再びソーサーをビショップに向って投げつけた。
だが、その狙いは滅茶苦茶としか言いようがない。ビショップに向けてはいるが、その全ては近くの建物の壁に当たっては軽い音を立てて砕け散り、重力に従ってアスファルトの上にその欠片を落とす。
つまり、投げているのは普段マーチヘアが使っている円刀ではなく……「ただの」ソーサーである事を示す。
「なあ少年、これは一体どうなってるんだ?」
「……悪い、俺にもわからない」
囁くように問うヒビキに、幸太郎も困惑したような声を返す。
かつて……幸太郎の祖父である野上良太郎がイマジンと戦っていた時は、カイと言う名の首魁がテレパシーのような物で指示をしていたらしい事は、話に聞いている。
だが、今はそのカイは消え、イマジンに指令を出す存在などいないはず。
――耳を斬られた衝撃で、おかしくなったって言うのか?――
その割には、彼の変貌は唐突過ぎる。斬られた時はそれまで通りの、どこかふざけた印象を抱かせる物言いをしていたのに、今は余裕が感じられない。
本気でビショップを契約者だと信じ、更に本気で殺さなければならないと思っている。それなのに、投げているソーサーはただの陶器。とてもではないが、ビショップを殺せるような物ではない。
「あのウサギ、言ってる事とやってる事が滅茶苦茶だ」
小さく呟かれたゆりの声で、マーチヘアはようやくビショップ以外の面々の事を認識したらしい。
きょとんとした……しかし相変わらず血走ったままの瞳をゆり達の方へ向けると、心底不思議そうに声を上げた。
「何、君達。……誰?」
「何?」
「まさか、俺達の事を忘れてる……?」
まさかのマーチヘアの言葉に、ユウスケと天道の口から訝しげな声が上がる。
マーチヘアにとぼけている様子はない。本気でそう思っているらしく、何かを見極めるように彼らをじっと見つめると、やがて納得したようにしきりに頷き……
「今、声が聞こえた。君達、邪魔者なんだって?」
いっそ穏やかにすら聞こえる声で言った直後、ぶわりとマーチヘアの体から殺気が漲る。
それと同時に相手の周囲の空気が暗い紫に染まり、更にその空気はマーチヘアを侵食するように染めていく。
喰われている。
そう表現するのが最も近いだろうか。
毛色がにんじん色から暗い紫に変わり、マーチヘアの目はどんどん険しくなっていく。
だが、マーチヘアは幸太郎達を「見ていない」。視界には入っているかもしれないが、それだけだ。もっと別の……ここではないどこか、幸太郎達ではない誰かを見ているらしく、ソーサーを構えながら大声で喚きだした。
「邪魔邪魔邪魔っ! マッドハッターみたいに、僕の事も殺すつもりなんだろう! そうだ、そうに決まってる! あのピンクの戦士はどこだ!?」
「マッドハッターみたいにって……既にもう一体のイマジン、倒されてるって言うのか!?」
「驚いたフリなんかしても無駄っ! お前達が殺したのは分ってる! 分岐点の小娘と一緒になってマッドハッターを殺したんだそうだそうに違いない」
幸太郎の驚きの声に対して一息に怒鳴り返した瞬間、マーチヘアの体は完全に紫に変わった。
それと同時に、彼はビショップの方へ向き直ると大きく飛び上がり、周囲全方向へ向けてソーサーを放った。
その口から、壊れたような笑い声を上げて。
「あひゃ、あひゃひゃ、あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
放たれたソーサーは、幸太郎の知る「円刀代わりの物」、先程まで投げていた「陶器製の物」、そして屋上で放った時と同じ「爆発する物」の三種あるらしい。
時折ソーサーは破裂し、壁にぶつかっては砕け散り、そして肌に触れればそれを裂く。
見た目にはどれがどの効果を持っているのか分らないせいもあり、ソーサーの中央に立つマーチヘア以外は、極力当たらないように見極めながらも体を捩る。
それでも、満遍なく放たれるソーサーは、幸太郎とテディの前で炸裂し、音也と天道の鎧を削り、ユウスケとゆりの傍で砕け、ヒビキと次狼の皮膚を裂き、そしてビショップの体を刻んだ。
「加速、運命、世界、月、超越、統合、維持、崩壊、暗澹、悲哀、邪悪、過去、未来、紅蓮、漆黒、生者、死者、明瞭、曖昧、英雄、悪者、双璧、二重……」
喰われたのはその毛色だけでなく理性もなのか。
その口から漏れる言葉に脈絡はなく、放つソーサーも狙っているのではなくただ投げているだけ。自身の体の構造を省みず、無理な角度に腕を回し、その度にゴキリと嫌な音が鳴り、それすらも無視して腕を振るい続けてはソーサー以外の……ざらりとした白い「砂」をも撒き散らしている。
その無茶苦茶としか言いようのない攻撃に、流石のビショップも危険を感じたのか、裂かれた腕を押さえながら、更に高く上昇し……
「くっ……付き合いきれません。あなた方を殺すのは、またの機会にしましょう」
そう捨て台詞を吐くと、そのままソーサーの届かない範囲へと飛び去っていった。逃げた、と言っても良いだろう。
音也やゆり、そして次狼としては、野放しにしておくと危険だと認識している為に追いたいところだが、マーチヘアのソーサーの嵐の中ではそれもままならない。
悔しげに顔を顰めるが、今は逃げたビショップよりも完全に狂ってしまったマーチヘアをどうにかする方が先だ。
「なあ幸太郎、こういう事ってよくあるのか?」
「ある訳ないだろ。少なくとも、俺が知る限りここまでイカレた事はないし、じいちゃんの話の中でも聞いた事がない」
――まして、あんな風に自分を壊すような真似するイマジンなんて……――
イマジンの基本は、あくまでも「自分の時間を得る事」にある。それ故、自身の消滅につながるような事は、余程の事がない限りやらない。
だが、マーチヘアはなおも自身の体を構成する砂を撒き散らしながら、ソーサーを投げ続けている。
合間から見える相手の手足はありえない方向に曲がり、自身が放ったソーサーの欠片が全身に突き刺さり、更には気味が悪いくらいに上半身を仰け反らせて笑っていた。
「殺害、破壊、猛追、滅亡、絶滅、ころしてこわしておいかけてほろぼしてほろぼしてほろぼしてほろほろほろほろほほほほほほほほほほほ」
目を見開き、口から漏れる言葉が完全に意味を成さなくなったその時。
ソーサーの嵐が、ぴたりと止んだ。
否、ソーサーだけではない。それまで漏れていた声も、そして無茶だった動きも止まっていた。
上半身をこれでもかと仰け反らせ、ソーサーを手に何枚も持ち、口は笑みの形に歪ませ、そして血色の眼で、ここではないどこかを見つめたまま。
ビクンビクンと、その体を痙攣させていた。
「何が……」
起こった、と次狼が言うよりも先に。一際大きくマーチヘアの体が「跳ねた」。
同時にその体は大きく爆ぜ、そのまま大きく膨らんでいった。
――おをおをををををおをっ――
そこから現れたのは、白っぽい色をした巨大な獣。大きさは魔化魍と同じ位だろうか、その姿に元のマーチヘアの面影はない。
「イメージの暴走……!」
いち早くその変質の正体に気付いた幸太郎の焦る声は、マーチヘアだったモノの咆哮に掻き消された。