三井寿と三人の元カレ、元同僚とその友人




 俺、三井寿はまさに今日、29になるまでに3人の男と付き合った。
 一人目は同じ高校の二つ下の後輩、二人目は高校は他校で大学のバスケ部で一緒になった一っこ下の後輩、三人目は高校の時のバスケ部の二学年下の後輩だった。
 なんだ、みんな後輩だな。後輩は俺にとって鬼門だったんだ。
 目の前の巨大なケーキを茫然と眺めながらようやく気づいたところで、低音が揃って歌っていたぞっとするようなハッピーバースデーが終わった。バラバラな拍手とともに3人が俺を見てくる。そうか、ここは俺が蝋燭を吹き消す流れか。
 息を吸い込んで、目の前のケーキの上にバカ丁寧に立てられた29本の蝋燭に息を吹きかけた。さすがに一息は無理で、肺の中の空気がなくなるまで吹き込んでも真ん中に火のついたままの蝋燭が3本残っていた。身を乗り出して『寿』の文字に集中して立てられていた消え残っていた蝋燭の火を吹き消すと、またパラパラとおざなりにも感じられる拍手の音が鳴る。
 本当にこいつら俺を祝う気があるのか?
 流川と仙道に両脇をギチギチに挟まれたパイプ椅子に座り直しながら、無残な『寿』を虚ろな目で見た俺に、正面の水戸がにっこりと笑いかけてくる。
 水戸とは高校在学時から付き合い始めて、大学2年まで付き合った。初めて本気でめちゃくちゃに惚れたし、生涯こいつと一緒にいるんだと若さも手伝って本気で思ってた。それがある日、小さい理由で始まった大ケンカであっけなく終わった。
 めちゃくちゃ泣いて泥酔して、介抱してくれたその時大学の後輩だった仙道と一夜の勢いで寝て、そのままいつの間にか付き合い始めた。始まりはそんなんだったけど、どこまでも優しいし色男だしセックス上手いし、でもかわいいとこもあって俺は一生仙道の真綿にくるまれて暮らしていくんだと思ってた。大学を卒業してお互いプロリーグに入ってすれ違いが多くなって、自分の知らない仙道の浮いた話しを同僚から聞いてブチ切れて別れた。事実無根だったらしいけどやっぱりめちゃくちゃに傷ついて、浮上するのにも結構な時間がかかった。けれども事の真偽もどうでもいいぐらい、その時はお互いに忙しくて必死で疲れ果てていたのかもしれない。
 そこにアメリカから一時帰国してた流川から、ずっと好きだったと告白された。男はもううんざりだと思っていたのに、つい絆されて付き合い始めた。一途な流川はかわいかった。世間知らずは変わってなかった。俺が一生守ってやる。そう思っていたのでパパラッチされた時にキッパリ別れを告げた。それが一年前。右隣から覗き込んでくる整った無表情を見ると、今もまだズキズキと心が痛む。
 それでも20代は悪いことばかりじゃなかった。三十路一歩手前でとうとう日本代表の合宿に召集がかかった。自分でもこれが最後のチャンスだとわかってる。死ぬ気で最終候補にまで残る。W杯に出場する夢を叶える。そう決意して臨んだ代表披露の記者会見の後に、ビビり顔のスタッフに呼ばれて行った先の控室にデカいケーキを持った三人が待っていた。
 え、なに。これからリンチされんの俺。
 そこまで恨まれた覚えはないながらビビり散らかした俺を、丁寧ではあったが有無を言わせない力で3人は席につかせ、いきなりの誕生日パーティが始まったんだった。
 あ、そうか、これアレ? 所属チームでも昨日やられた誕生日にケーキ顔にぶつけられるヤツ。でもこんなデカイケーキでこいつらにやられたら死ぬよ、俺?
「あの…」
「なに?」
「なんです?」
 低音の三重奏は続く。
「どしたの、ミッチー」
 いつの間にか長いナイフを持っていた水戸が優しく俺に微笑む。
「いえ、なんでもないです…」
 ナイフを持つ手がこんなに似合う男もいない。筋張った武骨な手が滑らかに動いて、きれいにケーキが切り分けられていく。
 水戸と再会したのはついこの間、移籍を決めたチームの事務所の入る小さな古い雑居ビルのエスカレーター前だった。
 今まで所属していた一部リーグのチームとは違い、新しい二部のクラブの事務所はオートロックもなければ受付もない。契約をもらって事務所の隅のパーティションの裏側にあるエレベーター前まで送られて、開いたドアから降りてきたのがコーヒーカップを二つ乗せたトレイを持った水戸だった。あんまり吃驚したから、はじめは似てるだけの他人だと思った。髪型も違う。服装も違う。(当たり前だ) でも目が。あの忘れられない真っ黒な目が俺を見て、自分と同じように瞠られた。
「あれー遅いよ、水戸さーん。もう三井さん帰っちゃうとこよ」
 おどけたようなチームのオーナー兼社長の声で、本当に、本当にあの水戸だと確信した。
「うん、ウチ喫茶店じゃないからね。ミッチー、ひさしぶり」
 思いかけず旧友にあったような軽い言葉と口の端だけを引き上げた笑い。
 ああ、10年近く経ってりゃこんなもんだよな。でも俺の心には勝手な棘が勝手に深々と刺さったんだった。

 準備よく用意されていた紙皿にケーキが乗せられ、その上にデコレーションで乗っていたチョコレートと無残に壊れた寿のプレートまで飾られて、目の前のテーブルに置かれた。
「さあ、どうぞ」
 食欲なんかミリも湧かないが、水戸の笑顔とともにプラスチックのフォークまで添えられて逃げ場はなかった。
「…いただきます!」
 見れば3人の前にも同じように切り分けられたケーキの紙皿が置かれている。毒はない、と考えて何をバカな、とビニールを破ってプラスチックのフォークを取り出し、ケーキ皿を持ち上げて勢いよく口の中に押し込んだ。さっさと食ってこのわけのわからない地獄の会合から抜け出したい。焦り過ぎたせいで喉にスポンジの欠片がひっかかって咽た。皿を置いて苦し紛れに伸ばした俺の手に、右隣の流川からスポーツ飲料の飲みかけのペットボトルが差し出される。
「大丈夫?」
 相変わらずの表情の読めない仏頂面。でもそこは水とかにしてくれよ。
「はい、三井さん」
 反対側からキャップまで外されたミネラルウォーターのボトルが差し出される。下がり眉の色男。気の回るとこは変わらず、でも目が笑ってねぇんだよ。
 なんとか堪えて喉に詰まったスポンジを嚥下すると、目の前の水戸から湯気のたつコーヒーの注がれた紙コップが差し出された。
「だいじょぶ?」
「あ、あぁ…」
 どれを取ればいいのか。いや、どれも喉を通る気がしない。まだ詰まったような喉は飲み物を欲してやまないけれども。
 沈黙がツラい。一体なんの集まりなんだコレ。喉に詰まったケーキが苦しい。
 ケーキ。味のわからないケーキ。俺の誕生日か。そうか。
「あー…その。今日はありがとな。ケーキ美味かったよ」
「どういたしまして」
 ここはきれいに揃った返事がかえって、でもまたすぐに室内に重い沈黙が下りる。
 聞きたいことは山ほどあった。聞きたいが聞いたらどれもアウトな気がして、その勇気が出ない。
 反省を促されてるのか? 何の? そもそも俺が反省しなきゃならないことなのか?
 理不尽な思いに駆られて、「あのよ!」と勢いで口を開いた。
「なに?」
「い、いや、なんでもねぇ」
 一斉に顔が振り向けられると、言葉は口から出ていけなくなった。無駄に顔がいい。こいつら。
「…三井さんの今度のチーム、2部なんですね?」
 笑顔の仙道が口を開いた。やっぱり目は笑っていないながら、言葉の内容につい苛立った。
「それがどうした? おまえに、」
「移籍聞いてねぇ」
 空気の読めない流川が言葉の途中で口を挟む。
 いや、だからなんで別れたおまえらに俺の去就言わなきゃなんねーの。
 息が詰まりそうな沈黙の中、遠慮がちなノック音が響いて助かった思いで声を上げた。
「はい! 今行きます」
 が、一足早く水戸が席を立ってドアを開いた。顔を出したのは自分をここまで連れてきたスタッフの一人だった。緊張しているのかおかしな動きで室内をのぞこうとしてはやめて顔を反らす。
「あの、すみません、仙道さんと流川さんにインタビュアーの方が、」
 仙道は大学を出てから、流川はアメリカにいる時代から代表常連だった。付き合っていた時から二人ともに悔しいことながら日本を代表するスター選手で、取材やインタビューはひっきりなしにきた。右隣でわかりやすく流川が舌打ちする一方で、左隣の仙道が人好きのする笑顔をスタッフに向ける。
「すぐ行きます」
 露骨に安心顔を見せて去ったスタッフを見送って、俺も安堵のため息をついた。わけのわからない苦行の時間は終わった。何がどうしてこんなことになったのかもうわからないままでいいから、今は一刻でも早く解散したい。
 先に立ったのは仙道だった。「流川」と仙道に促されて、流川もしぶしぶといった様子で立ち上がる。
「三井さん、折角会えたのに残念ですけど、」
「おお、気にすんな! ケーキありがとな」
「先輩、また来るから」
「俺ももう帰るから!」
 早く行け、と二人をドアに向かって急き立てていると、部屋を出かかった仙道が急に足を止めて室内へ向き直った。
「水戸さん、」
 言葉なく顔を上げた水戸に、仙道が真顔で念を押すように口を開きかけた。
「わかってますよ」
 水戸は笑顔でそれを遮るように答えた。何の含んだ思いもないような笑顔。でも決して相手に気を許していない目。あぁ、懐かしい。こういうところは何も変わっちゃいねぇんだな。
 仙道はなおも居座ろうとした流川に肩を当て、もう一度室内を見渡してからようやく部屋を出て行った。

「おまえがこういうの付き合うとは思わなかった」
「こういうのって?」
 隣に並んで歩く水戸が前方にぽっかり浮かんだ月を見上げながら答える。今から事務所に用ありだと俺が言うと、これからバーに出勤だと水戸がのたまい、帰り道は逃れることもできずに一緒になってしまった。
 まあ先刻までのあのわけのわからない地獄よりはマシだった。多少は気まずいけれども、職場が同じビルということはこれからもこんな機会があるのかもしれない。
 当たり前だけど水戸は大人になった。元から年齢がわからない妙に年を経たようなところもあったけれども、10年の月日を経た余裕と男の艶を増した横顔が憎たらしいような眩しいようなで、視線が合う前に慌てて同じように月を見上げた。
「あー、誕生日会?」
 果たして本当に誕生日を祝う会だったのか。茶番とまでは言わないまでも裏を読める程度には自分も大人になった。
「しかも仙道とかとさ」
 流川はまだ水戸と友人とまでいかないまでも、同校の同学年で顔見知りではあった。だが、水戸と仙道の接点はないはずだ。一体どこでこんな企画が持ち上がったのだか、怖いがやっぱり知りたくはある。
「あのビルさ、俺のバーと三井サンとこの事務所が入ってるとこ。斜め前に仙道さんと流川の事務所あるでしょ。たまたま俺のとこにチームのみなさんと飲みに来たの。ミッチーと同じビルだったからちょっと勘ぐったみたいでさ」
「マジか!」
 勘ぐったってなんだよ。水戸とも仙道とも切れてもう何年も経つのに。
 水戸は今所属するチームの入っている事務所のビルの地下にあるバーに勤めていた。チームのオーナーが常連だとかでメニューにないコーヒーを頼まれて、たまたま運びに来ていただけだ。再会した時も驚いたような顔が(そうは見えなかったけれども)なによりの証拠だ。
 確かに自分のチームの事務所の入るビルの斜め前に、それはそれはご立派な、仙道と流川が所属するチームのオーナーが経営する企業の、全面ガラス張りの高層の自社ビルが建っている。そこの何階だか何十階だかに二人のチームの事務所はあった。
「で、あんたも代表に呼ばれて一緒に記者会見するからいい機会だからって」
「いい機会ってなんだよ。誕生日会のか?」
「ハハッ! 流川が『先輩今日誕生日』ってケーキホールで買ってきちゃってさ。しかもあんなでっけーやつ。驚いたよね」
 流川が。
 そこでまた今日何本めかの特大の棘が心臓にぶっすりと刺さった。付き合っていた3年間、俺の誕生日にあいつは特大のホールケーキを毎年欠かさず買ってきた。甘いもの嫌いなくせに。
「仙道サンはさ、ちょっと思うとこがあるみたいだね。あんた急に二部に行っちゃうし」
 さりげない水戸の言葉に足が止まるようだった。
 え、おまえ俺のこと追っててくれてんの。
 無意識に期待しているかのような考えが頭に浮かんでしまい、いや、これが俺の悪いところだ、と頭の中から打ちやった。すぐに自分のいいように考えて突っ走る。もう20代も最後の男がなにを浮足だってるんだか。
 水戸から視線を引き剝がすと、今度は仙道の先刻の顔が思い出された。口元とは真逆に笑っていない真剣な瞳。あいつは本気で怒ったときにも笑顔を作っていた。いつもは甘く垂れた瞳が冷たい光を放っているところ以外は。
 隣を歩く水戸に軽く湧きあがる罪悪感に戸惑う。
 いや、別に。付き合ってるわけじゃねぇし。俺今フリーだし。
 移籍にしても、前のチームにとって自分が6thマンであったことに不満があったわけじゃない。セカンドユニットからの得点が弱ければチームは勝利できないし、扱いが軽いと不満に思っていたわけでもない。それでも30を手前に迎えると考える時間も増えた。
 もっと。もっと試合感を得たい。それには単純にプレータイムを増やすしかない。声をかけられた2部のチームは首都圏で、代表召集された時にも動きやすいし、それを見越したチーム作りもHCは提案していてくれた。
 今は遠い昔に終わった色恋に悩まされている場合じゃない。それでも気になってしまうのは、水戸、仙道、流川それぞれに自分が本気で、真剣だったからだ。嫌いになって別れたわけでもない。会えばこうして今も苦しさに胸が引き絞られるぐらいに。
「俺は今はバスケのことだけ考えていてーんだよ」
 だからこそ。考えていたことが口からポロリと零れ落ちた。
 今は前だけを見て進んで行きたい。それが代表召集を受けて決意した確かな本音だった。
「…うん、そうだね」
 さっきの仙道や流川がいた前でのものとは違う。小さく笑うと幼く見える水戸の顔があまりに昔のままで、決心したばかりの心を簡単に揺さぶってくる。
 長く思われた道のりにも終わりはやってくる。見覚えのある通りに入ってすぐの、玄関ホールのない古びた雑居ビル。路面の1階は今はシャッターの降りている雑貨店だ。その脇に地下テナントへと降りる薄暗い階段があって、小さくバーの店名が書かれた札がかかっている。
「飲んでく? 奢るよ。今日はお祝いだし」
 斜め上に俺を振り返りながら、腰を捻りジーンズのポケットを探ってキーを取り出す水戸の姿。遠いはずの潮の香りが鼻を掠め、古いアパートの鉄製の外階段が目の前に見えて消えた。
 ダメだ、断れ。
「…今日の報告と社長の用事が済んだら」
 ホント意志の弱い俺。
「じゃまた後で」
 振り返ることなく水戸は階段を降りていった。
 なあ、水戸。おまえは今どんな顔してんだ?

 社長とその訪問者からとんでもない爆弾をぶつけられ、思いのほか時間を食って事務所を出、エレベーターから一旦ビルの外に出て地下への階段を降りた。やっぱりこのまま帰ろうかと思っていたけれども、混乱した頭はアルコールで整理が必要なのかもしれない。その割には自分でも迷いのない足取りで、苦笑しながら重たいバーの扉を押す。
 別に水戸と今更どうこうしたいというわけじゃない。自分に言い聞かせる。
 ほら、昔話とかなんとか。勤務先がこんなに近所なら友人関係に戻ることができた方がいいだろ? 
 階段と同じように薄暗い店内は思ったより狭く、視界が慣れるとカウンター席に昼間の悪夢を再度見つけたような気がして目をこすった。
 間違いない。なぜここにいる、仙道、流川。
「あ、ミッチー、遅かったね」
 口に人差し指を当てるまもなく、目敏くカウンター内でグラスを拭いていた水戸に見つけられて、その声に仙道と流川が顔を振り向けた。
「三井さん、こんばんは」
「センパイ」
 素早く立ち上がった流川にがしっと腕をつかまれて、引き摺られるようにしてカウンター席についた。また右隣に流川、左隣に仙道、正面に水戸。他に客はいない。
 なんだろう。デジャブ? じゃないまんま昼間の焼き直しだ。勘弁してくれ。
「やっぱり油断ならないなあ、水戸さんは。さっき念押ししたばっかりなのに」
 水戸はそれには答えず薄く笑いながら「ミッチーは? 何飲む?」と聞いてきた。おずおずと視線をカウンターの左右に向けると、仙道の前にはなにやらキツそうな液体の入った小さなショットグラス、流川の前にはロングカクテルの入った細いグラス。いや、きっとオレンジジュースだろう。酒に弱いわけじゃないけれど、飲めばかなりの確率でその場で爆睡する。
「…あ…じゃあ…ビール…」
「ビールね」
 凍らせた足のあるグラスに注がれたビールがほどなく目の前に置かれて、きれいに泡の弾ける金色のそれに俺は決してスケベ心を出したわけじゃないのにナゼ、と自分の境遇を嘆いた。
「じゃあ改めて。カンパーイ」
 平たい声の仙道がグラスを掲げるのに後の二人は続かず、俺を見てくる視線が辛かった。
「センパイ、ここに一人で来るの禁止」
「それはミッチーの意志だよ。強制はできないよね」
「三井さんの意志でここに来たんですか?」
 それは水戸に誘われて。
 そう言えない俺の弱さ。いや、強さか?
「あ、や、事務所と同じビルだし一杯やっていこうか、と」
「ふーん?」
「おまえらはなんだよ。なんでここにいんだよ」
「事務所の斜め前だし一杯やっていこうかと」
「ムシの知らせ」
 俺がどう行動しようが俺の勝手だ! そう言いたいものをグッと堪えていたところにバーのドアが勢いよく開いた。
「うっわ神奈川くせぇー。あー喉乾いたわ、俺、生チュー!」
 入ってくるなり、居酒屋のもう出来上がった酔っ払いのような大声を上げた男は、かつてのチームメイトだった。店内を見渡してカウンターに目を止め、おきれいな顔がにやにやとおもしろそうに歪んだ。
「藤真?! なんでおまえまでここに、」
「おまえら少しはテレビの前でぐらいファンサしろよ。バスケも知らねーやつらに売れるのはおまえらの顔ぐらいだぞ?」
 藤真は人の質問はスルーで、俺と仙道の座る椅子の間に斜めに体を割り込ませ、立ったまま自分を棚に置いた説教を始めた。その前にドカっとビールの注がれたジョッキが置かれる。生中あるんだ。
 藤真はジョッキを握り、グーッと半分ほどまで干して腕で口を拭った。
「で、三井はナニ、修羅場中?」
 デリカシーの欠片もないセリフを放って、憮然として喋らない俺たちの間でただ一人、おかしくてたまらないというような藤真のバカ笑いの声が響き渡る。
 しかたない。藤真は大学から今のチームに来る前までの長きに渡っての腐れ縁だった。これでも意外に口の堅い面倒見のいい男で、愚痴に付き合わせたことも数十度、すべてを知っている。それでも寝たことのない人間が一人、この狭い空間に増えたことは助かった。
「だからなんで藤真までここに来んの」
「俺? 俺は待ち合わせ」
 一息に持っていたジョッキの残りを飲み干し、「もう一杯」と水戸に人差し指を立てる。
 そこにまたしてもドアが押し開き入ってきた男がいた。つい先刻、事務所で爆弾を落としていった男だ。仙道と流川の顔が上がる。
「牧さん」
「…っす」
「あ、来た来た。おせーよ」
「悪い。なんだみんないるのか」
 入ってきたのは牧だった。代表引退を発表して世間を騒がせたばかりじゃなく、電撃移籍ではもっと騒がれるだろう男。牧は俺を見て「よう。これからよろしくな」と口元を上げた。それから水戸に向かって「俺もビール。あとラフロイグ、ロックで」とオーダーして、いつの間にかカウンターに突っ伏して寝入っている流川(やっぱり酒が入っていたらしい)(水戸…)に目を落とした。
「出た。ビールがチェイサー」
「え、牧さんよろしくって」
 笑いが収まらない藤真の向こうから仙道が伸びをして聞いてくる。耳ざとい。まあどうせすぐに発表されることだった。
「牧も俺と同じチームに移籍」
「マジですか!!」
 椅子から落ちそうになって仙道が驚いている。そりゃそうだろう。一部強豪から二部チーム。俺も実際椅子から落ちた。
「で、なんでみんないるんだ?」
「なんかね、三井、修羅場中だってよ」
「三井?」
「なんでもねーよ!」
 あぶねえあぶねえ。牧は俺が男と付き合っていたことは知らない。ってか元彼が代表に二人もいることを知られたくない。
 藤真の足を蹴っ飛ばし睨みを飛ばす。
「牧は大丈夫だろ。三井の好みは年下だ」
 だが蹴っ飛ばそうがナニしようが藤真の悪ノリは止まらない。むしろ逆効果だった。いや、これからチームメイトになることを考えると知っておいてもらった方がいいのかもしれない。牧の人間性は信用がおけるし聡い藤真もそう考えたのだろうが、それにしてもやり口が乱暴だった。話すならできれば落ち着いたところで打ち明けたい。
「あれ、牧さん夏生まれじゃなかったでしたっけ?」
「そうだが」
「三井サンより数か月年下っスね」
 それまで会話に入ってこなかった水戸が、牧の前へビールとウィスキーを澄ましたツラして並べながら口を出した。
「なに言ってやがる!」
「まあまあ。今日誕生日だろ? 改めて乾杯しよう!」
「仙道の飲んでるそれはなんだ?」
「水戸さんにおすすめ聞いて出してもらいました」
「エグいヤツじゃん、それ。一息で飲んでとっとと出てけってことだろ」
 カオスだった。頭の中がクラクラする。まだ一滴も酒なんか飲んでないのに。
 目の前にはグラスについていた氷も解けた泡の消えたビールが侘し気に佇んでいた。そのグラスを取って衝動的に一気に干した。生中ほどに量は多くなくても、体の中の怒りの勢いが増幅されていくようだった。
「ダーッ!!」
 叫んで飲み干したグラスを音をたててカウンターに置く。今日一日の怒りと苛立ちと驚きが爆発した。
 一気にしんとなったバーの店内に自分の声だけが響いた。
「俺は!! 最終選考で代表に選ばれるまでこん中の誰とも付き合わねぇ!!」
 本気で代表になる。これがラストチャンスだ。誰にも邪魔はさせねぇ。
 静けさの中で自分で自分の決意を再確認する。俺の本気を知ったか。誰も口を開かない。開けねぇだろ、ざまあみろ。
 パチパチパチパチパチ。そこに藤真が両手を合わせた音が鳴った。
「選ばれるまでってことは、選ばれたらこの中の誰かと付き合うわけだ。いいね、決意表明」
「ち、ちが…!」
「はい、乾杯かんぱーい!」
 藤真の音頭で、茫然としている俺の目の前でいろんな種類の酒の入ったグラスが打ち鳴らされた。

「その…黙ってて悪かったよ」
「なにがだ?」
「なにがって…」
 なにがだろう。
 代表選手二人と付き合っていたこと? もちろん時期は重なっちゃいないが、それで代表の戦果が思わしくなかったのは自分のせいだとでも?
 そこまでおこがましく考えちゃいないが、牧はその二人、仙道流川が揃っていた時の代表キャプテンを務めていた。
「恋愛は個人の自由だろう。仙道と流川のラインが上手く機能していなかったことはないしな」
 ほらみろ。ジカジョー。
「うん」
「後悔しているわけじゃないんだろ?」
「後悔…はめちゃくちゃしてるさ。でも俺にとっちゃ後悔も大切なことだから」
 見上げると先刻水戸と並んで歩きながら見た月は、大分傾いたのか見えなくなっていた。もしかしたら後ろを向けば見えるのかもしれないけれども。
 あれからもう開き直って飲みに走った。旧知の連中との言葉を選ばない飲み会は意外に楽しくて、気づけば日を跨いでいた。他の客が入ってこなかったから余計にかもしれない。水戸が気を利かせて、『本日貸切』の札をドアに下げてくれていた。帰り道でまた揉めて、結局近所に住む牧と帰ることになってまた歩きながら夜空を見上げてる。
「牧は? どうして二部に来た? おまえはまだ、」
「どうしてだと思う?」
 質問を質問で返されて、間を詰められて動きが止まった。
「どうしてって…」
「おまえを追ってきた、と言ったら?」
 え、何? 牧は今ナニ言ったんだ?
 俺の顔を覗き込んでいた日に焼けた顔がふっと緩んだ。
「なんてな」
「…! んだよっ!」
 笑ってまたさっさと足を進める牧の背中に怒鳴り返し、でもこのぐらいの意地悪とも言えないことで、三人の男達と付き合ってきたことを自然に受け入れて変わらず付き合ってもらえるのなら御の字だった。
「まあわからないでもないな」
「なにが」
 振り返った牧の顔は見えなかった。月は背後にもいなかったらしい。
「あいつらのことだ」
 追いかけていた足が止まる。近づいてきた牧が指を伸ばしてきた。
「そういうところ、とかな」
 指は俺の顔のギリ手前で止まり、また牧のもとに引き寄せられていった。それからまた牧は背を向けて歩き始めた。その背を見つめ、両手を上げて、自分の頬を両側から打った。痛みとともにパンッといい音がして、牧がまた振り返った。はは、びっくり目になってる。こういうとこかわいいんだよな。
「どうした?」
「俺は最終選考に残る!」
「がんばれー」
 牧にしちゃ気の抜けた声。水戸の作った酒を気に入ってボトルまで入れていたから、思っていたより珍しく過ごしていたのかもしれない。俺に手を伸ばしてきたあの顔も見ることはもうないのかもしれない。
「見とけよー!」
 牧はもう振り返ることなく手だけを上に伸ばして振っている。
 月があってもなくても後ろは振り返らない。とにかく前へ進む。先は見えなくても心は軽かった。


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