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本丸の管理人3

 初日をこんのすけからの説明と、ちょっとしたトラブルで終えた私は、情けなさに襲われながらさっさと寝てしまい、朝起きると、出勤までは随分と余裕のある時間だった。
 カーテンと窓開けて、伸びをした。朝の冷たい風が、地上35階の気密性の高い部屋の中に流れ込んでくる。
 私に与えられているのは、防衛省の敷地内に立つ寮の一室。寮と言っても、タワーマンションのような建物で、部屋自体は少々狭いが、風呂トイレキッチンも備え付けられている。清潔で、殺風景で、手を伸ばせば届くところに必要なものがある、快適な部屋。短期間暮らすには十分すぎる設備だ。
 何より、ここには不審な人間だけでなく、人ではない怪しいものの類いが入ってこられない。この、「見える」体質のせいか、おかしなものを引き寄せがちな私にとって、それは何より大事なことだ。
 幼い頃、少し遠出をすると、なんだかよくわからないものに脅かされたり、追いかけられたり、危ない場所へ誘い込まれたりといったことが、何度もあった。そういったものを連れ帰ってしまったこともあって、家族は私を外に出したがらなくなった。友達が隣町へ遊びに行くようになっても、私は行けなかったし、地元を出て、大学へ通うことも叶わなかった。
 しかし、国の主要機関には、あらゆる攻撃に備え、24時間絶えず結界が張られている。この寮も例外ではなく、ここでそういった類のものを目にすることは決して無い。その安心感は、この仕事を通して生まれて初めて味わったもので、私にとってはとても衝撃的な出来事だった。
 決して、故郷を嫌っているわけではない。大きな山に抱かれた、小さな町は、馴染みのあるあやかしたちも含めて、愛すべき場所だと思う。けれど、生まれ育った土地以外の空気に触れることは、新鮮で、驚きに満ちていて、純粋に楽しかった。
 季節は春。景色はおぼろげに霞み、見下ろす大都会の街並みのあちこちにも、桜の花が咲きこぼれている。灰色の街並みを彩る桜色は、地元の山の緑の中に咲く花とはまた違った趣がある。しかし、昨日一日夏の本丸で過ごしたためか、その光景にはひどく違和感を覚えた。新しい審神者が着任するまで、景趣は固定だろうから、これから毎日春と夏を往復しなければならない。
 しばらくぼんやりと外を眺めてから、出勤の準備に取り掛かった。身支度を軽く整えてから、買っておいた食パンを一枚焼いて食べる。昨日着ていたぺらぺらのスーツは窓際に釣ってあるが、今日からは支給されている作業着で出勤するため、備え付けのクローゼットを開ける。この無機質な空間に似つかわしくない、白衣に緋袴という、巫女装束のようなもの。それに狐の面を着けると、いよいよ妖しさ全開である。本当はジャージの方が作業はしやすいのだけれど、一応神様の住まいである本丸で仕事をする都合上、それは許されないらしい。
 簡単にメイクをして、面は本丸に入る前に着けようと、バッグの中に放り込む。バッグはスーツに合わせた黒い鞄しか持って来ていないので、なんとも珍妙な格好だが、毎度のことでもう慣れっこだ。誰に見せるわけでもないし良いだろう。そう思っていたのに、寮を出る時に、同じ格好の女性とすれ違った。きっと同業者だろう。日々さまざまな理由で審神者不在の本丸は生まれ、引き継がれるのを待っているのだ。
 
「珍妙な格好ですね」
 私を見たこんのすけの第一声はそれだった。私は苦笑しながら、おはようと言う。巫女装束に黒い書類バッグ、おまけに途中省内のコンビニで買ったお昼に食べるおにぎりとお茶の入ったビニール袋を提げている姿は、やはりおかしかったようだ。気にせず仕事に取り掛かるため、支給品の紐で袖をタスキがけでまとめた。最初の頃はもたもたとしていたが、今では慣れたものだ。 
 手始めに、玄関掃除に取り掛かる。今日最優先すべき仕事は、臨時の審神者が来るまでに、玄関や廊下、大広間の掃除をすること。昨日物置も見て、一通り掃除道具がそろっていることは確認済みだ。このご時世、掃除はロボットにまかせるのが一般的だが、未だに箒やちりとり、ぞうきんやはたきで掃除をするのを好む人もいる。そのほとんどは個人の趣味なのだろうけど、この本丸においては、別の意味があるらしい。
「掃き清めることは禊と同じなのですよ」
 玄関の棚の上にちょこんと座ったこんのすけが、得意げに語るのを聞きながら、箒を動かす。
「本来本丸は、審神者の霊力によって、清廉な空気が満ちている場所なのです。神様の住まう場所ですから。しかし、審神者が不在の今、霊力は薄れ、場の空気は淀んでいく一方です。しかし、あなたがひとつひとつ丁寧に掃除をすることで、多少なりとも澄んだ空気が戻ってくるのです。その方が刀剣男士も過ごしやすいですし、次の審神者の霊力も馴染みやすくなるんです」
「ふーん、そうなの」
 私は、ただ単にマニュアル通りに掃除をしていただけで、そんな意味があるなんて聞いたことも無い。本当なのだろうか。他の同業者は、知っているのだろうか。真偽の程を確認することは、霊力の無い私には出来ない。でも、自分のやっている仕事に意味があると言うことを知れるのは、単純に嬉しかった。心なしか、いつもより気合が入る。
 開け放した玄関から、夏の朝の湿った空気入ってくる。見上げると、眩しい青い空が、今日も暑くなるのだろうと予感させた。
 
 玄関を掃き、廊下のぞうきんがけをして、大広間を掃いて、上座に座布団を置いて(今朝届いたばかりの支給品だ)、なんとか審神者を迎えるための最低限の掃除を終えた。お目付け役のつもりなのか、情け容赦の無いこんのすけから(「まだ埃が残っていますよ!」)良しの合図が出た時には、少しほっとしてしまった。
 この後、北嶋さんが来て、いっしょに代理の審神者を迎えることになっている。少しだけ休憩しますか、というこんのすけの言葉に甘え、きれいになった大広間の真ん中に腰を下ろした。
「お疲れ様でした。これで審神者様をお迎えすることができますね」
 掃除中は埃を避けるように少し遠くに控えていたこんのすけが、すぐそばまで来て尻尾を揺らす。
「この場の気も、だいぶ清らかなものとなりました」
 こんのすけの言葉に、ぐるりと辺りを見回してみる。確かに、塵ひとつおちていない大広間は、先ほどよりずっと美しいが、その言葉の意味は、やっぱりよくわからなかった。開け放した縁側から、夏の湿った風が入り込んできて、濃い緑の匂いがする。気付けば蝉が大声で鳴きはじめていた。じーわじーわと鳴り響くその声以外、生き物の気配はない。
 これまで仕事をしてきた本丸には、常に刀剣男士と、様々な理由でいなくなった審神者の生活の気配があった。ここは本当に静かで、まるで、私とこんのすけしか居ないみたいで、なんだか心細くなる。昨日の鶴丸国永はどうしているだろう。今日もひとり、この本丸の中を歩き回っているのだろうか。戦うために与えられた、人の身体で。思い浮かべた光景の美しさと寂しさに、どうしてだか、少し胸が痛んだ。
「お疲れ様です。掃除は終わったようですね」
 とりとめのない思考を、北嶋さんの声が遮った。私は慌てて立ち上がり、振り返る。北嶋さんはいつものように黒いスーツを着込み、ちょうどいい笑みを浮かべていた。昨日のことを改めて謝ろうかとも思ったが、すぐにこんのすけに向かって声をかけたので、私は話しかけるタイミングを逃してしまった。
「審神者が来る。全員ここに集めておいてくれ」
「承知いたしました」
 こんのすけは尻尾を揺らし、広間を出て行く。その様子をぼーっと見守る私に、北嶋さんは向き直る。
「あなたはこちらへ。私といっしょに審神者の出迎えをお願いします」
 私は北嶋さんと、本丸の門へ向かった。広い庭を歩きながら、今日は二人で出迎えるが、明日からは一人で出迎えを行うこと、その際は玄関で構わない旨、説明をうける。審神者の出迎えに関しては、こんのすけからも言われていたことだったので、注意事項などを思い返しながら頷く。
「でも、今日はどうして門でお出迎えなんですか?」
「ちょっと特別な方が来るんです。まあ、私の個人的な事情なので、気にしないでください」
 北嶋さんの曖昧な物言いに、私も曖昧に頷いた。北嶋さんの知り合いが来るのだろうか。彼と同年代の審神者を想像してみる。どんな人が来るのか、聞いてみたい気もしたが、北嶋さんは明らかに緊張している様子だったので、なんだか話しかけることもはばかられて、黙っていた。
 門に着き、並んで立つ。北嶋さんは、いつもより言葉少な目だ。私まで緊張してしまう。
 ちらりと腕時計に目を落としたあと、背筋を伸ばして門に向き直った。
「来ます」
 そのつぶやきが、合図だったかのように、門の境目が薄く光った。淡い緑色の光が一層強くなり、ぎいっと音をたてて、門が開く。
 その間から、1人の男性と、1人の刀剣男士が現れた。彼らはゆっくりと門をくぐり、その背後で門が音をたてて閉まる。
 緑の光が消えて、また、静寂が訪れた。
「ご無沙汰しております」
 北嶋さんが、礼をする横で、一瞬それについていくのが遅れて、慌てて頭を下げる。
 私は、審神者が連れて来た神様に、目を奪われていた。深い青色の衣、不思議な光を湛えた瞳。ゆるり、彼が審神者に付き従って歩くと、髪飾りが揺れて、そのあまりの美しさに息を呑む。
 三日月宗近。天下五剣の一振りであり、この世で最も美しいとも言われる刀。顕現が難しいと言われるその刀剣男士を、実際に目にしたのは初めてだった。
「誰かと思えば、長官殿の倅かい。大きくなって」
 私がそろりと顔を上げると、代理の審神者は優しく目を細め、北嶋さんの肩を叩いていた。70代くらいだろうか。精悍な面持ちには、深いしわが刻まれているが、白が勝ち始めたグレーの髪をきちんと固め、深い藍色の和服に身を包んだ姿は、しゃんとしていてとても若々しく見える。
 北嶋さんは恐縮した面持ちで、審神者の言葉に応える。三日月宗近がそばに居るからだろう、その顔は青白く、緊張と相まって、今にも倒れそうに見えて、気の毒だ。
 その様子に気付いたのか、審神者は三日月宗近に、庭を散歩しておいでと伝えた。三日月は鷹揚に頷き、ちらりと私を一瞥すると、広い庭の中へ消えた。
「酷い顔だね。相変わらず、刀剣男士は苦手かい」
「申し訳ございません、お恥ずかしい限りです」
 頭を下げる北嶋さんの肩を、励ますように再度叩いて、審神者は笑った。
「適材適所だ。あんたはあんたの仕事をすればいい」
 審神者はそこで、北嶋さんの後ろに控える私に気付き、おやと不思議そうな顔をする。
「こちらは次の審神者が決まるまで、本丸の管理を行っている者です。日中本丸におりますので、何かあればお申し付けください」
「よろしくお願いいたします」
 頭を下げると、審神者はしげしげと私を見つめ、北嶋を振り返った。
「この狐面は、政府の新しい発明か何かかい。また、おかしなものを作ったね」
「……職員の身に万が一何かあってはいけませんから。あなたにも着用していただきたいくらいですよ」
 審神者は呆れたような、どこか責めているような口調で言った。北嶋の返答に、鼻で笑って、再度私に向き直る。
「あんた、あの子たちの傍に居てもなんともないのかい」
 振り返った顔は、特別厳しいものでは無かったが、年若い新人を甘やかす目でもなく、咄嗟に声が出ない。なんとか頷くと、彼は少し表情を和らげて、面白そうに笑った。
「大したもんだ。今日一日、よろしく頼むよ、管理人さん」
 私は今度こそ、はい、ときちんと返事をして、姿勢を正した。
 
 北嶋さんから後を引き継ぎ、大広前へと審神者を案内すると、刀剣男士全員とこんのすけが待ち構えていた。今日は、鶴丸国永も居るのを横目で確認しながら、私の仕事はここまでなので、頭を下げて退出する。この後、審神者と刀剣男士は、簡易的な契約を結ぶ。それをもって、審神者は一日だけ、彼らの主となり、出陣や遠征の命を下すことが出来るらしい。
 その光景に興味はあったが、今は仕事中であると言い聞かせ、広間を離れる。気を取り直して、掃除の続きに取り掛かった。綺麗にしなければいけない部屋はまだまだある。私は引き続き、箒とぞうきんと格闘し、ふと気付くと、12時を回っていた。
 昼休憩は一時間。好きな時間にとっていいことになっているが、基本的に12時ごろ取るようにしている。買っておいたおにぎりを手にふらふらと本丸内を歩き、畑に面した縁側に腰を落ち着けた。ふうと息を吐く。
 刀剣男士は、全員出陣したのだろうか。審神者とあの三日月宗近は大広間に居るはずだが、朝と変わらず、とても静かだ。昼の太陽は眩しく照りつけているけれど、日陰になっている縁側は、風が吹くと涼しい。ぐんぐん作物が育つ季節なのに、残念ながら目の前の畑には何も植わっておらず、畑と他の地面の色が、かろうじて別れているだけだった。
「休憩中かい?」
 取り出したおにぎりの包装をはがしかけた途端、後ろから声をかけられて、大袈裟に身体がはねる。手の中からするりと落ちそうになったおにぎりを追って身を乗り出すと、勢いあまって体が前に傾いた。成すすべもなく、地面に正面衝突する寸前で、衿を引かれて、身体が止まる。
 恐る恐る振り返ると、鶴丸国永が立っていた。昨日と変わらず、白一色の、美しい姿だ。黄金の瞳が、降り注ぐ書籍から私を守ってくれた時と同じように、驚きで見開かれている。
「まったく、別に驚かすつもりは無かったんだがなあ」
 気をつけろ、と言いながら、そっと手は離れた。私はまだばくばくとうるさい心臓を落ち着けながら、体勢を立て直し、ありがとうございます、ともごもご言った。どうして見つかったんだろう。どうして話しかけられているんだろう。混乱する頭の中を、「一度見透かされると、面の効果は薄れる」という北嶋さんの言葉が過る。毎度必ず付けさせられているこの面が、こんなに使えない道具だとは思ってもみなかった。
 心の中で政府へ悪態をついていると、白い彼はなぜか私の横に腰を下ろした。ふわりと、白檀の香りが鼻を掠める。なぜ座る。私は突然のことに混乱が収まらないまま、じっとうつむいて、手元のおにぎりを見つめた。
「……休憩中かい?」
 最初の問いを、鶴丸国永は繰り返した。言葉を交わすことは禁じられているのだと、説明すれば、結局言葉を交わすことになる。しばらく悩み、こんのすけが居ないことを確認してから、口を開いた。
「はい。昼休憩です。つ、鶴丸国永様は、出陣されなかったのですか?」
「鶴丸でいい。様もいらない。俺は本日の留守居役だ」
 さっぱりと彼は言って、黙った。私も、そうですか、と答え、しばし沈黙が落ちる。
「あの……鶴丸……さん。昨日のケガは、治りましたか?」
「ケガ? ああ、この通り」
 鶴丸さんは、軽く前髪を上げて、昨日血が垂れた左側のこめかみを見せてくれる。そこにはもう傷ひとつなく、まるで昨日のことなんて無かったかのようだった。
「すごい、本当にすぐ治ってしまうんですね」
「まあ、これのせいで今日は出陣できなかったんだがな」
 ちくりと、罪悪感で胸が痛んだ。慌てて頭を下げ、謝る。
「昨日は、本当にすいませんでした。今日も、助けていただいて、本当に、なんと言ったらいいか……」
「ああー、やめてくれ。別に明日になれば出陣出来るんだ。それに」
 鶴丸さんは少し黙った。私は窺うように顔を上げて、驚く。彼の口元には、小さな笑みが浮かんでいた。表情の無い彫像のような顔も、鬼神のごとき凄味も美しかったけれど、ただ単に楽しそうなその微笑みは、そのどれとも違う、やわらかな魅力に満ちていた。
「ちょっと面白かったしな。あの部屋は、もう何年もあんな状態なのに、あそこで本が降ってくるなんて、あんたよっぽど運が悪いなぁ」
 彼は、そう言いながら、くすくすと、ひそやかな笑い声を漏らした。肩を震わせる彼の頬に朱がさして、なんだかとってもきれいだった。自分が間抜けだったとはいえ、笑われるのは不本意だし、恥ずかしいのだけど、その笑顔を見ていたら、まあいいか、と思わされてしまう。昨日、審神者の部屋で会った鶴丸さんは、神様らしくて近寄りがたいというか、少し怖いなと思う部分もあったけれど、今はそんなこともなく、案外親しみやすい性格なのかもしれないなと、のんきなことを思う。
「それ」
 ぼんやりしていると、笑い終えた鶴丸さんが、私の手元を示した。私はふと、手元のおにぎりに目を向ける。
「食べないのか?」
 食べますよ、と答えつつ、ちらりと隣を窺う。興味深々、といった様子でこちらを見つめる目に、耐え切れず俯く。
「あの……見られていると食べ辛いんですが」
「そうか、それは悪かった」
 鶴丸さんは素直に頷き、庭の方へ向き直る。本当に、何なのだろう。ここに居たって、大して面白くもないだろうに。用が無いならどこかへ行ってほしいのだが、彼はぼんやりと夏の庭を眺めるばかりで、動き出す気配は無い。ゆるく吹いた風が、彼の髪を揺らした。ちりんと風鈴を鳴らして、通り過ぎていく。沈黙が痛い。向こうがどう思っているのかはわからないが、私としては、神様と二人きりでなんの会話もないこの状況は、気まずい以外のなんでもなかった。なんとか打開せねばと、ビニール袋に入れっぱなしだったもう一つのおにぎりを、恐る恐る差し出す。
「……食べますか」
 彼は、差し出されたものを見て、なんとも形容しがたい表情を浮かべた。
「食べてもいいのか?」
 頷くと、彼はそっと、私の手からおにぎりを取った。冷たい指先が少し触れて、電流がはしったみたいにびりびりする。不自然に見えないように、ゆっくりと手を戻すと、彼はしげしげとビニールで包装されたそれを眺めていた。おもむろに、両手で包装を破ろうとするので、慌てて止める。
「あ、待って待って! 順番に開けないとのりがはがれちゃいます」
「順番?」
 私が、包装に書かれた数字を指さしながら指導すると、彼は感心したようにへえ~と頷いた。言ったとおりに開けてはくれたが、最後の三番目のビニールをはがしたときに、海苔が敗れ、ビニールの間に残ってしまった。彼はたいそう驚いた顔をして、私のおにぎりと、自分のおにぎりを見比べて、また楽しそうに笑った。
「力加減が難しいなあ」
 片手で持ったおにぎりに、いただきます、と軽く頭を下げて、豪快にかぶりつく。もくもくと口を動かす彼の目が見開かれ、みるみるうちに楽しげな表情に変わっていく。おにぎりを咀嚼しながらこちらを向いた彼の顔から、気に入ったのだろうというのが伝わってきて、思わず笑みが漏れてしまう。
 一口目を飲み込むと、彼ははあ……と溜息をこぼした。感慨深げに、おにぎりを見る。
「うまいな……この、中に入っているやつはなんなんだ」
「ツナマヨです。よかった。気に入ってもらえて」
 つなまよ……と私の言葉を繰り返し、彼は再度おにぎりを頬張った。あっという間におにぎりは彼の胃袋へと消えていく。鶴丸さんは、再度ため息を零し、それから手を合わせて、ごちそうさまでした、と言った。
「物を食べるというのは、どんな感じがするんだろうと思っていたんだ」
 彼の零した言葉に、はっとして、昨日怪我をさせてしまった時のように、さあっと血の気が引く。
 彼は、一度も食事をとったことが無い刀剣男士だったのだ。すっかり忘れていた。これで体調不良になどなってしまったらどうしようと、内心焦りながら、そろっと彼の方を窺う。そこには、さっきまで、幼いこどものようにはしゃいでいた彼の姿は無く、昨日審神者の写真を見上げた時みたいに、なんだか眩しそうな顔をする彼がいた。私は何も言えず、じっと、その横顔を見つめた。
「……驚いた!食べるってのはこういう感じなんだな。でも、一瞬で無くなる。なんだか、儚いもんだな」
 彼は、満足そうだったけれど、私はどこか落ち着かない気持ちになった。この美しい神様が、面白い、楽しいと、無邪気に笑う顔は、何度でも見てみたいと思う。でも、どれもこれも、まるでこれっきりみたいに、すぐに彼の心は静かに凪いでいく。そうしないといけないみたいに。そうするのが、癖になっているみたいに。それはなんだか嫌だった。どんなに美しい表情を見せてくれても、それは、とても寂しいと思った。
「また持ってきます」
 私が言うと、鶴丸さんは、きょとんとこちらを見る。
「おいしい物って、無限にありますよ。甘い物、しょっぱいもの、辛い物」
 何を言っているのかと、冷静な自分が、心のどこかから声を上げる。今日のことだって、きっと、十分まずいことなのに。この先も、こんなことを繰り返すつもりなのだろうか。
「きっとあなたを驚かせるものがたくさんあります。だから、楽しみにしててくださいね」
 神様と、約束なんて。取り交わしていいはずがないのに。
「……ああ。楽しみにしてる」
 まるで、花が咲くように彼が笑うから。私は、もう一人の私の声を押し込める。ほんのひと時、奇妙な本丸に住む、暇を持て余した神様の、暇つぶしを手伝うだけだ。なんてことはない、夏の思い出。
 どうせこの仕事が終われば、私はここからいなくなるのだから。

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