結婚しようか
あっという間に、約束の日はやってきた。仕事終わりに確認すると、彼からメッセージが届いている。ここで待ち合わせで、の一言と、駅名と出口が指定された短いメッセージ。私はちっとも晴れない気持ちを隠すように、了解、という、ユリに似た猫のスタンプを返す。
会社の最寄駅から地下鉄に乗り、彼に指定された駅の出口へ向かうと、なぜかそこはホテルの入り口だった。ビジネスホテルでも、ラブホテルでもなく、私でも知っているような、そこそこ名の知れた高級ホテルである。間違えたかと思い、彼からのメッセージを確認するが、確かにここであっているようだ。着いたことを知らせると、ロビーへ来てくれと、すぐに返事が返ってくる。
私は戸惑いながらも、駅直結の入口からエレベーターに乗る。ぽーんと軽快な音と共に、ロビー階への到着のアナウンスが流れた。
一歩踏み出すと、いらっしゃいませ、と良く通る上品な挨拶が投げかけられる。黒い制服に身を包んだスタッフが、私に対して美しい角度でお辞儀をしていた。恐縮しながら、そそくさとエレベーターを降りる。
大理石の床の上で、擦り切れたヒールがかつんと音をたてた。ロビーは多くの客でにぎわっている。妙齢の夫婦、結婚式の招待客、外国人のビジネスマン。ラフな服装をしている人は少なくて、自分のぺらぺらのスカートやブラウスが、なんだか気恥ずかしい。
その間を、素早く、しかし決して騒がしくない速度で行き来する従業員は、最初に挨拶をしてきた人と同じ、揃いの黒い制服だ。クラシックなデザインが、ロビーの重厚な雰囲気に良く似合っている。見上げると、天井は高く、決して華美ではないが、凝ったデザインのシャンデリアがきらきらときらめいていた。
呆然とそれを見上げていると、何を見てるんだと、声をかけられる。聞き慣れた彼の声は、どこか面白がっているように聞こえて、私は突然こんなところに呼び出した彼に文句のひとつでも言ってやろうと思い、振り返る。けれど、その不満が言葉になることはなかった。
彼は、私が今まで見たこともない、グレーのスリーピーススーツに身を包んでいた。いつもゆるりとした、締め付けの無い服装を好む彼だが、今日のスーツはあつらえたようにぴったりで、彼のすらりとした細身の体躯を恐ろしいほど魅力的に見せている。足が長い。腰が細い。きゅっと絞められたエンジ色のネクタイが、フォーマル感をアップさせている。いつもぼさぼさの髪は無造作なオールバックに整えられていて、普段は見えない両の目が、真っ直ぐに私を見つめていた。もとより美しい顔だと思っていたが、いつもの数倍破壊力がある。こめかみから数本落ちる後れ毛が、暴力的なまでの色気を漂わせていて、私は言葉を失って、ぽかんと彼を見つめるしかなかった。
いつものように、ゆるりと、自然体な雰囲気を漂わせていながら、今日の彼は完璧にこの場に馴染んでいて、彼を知る者にしかわからない不自然さを醸し出している。
「どうしたんだ。口が半開きだぞ」
「どどうしたもこうしたも……なんなの、その服。ていうか、なに、こんなところ呼び出して……」
訳がわからず、力なく問い正すも、彼はちっとも気にしていないようだった。いつものように、まあまあと私をなだめ、手に持っていたデパートの紙袋を押し付けてくる。
「お前の分も用意した。着替えてこい」
口をはさむ間も与えられず、エレベーターに押し込まれた。戸惑いながら指定された階で降りると、ホテルのスタッフと思われる女性に声をかけられて、縮み上がってしまう。彼女は挙動不審な私に対しても、花のある笑顔を崩さないまま、こちらへどうぞと、小さな部屋の扉を開けた。
入口でパンプスを脱いで、ふかふかの絨毯の上に足をおろし、ぐるりと室内を見回す。まるで、お姫様の部屋にでも迷い込んだかのようだ。絨毯も壁も、スモーキーなピンク色で統一され、壁紙には白や淡い緑色の花の模様が描かれている。正面の白いドレッサーの前では、整然と並べられたヘアメイク用の道具や、数十種類のアクセサリーが、きらきらときらめいていた。
ぼおっとしている私に、着替えるよう言い置いて、女性は扉を閉めて出て行く。私は夢の中に居るような気持ちのまま、渡された紙袋の中を覗き込んだ。
くるっと畳まれたペールグリーンのものは、おそらくドレスだろう。ご丁寧にパンプスや、アクセサリーまで入っている。私はこの状況を理解するのを諦めて、それらをひとつひとつ取り出して身につけた。
ハイウエストの切り替えの入ったドレスは、丈の長さと、柔らかいシフォン生地のすとんとした美しいシルエットのおかげで、かわいくなり過ぎず、丁度良い上品さだ。レース生地の袖で、肩が隠れるのもありがたい。大振りのゴールドのイヤリングは、普段だったら決して選ばないデザインだが、存在感があって、今日の服装には良く似合っていた。この服とあわせて購入したのだろうか。もしかしたら、セットレンタルなのかもしれない。
扉をあけてスタッフに声をかけた。彼女は、良くお似合いですねと、笑顔を浮かべながら、私を鏡台の前に促して座らせる。
そこからの動作は驚くほど素早かった。
まず、戸惑う暇も無く、無造作にひとつにまとめていた髪をほどかれ、ホットカーラーが目にもとまらぬ速度で巻きつけられていく。すべての髪をぐるぐるにまとめると、目をつむるように言われ、濡れたコットンが顔の上を滑っていった。今朝適当に塗ったBBクリームや、消えかかっていた眉はあっという間に拭きとられ、続いていい匂いのする化粧水や乳液を叩き込まれる。
合間に薄く目を開いて鏡越しに窺うと、彼女は何種類もの下地やファンデーションの中から迷いなく一つを選び、手早く私の顔にのせていた。鮮やかな手つきに感心していると、また目をつむるように注意されてしまう。好奇心を押し殺し、目を閉じてしばらくされるがままになっていると、カーラーがはずされ、ふわっと髪が肩にかかるのを感じた。
今度は目を開けるように言われ、マスカラと、薄くグロスを施される。最終的に鏡を覗くと、別人とまでは行かずとも、随分健康的で、華やかな顔をした自分がいて驚いた。
魔法にかかった気分で、傍らに立つ女性を見上げると、彼女はにっこりと笑った。
「ありがとうございます。あの、料金は……」
「すでにお連れ様から頂戴しております」
半ば予想していた答えに頷き、席を立った。ふかふかの絨毯の上を歩き、きちんと揃えて用意されていたパンプスを履く。服と一緒に用意されていた小さなバッグに、最低限必要なものを詰めると、残りは回収されてしまった。お連れ様は最上階でお待ちですと頭を下げられては、これ以上何かを問うことも出来ない。私はもう一度お礼を述べ、エレベーターに乗り込んだ。
彼は、エレベーターホールのソファに座って待っていた。私が近づくと顔を上げて、ちょっと微笑む。
「よく似合ってる」
あっさりと口にされる褒め言葉にも、戸惑いの方が大きくて、気持ちは浮き立たない。何か、説明がほしい。だけど、何から聞いていいかわからなかったので、とりあえずありがと、とお礼を言う。
彼にエスコートされて、最上階にあるレストランへと足を踏み入れる。品の良いウェイターが扉を開け、いらっしゃいませ、と微笑んだ。高い天井、落ち着いたジャズの音色と、薄暗い照明。席はおおよそ埋まっていて、心なしか、客層も自分とは違うステージの人たちに見える。
なんの確認も無く窓際の席に案内され、座ろうとすると、椅子を引かれた。そわそわと視線をさまよわせると、目に飛び込んできたのは、都会の美しい夜景。眼下に広がる光の海に圧倒され、ぽかんと口が開いてしまう。戸惑いつつ顔を戻すと、真っ白なテーブルクロスの上で、ゆらゆら揺れる火の灯ったキャンドルが、ぴかぴかの皿と銀の食器を照らしていた。短く切ったバラの花を生けた丸い花瓶にも、光が反射して揺れる。
これは、今までに経験の無い高級感だ。緊張で息が詰まりそうな私をよそに、彼は慣れた様子でシャンパンなど注文している。
「あの、そろそろ説明してくれないかな」
しびれを切らして、注文を終えた彼にかけた声は、自分でも情けないくらいよれよれだった。
「説明?」
「とぼけないでよ……」
訳も分からず呼び出され、着替えさせられ、メイクまで直されて、揚句こんなにきらきらしたところに放り込まれて。説明のひとつも無いとくれば、多少責めるような声音になってしまうのも仕方ないことだと思う。
「なんの理由も無くこんなところに来ないでしょ。それにこの服、いつから用意してたの? 一体、なんのつもり?」
ここ最近の不安が爆発したみたいに、問い詰める言葉がどんどん出てくる。彼のことは、よくわからない。よくわからなくてもいいと思っていた。だけど、今はそれが怖いし、無性に腹立たしい。
「まあ、たまにはこういうデートもいいと思わないか」
「は?」
「お前が珍しく着飾っているところを見るのも気分が良い」
そう言って、彼はゆるく微笑んだ。私は、毒気を抜かれて、肩を落とす。私がこんなに真剣に話をしているのに、何を言っているんだこいつは。タイミングが良いのか悪いのか、そこで良く冷えたシャンパンを持ったウェイターがやって来て、私はそれ以上何か言うタイミングを逃した。黙り込んだ私に、彼はそれでもいつもと変わらない調子で言う。
「せっかく普段来ないようなところに来たんだ。こういう雰囲気を楽しむべきじゃないか」
そう言って、楽しげにグラスを掲げた彼は、ゆらゆら揺れるキャンドルの灯りに照らされて、なんだかとても綺麗だった。
私は諦めて、グラスを手にする。何に対する乾杯なのかもわからないまま、かちんと、控えめにグラスがぶつかった。それ以上、彼の顔を見ていたくなくて、私はしゅわゆわ立ち上る泡に目を落とした。
料理はどれも、経験したことが無いくらい美味しかった。宝石のようにきらめく前菜、なめらかな喉越しのスープ、絶妙な焼き加減の肉や魚は、かかっているソースまでなめとりたいくらいに美味しい。残念なのは、教養の無い私にはなんだかわからない食材がたくさん合ったことと、さっき彼を責めてしまった手前、なんだかわからない食材についても彼に質問できなかったこと。
彼はいつもの調子で料理の感想やらなにやらを述べているけれど、私は適当に相槌を返すくらしか出来ず、黙々と料理を口に運ぶ。食べているうちに、段々と気持ちも落ち着いてきたけれど、さすがに何もなかったかのようにやりとりをする気にはなれず、あれこれと思考をめぐらしていた。
とりあえず、別れ話ではなさそうだ。さすがにこれから別れる女と、めったに食べられないような高級フルコースを食べようとは思わないだろう。お互いの誕生日ではもちろんないし、付き合い始めた日はとっくに過ぎた(向こうは覚えていないので私が毎年ケーキを買ってお祝いしている)。何か後ろめたいことがあって、その埋め合わせとか? 失礼な話だが、何においても反省や、後悔をしている彼がまったく想像できず、その可能性も薄い気がした。
じゃあなんだ。この、完璧に特別な空間で、完璧に特別な格好で、完璧に特別な料理を食べている意味。恋人同士の二人にとって、特別でなくてはいけない何か。
ふと、ある可能性が頭に浮かんで、すぐに馬鹿らしくて打ち消した。あまりにお決まりすぎて、そんな、普通のこと、彼がやるとは思えなくて。
悶々としている間に、デザートの順番が来る。ワゴンに並べて運ばれてきたデザートは、十数種類。かわいらしいショートケーキに、つやつやのフルーツタルト。カスタードのシュークリームや、カラフルなゼリーもある。お好きなものをお選びくださいと言われ、私が迷いに迷いながら数種類を選ぶと、彼はたったの二種類を、迷うことなく選択した。
ワゴンは一旦下げられ、しばらくすると、選んだケーキを小さくカットして並べ、バニラアイスが添えられたプレートが運ばれてきた。皿の余白には果物のソースで模様が描かれ、ケーキの華やかさをさらに際立たせている。
あまりに美しい一皿に見とれ、思わずため息が漏れてしまった。ふと見ると、彼の前には私より一回り小さい皿が置かれていて、私と同じように二種類のケーキが綺麗に盛りつけられている。なんだか私だけ欲張ってしまったみたいで、気恥ずかしい。
「ねえ、ほんとにそれだけでよかったの?」
皿から顔を上げて尋ねた瞬間に、先ほどまで自分が機嫌を損ねていたことを思い出して、しまった、と思ったが、もう遅い。食事の間中、そらしていた目線が急にかち合ってしまい、まるで、彼はずっと自分を見つめいていたのではないかと、そんな錯覚に陥ってしまう。頬が熱い。いつもはあまり見えていない両の目が、優しく細められて、身体の芯が溶けてしまいそうだ。
ああ、悔しい。例え今日のことを、彼が何も説明してくれなくても、私はきっと彼のことが変わらず好きで。何も聞かずに家に帰って、また明日から普通に生活してしまうのだろう。そんなどうしようもない思いが、胸を過った。
「あ、あのさあ」
「なんだ?」
「ほんとに、特に理由も無く、こんなところに誘ったの?」
彼だったら、そんなこともあるかもしれない。彼のことだから。これではぐらかされたら諦めようと、ぽつりと零した問いかけに、彼は考え込むように、黙り込んだ。黙り込んだことに、こちらが動揺してしまう。彼は何かを探すように、斜め下を向いた。その横顔はいつになく固いような気がして、どうしてだか目が離せない。
きっと、彼を見つめていたのは、時間にすれば数秒ほど。だけどその瞬間が、私にとってはなぜか印象深くて、永遠みたいに脳に焼きつく。
彼がもう一度目を上げた時、テーブルの上に、何かが置かれた。
じっと、穴が開くほど彼を見つめていたことに気付いて、慌てて手元に視線を移す。
ほっそりとして、指の長い、彼の白い手がどけられると、机の上には手のひらで覆えるほどの、小さな箱が残されていた。
「……え?」
「開けてみろ」
この大きさの、この形の箱に入ってるものなんて、ひとつしか思い浮かばなくて、でもそんなはずないのにと、頭の中がパニックになる。そっと、その箱を持ち上げるが、手が震えて、中々開けられない。箱の表面の、ベルベットのなめらかな手触りが、やけに鮮明に伝わってくる。
「なにやってるんだ」
彼が、笑って、私の手から箱を取る。あ……と、驚くほど残念そうな声が出てしまって、恥ずかしい。取り上げられたくない。手放したくない。そんな心が、見透かされてしまう気がして。
彼はなんでもないかのように箱を開いて、再度私に中が見えるように置いた。そこには、私がそんなはずないと打ち消したとおり、小さな石のついたシルバーのリングが、きらりと光って鎮座していた。
震える手を、胸の前で、ぎゅっと握った。祈るみたいに。感謝なのか、高揚なのか、感動なのか、わからない。心の底から、ぶわっと感情があふれ出して、何ひとつ、言葉にならない。
「結婚しよう」
そう言われて、顔を上げた。彼は、優しく笑っている。私は、ゆっくりと、その言葉を飲み込んで、小さく、はいと答えた。色んな気持ちがこみ上げて、目の前がちょっと滲む。
彼がリングを手に取って、私にもう片方の手のひらを差し出した。引き寄せられるように、そろそろと、固まっていた両手をほどき、左手を彼の差しだした手の上にのせる。
私の薬指にリングを滑らせた彼の手が、少しだけ震えていることに気が付いた。
私はなんだかそれが嬉しくて、今度こそ、ぼろぼろと泣いてしまったのだ。
ひとしきり泣いて、気持ちが落ち着いたところで彼を問いただしてみたところ、案の定このプロポーズは他人からの入れ知恵だった。
らしくない計画だと思ったと告げると、本当になとあっさりと認める彼に、呆れて苦笑いが漏れる。文句を言うのも馬鹿らしくなって、ケーキを口に運ぶ。悩みぬいて選んだケーキはどれもおいしくて、今の浮かれた気分と相まって、顔が思わずほころんでしまう。
「お前に結婚しようと言われた後、何から準備するべきなのかと思って、とりあえず既婚者の友人に聞いてみたんだ。そうしたら」
「え、ちょ、ちょっと待って」
思わず、彼の話を遮る。浮かれた気分でも聞き流すことの出来ない彼の台詞に、思わず眉間にしわが寄る。
「結婚……する気だったの?」
「何言ってるんだ、たった今結婚しようと言っただろう」
「そーじゃなくて! 私が、結婚しようって言った時! 考えたことも無いって言うから、てっきり結婚する気なんて無いのかなって……」
「それまで考えたことも無かったと言ったんだ、結婚する気が無いなんて一言も言ってない」
当たり前だろう、馬鹿なのか? とでも言いたげなきょとん顔で彼が言うので、私は天を仰いで深呼吸することで怒りと困惑と羞恥をやり過ごした。なんという勘違い。馬鹿馬鹿しくて言葉が出てこない。それ以上そのことを追求する気になれず、話の先を促すことにする。
「……それで、そのご友人はなんて?」
「ああ、やたらと細かく経緯を説明させられて、何故だかわからないんだが、とにかくプロポーズをやり直せと言われた」
あの時のあいつの顔が、思い出す度に面白くて、と言いながら、笑いをこらえきれないのか、口元を抑えて肩を震わせる彼は、私が心底冷めた目をしていることにも気が付いていないだろう。きっと、彼の友人は良い人で、彼の態度がまずかったことも、私が気落ちしているであろうことも、瞬時に見抜いたに違いない。心の中で、まだ見ぬ友人にお礼を告げる。
「それじゃあ、最近頻繁に連絡を取り合ってたのは、そのお友達?」
「そうだ。絶対に内緒にしろとうるさくて。とにかくあいつは声がでかいから、電話の時は特に気を使った。休日に呼び出されて、ホテルの下見だの、洋服の調達だの、指輪作りだの……まあ、全部めんどうを見てくれたんだ」
「……良い人なんだね」
彼が、あんまりにも嬉しそうに笑うから、なんだか毒気を抜かれてしまう。
彼は、自分が興味の無いことにはとことん無頓着な人だから、このプロポーズにこぎつけるのは、簡単なことでは無かったはずだ。彼に付き合い、助言し、恐らく時には叱り飛ばしながら、彼ひとりでは絶対に思いつかないような、女の子の憧れる、ものすごくベタな「プロポーズ」というものを演出してくれた友人は、きっと彼とはタイプの違う人なのだと思う。
大学でもどこか孤高の存在であった彼自身が、そんな友人をうとましがらず、受け入れているのが、ちょっと意外な気がした。
「ああ、良い奴だし、面白い。だから、あいつが言うなら、やってみてもいいかなと思った」
どうだった、プロポーズは? と問う彼。プロポーズを終えた直後に聞くことでも無いだろうと思いながら、彼らしい素直な物言いに笑ってしまう。つられて私も、素直に言葉が出た。
「最高。すっごく嬉しい」
「そうか、それなら苦労した甲斐があった」
彼の表情は、少しほっとしているようにも見えた。やっと、高級なレストランにも違和感なく馴染んでいた雰囲気がゆるんで、いつも通りの彼が顔を覗かせた気がした。
なんでもないように振る舞いながら、彼が彼なりに、今日を頑張っていたことが伝わってくる。なんで別れ話だなんて思ったのだろう。なんで彼の愛情を、信じきれなかったんだろう。こんなに私のために、一生懸命になってくれていたのに。
私は心が弱くって、すぐに不安に負けそうになるから、きっとこの先の長い人生の中で、何度もこんな失敗をするだろう。
勝手に落ち込んだり、自信を失くしたり。
だけど、きっとその度に思い出す。彼が私を思って、らしくないプロポーズをしてくれたこと。結婚しようと言う前の、真剣な横顔。指輪をはめる手が、少し震えていたこと。
そうしたらまた、彼と向き合うことができる。そんなことを繰り返しながらの不器用な歩みでも、彼と一緒に、歩いて行きたいと思う。
「スーツは息が詰まるな。早く帰って、茶でも飲みたい」
そう零す彼に、私は頷いた。いとおしい日常へ、二人で帰れることが、心底嬉しかった。
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