やさしい夏




寝返りをうった体から反動がついた腕が、勢いよく脇のシーツを叩いた。いけね、と瞬間思った頭が、冷たい感触を受けてぼんやりと覚醒していく。のっそりと肘をついてうつ伏せの上体を起き上げると、腕の感触通りに隣は既に空だった。
 朝一番に海に出て、それから市場へ仕入れのスケジュールは聞いて知ってはいたけれども、ピロートークとまでは言わなくてもチラとでも寝顔が見られたらよかったのに。先に寝こけてしまった自分にがっかりする。
 仙道は目を擦りつつ反対の腕を伸ばし、ベッド脇のサイドテーブルの目覚まし時計を手に取った。時間を確認して呻き声を上げ、もう一度ボスンと音を立てて枕に顔を突っ込んだ。
 部屋の持ち主のシャンプーの淡い香り。少しの汗の匂い。それと彼自身の。仙道の唇の端が徐々に持ち上がり、にんまりした表情に変わって、頭に敷いていた枕を引き出し、両腕で抱え込んだ。
 カーテンから漏れる朝の光りは今日は晴天になるだろうことを予測させる。朝一番に目覚めた顔を拝めなかったことは残念だけれども、昨夜のあれこれがいろいろと思い出されて、仙道は枕に緩んだままの顔を押し付けた。
 折よく玄関の引き戸の軋む音がしてしばらく息を殺していると、古い板敷きの広縁からの足音が寝室に使われている奥のこの和室へと近づいてくる。仙道は惜しみながら枕から緩ませた顔を上げた。
 渡り廊下から障子を引き開けて部屋に入って来たのは眉を寄せたのはやはりこの家の主だった。まだ湿ったままの髪の毛がまた一段とセクシーに見えて、仙道の顔がさらに脂下がる。
「牧さ」
「まだいたのか。いつまで寝てんだ。今日は早番だろう。遅刻したら給料から差っ引くからな」
 わかってる。
 ピロートークは諦めていた。
 でも入ってきた男の、思った以上に厳しく冷たい声の背景に厨房の幻影が見える。
 まだいたのかって。
「大丈夫だよ。まだ一時間以上あるし」
 あわよくばあの夢を朝からもう一度、と近づいてきた手に触れようとすると、牧に手に持っていた新聞でパシッと頭を叩かれた。
「何言ってんだ。もうじきに始業だぞ」
「え、マジ?!」
 飛び起きてもう一度時計を取って顔の前に持ってくる。見間違えたのか、あっという間に時が経っていたのか、確かに牧の言う通り、あと15分ほどでバイトの始業時間がくる。
「うえ? ウソ!? ヤバいヤバい!」
 仙道はベッドから飛び出し、裸で部屋の中を走り回りながら飛び散っていた洋服を拾っては着た。
「ヤバいわ! ワー牧さーん、チャリ貸して?」
「走れ」
「そんな~!」
 冷たく言い放たれて、ジーンズのファスナーを上げつつ情けない声も上がるが、牧は聞く耳持たない風情で寝室に使われている部屋を横切り、襖で仕切られた隣の和室に置かれた机についてPCを立ち上げ始めた。
 牧さんも仕事かなーと、取り付く島もない背を眺めながらTシャツを引っ張って腹の下まで下げると、仙道は口を開いた。
「ねぇ、牧さん、今晩も来ていい?」
「ダメだ」
 にべのない一言。
 その背は振り返る気配もない。
「じゃあ、」
「今度遅刻したらクビだ」
「いってきます!」
 仙道は部屋を飛び出し、廊下を走って玄関土間の自分のビーサンに足を突っ込んだ。勢い余ってよろけて手をついた下駄箱の上に、メモ書きが置いてあるのが目に入る。
『鍵はかけなくていい』
 牧の几帳面な字体で書かれたメモを見て、ふむ、と仙道は動きを止めて少し考える。
 つまり牧の帰宅までに自分は帰っていることが期待されていたわけだった。もしくは自分に都合よく考えれば、これが牧ならではの付き合いのやり方なのかもしれない。
 いずれにせよ、まだまだ自分の目指すゴールではなかったらしい、と仙道は一つ溜息をついたが、それでも昨日から比べれば1歩どころか100歩ほど前進したことは確かだった。
 広い土間に停めてあったロードバイクに未練の目を投げ、それからこれは丁寧に引き戸を開けて外に出、またそっと閉めた。
 日差しは明るいが体を吹き抜けていくのは9月の大分涼しくなってきた海風で助かる。フッと息を吐き出し、ランニングのペースで家の前の道路に走り出た。
 ここからバイト先のホテルまでは歩いても15分程度の近さだった。海沿いの道を、擦れ違う人と車もないままに走り続けると松林のすぐ向こうに、目的の少々くたびれた建物が見えてくる。
 昭和の香り漂うホテルは、創業当時は時代の最先端をいっていたのであろうが、今ではレトロを愛する一部の人間には受けるだろう、旧態依然とした外観だった。内部も外観同様、変色した壁紙や古びた緞帳に時代遅れの調度品が、支配人触れ込みのリゾートホテル、というよりはホーンテッドマンションのようで、それは一年坊時に初めてこのホテルに足を踏み入れることになるT大バスケ部全員の正直な感想だった。
 仙道は敷地内から裏手の従業員入り口に回って、錆びた鉄製のドアを引き開け、すぐ目の前の階段を最上階の5階まで一息に駆け上がった。
「はよーすっ!」
 開店前のカーテンが引かれたガラスの嵌められた重たい木製のドアを押し開くと、ちょっと見ない程に顔の整った男が冷たい視線を投げてきた。
「はい、センドーくん遅刻ね。ペナルティ、田岡監督に伝えとくからしっかりシゴかれろ青少年」
「あれ、藤真さん?なんでここ」
「支配人と呼べ。今日は月イチの朝礼日だろ。ホレおまえが最後だ。早く並べ」
「っす」
 尻を叩かれつつ、仙道は既に着替え終えた従業員の側に頭を下げつつ近づいた。
 このレストランだけは全体に時代遅れのこのホテル内にあって、唯一手が入れられた場所だった。元々の海に向けて全面ガラス張りであった窓以外は、内装も調度もシックモダンに整えられてまだ間がない。仙道が三年前に初めて来た時には一番ナニかが住み着いていそうな場所だった。
 ここは仙道の通う大学の、先輩達の代からバスケ部での長期休暇時のバイトが受け入れられてきたホテルで、傾きかけてきた近年は往年の従業員用の寮を合宿にも使わせてもらっている。
 やはり近年、家業のホテル経営の支配人に落ち着いた部の先輩が一念発起し、話題の若手料理人をコネで引っ張ってきたのが今年の夏の始め。その料理人のためにレストランだけを改装したのだが、これが当たって今ではレストラン、というよりは牧目当ての客が引きも切らず、手が足らなくなって仙道も裏方からレストランのウェイターに格上げされた。
 初めてその料理人、牧がレストランにやって来た時を今でも仙道は思い出す。
 灼けた小麦色の肌に薄茶色の髪。整った男らしい相貌に逞しい体で、海外修行帰りの新進気鋭の料理家としてマスコミに取り上げられていたのを仙道も目にしたことがある。
 人生さぞかし楽しんでらっしゃるのでしょうね、と目は引かれつつも、その時は自分には関わりのない人間だと思っていた。
 自分は男にしか目がいかない。それはもう自覚していたから、保身もあって身近な人間には例え好みであっても極力近づかないように用心していた。
 案の定、女性陣から感嘆と好奇の声が漏れた。皮肉にも性愛の対象として見ることが出来ない異性から多く自分に向けられていた目も、今度はそちらに流れるだろうと少し安心していると、こちらを見ていたその牧と目があった。すぐに興味無さげに逸らされて、だが気づくと自分を見ている牧がいた。
 これはもしかして。
 ニッコリ微笑んでみると、また逸らされる顔。
 急に自分の人生も楽しくなってきたように、その時の仙道には感じられた。



 だが予想は甘かった。
 牧は厳しかった。途轍もなく。
 夏期長期休暇や、繁忙期だけのバイトの仙道にも全く容赦がなかった。ホールのことには口を出さない料理人が多い中で、牧だけは違った。
 制服にたるみがあればドヤされ、出来上がった料理の皿を持ち上げるやり方に文句をつけ、皿に必要以上に触れれば叱責を受け、料理の出来上がりで呼ばれてから少しでも遅れれば罵声が飛んできた。
「ハー…………」
 思わず大きなため息が出る。休憩時間に黄昏ていると、同じく同大からバイトに送り込まれていた福田が顔を上げた。
「やっぱりレストランは大変か」
「うーんまぁ…? なかなか厳しい人がいて」
 福田は変わらず客室係だった。今ではそれが少しばかり羨ましい。
「新しく来た人か?」
「あーまぁ。そう…だけど」
 料理長はこのホテル以上に生きてきた好好爺という言葉が似つかわしい穏やかな人で、新しく入ってきた人間を厳しいと論外に示してしまったことに仙道は反省した。
 牧のことはあまり悪く言いたくない。牧の言っていることは全てまともなことだし、筋が通っている。し、やはり自分の好みのタイプであることには変わらない。
 あの時目が合ったのは、合ったことをお互い確認してから逸らされたように感じられたのは、やはり自分の都合のいい勘違いだったのか、と考えると余計に溜め息にも重みが加わってしまうのだ。
「藤真先輩の知り合いらしいな」
「あーそれで」
 こんな地方の寂れたホテルに来る人間ではないと思っていた。客足はその彼目当てに徐々に戻っているらしいけれども。
「破格の待遇を受けているらしい。ホテルが用意した近所の豪邸に一人で住んでいる」
「そっか」
 そりゃそうか。そうでもなければこんなとこには来ない男なのだろう。一人、ということは結婚はしていないのだなと少し安心する。
「サーフィンをやるらしい」
「あーそれであの肌」
 日サロではなかったわけだ。
「毎日仕入れの前に海に出ているらしい」
 ポツポツと語る福田の喋り方は変わらずとしても、続く福田らしくない噂話を聞き齧ったらしい内容に仙道は眉を寄せた。福田は仙道の性的志向を知っている僅かな人間の一人だった。
「…え、俺なんかバレてる?」
「万年遅刻魔のおまえが毎日真面目に定刻前にバイトに出るようになった、と聞けばなんとなく想像がつく」
「あー…そっか」
 案外わかりやすい自分に苦笑いが漏れる。
「それと海に出る時間は朝ランの時間と重なるらしい」
 合宿時以外もバイト組は部の基礎練習が課せられる。福田の言葉を聞いて、仙道が顔を上げた。
「…サンキュ、福田」
「朝ランにも遅れんな」
「オッケオッケ!」
 安請け合いとは自分でわかっていながら軽く了解すると、表情を変えないままの福田がため息をついた。



 次の日、仙道は早朝行われる基礎練の一つであるランニングの戻り途中で、バイトという口実で海岸をそのままホテルに向かった。
 切れる先の見えない程に長くほぼ真っ直ぐに続く砂浜で、彼の姿を探すのは思っていたよりも簡単だった。ホテルからはさほど離れていない波間に、福田から教えてもらった通り牧の姿はあった。
 夏の盛りとはいえ、平日のこの時間に海に出ている人間は数えるほどだ。仙道は少し離れた砂浜に腰を降ろしてその姿を見守った。
 海は綺麗でもこの海岸の砂は色が濃く、珊瑚礁のある海のような、白い砂浜に海水が水色に透き通って見える景色ではない。そのせいでここは若い人間の間での人気が今一つなのじゃないかと仙道は考える。だが、おかげでハイシーズンの昼間以外は守られている静けさが好きだった。高校からの趣味で続けている釣りの環境にも好都合だった。
 日差しの強い真夏でも、空と海との境が曖昧な茫漠とした景色の中を自在に滑る牧は、見ていて飽きなかった。素人目にも上手いということがわかる。ボディバランスが最高だった。
 波が切れると自ら海に落ち、ボードの上に座って好みの波を待つ。何度目かのその待機時間、波待ち顔が振り返り、自分を捉えた、と思った。濡れた髪が顔に張り付いて表情は見えない。薄く開いた唇に胸が締め付けられるようだった。
 頭が仙道の座る方角に固定されて止まった。その背中に大きな波が当たって、まるで海が自分の元まで牧の体を運んでくれたようだった。牧はボードから降り、脇に抱えて早朝の海を歩む。髪から滴る雫が逆光に煌めいて動悸が止まらない。敢えて視線を逸らしていた仙道の元へ、牧はゆっくりと砂を鳴らし歩いてきた。
「…はようございます」
 怒られるかな、と思いつつ小さく声をかけると、「おはよう」と意外にも穏やかな声が戻ってきた。
「早いな」
「早朝練習帰りなんです。このままバイトに行こうかなーと思って」
 半分嘘ではない、見つかった場合のために用意していた言葉を仙道は返した。
「そうか」
 濡れた牧の体から水滴が一粒、顔に跳ねた。途端、舞い上がって、考えていた言葉が続かなくなる。
 ズッと、砂が重く擦れるような音がして顔を向けると、牧がボードを砂浜に突き刺し立てていた。ふっと潮の香りがして、隣に牧が腰を落とし、仙道はますます舞い上がった。
「今日は練習はないのか」
 瞬間何を問われているのかわからず、間抜け顔を晒すと、牧が首を傾げた。そんな仕草が意外で、思ったより牧は若いのかもしれないと仙道はまた呆けたように考える。
「合宿時以外はフリーか?」
 ああ、バスケ、と思い付いて、「いや、今日はないです」とだけ答えた。そういや次の練習日はいつだったろうか。後で福田に聞かなくちゃと頭にメモする。
「メシは食ったのか?」
 メシ?
 また頭の中でその単語が指し示す事柄を探し出して、朝食のことかと思い付いた時に腹の虫が鳴った。バイト中に滞在させてもらっている元従業員寮の厨房を借りて、部員達で当番制で自分達の食事を用意している。朝は基礎練が終わってから作り始めるから、まだ今日は仙道は何も口にしていなかった。
「まだか」
 波音は腹の鳴き声までは消してくれない。大きく笑いながら牧が言うのに、髪をかきつつ仙道も笑うしかなかった。
「俺もまだだ。食ってくか?」
「…え?」
「家はすぐそこだ」
「え、あ、えぇ?」
「嫌なら、」
「嫌じゃないです!嫌じゃない!」
「じゃあ行くか」
 立ち上がった牧から今度は砂の粒が降ってくる。それを頬に受けて自失から返り、仙道は慌てて立ち上がっていた。



 牧に案内されたのは海から国道を横切ってすぐの純日本風の平屋だった。仙道も何度か通りすがりに見かけたことがある。人が住まなくなって10年以上は経過しているだろう古屋で、辛うじて窓や建具はアルミに変えられているものの、木造の古い家は隙間風も吹き込みそうな心許なさだった。
「…え…ここ…?」
「そうだ」
 豪邸とか、破格の扱いとか言ってなかったか?
 軋んだ音を立てる引き戸を苦労して開けている牧を見て手伝おうとすると、「あまり力を入れるな。すぐに外れる」と忠告を受けた。
「これが…ホテルが用意してくれた家…?」
「ああ、そうだ。職場と海に近いならなんでもいいと言ったんだが、一人にはちょっと広すぎるな」
 え、不満そこ?と思わず突っ込みが入りそうになる。
 足を踏み入れると中も昔ながらの日本家屋で、広い土間にはロードバイクと他にもサーフボードが立て掛けてあった。そこに並べてボードを置くと、牧は「まぁ、上がれ」と言い置いて、朝でも仄暗い家の奥に入っていった。
「すぐに出来る。座ってろ」
 指し示されたのは台所のある部屋の向かいの、元の家主の物だろう大きな使いこまれた座卓が鎮座する和室だった。開かれたままの障子から広縁と縁側を挟んで、草の刈られた庭とその向こうの国道が見える。左手には松林が広がっていて、それを越えればもうホテルの敷地だ。確かに近いは近い。
 国道の向こうにある海は防波堤に阻まれて見えないが、波音はホテルにいる時よりも高く大きく聴こえてきた。聞きなれない時は煩くも感じられたそれが、今は知らず緊張していた体を程よく解いていってくれる。
 ほどなく足音が近付いてきて、これも元の持ち主の物であろうことが推測される大きな木の盆を手にした牧が部屋に入ってきた。ふっとシャンプーの香りがして、シャワーも軽く浴びてきたのだとわかる。そこから意識を逸らそうと座卓に手際よく並べられる皿を見て、その食事の内容に仙道は目を瞪った。
 ホテルのレストランで牧が手掛けているのはイタリアンだ。しかも、大皿ではなく、支配人の藤真に言わせれば本場ではトラットリアではなくリストランテで供される料理だという。そもそもその二つの違いが仙道にはよくわからないが、今座卓の上に並べられているものではないことは確かだ。鯵のひらきにソーセージに味噌汁に納豆。サラダはきゃべつの千切りにトマトが辛うじて乗っていて、もちろんレストランの絵画のような皿を期待していたわけではないが、やっぱり意外に思うのは仕方のないことだと思う。
「これ…」
「なんだ、フルコースでも期待したか?」
「や、まさか! いただきます!」
「おう」
 牧の目許を緩めて笑った顔が優しくてきれいで心に刺さった。が、今は目の前のご馳走を前にして腹が鳴る。正直レストランの朝食のようなものを出されたらこれほどまでに食欲は刺激されない。仙道は手を合わせ、手元に置かれた箸を手に取った。
 しかも旨い。やっぱり美味しい。
「うまいっす!」
「飯と味噌汁のお代わりあるからな」
「はい!」
 あっという間に皿の上の料理を平らげて、牧の言葉に甘えてお代わりまでして、すっかり腹が満ちて、それから仙道は我に返った。
「美味しかったです! すごい美味しかった」
「うん、世辞はいい。切っただけ焼いただけのもんばっかりだ」
「世辞なんかじゃないっすよ。久しぶりに正統な日本の朝飯を食った気分です。自分達だといっつも朝からチャーハンだのカレーライスだので。あ、俺片づけます」
 空になった皿を重ね始めた牧を見て、仙道は自分の前の皿を同じように重ね、脇に置いてあった盆の上に乗せていった。
「カレー? 朝からか?」
「夜に大量に作るんですよ。朝作るの面倒なもんだから。しかも男ばっかでレパートリーないから三日に一度はカレー」
 週の半分は部屋の中に満ちるカレーの匂いを思い出してうんざりしながら、仙道は盆を持って立ち上がった。
「ハハ、変わらんな」
「え?」
 仙道の後から台所に入った牧が笑うのに、仙道は驚いて振り向いた。
「俺もおまえの大学にいたことがある。一年も通わなかったが」
「え、そうなんですか?! 変わらないって牧さんもバスケ部?!」
「藤真と同期だ」
「え…? えぇぇー?! そうだったんですか?! …ん? …え、ということは牧さん…藤真さんと同い年…?」
「…おまえの言いたいことはわかるぞ…?」
 コーヒーの缶を手に取った牧の目が細くなる。仙道は顔の前で慌てて手を振った。
「あ、や、そうじゃなくって! それもあるけど!」
 藤真は仙道の一学年上だった。今年から社会人となり、それまでもホテル経営を手伝ってはいたもののいきなり支配人職についたのだ。ということは、牧も。
「…それもあるのか」
「というか…牧さん、俺より一コ上なだけ…?」
「そうなるな」
「マジかーーー!」
 自分よりは大分上かと思っていた。何に衝撃を受けたかわからないなりに衝撃的で思わず両手で口を押さえてしまう。じと目で自分を見ている牧に気づき、「や、ホラ、牧さん落ち着いてるから!」と仙道はまた慌てて顔の前で手を振った。
「別に。よく言われるし。気にしてない」
 気にしてない、と言いつつ、コーヒーの準備をしながらよく見れば唇が小さく突き出している。
 かわいい。カッコいのにかわいい。ズルイ。
 仙道は思わず自分の着ているTシャツの胸の辺りを掴んだ。
「どうした?」
「…いえ、なんでも。それで藤真さんのいるあのホテルに来たんですか」
「まぁな。あの料理長にも世話になったし。尊敬できる人だ」
 料理人、というよりはどちらかというと某ファストフードの店頭に立っている、等身大の置き人形に似た料理長を思い浮かべて、これもまた意外に思う。
「マスコミに取り上げられてから噂ばかりが先行してる。まだ修行中の身だ」
「そっか。そうだったんですね」
 自分もイメージで、牧がもう料理界では成功した、落ち着いた大人の男であるかと思っていた。若くして単身イタリアに渡ったこともイメージ先行になってしまっていたのかもしれない。
「おまえももう4年だろう。やっぱりプロを目指すのか?」
「あー…」
 自分に話しの矛先が向いて、仙道は言葉を濁した。
 そのつもりで大学でも努力を続けてきた。真っ直ぐにプロを目指すことを疑問にも思っていなかった。それがここに来て揺らいでいる。バスケットしか知らない自分の人生への疑問と漠然とした不安。このままでいいのか、周囲に流されているのではないのだろうか。しかし今更自分からバスケを取ったら何も残らないのではないのか。
 この頃では趣味の釣り糸を海に垂れていても、頭の中は空にはできない。牧の言う通りもう4年。しかも夏は終わりかけていて、部のコーチからの決断の催促が多くなってきている。
「このままホテルに雇ってもらおっかなー。なーんて」
 コンロから蒸気が抑えられている音が聞こえてきて、コーヒーのよい香りが鼻を擽った。牧は台所の上部の戸棚からマグカップを二つ取り出し、銀色の多角形でおもしろい形をしたポットからそれぞれに注ぎ、一つを無言で仙道に突き出した。
「あざっす…」
 なんか牧さん機嫌悪い?と様子を伺いつつ、仙道は礼を言ってマグカップを受け取った。牧は黙ったまま自分のマグカップを片手に、台所から食事を取った部屋を横切り縁側へと足を運び、そこに置いてあったこれも年季の入った籐椅子に腰を降ろした。
 仙道はその横顔を見つめつつ、手に持ったマグカップに口をつけた。
「ッち」
 舌を刺すほどに熱くて苦い。なのに香りが高くて、誘われるようにまたカップに唇を寄せてしまう。
 まるで牧のようだ、と仙道は思う。


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