檳榔花發

 嶺南れいなんの山中は暑かった。南西からの風が生暖かい。夜明け前の薄暗い森の所々には、棕櫚しゅろ檳榔びんろうが生いしげっている。いずれも朱温しゅおんの故郷である中原ちゅうげんでは見られない植物だった。
 山道は登り坂に差し掛かっていた。南方の福州ふくしゅうから出た反乱軍は、首領である黄巣に従って、さらに南方にある広州こうしゅうを目指して南西に移動している。朱温はその一員として行軍していた。

 黄巣はもともと塩商人であった。腐敗し貧苦や蝗害こうがいに苦しむ平民を救わない唐王朝へ反旗を翻し、関係をもっていた武侠ぶきょう無頼ぶらいたちに働きかけて諸国の官衙かんがを荒らし回った。
 反乱は困窮した農民や土地を失った流民るみんも加わって大規模になり、拠点を作らず移動し続ける黄巣の方針もあって、戦火は全国的なものとなったが、唐の名将・高駢こうへんの攻撃、別部隊を率いた黄巣の盟友の戦死によって、唐から罪に問われるであろう主力のみが南方へ逃亡することとなった。
「おーい、みんなァ、もうちょっとで上り終わりだぞー」
 松明たいまつに照らされた韓建かんけんが坂の頂上近くで手を振っている。朱温は背負った天幕を重く感じながら、彼を見上げた。
「建さん」
「元気だなぁー!」
 反乱の成員たちは笑って口々に返事をした。
 朱温は歩きながら韓建を見続けていたが、ふと横に目を反らすと、山中の木に留まっている赤い鳥を見つけた。
 鳥の赤色は鮮やかで、小ささからくる愛らしさと、それに反する毒々しい印象を彼女に与えた。
 
 黄巣は現在の方針に限界を感じ、このままでは唐を征伐して国を建て直すことは難しいと考えた。そこで朝廷と交渉し、交易港の広州に向かい、その地において、地方長官である節度使せつどしの地位を要求することで、独立を図ろうとしている。
 その計画自体に朱温は反対しなかった。広州は外国との盛んな交易によって豊かであり、近郊に存在する隣国・南詔なんしょうと手を組むことができれば、唐を追い詰めることは比較的容易くなるだろう。
 だが、今の朱温は気が沈んでいた。次兄が戦死し、軍中に身寄りをなくしたために。
 韓建とは義兄弟として杯を交わしたが、頼りにしようとは思えなかった。
 黄巣らは山中を抜け、広州城の手前へ陣を構えた。
 首領の黄巣は独立計画の失敗した福州ふくしゅうでの反省を生かして、選抜した成員十名を広州城へ偵察に向かわせることとした。前回は大軍を擁して知識人を招聘しょうへいしようとしたが、儒教に反する素行や、身分・教養の低さを彼らに拒絶された。
 軍の中で比較的穏やかで、頭の回転が速い朱温や韓建は十名の内に入った。
 偵察に次いで知識人の招聘が求められたが、これは必須ではなく、可能であればであった。

 広州には朝から雨が降っている。十名は黄巣のつてを頼って塩商人を装った。地元の富豪らしい塩商人の屋敷は広い。屋敷は瓦葺きであり、緑の豊かな庭には奇岩と魚の泳ぐ池がある。
 朱温は庭園の前の廊下にいた。商いに通じた一人が屋敷の主と談判している間、通りがかった知識人らしい青年へ街の様子を見たいと頼むと、彼は案内を買って出てくれた。
 
 雨は既に上がっていた。朱温は笠を被ったまま通りを歩いた。
 城の外には茅葺かやぶき屋根の街並みが広がっている。灯篭とうろうを吊り下げた楼閣も幾つか点在していた。小さな銅の札を赤い紐で首から提げた妓女ぎじょたちが隣を通り過ぎていく。
 港の前は市場だった。朱温は初めて海の鮮魚を見た。ほかにも、南国の果物である甘蕉バナナ茘枝レイシ、象牙や真珠といった、中原では自然にさんしないものを見た。食品を扱う市の簡素な木造と違い、高級品を扱う店は瓦葺きで、壁に防火の白い漆喰を塗っていた。
 店先で、山中の赤い鳥を籠の中に見つける。これはちんといって、南方のみに生息し、その羽は毒として珍重されるということだ。
 野鳥を売る大食タージーの商人は肌の色が浅黒く、髭を生やしていて、頭を布で巻いていた。彼らは普段城の西にある蕃坊はんぼうに居住しているらしい。
 彼の店の壁には地図が飾られていたが、それは中国の地図と違い南北が真逆であった。これは海へ出る商人たちの目線に由来するのだろうか。
 奥の船着き場を見渡すと、白い三角帆の大型船が泊まっている。これらの船は交易のために、大食タージー天竺てんじく崑崙こんろんよりきたるそうだ。
 城内まで引き返すと、案内の青年は声を潜めて言った。
「あなたのような方がなぜ賊と交わっているのですか? 彼らとの関わりはあなたのためになりません」
 彼のげんに少し驚いたが、朱温は困った笑みを残してその場を後にした。
 人気の少ない通りを歩いていると、
「よう、首尾はどうだ?」
 寺院の瓦屋根の上から韓建が話しかけてきた。彼は焼餅シャオビンを食べている。朱温は頭を上げた。
「広州は繁栄した港町ですね。南海から他国の船がいくつも来るらしい」
「さっきの男、お前に何て言った? 最近元気ないよな、お前」
 朱温は少し思案したが、正直に言われたことを話した。
「……あなたは賊とつるむべき人物ではない、と言われました」
 韓建は笑って、
「そうか。お前は黙っていれば美しい鳥のように見えるからな。黄巣軍うちにはお前を瑞鳥に例える者もいるほどだ」
 と言った。
「……誰です、そんなこと言うのは」
 朱温は怪訝けげんな顔をした。彼は大きく笑って屋根から飛び降りた。彼女の前に立つと、小首を傾げて、
「さあ、誰かな」
 とはぐらかした。

 
「俺は蕃坊に行ったんだが、見たことない丸い屋根の寺院があったな」
「私は天竺から来たという教えの寺院を見ましたよ、具体的なことは知りませぬが」
 広州城を後にした道すがら、二人は自身が得た情報を共有していた。
 黄巣ら反乱軍が占拠し駐屯する駅逓えきていの近くには桑畑が広がっている。数十人の無頼がそこで野営をしていた。中には桑の下で寝て、涼んでいる者もいる。
 韓建は歩きながら桑の様子を一瞥いちべつしたが、すぐに目線を戻して黄巣のいる殿舎でんしゃへ向かった。

 門をくぐると、殿舎の右に楼閣がある。
「よう、お二人とも」
 その二階の屋根の上には、大食の商人のものらしい上着を羽織った男がいた。
孫儒そんじゅか」
 韓建の表情がやや強張こわばる。しかし、すぐに笑いに変えて、
「その服はどうした? よく似合ってるじゃねえか」
 と言った。
「当然、商人から奪ったものだよ。奴らこの国ででかいつらをしやがって許せねぇ。お前らもそう思わねぇか? 」
 孫儒は笑って二人の反応を窺った。沈黙を見て、彼は軽く嘲笑すると、こうまくし立てた。
「思わねぇか。なぁ、お前ら忘れちゃいねぇか? 俺たちはこれからこの街の連中を殺すんだぜ」
 韓建が動揺を表したのを見て、朱温は言った。
「まだ広州節度使への就任を断られたわけではありませんが」
 孫儒は手を横に振った。
「いやいや、何を言ってんだ。朝廷の連中が俺たち賊の言うことを聞くわけねぇだろうが」
 普段喋らねぇくせによ、と低く吐き捨てた言葉は小さかったが、下の彼らには聞こえた。笠を外している朱温の表情は平生と変わらない。
 孫儒は目を反らして立ち上がった。
「まぁ良い。お前らは首領に報告でもしてろ」
 ひとつ上の屋根へ飛び上がり、楼閣の三階に入る彼は打って変わって上機嫌に、中の妓女の名前を呼んだ。妓女は街からここまで連れてきたものらしい。
 韓建はため息をついて呆れた。朱温に顔を向ける。
「あの桑畑、もう駄目だな。手入れができてねぇ。来年に絹織物は作れないだろう。たぶんあいつの策略だよな」
 彼は苦笑いして続けた。絹は何処においても主要な産業たりえる。
「まぁ、"諸城を陥とし唐の財政を圧迫しその支配力を弱体化せしむる"、それが黄巣軍おれたちの策略だがな」
 報告が終わったのち、野営地において、孫儒の命で近辺の機織り機を破壊した者たちの話を聞いた。韓建は、そりゃそうだわな、やるわな、とつぶやいていた。

 駅逓えきていの奥では反乱軍の者たちが粗末な天幕を張って野営していた。朝廷からの返答を伝える使者が来るまでは暇があるので、酒を飲んで騒いでいるものが多い。慣れない気候のためか、横になる者もちらほら出始めていた。
 朱温は黄巣の赤子の世話を手伝っていた。
「いつもありがとうございます」
 黄巣の妻は微笑んで礼を言った。彼女が部屋に戻るまで赤子を抱いてあやしていたのだ。
 朱温は自分の天幕に行く気もせず、宛もなく殿舎をふらついていた。戦死した次兄から、二人の子供を頼む、と言われたことを思い出した。今頃、彼等は実家の母や長兄に育てられているのだろう。途中、幾人かから飲みに誘われたが、断った。
 そのうち、行き止まりに来てしまった。朱温は思い立って屋根の上へ登って休むことにした。
 屋外は薄暗くなっていた。風が生暖かい。紫色の闇へ星々が姿を現す。
 韓建が、我々と同時期に乱を起こした北方異民族の動向について報告していたことを思い出した。彼らはいま官軍に追われ、根拠地より北の土地へ撤退したらしい。また漢土へ侵攻しに来るであろうか。
 ――広州へ来るまでの山中で、彼は手を振って皆を励ましていた……
 考え事に浸っていると、韓建が屋根を登っているのに気付いた。
「よう、こんなところにいたか」
 彼は朱温の隣へ座った。
「飲むか?」
 彼は持っていた瓶子へいしを朱温へ向けた。
「杯がありません」
 彼女がそういうと、
「ははっ、そりゃそうか」
 と照れ笑いをして、中の酒をあおった。一息つくと、普段より落ち着いた声で話し始めた。
「最近気が塞いでいるみたいだな。どうした?」
「別にどうもありませんよ。ただ、ひとつ聞きたいことがあるのですが」
「何だ? 言ってみろ」
 朱温はうつむきつつも彼を見て、無意識に低い声を出した。
「どうしたらあんたみたいになれる?」
 続けて言った。
「何であんたはそんなに元気でいられるんだ?」
 それは、羨望だった。彼女の悲しい眼差しを見て、韓建は目を見開いた。
「……そんな風に見えるのか? 俺が。それはちょっと買い被りじゃないか?」
 彼は少し考え込んた。うーむ、と二度首を捻って返答に悩んだあと、これで良いのかと思いつつ、意を決して素早く立ち上がった。
「いまお前は繊細せんさいになってるだけだ。慣れない土地へ来て、兄を亡くして」
 韓建は励ますように笑った。
「お前はお前のままでいいんだ。変わる必要なんてないよ」
 まぁ、俺が言えることはこれだけだな、と韓建は気恥ずかしそうに頭を掻いている。朱温は彼の思いやりに、霧が晴れたような心持ちがした。

 広州節度使への就任は拒否された。
「なんでも皇帝の娘婿が反対したとか」
「朝廷も一枚岩ではないと思っていたが」
「どうも南詔との連携を警戒されましたかな」
 広州は唐にとっても重要な貿易港である。衰えたとは言え、まだ朝廷にはそれを知る優秀な人材がいた。また、軍中には疫病が流行り、大きな被害を出していた。もうこの地に留まる理由はなかった。
 黄巣は兵を集める伝令を発した。河川の流通網をつたい、各地から武侠、無頼、流民流賊が再び結集する。中には朝廷からの逃亡兵もいた。
 広州城は瞬く間に火の海へ包まれた。孫儒は家々の屋根を駆け回って付け火をし、逃げ惑う外国商人を切り捨てる。刀は奪ったであろう南海の首狩り族のものであった。
 兵たちは略奪と放火を繰り返す。家々の内に用意されていた火災用の荷車へ奪った品を積み重ね、城の外へ運び出していった。
 朱温は楼閣の上へ立って、燃える街を眺めていた。港へ逃げ惑う彼らは、略奪を行う北方の異民族たちとは違い、貿易を求めてこの国へやってくる。どうして殺す必要があるだろうか?
 彼女は港へ手を伸ばした。

 ちくしょう、奴ら街を燃やしやがって――
 劉知謙りゅうちけんは広州の牙将がしょうであった。のちに子らが十国のひとつ・南漢を建てることとなるが、今はそのことを知らない。
 彼は黄巣軍と斬り合いをしている内に、本隊とはぐれてしまっていた。賊たちは少人数の隊を組んでおり、数度打ち合ったあと、すぐに屋根へ飛び上がって逃走してしまう。
 舌を出して逃げた者を追って、人気ひとけのない楼閣の前へ出た。息を巻いて見上げると、赤いほうを着た女が楼閣の屋根に立っていた。
 彼女は優雅な赤い鳥のようであった。劉知謙は数瞬見とれてしまった。
 しかし、女の憂いを帯びた優しげな風貌はこの場に不似合で、不気味ささえ感じさせた。
 彼は正気に戻り、その差異に戦慄せんりつした。
「お前、名は」
 思わず彼は女を問いただした。
「朱温」
 彼女は笑っていらかの上を飛び、姿を消した。

 反乱軍はいかだを作り川を遡上そじょうしていく。朱温と韓建は共にいた。孫儒らは略奪品を見せびらかし合っている。
 黄巣に率いられた彼らは、のちに唐の首都である長安をとした。
1/1ページ
    スキ