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結婚しようか


「結婚しようか」
 ぽろっと、私の口から零れ落ちた一言に、彼は動きを止めた。
 昼下がりの室内は、午後の優しい陽射しに照らされている。
 決して広くはないが、南向きの大きな窓と、明るい木目のフローリングが気に入って選んだ、賃貸マンションのリビング。彼は、前の家から持ってきたお気に入りのソファの上で、白猫のユリと戯れていた。柔らかい毛並を撫でるその手は、少しうらやましくなってしまうくらい優しい。きっとその眼差しも、うっとりするくらい優しいのだろうけれど、彼の少し伸びた髪のせいで、私からは見えない。うつむきがちな横顔のラインと、少し微笑んだ口元がきれいで、ああ、やっぱり、この人のことがとても好きだなと思う。
 二人でごはんを食べるために買ったダイニングテーブルに頬杖をついて、一人と一匹のことを眺めていたら、ふいに、胸がいっぱいになって、この、温かい空気が、いつまでも続いてほしいなんて、思ってしまって。
無意識のうちに、「結婚」なんて言葉になって、零れてしまったみたいだった。
 彼の、ユリを撫でる手は、宙に浮いたまま。なんの返事も返ってこない。
 その沈黙の間に、だんだんと、自分が言ったことの意味を理解して、じわじわと頬に熱が上がる。今更焦っても、言葉を取り戻すことはできなくて、私も身動きが取れない。頭の中だけは忙しく、どう取り繕うか、必死で考えている。
 反応の無い彼に飽きたのか、ユリは、なあ、と一声鳴き、するりと床に降りて、どこかへ行ってしまう。静かな部屋の中に、猫の足音だけが響く。
「結婚、か」
 ふいに、ゆっくりと、息を吐くように彼は言って、ここでは無いどこかを見るみたいに、斜め上を見上げる。今、彼がどんな顔をしているのか、やっぱり私には見えない。想像することも、出来なかった。
「……考えたこともなかったな」
 私は、あ、そう。とだけ言って、何でもないように立ち上がる。まるで、コーヒーを継ぎ足しに行くみたいに、自然に、目の前にあったマグカップを持ち上げて、キッチンに入る。
 ざあっと、ほとんど手を付けていないコーヒーをシンクに流した。真っ黒なコーヒーは、あっという間に排水溝に吸い込まれて消えていく。
 大丈夫。自分に言い聞かせるように、心の中で唱える。彼の反応は、予想の範囲内だ。

 一番最初から、一方的に始まった恋だった。
 私と彼は、大学の文芸サークルで出会った。私が入学した時、彼は二つ年上の三年生。見目麗しく、物腰柔らかな彼はとても魅力的で、私はあっという間に夢中になってしまった。
 もちろん、穏やかで、どこかミステリアスな雰囲気を漂わせる彼に憧れているのは私だけではなく、今思えば、サークルに加入していた女子のほとんどは、彼目当てだったのではないかと思う。彼は美しいだけではなく、現役大学生ながら小さな文学新人賞を受賞して、すでに作家デビューを果たしており、学内でもちょっとした有名人だった。
 臆病で、平凡な私に、周りの女子たちを出し抜くほどの度胸があるはずもなく、密かな恋心を燻らせつつ出来ることと言えば、ただただ、彼の書く文章を一生懸命読むことくらいだった。
 出版されている本はもちろん、サークル誌に載せたもの、授業で書いた論文や、課題作品など、読めるものは全て読んだ。流行りのエンタメ小説ばかり読んでいた私にとって、彼の書く文章は少し難解で、正直なところ、何が言いたいのかさっぱりわからないことも多かったけれど。
 彼を知る糸口は、これしかなかった。なんでもいいから、彼のことが知りたかった。熱に浮かされたように文字を追っては、彼の性格や、嗜好や、思想や、生い立ちや、私生活が、少しでもこの中から掬い取れるのではないかと、必死だった。
 頑張った割に、そこからわかった事実なんて、たぶんいくらも無い。だけど私は、彼の文章を通して、彼の見る世界をのぞき見ているような気がして、嬉しかった。彼が世界に向けるまなざしは、いつも公平で、贔屓なく、ありとあらゆるものに対して同じように優しいのに、時々、世界との間に一線を引いているような、越えられない溝があるような、そんなわずかなさみしさを伴っていた。
 私には、なんだかそれが、彼の心の根っこのように思えて、読むたびに狂おしく、叫びだしたいほど愛おしかった。

 恋と呼ぶにはいささか気味の悪い情熱は、二年経っても冷めることは無くて、彼の卒業の日に、思い切って告白をした。はっきり振ってもらって終わりにしようという、記念受験のような、迷惑極まりない告白だった。
 なのに、なぜか彼の返事は「ああ、そうか。じゃあ付き合おうか」という予想外のもので。
 半信半疑のまま、私たちは恋人同士となった。
 夢みたいで、夢から覚めないように、私は必死だった。彼と会う日は前日から念入りに準備をして、とびきりおしゃれをして行ったし、専業作家となった彼の生活リズムに合わせてデートを設定し、急な打ち合わせなどで予定をキャンセルされても、文句ひとつ言わなかった。
 今思うと、無理をしていたと思う。そんな努力を、就職してからも続けられるわけもなく、会う頻度は目に見えて減った。私はそれがたまらなく悲しかったのに、彼の態度は全然変わらなくて、私のことなんてなんとも思ってないのだと、現実を突きつけられるようで、辛かった。
いつだってそうだ。彼はちっとも変わらない。デートして、手を繋いで、キスをして、それなりに恋人っぽいことをしてみたって、彼の態度も、気持ちも、私との距離感も、何一つ変わってないようだった。私たちは恋人同士のはずなのに、なんだかずっと、片思いをしているみたいだなと、虚しい気持ちを抑えきれずにいた。
 
 一緒に暮らし始めたのは、そんな風に、頻繁に会えなくなっていた頃。
 きっかけは、ユリを拾ったことだった。
 私が慣れない社会人生活に苦しみ、心身ともに疲れ切っていた時、ユリは当時住んでいたアパートの階段下に捨てられていた。
 残業終わりの、遅い時間。みすぼらしく汚れて、段ボール箱の中で震えている子猫を見ていたら、何故だか涙があふれてきて、思わず彼に電話をしていた。
「ねこが……」
「猫?」
「……捨てられてる……家の前……どうしよう、どうしたらいい?」
 ぐすぐすと泣く私に、待ってろと言い、彼はあっさり電話を切った。私は、自分まで見捨てられたような気持ちになって、そこでしゃがみこんだまま、動けずにいた。泣いている場合じゃない。なんとかしてあげないと。そう思い始めた頃、彼が現れた。当たり前のように、ふらりと。
 当時私の家と彼の家はご近所と言うわけでは無くて、歩いて来られるような距離じゃなかったし、電車も一度乗り換えないといけないような、微妙に離れた位置にあった。
 終電もそろそろ無くなる時間に、こんなスピードで現れるなんて、タクシーを飛ばして来たに違いないのだけど、その時の私にはそんな考えを持つ余裕も無くて、突然現れた恋人を見ながら、魔法みたいと、馬鹿なことをぼんやりと思っていた。
「かわいらしいな。まだ子猫じゃないか」
 彼はそっと猫を抱き上げて、小さな顔の汚れを指でぬぐう。見てくれ、こいつ白猫だ、と笑う彼を、呆然と眺める。
「……なんで?」
「なんで?」
「なんで来たの? もう深夜だよ」
「そっちが電話してきたんだろう」
 彼は、まあどうでもいいじゃないかと言わんばかりに、猫に夢中だ。猫もみゃあみゃあ鳴きながらも、おとなしくその手に納まっている。
 そんなに、猫が好きなんだ。もうそれなりに長いこと付き合ってるのに、知らなかったなと思う。
「飼わないのか?」
「うち、ペット禁止だし」
 たぶん、彼の家もそうだったのだろう。
少し試案するように黙った彼は、なんでもないことのように言った。
「引っ越すか」
 まるで、アイスでも買って帰るか、というような、そんな軽い響きだった。私はあっけにとられて、何も言えずにいた。
「明日、不動産屋に行ってみる。お前の職場沿線で、よさそうな場所があれば教えてくれないか」
「えっとそれは……いっしょに住むってことでいいのかな」
 彼はきょとん、とした顔でこちらを見る。当たり前だろう、とでも言いたげなその表情は、びっくりするほどかわいくて、憎たらしかった。聞いてない。そんな話、今まで一度もしたことないじゃないか。言いたいことはたくさんあったが、何を言ったって無意味な気がした。彼は大抵のことは意に介さない。細かいことは気にしない男なのだ。
 そうして、私と彼とユリとの生活は、なんとなく始まり、なんとなく、もう丸二年が経とうとしている。
 
 彼と一緒に暮らすのは、想像以上に心地よかった。
 まず始めに、見栄を張って家事を一手に担おうとする私に、彼は「俺は家政婦を雇ったわけじゃない」とあっさり言って、家のことは出来る方がやるという、自然な役割分担を作ってしまった。
 世捨て人のような雰囲気を醸し出す彼だが、意外なことに、家のことならなんでも自分で出来てしまうタイプだった。どうでもいいが口癖の割に、仕事ぶりは丁寧で、正直私がなにかやってあげる隙もないくらいだ。
それでも、一緒に暮らす中で、助け合える場面は在った。私の仕事が忙しい時期は、彼がお風呂を沸かして待っていてくれるし、彼の原稿の締切りが近い時は、洗濯も掃除も私がこなした。
 たまに二人で台所に立つのも面白くて、私は一人で暮らしている時より、ずっと料理が好きになったと思う。二人で選んだダイニングテーブルで、二人で作ったご飯を食べるのは楽しかった。
 
 同棲を始める前の私は、彼の生活のペースに自分が合わせていかなければいけないと思い込んでいたけれど、寝たり起きたり、ごはんを作って食べたり、一緒に買い出しをしたりといった「生活」を共にすることで、そんな思い込みも、少しずつ薄らいでいったように思う。
 彼には彼のペースがあるように、私には私のペースがある。それは、恋人だろうと、同棲相手であろうと、完璧にひとつになんて出来っこない。そういう二人の歩調がたまに重なりあうくらいがちょうどいいんだな、なんて思えるようになっていった。
 彼だって時折、私のペースに合わせてくれる時があるんだということは、暮らし始めてから気が付いたけど、私が気付かなかっただけで、ずっと前からそうだったのかもしれない。土日が休みの私に合わせて予定を開けてくれたり、飲み会で遅くなる時に、駅に迎えに来てくれたり。ちょっとしたことかもしれないけれど、そんな風に二人の歩調が重なったとき、私はとても嬉しくなる。
 私がそれに気づいてお礼を言うと、したいようにしているだけだと彼は言う。彼の、何かをしてやるとか、そういう押し付けがましさを一切感じさせないところを、私はとても尊敬していたし、私もそんな風に、自然と彼を喜ばすことが出来たらなと思っていた。

 さらに驚いたのは、彼が私のダメな部分を知って、ちょっと嬉しそうなことだった。外で会っていた時に作り上げた私の仮面は、一緒に暮らし始めて、みるみるうちに剥がれ落ちていった。
 取り繕うのは無理だと、腹をくくって、諦めた部分もある。休日は部屋着にすっぴんで過ごしたいし、部屋を片付けるのは苦手。仕事で嫌なことが有った日は、呪詛の言葉を吐き、ソファーから起き上がれなかったりもする。
 そういう私を見て、彼は、仕方ないなあという感じで、ちょっと笑う。仕事の愚痴などこぼせば、それはお前が悪いなんて平気で言うくせに、ソファーでぶすくれている私の隣にすわって、そっと抱き寄せて、頭を撫でてきたりする。
 自由気ままな性格なのに、甘えられるほうが好きなんて、へんなの。そう思いながらも、彼の腕の中はものすごく居心地が良くて、じっと目を閉じて彼の体温に意識を集中していると、怒りも悲しみも、波が引くようにすうっと無くなっていくのだから、不思議だった。

 彼と過ごす日常を積み重ねるうちに、彼の中にも、私に対する愛情のようなものは、どうやら存在しているらしいと気が付いた。ずっと一方的な恋だと、思って来たけれど。
 それが、どれくらいの強さなのかとか、いつからなのかなんてわからない。だけど、彼のやさしいまなざしの中に、私を大事に思う気持ちは確かに在って、それだけで、とても幸せだなあと思える。
 そういう、心地よい生活の中で、漠然と「結婚」というものを思い描いてしまうのは、そんなに馬鹿げたことだっただろうか。
 もちろん、まだ彼に伝えるつもりなんて、無かった。だけど、彼の中にも少なからず、今のこの生活を愛しく思う気持ちは、芽生えているだろうと思っていた。いつの間にか、勝手に、そう思い込んでいたのだ。

 思い返しても仕方のないことを、頭の中で反芻している自分に気付いて、はっと我に帰る。ディスプレイに表示されるのは、先ほどからちっとも進んでいない、作成中の書類。チカチカと点滅するカーソルがやけに目につく。
 急に、周りの音が良く聞こえるようになった。ざわざわと騒がしい、午前中のオフィス。電話が鳴っていることに気付いて、慌てて取る。なんとか平静を保って同僚宛の問い合わせを繋ぎ、受話器を置くと、ため息が漏れた。
 集中力に欠けた自分を、無視することは出来なかった。立ち上がり、気分を変えるために給湯室へと向かう。備え付けのコーヒーメーカーから、職場用のマグカップになみなみとコーヒーを注ぐ。いい香りがして、少し心が落ち着いた。
 冷静になった頭で考える。
 彼の態度がいつもと変わらないことくらいは、予想出来ていた。
 思わず出た台詞とはいえ、私の正直な気持ちであったところのプロポーズを、考えたこともなかった、の一言で保留にした彼は、それきりその出来事を忘れてしまったみたいに見えた。一種の戯れだと、何気ない冗談だと、思ったのかもしれない。
 それならそれで良い。傷ついていないと言えば嘘になるけれど、彼が望んでいない結婚を、私が焦っているように思われ、強要するような形になるのは嫌だった。この小さな胸の傷も、彼と一緒にいればいつかは癒えていくだろう。微かなわだかまりと少しの寂しさに蓋をして、私も彼にならって、いつも通り過ごせばいいだけだと、思っていた。
 なのに、最近の彼は「いつも通り」では無い。
 勤め人では無い彼は、主に取材や出版社での打ち合わせなど、不規則なスケジュールで家を空けることが多いのだけれど、一緒に住み始めてからは、カレンダー通りのお休みの私に合わせて、土日のどちらかは必ず家にいることがほとんどだった。
 なのに、ここ最近は、土曜日も日曜日も一日中家を空けている。行先を聞いてみても、友人と出かけるだとかなんとか、のらりくらりとかわされて、詳しいことは何も教えてくれない。
 家に居る時だって、仕事をしている時以外は、私の他愛無い話に耳を傾けたり、ユリと遊んだり、のんびりとお茶を飲んだりしていることが多いのに、最近は頻繁に誰かから連絡が入っているようで、ふと気付けばスマホを見ている。電話をするときはわざわざマンションの廊下に出て話をしているし、なんの電話なのか聞いてみても、友人からとしか答えてくれない。
 彼の言動は、どれも確かに違和感を抱かせるものだったけれど、わざわざおかしいと追求するほどのものでもなくて、私は結局何も出来ずに、もやもやとした思いを抱えていた。喉に小さな骨が刺さったみたいに、不安で心がちくちく痛む。自分でも、気にしすぎだと、馬鹿みたいだと思いながらも、彼の取る行動の全てが、別れのサインに見えて仕方がない。
 私が、あんなことを言ったから。自由を愛する彼は、結婚という二文字が鎖のように思えて、私に愛想を尽かしたのかもしれない。私から、逃げだす準備を、しているのかもしれない。
 長い時間をかけて、やっと手に入れたはずの自信は、もうすっかりしぼんでいた。まるで付き合い出した頃のように、彼が離れていくのではないかという漠然とした不安が、ふとした瞬間に胸にこみ上げて、息が詰まる。
 だけど、もし仮に、彼が私と別れたがっているとしても、きっと私は、彼にしがみつくことなんて出来ないんだろう。
 思えば、今までの状況が、幸せすぎたんだ。彼はとても自由で、気ままで、誰かに束縛されたり、何かを強要されたり、絶対にしない、しなやかで強い人だ。私は、そういう彼を好きになった。だから、彼がどこか別の場所へ飛び立ってしまうというのなら、私にはそれを受け入れて、見送ることしか出来ないのだ。

「今週の金曜日、食事に行かないか」
 彼の発言に、何が起こったのかわからず、私は口に運びかけていた豚肉と長いもの炒め物をぽろりと皿の上に落とした。
 彼はそんな私の様子に気付いているのかいないのか、いつも通り静かな表情で、長ネギと油あげの味噌汁をすすっている。
「……なんで?」
「一緒に食事に行くのに理由がいるのか」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、めずらしいからびっくりして……」
「そうだな。確かに、あまり今までは、無かったかもしれないな」
 無かったかもしれない、どころの騒ぎではない。
 私の記憶が正しければ、私が彼を食事に誘ったことは何度もあるが、彼が私を食事に誘ったことなど一度も無い。いや、一度だけ、急に呼び出されて車に乗せられて隣の県までラーメンを食べに行ったことがあるが、それ以外は本当に、一度も無い。
 そもそも彼は、食事にしてもお酒にしても、家で楽しむ方が好きなのだ。私も彼に出会ってから、どっしりと重い土鍋で好きな具材ばかりの鍋をつついたり、ちょっといいチーズを買って、家でワインを飲んだりという楽しさを覚えた。
 だからと言って、私が誘えば文句を言うわけでも無くついてくるので、そのことに特別不満を持ったことは無い。しかし、若い頃は友人にその話をすると、ありえないだのなんだの、散々馬鹿にされていたような気がする。
 今それについて追求していいタイミングなのかわからず、私はとりあえず黙った。彼は重ねて、何か予定があるのかと聞いてくる。生憎、なんの予定も無いので、首を横に振ると、そうか、よかったと微笑まれる。
 私は行くとは一言も言っていないのだけど、たぶん彼の中では行くことになったんだろう。さっき取り落とした炒め物を再度口に運ぶ。今日、食事の用意をしたのは彼だった。長いもが、しゃきしゃきしていておいしい。彼の料理は彼の性格を良く表していて、おおざっぱだけど優しい味がする。イライラしたり、くよくよしたり、そんな暗い気持ちの日も、彼と向かい合って、彼の作る料理を食べていると、いつの間にかどうでもよくなってしまう。これは、最初から、だろうか。それとも、私がこの生活に慣れてからだったのだろうか。今となってはもう思い出せない。
 ぼんやりと、そんなことを考えていると、ふいに涙が出そうになった。
 いとおしくて、ずっと続いてほしいありふれた日常に、楔を打ち込むみたいに、いつもと違うことをする彼が、よくわからなくて怖い。別れ話でもするつもりなのかな。自分でも酷い被害妄想だと思いながらも、最後の晩餐という言葉が、心の隅に引っかかって痛い。
 それなのに、何も聞けない自分が情けなくて、とにかく涙が引っ込むように、勢いよくご飯を頬張った。炊き立てのお米は美味しいはずなのに、何故だか味のしないそれを、お腹に納めることに集中して、押し寄せてくる感情の波をやり過ごした。


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