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遠く、迅雷の聞こえる




「陵南高校有志一同」と大きく書かれた紙が一番上に貼られた、大量の白い厚紙の箱の中味は、さらに一包づつパウチされた水に溶かすタイプのスポーツドリンクだった。
「これは食堂に持っていってもらった方がよかったな」
 気を利かせた職員に、体育館に運ばれて、段ボールから出された荷の山を前に思案していた田岡の言葉に、体育館の施錠確認をして戻ってきた牧が頷いた。マネージャーとして陵南バスケ部員から一人合宿に参加してもらってはいるが、選手全員分をそれぞれの水筒を預かって一人で作るのは合理的ではない。
「持っていっておきます」
「いや、おまえ一人じゃこれを全部運ぶのは手に余るだろ。一年達を呼んで運ばせてくれ」
 了解しつつ、一度後輩に声をかけてまたここに戻る時間が勿体ないと思った。それに選抜された一年生のメンバーは今ペナルティを食らって外周をランニング中だ。2年生は、と考えた時点で面倒になった。何箱か寄せて力を加減しつつ持ち上げれば、前方が見えにくくはなるが自分一人で全部持っていけないこともない。そう判断して道程の中程まで来た時に、体育館からの渡り廊下に敷かれていた簀子に足を取られて、腕の中の箱が崩れた。
 面倒に思わずに戻ればよかった。
 地面に荷物がぶちまけられた未来が見えて観念した時に、脇から突然出現した長い腕に崩れかかった荷が支えられた。崩れ落ちそうになった上の何箱かを、仙道が器用に持って立っていた。
「大丈夫ですか?」
「…あ、ああ、ありがとう。助かった」
「いえ、これどこ持ってけばいいっすか?」
「食堂まで頼めるか?」
「了解っす」
「…ありがとう」
 礼を言う短い時間も待たずに、すぐに向けられた前方を行く広い背中。
 やっぱり俺は嫌われているか?
 思いつつ、いや、嫌ってるやつを助けたりはしねぇよな、とマイナスに傾きそうになる思考を振り払ってその後に続くと、また廊下に上がる段差に足が突っかかった。あ、と思った次の瞬間には半分に減っていた腕の中の箱は結局全て床にぶちまけられた。
 振り返る仙道の眉が下がる。呆れるかと思ったその顔は、ゆっくりと口が笑みの形に引き上げられて、おかしそうに笑い出していた。笑い出した瞬間にバランスを崩した仙道の持っていた箱も崩れて地面にバラまかれた。
「もーナニやってんすかー!」
「おまえもな」
 大人びて見える顔が年相応に無邪気に笑っていて、牧は一緒になって笑いながら、胸に萌す痛みがいよいよ本格化するのを自覚していた。



「思い出し笑い?」
 仙道に覗きこまれて、自分は笑っていたのか、と牧は口元に手をやった。
「うん…いや。起きてたのか」
「なに? 気になるなぁ」
 額を擦り付けるように合わされて目を覗き込まれて、逃げられずに牧は自分の上に覆いかぶさってくる大きな体に腕を回した。額を合わせたまま含み笑いをする仙道は、しなやかで強靭な筋肉を持つ機嫌のよい大きな猫科の獣のようだ。
「昔の…部でのことだ」
 嘘ではないが、ぼかした言い様に仙道も納得した顔は見せなかった。が、抱きしめた腕に力を入れると、長い腕が更に自分の腕の上から体を包み込んできて抱きしめ返され、頬を胸に乗せて追及はせずに大人しく体を重ねてくる。
 大人の男の重み。気を遣って全体重をかけてはいないのだろうが、自分よりも大きい体からの胸を圧する重みと固さは、当たり前だが異性とは違う。それが昨夜、忘我の熱の中に悦びとともに感じられたことで、今はあの仙道の腕の中に自分がいるのだということを面映ゆく実感できて、らしくなくほろ苦い青春時代のことなどを夢に見ていたのかもしれない。
 カーテンから漏れる光りは既に朝のそれで、だがシーツの中で暖かく、滑るように触れる乾いた素肌の感触が心地いい。
「ねえ、牧さんはいつまで休みなの?」
 時差ボケを治すにはその土地の朝からきっちり起きて日の光りを浴びた方が調子がいいのだが、自分を包み込んで離さず、甘く掠れた低い声で囁きかけてくる男は何かと誘惑が多くて困る。隙あらばと伸びてくる指を払いつつ、牧は頭の中のスケジュールを呼び出した。
「今日休んで明日本社に顔を出す。おまえ、今日は休みで大丈夫なのか?」
「うん、2連戦の翌日だからね。明日から練習で週末また2連戦」
 答えながら胸元に落とされる啄むようなキスが、肌をざわめかせて思考を妨げてくる。
「…じゃあ、今日は一日ゆっくりしていられるのかなぁ」
 軽いキスから次第に愛撫と言えるような刺激に変わる。自分を抱き込んでいた腕は解かれて解放されたが、シーツを頭から被りながら長い舌を胸から腹へと這わせ、臍の淵を辿りつつ、とぼけたことを言って見上げてくる男は確信犯で、腕を払う選択肢をえらび取るのが困難だ。
「腹が減った」
 それ以上、下へ向かう前にその顔をどうにか両手で挟んで目を合わせ、どうだ、とばかりに言い放てば、ようやく自分の空腹にも気づいた、とでもいうように仙道は目を見開いて動きを止めた。昨夜はシャワーを浴びてリビングに戻るとすぐにベッドに引き摺りこまれて、それから二人とも何も口にしていない。
「そっか! 俺なんか買ってきます」
「待て待て」
 慌てて牧は体を起こした。その視線の先に、身軽くベッドから降りた長身の、均整のとれた力強い肢体が朝の白い光の中に浮かび、掛けた声に振り向いた高い鼻梁に、洗ったままの黒髪が散る。眩しいのは光だ、と自分に言い訳して、牧は目を細めた。
「なに?」
 呼び止めておいて、なかなか言い出さない牧に、仙道は首を傾げた。
「あーその。何か食べに行かないか? 二人で」
「えー…キツくない? 体…とか」
 一応、長時間のフライトに耐えた後の体を酷使させた、という自覚はあるようだ。それに牧は顔を赤くさせないようにわざと眉を顰めつつ頷いた。
「大丈夫だ。二人でただ外を歩くとか、まだしたことがないだろ?」
「デートだね!」
 逆光で見えないはずの顔に満面の笑みが浮かんでみえた。自分がまたこの男に恋をしているのだ、と自覚するのはこういう時だ。



 考えてみれば、一年の半分弱を仕事で海外で過ごす自分と、オフシーズンは3か月程しかなく、その他は各地方でのゲームを周ることの多い仙道では、予定を合わせてゆっくりと過ごすことは難しかった。
 その上に自分の悋気で仙道に気を揉ませていた期間は、なかなか二人でこうして外を歩くのもなかったことだった。
 全くいい年をして。
 自分の狭量さに呆れて眩暈がするようだ。
 牧は隣を歩く少し高い位置にある顔を見上げた。つくづく整った顔をしている男だ、と機嫌の良い、鼻歌でも歌い出しそうな横顔を見つめた。高校の頃に初めて会った時もそんな感想を持った覚えがあるが、この頃はますます男らしさを増して、年齢相応の艶をも感じさせて牧を落ち着かなくさせる。
「何です?」
 そんな自分に仙道は満面の笑みを浮かべて覗き込んでくる。余裕のある笑みが自分の考えていることまで読めているようで憎くて、「なんでもない」と素っ気ない言葉を返して、牧は視線を反対の通りに向けた。腹が減っているからそんな余計なことまで考えるのだ。適当な店を指して、「あそこはどうだ?」と尋ねると、仙道は首を振った。
「あー、あそこは居酒屋ですよ。ランチはやってるけどまだ開いてないかなー」
「そうか」
 腕時計に目をやれば、なるほどランチ営業の時間までもしばらくある。中途半端な時間に誘ってしまったな、と少し反省しつつ、だが隣を歩く仙道の足どりはどこか目的地があるようで迷いがない。
 車道とは別に歩道が敷設された通りは分離帯に大きな街路樹が植えられている。昨夜の豪雨から引き続き曇ってはいるが、却って洗い流された街に朝の清々しい空気が残る中、車の行き来は少なくはないが歩くには気持ちがよかった。既に就業時間を迎えた静かな平日の午前に、仙道とこうして並んで街を歩くのは新鮮だった。
 しばらくすると少し暑くなってきて、手首まで覆われていたパーカーの袖口を、牧は肘の下辺りまで捲り上げた。アンダーだけコンビニで買って、あとは全身仙道からの借り物の部屋着で、自分には悔しいが少しだけ長い。
「ふふ」
 堪えたような笑みが聞こえてきて、牧はムッと仙道を見やった。
「…なんだ」 
 自分も日本人男性の平均よりは大分長い。高身長の揃うプロバスケ界にあって、身長よりも長いウィングスパンが売りの仙道に比べられるのは心外だ。
「いえ。朝の通りって気持ちいいなーって思って」
「うん、そうだな」
 同じことを考えていたことが単純にうれしかった。頷くと、また笑った仙道の手が確認するように牧の手に触れた。
 ほどなくテナントに入る業種が飲食業よりも会社関係が増えてきたエリアに入り、「まだ歩くのか?」と疑問を仙道に投げた。
「はい、もうちょっと。いいとこあるんですよ。すっげー美味いの。今日は来てるかなー」
 来てる?
 疑問に思いつつさらに5分程歩くと、オフィス街に埋もれたような小さな公園が目に入り、その門の前に改造されたライトバンが止まっていた。アメリカではよく目にしたフードカーの小型版だ。車の脇に立てられた幟にはホットドッグの文字が見えた。
「あ、いたいた。ホームのゲームデーにはアリーナの前にも来てるんですよ。すっげー美味いから牧さんにも食べて欲しくて。公園ん中ベンチあるから座って待ってて」
 そう言うや、仙道はすでに2,3人並んでいた列に足を向けた。注文はいいのか?と考えたが、選ぶほどのメニューはないのかもしれない。牧は緑の濃い公園の中に分け入った。



「はい、どうぞ」
 笑顔とともに差し出されたホットドッグに利き手を伸ばして届かないことに気づいて、左手で受け取った。仙道の顔から途端笑いが消えて、まだ気にしてるな、と牧は内心溜息をついた。
 大学最終学年の練習中の事故で右肘にケガを負った。全く日常生活に支障はないものの、右腕は見た目にはわからないが、最後まで真っすぐに伸ばすことができなくなった。
 バスケットは出来る。が、プロはこの腕が通用するほどに甘い世界ではないということもわかっていた。挫折感はもちろん心に深く根差したが、周囲が惜しむほどに無念だったわけではない。むしろ未来にバスケットボール以外の世界という選択肢が増えたことに、抑えきれない好奇心と意外だった解放感すら湧き出すのを感じた。その感情に負け惜しみがなかったわけではないが、自分の中での切り替えは早かった。
 予てから興味のあった業種の一般企業の内定を取り、大学最後のインカレには出場した。試合の決まった最後の数分は監督の采配でコートにも立たせてもらった。試合が終わり、ロッカールームまで戻る廊下で仙道に会った。見たこともない厳しい顔をして、アリーナの狭い通路を塞ぐように立っていた。
「バスケを辞めるって聞きました」
 U-24ではとことん避けていたくせに。
 苦笑が漏れると仙道は更に顔を強張らせた。
 今、「おまえが好きだ」と告げたら、仙道は一体どんな顔をするんだろう。
 バスケを離れる自分と、日本のバスケットボール界を背負って立つ未来が見えるこの男とは、きっと最後になるのだろうその場で、自分はそんなことを想像していた。
「俺、あの時なんにも知らなくて…あんたに…ひどいこと言った」
「そうだったか?」
 再会し、一緒に飯に行くようになってまずテーブルにぶつける勢いで頭を下げられた。
 極力仙道の耳には届かないように。大学内で箝口令を敷いていたのは自分だ。何度それを言っても仙道の頭から離れない。
「そうだよ。あの時の自分を…ホント殺してやりたい」
「それは困るな」
 手に持ったホットドックを大きく齧るとソーセージの中の肉汁がまず口のなかに広がった。ケチャップだと思っていたソースはどちらかというとラタトゥイユに近いようで、野菜の煮込まれた風味が後から一緒になって広がり、口の中の幸せに牧は顔を綻ばせた。
「美味いな!」
「どんなに謝ってもあの時の言葉を取り消しはできないけど、」
「おまえ、今の俺はかっこ悪いか?」
 牧はぼそぼそと喋り続ける仙道を遮って、食べかけのホットドッグを片手に両腕を広げてみせた。借りたサイズの合わないパーカーの袖口はまた伸びて手首を覆い、よれた仙道のスウェットのパンツに、セットをしていない、手櫛だけで梳いた髪には多分寝ぐせもついているだろう。
 仙道は目を瞬いて、それからじわじわと笑顔になり、とうとう大きく声を上げて笑いながら首を横に激しく振った。
「…カッコいい、カッコいいです!」
「ウソつけ」
 牧も一緒になって笑い、またホットドッグを大きく齧り取った。やっぱり美味い。一緒に挟まれている炒めたタマネギから独特の香りもする。それを指摘すると、
「…ウィスキーで炒めてあるそうです。アルコールは飛ばして」
と、ようやく笑いの収まった仙道は妙に細かく教えてくれた。
「へえ、手が込んでるんだな」
「…うん、美味いから…自分でも作ってみたくて聞いたんだ」
 仙道はそう言うと、自分の手の中のホットドッグにやっと気が付いたように口をつけた。
「うん、美味かった。でもソースは作るのが難しそうだな」
 牧は食べ終えたホットドッグが包まれていた紙を畳み、店の名前を憶えて置こうと公園の出口に目をやったが、通りまで生い茂る緑が邪魔をして視界には入ってこなかった。人気のない公園は静かで、小さく呟くような仙道の声でも耳によく届く。
「ホント…牧さんカッコいいです。…何回でも…惚れ直す」
「うん、」
 ありがとう。俺もだ。
 隣の耳に囁いて、肩を落としたままのデカイ男に体を寄せてキスをした。



 手から地面へ取り落とした男の分と牧のお代わり分とで二つ、ホットドッグをテイクアウトで買って帰り仙道のマンションに戻ると、道中前日の大雨を引き継いだようだった曇天が晴れ上がり青空が広がっていた。
 仙道がコーヒーを淹れている間に牧は洗面室に行き、スーツケースから取り出してあった洗濯物を好意に甘えて洗剤とともに洗濯機の中に入れてスイッチを押した。天気はいいから今からでもこの日の内に乾くかもしれない。
 リビングに入って行くと湯気をあげるマグカップを仙道から手渡され、礼を言って受け取った。香ばしい匂いに思わず笑みが漏れる。キッチンカウンターから伸びたテーブルに設えられたスツールにかけると、隣に仙道もホットドッグと自分のコーヒーを手に座った。高層の窓からは二人で歩いてきた通りが見える。また仙道が留守の時にでも待ちがてら買いに行けたらいいと、あの小さいながら緑の深い公園を目印に探したが、残念ながら視認することは出来なかった。
「…俺のナンパのこと牧さんいつまでも言うけどさー、牧さんもさー」
「なんだ?」
「いえ、随分と手慣れていらっしゃいます」
「なんだそれ」
 笑うと、じっとりとした目をした仙道からホットドッグの包みを渡されて、ああ、さっきのか。と気づいた。
「それよりおまえ、信長に聞いたのか?」
 今更ながらどこから自分のケガの話しが洩れたのか気になった。同大からプロリーガーになった人間の顔を頭の中に並べると、情報が一番洩れそうな後輩の顔が大きく浮かんだ。
「はい。牧さんに再会してから大学時代の牧さんのことも知りたくていろいろ聞いちゃった」
 あいつ…。
 思い出そうとすると高校時代の元気がありあまった姿が蘇って苦笑が漏れた。
 自分の中ではとうに時効を迎えた昔話が、仙道の中からも消えていってくれればいい。 
「牧さんさー、洗濯物乾いたらそのままウチに置いといてくださいよ」
「? なんでだ?」
「ホラ、着替えはあった方がやっぱりいいでしょ? 俺の着てくれるのすっげーうれしいけど」
 ニヤついた顔の視線の先を目を追うと、マグカップを持った自分の手の甲はやっぱりバカデカい仙道のパーカーの袖口に覆われていた。
 牧のムッとした顔は、続いた仙道の言葉で変えられた。
「んで、明日はウチから行けば。会社」
「そうだな。夕飯の材料買ってくればよかったな」
「いいの?!」
 仙道のホットドッグに今まさに食いつこうとしていた顔が驚きに変わって勢いよく振り向き、牧は口を尖らせた。
「なんだよ、おまえが言ってきたんだろ」
「それはそうなんですけどー。やった! 夕飯はテキトーにピザでも取りましょう」
「おまえ、昼はホットドッグで夜はピザとか、」
「じゃあ蕎麦?」
「ホットドッグ以外に料理をする気がないのか?」
「だって。食事はさっさと済ませたいでしょ?」
 横から無遠慮に向けられたバンズからはみ出したソーセージを、牧は音を立てて噛み切った。
「アウチ!」
 そんな事を言って屈託なく笑う仙道がやっぱりかわいい。




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