young and beautiful

3、仙道

 三井と出会ったのは高校時代の試合だったが、実際に口をきくまでに親しくなったのは大学に上がってからのことだった。
 3回生に上がった春、真面目に打ち込んでいたバスケットボールから遠ざかった。大学にも通わず、足を踏み外したように飲み歩く日々が続いていた。
 親から送られてくる家賃も全て飲み尽くしてアパートを追い出され、飲み屋で知り合ったろくろく知りもしない女の部屋を泊まり歩き、時にはその男に殴られ追い立てられて身一つで部屋を転がり出る。
 大学の一つ上の先輩に拾われた時も、酒で鈍った体が寝取られ男のパンチを避け損ねて顔面にモロに食らい、その日泊まる場所もなくなって駅のベンチに寝ていた時だった。ズキズキと痛む頬はなかなか睡魔を寄せ付けず、晩春を手前に降り続ける雨が冷気を連れてきて濡れた体を震わせた。
 いつの間にか横に立っていた人間を車掌だと思い込んで、「一晩だけ泊まらせてくれ」、と強請ると、知った声が「仙道」と呼びかけてきた。顔を上げると、険しい顔をした三井がそこに立っていた。
 面倒だな。
 そう考えて、仙道が狭いベンチの上で寝返りを打って背を向けると、「起きろ」と肩に手をかけてきた。
「説教ならごめんです。俺のことはもういないもんだと思ってくれると助かります」
「知った顔が凍死してると俺も目覚めがワリーんだよ。来ねーんなら警察に通報する」
 腕を引っ張られてその手の暖かさに、これからここで過ごす夜の厳しさが頭を掠めた。通報、という一言も酔いの醒めてきた頭に効いた。
「お説教はしないで?」
「誰がするか。めんどい」
 仙道がのろのろと上体を起こすと、三井はもう背を向けて歩き出していた。
 仙道が部屋に転がりこんでも、確かに三井は説教をしてこなかった。部へ顔を出せも授業に出ろも言わない。6畳一間のアパートに大男が転がっているのは邪魔で仕方がないだろうに、それにも文句を言わなかった。
「いたければいりゃいい」とだけ言って、ただ一緒に食事をして、朝は寝ている仙道を跨いで、大学に行く。
 三井の目的はわからなかったが、何も聞いてこない、言ってこない、束縛されない、食事と屋根のある環境は仙道にとっては理想で、見ないテレビをつけっぱなしにして、ただゴロゴロと怠惰にその日を過ごしていた。
 その内に寝て過ごしているのにも飽きてきて、置いてもらっている負い目もあった仙道は料理の真似事をするようになった。帰ってきた三井は、ローテーブルに並んだ皿を見ても特に何も言わず、黙って箸が置かれた前に座り、手を合わせて食べた。
 三井の部屋には訊ねてくる人間はいなかった。電話も滅多に鳴らない。たまにかかってくるのは会話の感じから親からのものであることを伺わせた。部の練習後に疲れてヨレヨレになって帰ってきて、仙道の作った料理とも言えないものを茶で流し込み、風呂に入って寝る。
「楽しいですか?」
 ある日、思わず訊ねていた仙道に、三井は大きく開いた目を向けた。
「あぁ?」
 口元にご飯粒がついていて、仙道は自分の左頬を指で差し、「ここ」と教えてやった。三井は手の甲で頬を擦って、ベタついた甲を睨み、それに舌を這わせた。意外に赤く小さな舌先が、米粒を舐めとる様を仙道は見た。
「何がだよ」
「ガッコとアパートの行き来」
 そういえば仙道が真面目に大学に通い部活動に勤しんでいたときから三井は一人だった。高校時代に試合時に見かけた三井の印象とは大分違った。
 あの頃はチームメイトとケンカ腰のような口調でありながら、大きく動く表情が印象的だった。仙道が見た時はいつも仲間に囲まれて、弾けるような笑い顔を見せ、大声をあげていた。
 が、大学に入ってからの三井には友人と一緒にいるところも見かけたことがない。女の影も全く見られなかった。
「別に」
 三井は取り合うこともせずにただ黙々と箸を動かす。
「溜まったりすること、ないんですか?」
「テメーに関係ねーだろ」
「俺ね、失恋したんです」
 口をついて出た言葉に、仙道本人が驚いた。三井も大きな目が更に大きくしたが、ふいっと顔を横に向け、「つまんねーヤツ」と吐き捨てまた箸を動かし始めた。
「ハハッ ホントつまんねーですね」
 先に食べ終えた皿を仙道は重ねて、部屋の外の玄関までの短い廊下と兼用の台所に持っていった。カチッと音がした方向を見ると、三井が食べ終わった茶碗に箸を乗せ、「ごっそさん」と手を合わせていた。
 育ちがいいな、と思うのはこういうところだ。困っている人間がいると見逃せないところも。それが自分のような失恋ぐらいで傷ついているようなクズでも。
 仙道はローテーブルに近づき、三井の前の重ねられた食器を手に取った。
「…まあ辛いよな」
 小さく言葉が零された顔を仙道は見た。いつも表情がない顔の何も見ていない目が、今はここにない何かを見て震えたようだった。 
 ああ、この人は同じなんだ。
 仙道は直感で感じ取り、不意にどうしようもない苛立ちが湧いて皿をテーブルに戻した。不思議に思ったのか顔を上げた三井に、仙道は何も言わずに覆いかぶさった。
「おいっ! なにっ…!」
 大声を上げようとする口を捕らえて深く唇を合わせる。顔に当てて押して逃れようとする両手首を掴んで、バタバタと暴れる両足の上に乗って身動きを封じた。
 それでも跳ね上げた三井の膝が、二人分の食器を並べるともう一杯になる小さなローテーブルの端を引っ掛けて、派手な音をたててひっくり返した。きつく食いしばられた唇をこじあけて舌を口内にねじ込むと、歯を立てられて仙道は顔を引き上げた。
「俺ね、男と付き合ってたんです。でもフラれちゃった」
 そう言うと、目から流れた涙が三井の頬に落ちた。バタつかせていた三井の足が、仙道の身体の下でゆっくりと大人しくなっていった。
「…バッカじゃねーの。…ホント…つまんねーヤツ」
「ハハハ…ホント。俺ってバカ」
 力をなくして、三井の首元に突っ込んだ仙道の頭を、拘束が緩んだ手から抜け出た三井の手が撫でた。
 肩が震える。その震える肩も三井の手がゆっくりと撫でていった。止まらない涙を三井の舌が掬いとっていく。仙道は瞼を閉じて、その舌が動く先に顔を向けた。舌が唇の上に流れた涙を掬いとる。仙道は唇を開いて、その己の涙を吸った舌を迎え入れた。



 大学に久しぶりに足を向けると、叱責を受けるどころか心配された声を掛けられた仙道は戸惑った。恐る恐る顔を出した部でもそれは同じで、てっきり三井の仕業かと訊ねると、「知らねーよ」と心外そうな声が戻った。
「俺だっておまえは体調崩して休部するって聞いてた。まあそしたら飲んだくれて駅のベンチで不貞寝してたおまえがいたわけだけどな」
 そうは聞いても、やはり自分の事情を知る者は三井しかいない。言葉には出さず、仙道はただその気遣いに感謝した。
 部に顔を出して、また何事もなかったようにきつい基礎練をこなし、何も考えずに体を動かしていても、ふとした瞬間に感じる穴はまだある。どうしたってあの存在はまだ大きく自分の中に居座っている。
 他の部員達はもう慣れたようで、その人の名を口にする人間は誰もいなかった。それとも敢えてもう思い出そうとしないのかもしれない。あの男がいる限り揺るぎがないように思えたスタメンの座が、一つ空いたことは確かなのだから。
 3Pの練習が始まって、部員がラインに並ぶ。リングに当たらずネットをボールが擦過する気持ちのすくようないい音がして、視線を向けなくてもそれが誰が放ったシュートなのか、仙道にはわかった。ポッカリと空いていた穴が暖かい感情で少しづつ埋められていくように感じられる。
 今日の夕食は何にするかな。
 空腹を覚えて、仙道は自分の仕事になっている居候先での料理について考える。自分の復帰祝いと称して、いつもより少しいい肉でも買って焼いたら三井は喜んでくれるだろうか。そんなことを計画していると、そこにあった大きく開いていた穴は、遠くに小さく見えような気がした。
 スーパーで仕入れた袋を片手にアパートのドアの鍵穴に鍵を差し込むと、手ごたえがなくて、仙道はもう一度鍵を回した。ドアは押すと軋みを上げて開き、土間にあった三井のスニーカーを見つけた仙道は顔を上げた。
「三井さーん、鍵開きっぱだったよー。不用心、」
 三井は部屋の奥にいた。ベッドの傍で膝を抱えて顔を伏せている。仙道は荷物を台所に置き、部屋を横切って三井のそばに寄って膝をついた。
「どうしたんですか? 具合悪い?」
 三井は伏せた頭を横に振り、だが顔を上げない。
「何かありました?」
「…何もない」
 震えた声が答えた。何もない声じゃなかった。
「三井さん、顔を見せて?」
 肩に手をかけると、「ほっとけ」と返ってくる。
「ほっとけないよ。何があったの」
「ほっとけっつってるだろっ!」
 肩にかけた手を乱暴に振り払われて、涙に濡れた腫れあがった瞼の三井が睨み上げてきた。
 あ、また。
 同じだ、と思った。この人は俺と同じ。
 メチャクチャに振り回す腕を押さえ込んで、仙道は頭から三井を抱き込んだ。
「離せよ! もうやんねーぞ! ったくどいつもこいつもそればっかかよっ!!」
「うん、やんない。やんないから。お願いだから一人で耐えないでよ。俺がいるから。あんたのそばにいるから」
「俺は振られてなんかねーぞ! 俺が振ってやったんだよ! 誰があんなヤロー、」
「うん…うん」
 部内でも話題になっていた、今朝のニュースで流れたアメリカの大学リーグで優勝し、MVPをとった日本人。
 高校時代に自分も当たったことのある三井と同じ湘北の1年下。
 なんとなく腑に落ちて、仙道は三井に回した腕に力を込めた。「あんなヤツのこと、忘れちゃいなよ。あんたを一人にするなんて。三井さんにふさわしくないよ」
 三井は腕を振り回すことをやめて、仙道のTシャツを掴んでいた。じわじわと胸に湿った暖かさが広がる。
 ずっと一人でこの人は耐えていたのだ。自分とは違うやり方で。誰にも気づかれることなく。
 それが愛しいと思った。悲しいと感じた。仙道は胸に抱えた小さな頭に唇を落とした。
「あんたが好きです」
 小さく告白すると、涙に濡れた顔が上げられた。
「…つまんねーヤツ」
「はい…つまんねーですね。ごめんなさい」
「謝んのかよ」
「うん。ごめんなさい。三井さんが好き」
 まだこの人の中に違う人間がいることはわかっている。自分の心の中にも。
 それでも三井が愛しいという想いは本物だった。不器用で素直じゃない本当は寂しがりの人の傍にいたいと思った。 


 三井とは3日と空けず、体を重ねる。求めれば応じてくれるし、声を上げて自分の感じている快感を教えてくれる。その体をかき抱きながら仙道が囁く言葉には、三井はただ笑って頷くだけだった。 だから「おまえいつまでここにいんの?」と聞かれた時には裏返った声が出た。
「ぅえ…アレ?」
「アレってなんだよ」
「だって…え?」
「こっちが聞いてんの」
「出てかなきゃ…ダメ?」
「ダメじゃねーけど…」
 三井はまた黙って箸を動かす。
 今日の食事は三井が作った。「何が食いたい?」と聞かれて、仙道が強請った鳥の唐揚げだった。
 仙道は揚げ物が怖くてできない。揚げる前の肉に下味をつけて、片栗粉をつけることも知らなかった。作り方を知らない、と仙道が正直に告げると、「手間がかかんだよ。おまえも覚えろ」と三井は言って、三井が作る傍で並んで手伝いをしたのだ。
「俺、三井さんと付き合ってると思ってます…けど」
 三井は唐揚げをつつく箸を止めなかった。つついて持ち上げて、どんぶり飯の上に乗せて、それを食べずにじっと見ている。
「三井さんにまだ忘れられない人がいることもわかってる。でも、俺は三井さんのそばにいるとすごく…その、休める」
 三井は何も言わない。調子のいいことを言ってる。自分でもそう思う。でも三井のそばにいたい、と、そう思う心は本当だった。
「…好きにすれば」
「はい」
 とりあえず今度から鳥の唐揚げは自分で作る。
 そう決めると、また穏やかな気持ちが溢れてくるようだった。




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