象牙の塔シリーズ③ 口頭試問は今年も大変!

とある閑静な地に広大なキャンパスを有する、名門・エカテリナ学院大学部。
およそ100年の歴史を持ち、戦前は華族や財閥の令嬢が集う優雅な学舎(まなびや)であった。
今では共学となり、俗世の話題に上るような「偏差値」とは無縁の地味な校風へとは変わったものの、ロマネスク様式のホールだとか、ロココ調のテラスであるとか、その往年の栄華を物語るような過去の遺物が気楽な学生たちを見守っていた。

それは、1月の終わり。雪まじりの重い雨が人々を凍えさせた日。
エカテリナ大の一室でのことだった。
「なんか~、大学なんつ~とこにいるとウッカリするけど、オレらも結構オッサンなのな~」
唐突に、非常勤講師の進藤がこぼした。
「はあ?」
なんの脈絡もない突然の愚痴に、同じ部屋にいた2人の内の1人だけが反応した。
「なあ、窪田先生ってば、いくつ?」
相手を見つけた進藤が、身を乗り出すようにして食いついた。
「いくつって……。年ですか?」
「この場合、普通そうだろう?」
人好きのする進藤のペースにまんまと乗せられた窪田助教が、作業の手を止めた。
「僕は、28ですけど?」
「ワッカ~。若いね~」
進藤は茶目っ気たっぷりに、大げさな驚き方をした。それが、嫌味でなくユーモラスで愛嬌があるのが進藤の魅力だ。
「え~?そうですかぁ~?」
窪田も思わずニコニコとしながら、進藤に調子を合わせ始めていた。
「進藤先生だって、まだ言っても僕とそう違わないでしょう?」
「そう見えるか?俺、ソコの男より1コ上だぜ?」
ここで初めて、この部屋にいた寡黙なもう1人の男に注目が集まった。
「うそ…」
小さく呟いた窪田の声が、1人黙々と作業をしていた戸田の耳に届いたかどうかしらない。
が、戸田がそのタイミングで顔を上げたのには、窪田だけでなく進藤もドキリとした。
「2人とも、今、何をすべきか思い出していただきたい」
淡々とした声で戸田は言うが、そこに微妙な不機嫌さが滲んでいることに2人は気づいていた。
真面目で、堅物で、そして美人の「戸田教授」。本当はまだ専任講師なのだが、その威厳と美貌からくるオーラに、学生たちは皆「教授」とあだ名している。その落ち着きぶりを思えば、どう見てもこの中では最年長に見える。
「も、も、申し訳ありません……戸田先生」
見た目の威圧感だけでなく、その有能さもよく知る窪田にとって、先輩の戸田は尊敬に値する。その戸田に睨まれたのでは窪田もすっかりしょげかえって当たり前だ。これほどの威厳ある先輩が、このおちゃらけた進藤より年下?窪田には信じられない。しかし、進藤の言葉を否定する確信もない。
そんな窪田の混乱も眼中にない様子で、進藤は戸田の冷たい視線にもへこたれずに言った。
「いいじゃんよ~。卒論の口頭試問は午後からだぜ?何も今から資料整理なんてよ~」
いかにも面倒そうに、資料をぺらぺら仰ぎながら進藤は文句を言う。
「お前は黙れ」
ひと言で戸田から制された進藤は、肩をすくめて窪田に視線を送った。解ったというように、窪田も苦笑を返す。
ここエカテリナ大学では、卒業年度時の必修単位に「卒業論文」を課している。論文を書いて提出しなければ卒業必修単位が2単位足りなくなるというしくみだ。かといって、提出したら単位はもらえるのかというとそうではない。提出1ヶ月後に主査1人、副査2人という組み合わせで、学生1人1人に口頭試問を行い、そこで認められた論文のみが単位をもらえるということになっている。だが、実際はゼミの担当者によっては論文を書く過程で細やかな指導を行い、試問は簡単な形式程度という場合もあるのだ。それ故に、試問とは言え担当者がそれほど神経を使うこともないはずなのだが…。
「大体、戸田は真面目すぎるんだよ。で、学生に対して厳しすぎ。いいじゃんよ、あいつらは、あいつらなりにやることやったんだから、内容はともかく努力だけでも評価してやれよ」
大らかな進藤の言いそうなことだが、それは気楽な非常勤という立場にあるから言えることでもある。確かに人一倍真面目で熱心な戸田であるけれど、それだけ学生への教育に対して責任を持っており、また学問というものに対しての真摯な態度を貫いているだけの事である。それが、大学の専任教員というものであると戸田は純粋に考えていた。
「で、でもまあ、こんな時くらいしか学生も勉強らしい勉強はしないんですから、がつんとやるのも世の中を舐めないためにはいいかもしれないですよね」
享楽的な進藤とストイックな戸田の緩衝剤のように窪田が口を挟んだ。
「戸田先生みたいに真面目な先生がいらっしゃるから、学生も頑張れるんですよ」
窪田のフォローにも、戸田はニコリともせず、手元の資料を整理し続けた。
「……」
とりつく島もないと思ったのか、窪田は諦めたようにちらりと進藤を見ると戸田に倣って黙々と担当分の卒論を読み始めた。
「ちっ。2人ともイイ子ぶっちゃってよ」
子どものように拗ねる進藤だったが、これで大人しく引き下がるようなら、誰も苦労はしない。学生を指導する立場にある「非常勤講師」でありながら「問題児」扱いされる由縁はこの先にある。
「あ、この論文…。確か、先月の雑誌から抜いてるな」
窪田が学生の盗作に気づいた。参考にした論文や抜粋したものはちゃんとその原拠を明らかにするようにと、どのゼミでも厳しく指導しているにもかかわらず、時々行き詰まった学生が自分で書いたかのように誰か専門の研究者の論文から部分的に盗作することがある。学生に比べればよほど専門家である教員にバレないと思っている方が不思議なのだが、それでもシレっとした顔で人の文章を書き写してくるのだ。そして、こういう場で見事に気づかれる。
「どれ?」
窪田の指摘に戸田も同じ論文の箇所に目を通した。
「ああ。これは平安大学の河見先生の論文の一部だな」
学生以上に勉強している戸田は、苦もなく原拠を言い当てた。
「そうだ。大学の研究紀要に掲載されてたんですよね」
「いや。雑誌の方だろう。それも先々月だ」
「あ、そうでしたっけ」
2人が真剣に話し込むにつれ、進藤はますます拗ねたように不機嫌な顔になる。
「こっちのは、何かの参考書の丸写しですね。明らかに前後の文体と違ってる…」
「もう少し誤魔化そうという気もないらしいな」
ほんのわずかに戸田の頬がゆるんだ。それに気を許したのか、窪田も表情が柔らかくなり、その場になんとなく和やかな空気が流れた。
…その時だった。
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