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結婚しようか

「……私、てっきり別れようとしてるのかと思ってた」
 家への帰り道を歩いていると、ふいに彼女がそんなことを言うから、驚いて、足を止めそうになった。彼女は特にこちらの様子に気付くこともなく、前を見て歩いている。せっかくドレスをプレゼントしたのに、汚すのが怖いと、帰る前にわざわざ普段の仕事着に着替えた彼女だが、珍しく下した髪は未だにふんわりとカールしていて、先ほどまでの名残を感じさせた。いつもより大人びて見える彼女の横顔を見ながら、なんとか言葉を絞り出す。
「どうしてそうなるんだ」
「えー、なんかいつもと様子が違うから……結婚が嫌で、別れるために引越し先探してるのかな、とか」
「お前の考えていることは、時々、さっぱり理解できないな」
 思わず、断言するような、強い口調になってしまう。そんなこと、思うはずがないのに、どうしてそんな発想にいたるのか。彼女の思考回路は、自分とはあまりに違っていて、いつも驚かされてしまう。
 基本的に、細かいことは気にしない性格だ。わからないことは、わからないままでも良いと思う。でも、彼女のことだけは、考えずにはいられない。どうしてそう思うのか、どうしたらわかってもらえるのか。理解したいし、理解してほしい。彼女のことで、どうでもいいことなんて、何一つ無い。
 彼女は、驚いたように俺を見返し、不満げに口を尖らせる。
「そもそも、そっちがちゃんと返事してくれないのがいけないんじゃない?」
「返事?」
「プロポーズの返事! 私が先に結婚しようって言ったのに」
 そう、ぶすくれた表情で言う彼女の言葉に、あの日の記憶を手繰り寄せる。言われてみれば確かに、と思わなくもないが、それをさも悪いことのように責められて、面喰らってしまう。
 だって、彼女にプロポーズをされて、イエス以外の返事があるだろうか。最早それは当然のことで、あの場できちんと答えなかったことが、それほど問題だとは思えなかった。
 なんと返すのが正解なのかわからず、ちらりと彼女の様子を窺う。不満そうにしながらも、彼女は機嫌を損ねてはいないようだった。むしろ、すこぶる良いと見える。脱いだドレスを入れた紙袋は、ぶら下げた腕の振りのせいで大きく揺れているし、隙あらば左手を掲げて指輪を眺めている。こちらが何も答えないことを、忘れているとでも受け取ったのか、まあお互い勘違いだったということで、と適当なことを言って話を切り上げた。
 彼女の掲げた手を横から眺める。この日のためにあれこれと世話を焼いてくれた友人が、これくらいが妥当な額だと提示した予算を見た時は、この指輪にどれほどの意味があるのだろうと思ったものだが、彼女の嬉しそうな様子を見ていたら、今日この瞬間のために準備してきたあれこれは、決して無駄では無かったのだなと納得できた。
 友人に言われるがまま連れまわされただけで、自分自身は特に張り切った気持ちで今日を迎えたわけではない。だけど、いざ指輪を渡すという段階になってみて、柄にもなく緊張している自分に気が付いて、驚いた。彼女の返事は最初からわかっていたのに、その、小さくて愛らしい手に指輪をはめる間も、手の震えを止めることができなかった。
 そこまで考えて、彼女との先ほどのやりとりに思い当る。
 大切な人と気持ちを確かめあう時、どんなに信頼していても、大丈夫だとわかっていても、不安になってしまうものなのだろうか。だとすれば彼女も、自分が返事を怠ったせいで、こんな頼りない、心細い思いをしていたのだろうか。彼女には悪いが、反省の気持ちよりもずっと、彼女と自分が同じようなことを感じていたかもしれないという嬉しさの方が強くて、胸の奥が熱くなる。それに気付けただけでも、今日のこの計画を、実行してよかったと心底思った。
 たぶん、この儀式をすっ飛ばしたとしても、最終的に、彼女は笑ってくれただろう。いつもの、ちょっと呆れたような、優しい顔で。
 でも、この儀式が無ければ、形の無い彼女の不安や寂しさを、知ることは無かった。きっと、これまでも、いくつも見落としてきたのだろうと思う。そういう物を、全部、いつか拾えたらいい。この先の長い人生の中で、きっとその機会はある。そういう長い時間を、彼女は自分にくれたのだ。
「忘れてない」
 そういうと、なんのことだかわからなかったのか、彼女は首を傾げてこちらを見上げる。一台、車が、そんな彼女の姿を一瞬だけ照らしだして、通り過ぎて行く。
「あの日のことは、全部覚えている。ちゃんと答えなくて、悪かったな」
 彼女のプロポーズに返事が出来なかったのは、漠然と、幸せというものが、長くは続かないと思っていたからだと思う。
幼い頃に、父を亡くしたからだろうか。女手ひとつで自分を育ててくれた母が、ある日姿を消したからだろうか。理由なんて、よくわからないけれど、もうずっと前から、心の何処かでそう思っていた。
 彼女とは、気まぐれで付き合い始めたのに、これまでになく長く続いて、いつの間にか、一緒にいるのが当たり前になっていって。幸せだなと感じる瞬間が増える度に、これもいつか終わるのだなと、感じる瞬間も増えていった。
だとしても、なるべく長く、この幸せ引き延ばせたらいい。
何も変わらず、今のまま、欠けることなく。
 そう思っていたからこそ、結婚なんて、思いつきもしなかったのだ。
 彼女の、結婚しようかという、何気なく零された言葉ひとつで、世界が急に、明るくなったような気がした。胸の奥に、甘い感覚がはじけて、言葉に詰まった。
こんな幸せは、いつか終わってしまうのに。永遠に、一緒にいようと、この先を、家族としてすごそうと、彼女はそう言っているのだ。驚いた。彼女が簡単に描いて見せた未来は、自分ひとりでは、決して見えないものだったから。
 だから、感動で、喉が震えて、正直、返事どころでは無かったのだ。
 彼女は、ふいに足を止めた。つられるように、立ち止まり、向かい合う形になる。彼女はじっと、こちらを見つめ、数秒の沈黙が、二人の間に流れた。
「じゃあ、聞きたい。プロポーズの答え」 
 口を開いた彼女の突拍子もない提案に、軽く目を見開く。そう来るのか、と思わず笑ってしまった。彼女は至って真面目なようで、期待に満ちた目でこちらを見据え、二、三歩距離を詰めてくる。
「俺からもプロポーズしたんだ、それでいいだろう」
「私はちゃんと返事したでしょう。だから私も返事してもらう権利あると思う」
 よくわからない理論を持ち出して言い募る彼女に、少し焦らしたいような気持になる。いつもこんな風に一生懸命になってくれる彼女は、昔からとびきり面白くて、かわいいから。
 はぐらかすように目線をそらし、わざとらしく手を顎に沿えて、宙を見上げる。彼女は何度か、さあ! 早く! と変なかけ声で説得を試みていたが、段々と、諦めからか、肩を落とし始めた。そのあからさまな態度に、また笑いそうになるのを、必死でこらえる。
 とうとう、こちらの態度にじれたように、彼女は不満げに前に向き直って、わざとらしく大声で言った。
「ねえ、結婚しようか」
「ああ、そうだな」
 今度は、自然と返事が出来た。彼女は、ばっと、こちらを振り返る。何度か、見開いた目を瞬かせて、それから、自分で要求しておいて、恥ずかしくなったのか、照れたように笑った。
 我慢できずに、ふっと、笑いが漏れる。彼女の機嫌を損ねるかもしれないと思い、横を向いて、口を押えるが、どうにもこらえきれない。肩を震わせる俺の横で、彼女はまだ恥ずかしいのか、嬉しいなあ、幸せにするね! と、はしゃいでふざけている。
 我慢できなくて、そんな彼女を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。息を呑む気配が、伝わってくる。腕の中が温かくて、嬉しくて、愛おしくて、息が詰まって、ばらばらになってしまいそうで、目の前の存在を確認するみたいに、頬を寄せた。
「いいや、その必要は無いさ」
 幸せになんてしてくれなくていい。そのために何かしようだなんて、思わなくていい。
 彼女が自分のそばに居てくれること。それが永遠であると、誓ってくれること。
 たとえこの先、その約束が果たされなくても。
 今この瞬間に、彼女が未来を見せてくれたことが、自分にとっては、もう十分すぎるくらいに、幸せなのだから。


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