第一部
かくして、シノが帰ってくるまでという条件で、マツリはカガミハラに留まることが決まった。タツマルは母に甘える子のように始終マツリのそばにいた。マツリの些細な仕草や言葉、その何もかもがタツマルへと向けられ、タツマルはよく喋るようになった。反面、マツリがタツマルに対して何かを教えることはなくなったが、タツマルはそれを気にしなかった。気にできるほど、大人になりきれていなかった。ただ見聞きしてもらい、褒めてもらえることがうれしくてたまらなかったのだ。タツマルは食事も自らこしらえて、マツリにふるまった。マツリはこれをよろこび、タツマルのこしらえた品々をひとつひとつ、決まっておいしそうに平らげた。
「タツマルは料理が上手ね」と、マツリは言う。
いつからか、マツリはタツマルのことを名前で呼ぶようになっていた。けれど、タツマルがそれをいぶかることはなく、ただ名前を呼ばれることのうれしさとこそばゆさに頬を緩める。手料理を褒められたこともあって、タツマルは上機嫌だった。
「食は大切だと教えてもらった。だから、俺はいつか家臣に手料理をふるまってやりたいと思ってる」
「そうね、きっと家臣も喜ぶでしょう」
にこにことうなずいたマツリを見て、タツマルもうれしくなる。「そうか」と呟き、タツマルは白米を口へかきこんだ。噛みしめた米は、常よりもずっとうまく感じられる。それは女中たちの炊く米がまずいというわけではなく、特別な人と一緒に食べる米だからなのだろうと、タツマルは思った。
そのころのタツマルは日中に町を散策することが日課となっていて、タツマルはそれにもマツリを誘った。「会わせたい奴がいる」と、そう告げれば、マツリはうれしそうにうなずいた。連れて行ったのはいつかのまんじゅう屋で、そこを切り盛りしている女はタツマルを見ると、ぎこちないながらも笑みを見せた。
「タツマル様、今日はお一人ではないのですね」
「ああ、どうしてもここのまんじゅうを食わせてやりたかったんだ」
「もったいないお言葉でございます――今、用意いたします」
店の奥へと引っこむ女は緊張こそしているようであったが、タツマルへと向ける眼差しに嫌悪といった感情はない。このまんじゅう屋は、タツマルが生まれ育った町の中で初めて見つけた居場所だった。だからこそ、タツマルはここをマツリに見せたいと思っていた。これに関してマツリが何かを言うことはなかったが、マツリは終始タツマルを見てはにこにことうれしそうにしていた。
やがて、タツマルの日課はマツリの日課にもなる。タツマルはマツリとともに通りを行き、路地を行き、これまでそばにありながらも目にすることのなかった故郷の景色を存分に楽しんだ。時には店を覗いて買いものをすることもあった。そうしてタツマルの散策が度重なるうち、町民たちのようすも変わってくる。民たちは、あからさまにタツマルから逃げることをしなくなった。決して近づかず目を合わせず、それでも、タツマルと同じ道を行き同じ道ですれ違うようになった。自分の存在を民に認められたような気がして、タツマルはこれをうれしく思った。
さりとてそんなことはなかったのだと、そうタツマルが思い知ったのは、マツリがカガミハラに滞在するようになって、ちょうど十日目のことだった。
いつものようにまんじゅう屋で買ったそれを頬張りマツリと談笑をしていたら、急に息が詰まった。呼吸をしようとしても思うようにいかず、タツマルは背を丸めて咳きこむ。
マツリは、タツマルが喉にまんじゅうを詰まらせたのだと思ったのだろう。まんじゅう屋の女に茶を頼み、タツマルの背をさすった。だがこのとき、タツマルはマツリのその行動に違和感を覚える――いつでもタツマルの考えの先をいっていたマツリが、なぜ気づかないのかと。
喉からせりあがったものが、タツマルの口からあふれ出る。地面に、赤い色がにじんだ。たちまち、マツリの動きが止まった。茶を運んできた女の、引きつったような悲鳴が聞こえる。けれど、なおもタツマルの咳は止まらない――次第に意識が遠くなっていく中で、タツマルは声を聞いた。
「毒」
それは、小さなマツリの声。なぜだろうか。ずっと一緒にいたはずだというのに、その声を長らく聞いていなかったような気がした。
「そんな、そんな――あたしは、何も――」
「わかってます。大丈夫です、この子は死なせません」
まんじゅう屋の女に凛と言い放ち、マツリは着物が汚れるのも構わずに血を吐くタツマルを抱えあげる。そうして、マツリは毒に侵されたタツマルの口を自らの口で塞いだ。苦い液体が口に広がる。タツマルがその液体を飲み干すまで、マツリは決して口を放さなかった。ひどく責任を感じているような面持ちで、マツリが血に染まる唇を動かす。すまないねおちびさん、私には止めることができなかった――
毒に身体を蝕まれたタツマルは、熱に浮かされながら夢をみた。寝食さえ惜しむことなく、付っきりでタツマルの看病をするマツリの夢をみた。夢の中のマツリは、ろくに食べることもままならないタツマルの口へ、首にさげた小瓶から雫を垂らしていた。一滴でも甘いそれは、懐かしくも悲しい味がしていた。
ふとタツマルが目を開けると、沈痛な面持ちをしたマツリがかたわらに座っている。少し、やつれただろうか。ろうそくの灯りを宿した瞳は、タツマルを見おろして揺らいでいる。今にも、泣きだしそうだった。
「俺は、死ぬのか」
床に伏したまま、タツマルはかすれた声で呟いた。「民に毒を盛られて、死んでゆくのか」
マツリは、何も言わない。けれど、不思議とタツマルの心中は静かだった。自分は死ぬのだと思う一方で、死を恐れる気持ちが微塵も湧いてこない。泣き叫び、しがみついてでも生きたいと切望する感情が、ない。だが、タツマルはそれをいぶかることもなかった。あるいはそれも無理のないことなのだろうと、そう思った。父は死に、家は落ちぶれ、民たちは己の存在を疎ましく思う――
「惨めだな」
と、ひとりごちた。どれだけタツマルが馴染もうとしても、民たちはそれを望んでいない。それどころか毒を盛り、この機に殺さんとするほどに厭われていた。もはや嘆く気持ちさえない。乾いた笑いが口からこぼれた。くだらない。タツマルがしてきたことも、その存在さえも。
「民たちが憎いかい」と、マツリが言った。
「いや」と、タツマルは答えた。
すると、マツリはこう続ける。「なら、民たちを愛おしく思うかい」
おかしなことだと思った。毒を盛った相手をどうして愛おしく思うのか、なぜそんなくだらないことを聞くのか――鼻で笑おうとしたタツマルは、けれど、次の瞬間には唖然とした。開きかけた口が、戸惑いにふるえる。憎いかと聞かれたときは即座に否と返すことができたはずなのに、愛おしいかと問われると返せるものがない。まなじりから、ひとつ、雫が落ちてゆく。
おかしいのは、マツリの問いかけなどではなかった。おかしいのは、ひとつ返事で答えることができないタツマル自身だった。
「俺は」
よもや、と思う。愛おしいのか、と。こうして毒を盛られてもなお己は民が愛おしいのか、と。こんな惨めで滑稽な話があるものなのか、と。
「民が愛おしいのならば、死を恐れなさい」
困惑するタツマルのかたわらで、マツリは言った。なぜならばタツマルの死は民の死に繋がるから、なぜならばタツマルは武家の子であるから、なぜならば武士に守られずして民は生きてはゆけないから――ゆえにと、マツリは続ける。
「己の死を、民の死を、恐れなさい」
そうして、ぽつりとこぼした。
「私は恐ろしいよ、死をも恐れないおちびさんのその目が」
逸らすように目を伏せたマツリのまつげが、かすかにふるえている。静か過ぎる湖面を覗いているようだ。と、マツリは言った。
なぜ、とは聞けない。タツマルには、マツリの気持ちが痛いほどにわかってしまった。忘れかけていたマツリへ対する疑問が、よみがえる。そして、そのときにタツマルが抱いた途方に暮れるよりほかない悲しみ。
「違う」
と、タツマルはうめいた。重い腕を持ちあげて、ふるえるマツリへと手を伸ばす。
「俺は、おまえにそんな顔をさせたいんじゃない」
マツリの冷えた両の手が、タツマルの手を握る。そうして、マツリは笑った。いつもの困ったような微笑みで、床に伏すタツマルを気遣うように。
「すまないね、病人にするような話ではなかった」
と、マツリは言う。タツマルの胸は、ひどく苦しくなった。違う、違う、そうではない、タツマルがマツリに伝えたいのは――
「今はただ、ゆるりとお休み」
ささやくようなマツリの言葉。それとともに遠くなる意識。けれど、タツマルはまだ伝えたいことの半分も口にできてはいない。タツマルの意識は襲いくる睡魔に抗おうとしたが、弱った身体は休息を求めてやまなかった。嫌だ、嫌だと駄々をこねるように唇を動かしながら、タツマルの意識はまたおぼろげなものへと変わってゆく。夢をみるときのような、そんな不確かなものへと。
おぼろにたゆとうタツマルの意識は、いつしか奇妙なものをみていた。
静けさに満ちた薄暗い部屋。そこにあったのは、床に伏したタツマルと変わらずそばにいるマツリと、今はカガミハラを留守にしているはずのシノの姿だった。
昏々と眠り続けるタツマルを、マツリは沈痛な面持ちで見つめている。そのとき、後ろに立っていたシノが、マツリの名を呼んだ。応じるように、マツリがシノを振り返って立ちあがる。だのに、シノは立ちあがったマツリを見て、険しい顔をするのだ。
――お言葉ですが、私が呼んだのは貴女様ではない。その者を返していただけませんか。
その言葉に、マツリは何も言わない。ただ、ひどく傷ついたような顔をして、うつむいた。そして、突然ふつりと糸が切れたかのように崩れ落ち、シノがその身体を抱き止める。シノは、まぶたを閉ざしたマツリの髪をぎこちない手つきで梳き、ただ苦い顔をしたまま、どういうわけか、こうひとりごつのだ。
――俺は言ったはずだぞ。その身を人の世に染めてくれるなと。なぜ、奥方様にその身を許した。タツマル様は、おまえを奥方様だと勘違いされている。おまえであれば、こうなることはわかっていたはずだろう。
おまえは一体どこへゆくつもりだと、そう問うシノにマツリは答えず、その腕にもたれて動かない。夢であろうはずのその光景は、しかして、タツマルの胸の内に潜む漠然とした不安を大きくするばかりだった。
「タツマルは料理が上手ね」と、マツリは言う。
いつからか、マツリはタツマルのことを名前で呼ぶようになっていた。けれど、タツマルがそれをいぶかることはなく、ただ名前を呼ばれることのうれしさとこそばゆさに頬を緩める。手料理を褒められたこともあって、タツマルは上機嫌だった。
「食は大切だと教えてもらった。だから、俺はいつか家臣に手料理をふるまってやりたいと思ってる」
「そうね、きっと家臣も喜ぶでしょう」
にこにことうなずいたマツリを見て、タツマルもうれしくなる。「そうか」と呟き、タツマルは白米を口へかきこんだ。噛みしめた米は、常よりもずっとうまく感じられる。それは女中たちの炊く米がまずいというわけではなく、特別な人と一緒に食べる米だからなのだろうと、タツマルは思った。
そのころのタツマルは日中に町を散策することが日課となっていて、タツマルはそれにもマツリを誘った。「会わせたい奴がいる」と、そう告げれば、マツリはうれしそうにうなずいた。連れて行ったのはいつかのまんじゅう屋で、そこを切り盛りしている女はタツマルを見ると、ぎこちないながらも笑みを見せた。
「タツマル様、今日はお一人ではないのですね」
「ああ、どうしてもここのまんじゅうを食わせてやりたかったんだ」
「もったいないお言葉でございます――今、用意いたします」
店の奥へと引っこむ女は緊張こそしているようであったが、タツマルへと向ける眼差しに嫌悪といった感情はない。このまんじゅう屋は、タツマルが生まれ育った町の中で初めて見つけた居場所だった。だからこそ、タツマルはここをマツリに見せたいと思っていた。これに関してマツリが何かを言うことはなかったが、マツリは終始タツマルを見てはにこにことうれしそうにしていた。
やがて、タツマルの日課はマツリの日課にもなる。タツマルはマツリとともに通りを行き、路地を行き、これまでそばにありながらも目にすることのなかった故郷の景色を存分に楽しんだ。時には店を覗いて買いものをすることもあった。そうしてタツマルの散策が度重なるうち、町民たちのようすも変わってくる。民たちは、あからさまにタツマルから逃げることをしなくなった。決して近づかず目を合わせず、それでも、タツマルと同じ道を行き同じ道ですれ違うようになった。自分の存在を民に認められたような気がして、タツマルはこれをうれしく思った。
さりとてそんなことはなかったのだと、そうタツマルが思い知ったのは、マツリがカガミハラに滞在するようになって、ちょうど十日目のことだった。
いつものようにまんじゅう屋で買ったそれを頬張りマツリと談笑をしていたら、急に息が詰まった。呼吸をしようとしても思うようにいかず、タツマルは背を丸めて咳きこむ。
マツリは、タツマルが喉にまんじゅうを詰まらせたのだと思ったのだろう。まんじゅう屋の女に茶を頼み、タツマルの背をさすった。だがこのとき、タツマルはマツリのその行動に違和感を覚える――いつでもタツマルの考えの先をいっていたマツリが、なぜ気づかないのかと。
喉からせりあがったものが、タツマルの口からあふれ出る。地面に、赤い色がにじんだ。たちまち、マツリの動きが止まった。茶を運んできた女の、引きつったような悲鳴が聞こえる。けれど、なおもタツマルの咳は止まらない――次第に意識が遠くなっていく中で、タツマルは声を聞いた。
「毒」
それは、小さなマツリの声。なぜだろうか。ずっと一緒にいたはずだというのに、その声を長らく聞いていなかったような気がした。
「そんな、そんな――あたしは、何も――」
「わかってます。大丈夫です、この子は死なせません」
まんじゅう屋の女に凛と言い放ち、マツリは着物が汚れるのも構わずに血を吐くタツマルを抱えあげる。そうして、マツリは毒に侵されたタツマルの口を自らの口で塞いだ。苦い液体が口に広がる。タツマルがその液体を飲み干すまで、マツリは決して口を放さなかった。ひどく責任を感じているような面持ちで、マツリが血に染まる唇を動かす。すまないねおちびさん、私には止めることができなかった――
毒に身体を蝕まれたタツマルは、熱に浮かされながら夢をみた。寝食さえ惜しむことなく、付っきりでタツマルの看病をするマツリの夢をみた。夢の中のマツリは、ろくに食べることもままならないタツマルの口へ、首にさげた小瓶から雫を垂らしていた。一滴でも甘いそれは、懐かしくも悲しい味がしていた。
ふとタツマルが目を開けると、沈痛な面持ちをしたマツリがかたわらに座っている。少し、やつれただろうか。ろうそくの灯りを宿した瞳は、タツマルを見おろして揺らいでいる。今にも、泣きだしそうだった。
「俺は、死ぬのか」
床に伏したまま、タツマルはかすれた声で呟いた。「民に毒を盛られて、死んでゆくのか」
マツリは、何も言わない。けれど、不思議とタツマルの心中は静かだった。自分は死ぬのだと思う一方で、死を恐れる気持ちが微塵も湧いてこない。泣き叫び、しがみついてでも生きたいと切望する感情が、ない。だが、タツマルはそれをいぶかることもなかった。あるいはそれも無理のないことなのだろうと、そう思った。父は死に、家は落ちぶれ、民たちは己の存在を疎ましく思う――
「惨めだな」
と、ひとりごちた。どれだけタツマルが馴染もうとしても、民たちはそれを望んでいない。それどころか毒を盛り、この機に殺さんとするほどに厭われていた。もはや嘆く気持ちさえない。乾いた笑いが口からこぼれた。くだらない。タツマルがしてきたことも、その存在さえも。
「民たちが憎いかい」と、マツリが言った。
「いや」と、タツマルは答えた。
すると、マツリはこう続ける。「なら、民たちを愛おしく思うかい」
おかしなことだと思った。毒を盛った相手をどうして愛おしく思うのか、なぜそんなくだらないことを聞くのか――鼻で笑おうとしたタツマルは、けれど、次の瞬間には唖然とした。開きかけた口が、戸惑いにふるえる。憎いかと聞かれたときは即座に否と返すことができたはずなのに、愛おしいかと問われると返せるものがない。まなじりから、ひとつ、雫が落ちてゆく。
おかしいのは、マツリの問いかけなどではなかった。おかしいのは、ひとつ返事で答えることができないタツマル自身だった。
「俺は」
よもや、と思う。愛おしいのか、と。こうして毒を盛られてもなお己は民が愛おしいのか、と。こんな惨めで滑稽な話があるものなのか、と。
「民が愛おしいのならば、死を恐れなさい」
困惑するタツマルのかたわらで、マツリは言った。なぜならばタツマルの死は民の死に繋がるから、なぜならばタツマルは武家の子であるから、なぜならば武士に守られずして民は生きてはゆけないから――ゆえにと、マツリは続ける。
「己の死を、民の死を、恐れなさい」
そうして、ぽつりとこぼした。
「私は恐ろしいよ、死をも恐れないおちびさんのその目が」
逸らすように目を伏せたマツリのまつげが、かすかにふるえている。静か過ぎる湖面を覗いているようだ。と、マツリは言った。
なぜ、とは聞けない。タツマルには、マツリの気持ちが痛いほどにわかってしまった。忘れかけていたマツリへ対する疑問が、よみがえる。そして、そのときにタツマルが抱いた途方に暮れるよりほかない悲しみ。
「違う」
と、タツマルはうめいた。重い腕を持ちあげて、ふるえるマツリへと手を伸ばす。
「俺は、おまえにそんな顔をさせたいんじゃない」
マツリの冷えた両の手が、タツマルの手を握る。そうして、マツリは笑った。いつもの困ったような微笑みで、床に伏すタツマルを気遣うように。
「すまないね、病人にするような話ではなかった」
と、マツリは言う。タツマルの胸は、ひどく苦しくなった。違う、違う、そうではない、タツマルがマツリに伝えたいのは――
「今はただ、ゆるりとお休み」
ささやくようなマツリの言葉。それとともに遠くなる意識。けれど、タツマルはまだ伝えたいことの半分も口にできてはいない。タツマルの意識は襲いくる睡魔に抗おうとしたが、弱った身体は休息を求めてやまなかった。嫌だ、嫌だと駄々をこねるように唇を動かしながら、タツマルの意識はまたおぼろげなものへと変わってゆく。夢をみるときのような、そんな不確かなものへと。
おぼろにたゆとうタツマルの意識は、いつしか奇妙なものをみていた。
静けさに満ちた薄暗い部屋。そこにあったのは、床に伏したタツマルと変わらずそばにいるマツリと、今はカガミハラを留守にしているはずのシノの姿だった。
昏々と眠り続けるタツマルを、マツリは沈痛な面持ちで見つめている。そのとき、後ろに立っていたシノが、マツリの名を呼んだ。応じるように、マツリがシノを振り返って立ちあがる。だのに、シノは立ちあがったマツリを見て、険しい顔をするのだ。
――お言葉ですが、私が呼んだのは貴女様ではない。その者を返していただけませんか。
その言葉に、マツリは何も言わない。ただ、ひどく傷ついたような顔をして、うつむいた。そして、突然ふつりと糸が切れたかのように崩れ落ち、シノがその身体を抱き止める。シノは、まぶたを閉ざしたマツリの髪をぎこちない手つきで梳き、ただ苦い顔をしたまま、どういうわけか、こうひとりごつのだ。
――俺は言ったはずだぞ。その身を人の世に染めてくれるなと。なぜ、奥方様にその身を許した。タツマル様は、おまえを奥方様だと勘違いされている。おまえであれば、こうなることはわかっていたはずだろう。
おまえは一体どこへゆくつもりだと、そう問うシノにマツリは答えず、その腕にもたれて動かない。夢であろうはずのその光景は、しかして、タツマルの胸の内に潜む漠然とした不安を大きくするばかりだった。