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第一部

 その日のカガミハラ家は、早朝から騒がしかった。なんでも年ごろの娘がカガミハラ家を訪ねてきたのだという。誰かなど、考えるまでもない。シノが留守であることもあってか、報せに来た女中は始終落ち着かないようすだったが、タツマルは気にせず持ち場に戻るよう命じた。素振りの稽古を中止すると、汗で額にはりついた前髪を払い、カガミハラ家の主として客人を出迎える。

「おはよう、おちびさん。昨夜はよく眠れたかな」

 案の定、客人はタツマルもよく知る娘だった。大きな木箱を両手で抱えながら、マツリはにこりとする。

「おまえ、なんだその箱は」

「キョウザイだよ。おちびさんにはジッシュウを受けてもらおうと思ってね」

 マツリは、なにやら聞き慣れない言葉を口にした後、こう続けた。ところで箱が重いのだけれどどこか置ける場所はないかな、できれば広い場所がいい――

 馬や荷車があるわけでもないようだから、町外れの森から屋敷まで素手で運んできたのだろう。よくよく見たのなら、箱を抱えるマツリの腕はふるえている。血の通わなくなった指先が、白くなっていた。

「貸せ」

 マツリが無理をしているのは明らか。タツマルが奪い取るようにして木箱を抱えると、マツリは目を丸くした。「いいよ、おちびさん。重いだろうに」

 マツリが言うように、たしかに木箱は見た目よりも重く感じられた。けれど、普段から鍛錬をしているタツマルにはどうということはない。その一方で、マツリがこの程度の荷物で苦戦していたことを意外に思った――タツマルにとって、常に浮世離れした雰囲気を漂わせているマツリは、どんなことでも淡々とこなしてしまいそうな印象があったのだ。だけれど、

「おまえも女なんだな」

 初めて出会ったときはたしかに女と認識していたというのに、いつからか、それを意識しなくなっていた。妙なことだと、タツマルは思う。会うときは常にシノがいたからだろうか、けれどここ最近はシノが不在の状態で会っていた――どうしてか、急におもばゆい気持ちになった。「こっちに、稽古場がある」

 そっぽを向くようにして、きびすを返したタツマルのことを、マツリはどう思ったのだろうか。少し遅れてタツマルの後を追いかけてくる足音は、ゆったりとしたものだった。

 タツマルが稽古場の中心に木箱を置くと、マツリはおもむろに木箱の周囲で火をおこし始める。立ち昇る煙を、扇子で木箱の中へとあおぎ入れているようだった。この間に説明らしきものは全くなく、タツマルにはマツリが何をしようとしているのかが、まるでわからない。

「俺の屋敷まで来て、燻製でもつくる気か」と、タツマルが腕を組んで言えば、

「燻製よりもおちびさんが好きなものだよ」と、マツリは笑った。

 マツリが何をしようとしているのか、タツマルにはますますわからない。それでも、タツマルはマツリを信用していた。煙に気づいた女中が何事かと駆けつけてきても、風上に立ったタツマルはただじっとマツリのすることを見ていた。やがて、火を消したマツリが額に玉のような汗を浮かべてタツマルを手招いた。「おいで、おちびさん。箱の中身を見せてあげよう」

 箱のふたが開けられ、その中が露になる。木箱の中は数枚の板で等間隔に仕切られていた。マツリがその一枚を取り外した瞬間、ようやくタツマルにもその正体がわかった。傾ければ、板の上につくられた「巣」の上からこぼれ落ちていく羽の生えた虫。三日前、マツリが言っていた言葉がタツマルの脳裏でよみがえる。

 ――今度、おちびさんにもハチミツの採り方を教えてあげよう。

「おまえが飼っているっていうミツバチか」

「そうだよ、さわってみる?」

 一匹のミツバチをその手のひらに乗せて、マツリはタツマルへと差し出してくる。ミツバチの扱い方など、タツマルにはてんでわからなかったため、差し出されたそれを指先で摘みあげてみた。ミツバチはぴくりとも動かない。

「死んでるのか」

「いいや、一時的に弱らせただけだよ。ここへ来るまで長くなってしまったから興奮しているだろうと思ってね」

 ミツバチは煙に弱いのだと、そうマツリは言った。

「おちびさんがミツバチに刺されたとなったら、私が彼に刺されてしまう」

 冗談めかしたマツリが薄く笑う。その「彼」が誰をさしているのか、タツマルにはすぐにわかった。けれど――否、だからこそ、それがマツリの冗談だとわかっていても口調を強めざるを得なかった。

「おまえ相手に、シノはそんなことはしない」

 半ば睨むように、マツリの目を真っ直ぐに見据える。すると、マツリは虚をつかれたような顔をした。そうして、それから静かに目を細める。

「……そうだね」

 今のは私の悪い冗談だった――そう訂正したはずのマツリの表情は、どうしてか悲しそうで。決して聞くまいとしていた疑問が、タツマルの口からこぼれた。

「どうしてそんな顔をする」

 シノが留守にする前、二人の間で何かがあったのだろうことはタツマルとて理解している。タツマルはシノのようすもおかしいと感じたが、それに輪をかけてマツリのようすはおかしいと感じた。なぜ、シノがマツリを害することはないと言われ、それに自らうなずき、悲しそうな顔をするのか。それでは、まるで、

「おまえは、」

 ――死にたいのか、それとも殺されたいのか。

 投げかけようとした言葉は、口にはできなかった。想像するだけで、おそろしかった。マツリが死ぬことが、いなくなることが、二度と話せなくなることが。そして、タツマルがいながらそれを望むような素振りを見せるマツリがひどく腹立たしく――悔しくてならなかった。自分の無力さを、弱さを、嫌でも痛感させられる。

「おちびさん」

 黙りこんだタツマルの頭上から、柔らかなマツリの声がする。黙れだとか、ちびじゃないだとか、言いたいことは山ほどあったが、今のタツマルは口を引き結ぶことに必死だった。今にもこぼれそうな嗚咽をこらえるので、精一杯だった。当然、あふれる涙を止めるられる道理もない。

 固くこぶしを握ってうつむいたタツマルの視界は、みるみるにじむ。その中で、マツリは板を木箱にしまい直すと、タツマルに背を向けてしゃがみこんだ。

「おぶさりなさいな。そうしたら、私には何も見えないから」

「……誰のせいだと思ってる」

「私だね」

 憎まれ口を叩いたタツマルに、マツリはすんなりと答えた。そして、言うのだ。

「だから、ありがとう」

 かすかに鼻にかかったような声。あるいは、タツマルだけでなくマツリもまた泣いていたのかもしれない――気づけば、タツマルはその背に寄り添うようにおぶさっていた。

「少し、屋敷の外を歩こうか――大丈夫、町の人はまだみんな眠っているよ」

 立ちあがったマツリが言う。トオイリの女中たちに、こんな姿は見せられない。タツマルはマツリの肩に顔をうずめながら、小さくうなずくことでそれを答えとした。

「この東雲の冬は厳しい」

 静かな朝の空気に、マツリの声がよく通る。「雪が積もれば草も木も眠ってしまうことを、おちびさんはよく知っているはずだね」

「ああ」マツリに背負われ、誰もいない町の通りをゆくタツマルは、くぐもった声で返した。

「では、作物も採れなくなってしまうこの冬を人はどうやって乗り越える?」

「冬になる前に蓄えておく。保存が効くよう、干したり塩につけたりする」

「そのとおり。さすがはおちびさんだ、よく知っているね」と、マツリの笑う気配がした。「人と違って調理こそしないけれど、それはミツバチたちも同じなんだよ」

 ゆったりとした足取りで歩くマツリの声は、普段と変わらないおだやかなもの。それを聞いているだけで、不思議とタツマルの胸のうちも凪いでいくようだった。

「つまり、冬が近い今の時期に蜜を多く採るのは失策ってことか」

「ミツバチたちも、農民と同じ。彼らから蜜をもらうのなら、私たちは彼らの生活を考えてやらなくてはならない――これもまた、ひとつの守るということだよ」

「守る……」

 マツリの言葉を、タツマルは反芻する。武家に生まれた者として、タツマルが守るべきもの――いつか考えていたことの答えが、かすかに見えた気がした。そして、マツリはおもむろに言う。

「おちびさんに、あの子たちを譲ろう」

「……なんでだ」

「おちびさんは泣き虫だからね。もっと栄養のあるものを食べて、強くなってもらわなくては」

 からかうような声音で言われて、タツマルは顔が赤くなるのを感じた。馬鹿にするな。そう声を荒げようと口を開く。けれど、

「それに、おちびさんなら必ずあの子たちを守ってくれる」

 続いたマツリの言葉を聞いて、タツマルは口を閉ざしていた。マツリからの信頼を感じる一方で、そこには何かひっかかるものがあった。本能が、言わなくてはならないと、そう告げる。だのに、タツマルには何を言えばいいのかが、わからない。タツマルが黙りこんでいるうちに日は高くなり、鶏たちが鳴く。寝静まっていた町が、起き始める。

「そろそろ戻ろうか。巣箱をどうにかしないと屋敷の人たちが困ってしまうだろうから」

 朝焼けの中、肩越しにタツマルを振り返ったマツリは、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。

 屋敷に戻ったタツマルは、朝餉をすませた後でマツリから養蜂と呼ばれる蜂を飼うための手ほどきを受け、蜜を採取する方法を学んだ。そして、万が一にでもミツバチに刺されるようなことがあれば、傷口から毒をしぼり出して水につけるようにとも教わった。

「もっとも私が連れて来た彼らの毒は治療にも使われるから、それほどの害はないのだけれどね」

 蜂にも種類があり、中には刺されただけで死に至るような毒をもつものもいるのだという。マツリはそれらの特徴を絵に描いて、タツマルが見分けられるようわかりやすく説明してくれた。

「おまえ、絵が描けるんだな」

 白い紙の上に墨で描かれたミツバチの絵とマツリが連れてきたミツバチとは、身体の部位の分かれ方から足や羽の数まで見事に一致する。畳の上に寝転がったタツマルが絵を眺めて感嘆の声をもらすと、マツリは筆を動かしながら照れたように笑った。

「筆に慣れるまで、ずいぶんと苦労したよ」

「おまえの國には筆がないのか」

「あることはあるけれど、エンピツとか――もっと使い勝手の良いものが普及していたものだから」

 マツリのいた國で使われていたという「エンピツ」だとかいうもののことも気になったが、それ以上にタツマルはその筆さばきに見入っていた。正午も近いこの時間のうららかな日差しは心地よく、タツマルは畳に頬杖をつく。そうして、文机の前に座って絵を描くマツリの姿を長らく見つめていた。紙の上を自在に走る筆先は、まるで生きているかのようだとタツマルは思う。そして、それを操るマツリの手は何かとても偉大な存在であるような気がしてくる――例えるなら、そう、「神」と呼ばれるような。そう考えたら、ふいにマツリにはわからないものなどないのではないかと、そんなような気になって、タツマルは自然と問いかけていた。

「龍がどんな生きものなのか、知っているか」

 筆の動きが止まる。はたとタツマルが我に返れば、マツリはおどろいたような顔でタツマルを見ていた。「それは、霊獣の龍のことかい」

 問われて、タツマルは失言だったと恥じ入る。これではまるで、龍であったという母を恋しがっているようだ。タツマルはマツリから目を逸らし、「なんでもない」とかぶりを振る。さりとて、一度でも口から出てしまったのなら、その言葉を胸のうちに戻すことなどできない。マツリはぽつりと言った。

「知っているよ、霊獣の龍のことであれば」

 思わず、タツマルは逸らした目をマツリへと戻す。マツリはもうタツマルのほうを見てはいなかった。紙へと向かい、筆を動かし始める。その顔に表情らしいものはなく、まるで面か何かをつけているようだった。タツマルはマツリのようすに目を丸くしたが、マツリは淀みなく筆を進ませる。やがて描きあがったのは、蛇のような長い体躯と短い手足をもつ角を生やした生きものだった。ぎょろりとした目がタツマルをひたと見据え、知らずタツマルも見つめ返す。揺らぐ陽光。細く長いひげが、そよと吹く風に揺れたような――そんな気がした。

「個体差はあれど、大よそ龍はこういった姿をしている。けれど、霊獣である彼らはその不思議な力で様々な姿へと化けることができる――先代と出会った奥方様は人の姿をしていた」

 つらつらと語るマツリの声はひどく平坦で、どこかかすれて別人のように思えた。聞いていると、まるで紙の上の龍がタツマルに語りかけているかのように感じられる。あるいは、この声こそタツマルがずっと心の底で求めてやまなかった母のものであるような気さえしてくる。タツマル、と。そう名前を呼ばれた。

 ふわりと、あたたかな何かに身を包まれる感覚。不思議と、タツマルは思った。これは母の胸、母の腕だと。やはり、この声は母の声なのだと。疑う気持ちなど、微塵も湧いてこなかった。それどころか、思いは確信めいてさえゆく。みるみるうちに、タツマルの胸は幸福感で満たされていった。

「母上様」

 あたたかくやわらかな腕に抱かれ、タツマルは目を閉じる。「ずっと、お会いしとうございました」

 やさしく頭を撫でられ、心地よいまどろみがやってくる。タツマルはその腕の中で眠りそうになるのを、必死でこらえた。けれど、陽光をまとう声はタツマルにささやく。良いのですよ、と。母の腕でお眠りなさい、と。

 タツマルはその言葉に甘えて、うなずいて、そうして、おだやかな気持ちのまま眠りにつきたかった。それでも、タツマルには母に話したいことが山とある。中でも、どうしても今話したいと思ったことがあった。母上様タツマルは多くを失いましたが決して一人にはなりませんでした、シノという家臣が変わらず仕えてくれました、剣も馬術も読み書きもすべてシノが教えてくれました、そしてタツマルにも大切なものができたのです、シノはもちろんのこと今すぐそこにいる――

 タツマルが次に気がついたとき、辺りは茜色に染まっていた。いつの間にか、タツマルは布団に横たえられ、部屋には誰もいない。母の姿は無論、マツリの姿さえもない。タツマルがあわてて障子を開けて縁側へ出ると、庭に見慣れた後ろ姿が見えた。屋敷を出ようとしているのか、門のほうへと向かうその背中に、タツマルは奇妙なものを見る。長い体躯をまとわりつかせ、角の生えた頭をこちらへと向けるもの――まるで、そう、マツリが紙に描いた龍のような何かだった。胸が、高鳴る。

「母上様!」

 思わず、叫んでいた。龍のような何かが、日に透けるようにして消える。タツマルに背を向けていたその人が、振り返った。

「ああ、起こしてしまったかな」

 応えたのは、マツリだった。

「何も言わずに出て行くのは悪いと思ったけれど、あまりによく眠っていたから起こすのが忍びなくてね。機嫌を悪くしないでおくれ」

 普段となんら変わらないマツリのようすに、タツマルは身体から力が抜けるのを感じた。マツリの目が細くなる。タツマルはうつむいて、小さく口を開いた。

「俺は、いつから眠っていた?」

 すべては、己の願望がみせた夢だったのだろう。そう思っての問いかけだった。けれど、マツリは薄く笑んで、

「さて、ね」

 まるで、何もかもを知っているかのような口ぶりだった。タツマルは弾かれたように顔をあげ、マツリを見る。底の見えない澄んだ眼差しが、ひたとタツマルを見据えていた。その眼差しはタツマルに答えを与えてはくれない。されど、それはやさしい夢を抱かせる。あるいはマツリという姿は偽りの姿なのではないか、その真の正体は人に姿を変えたタツマルの母なのではないか――そんな思いを抱けばこそ、その背を見送るのが、離れるのが、惜しくなる。

「泊まって、いかないか」

「――それを、お望みとあらば」

 タツマルの誘いに恭しく頭をさげて、マツリは笑った。ひどくきれいな顔で笑った。それはまるで、熟練の職人たちがつくる神像のような、うつくしすぎる顔で。
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