綠水之波瀾

  今の長安は酷い有り様だ。なんたって人が人を喰らってるんだからね。そのうえ街を燃やし、財産を奪ったり女をさらったりするのは官軍も反乱軍も同じなんだ。私はこんな混沌を求めちゃいない。私が反乱軍に身を投じたのは……
  大言壮語だが、笑わないでくれよ?

 ──つまらん仕事だ。
  李克用りこくようは内心苦々しく思っていた。十年以上前に彼がとう王朝へ起こした反乱の罪をつぐなうため、唐の官軍に加わって漢民族が起こした反乱を鎮圧する。
 漢民族が起こした反乱──黄巣こうそうの乱を起こした反乱軍は、高騰する塩税や中央への賄賂わいろを求める地方官の過酷な徴税や、蝗害こうがいへの対応に不満をめた黄巣という塩の密売商人を首魁とし、主に彼の仲間と、生活を苦にした農民たちによって構成されていた。
 現在、彼らに占領された都・長安は朝廷が募兵ぼへいした官軍に包囲されており、江南から米の輸送路を閉ざされたことで食糧がほとんど尽きていた。
 加えて城内は反乱軍や官軍の攻撃に伴う略奪・放火によって荒らされており、長安の人々は食肉として反乱軍に拐われる、財貨を奪われるなどの悲惨ひさんな状況に置かれていた。
 しかし、それらは李克用にとってどうでもよいことだった。彼は自身が首長をつとめる部族・沙陀さだ、彼に従う韃靼タタールなどの北方に暮らす遊牧民族の生存のみを重視しており、彼らに利害をほとんど及ばさない反乱の鎮圧や、多くの漢民族が住む中原ちゅうげんの混乱に興味はなかった。無論、反乱を起こされ長安からしょくに逃げた皇帝への忠誠心もありはしない。
 ──全く、父上も余計なことをしてくれたものだ。中原で覇権を得ようなど馬鹿馬鹿しい。
 かつて李克用が起こした沙陀の乱は彼の父が主導したものであり、十七にして将とされ、矢面やおもてに立たされた李克用にとって、黄巣の乱の鎮圧は父の野望の面倒な後始末だった。
 苛立ちとは裏腹に、李克用率いる黒装束くろしょうぞくの精鋭・鴉軍あぐんは反乱軍相手に快勝していた。統率された騎兵の機動力、突進の衝撃力は食に事欠ことかく敵の歩兵を上回る。敵兵は崩れ、こもっていた華州かしゅうの城へ逃げ帰り始めた。

 李克用は先陣を切って追撃し、弓に矢をつがえた。弦を引き絞って敵兵に矢を当てるたび胸の底が冷える。賊軍の境遇に同情することはない。しかし、人の命を奪うということは重く、手が震えそうになる。こんなことを他の者が思うのかは知らない。無視して素早く次の矢を射掛ける。
 背後には鴉軍のみならず自分を推戴すいたいする諸部族が続いているのだ。味方の生存を考えれば、この程度の感傷は捨てるべきなのだが。
 追撃を止め軍中に引き返すまでに、煩悶はんもんを押し留めて忘れるように努めた。

 朝方、川で馬に水遊びをさせていると、その”女”は現れた。
「これはこれは。お会いするのは二度目ですかな。李克用殿」
 朱全忠しゅぜんちゅう。元の名は朱温しゅおんといったか。賊軍を裏切って官軍に付いた農民あがり、とは聞くが、幹部に救援要請を送って十度も断られたとあっては、造反ぞうはんも無理のないことかもしれない。
「何の用だ」
 振り替えると、朱全忠は赤い袍を着て、革靴を履いている。
「べつに何も。水を汲みにきただけですよ」
 朱全忠は手に持った竹の水筒を掲げて見せた。
「見たところ、お一人のようですね。何か悩み事でも?」
  李克用は内心ぎくりとし、思わず顔を背けた。
「お前には関係ないだろう」
 相手がどんな人物であれ、今は誰とも話す気はない。李克用は言葉に威圧を込めた。
「はいはい。お邪魔なようですから、退散させていただきますよ。水は別のところで汲みます」
 朱全忠は彼の心中を察したのか、苦笑して早々に引き返した。特にひるんだ様子もないようだ。
 誰もいなくなった川縁で、草地に寝て空を見上げる。風が吹き、雲は現世の混乱などとは関係なく流れていく。日が昇り始めた。

 朱全忠は悪辣あくらつな人物のようには見えなかった。
 軍営をうかがうと、彼女はすでに戻って軍内の視察に回り、部下をねぎらっていた。噂に違わず朱全忠の兵卒には軍令がよく行き届いており、統制されている印象を受ける。兵員は数百。その上、彼ら兵卒は主君である朱全忠に絶対の信頼を置いているようだった。
 成程この様であれば、官軍も男装という理由でこの部隊を排除することもないだろう。有用な兵力を無駄に減らしたくないと見える。
 とはいえ、自ら弓を取って従軍し、侍女に騎射を教える妃を持つ李克用──ひいては沙陀ら遊牧民にとっては、女が軍を率いること自体そう珍しくもないのだが。
 全体を一瞥いちべつして、早々に場を離れた。少し遠いところから、子供たちと婦人の遊ぶ声が聞こえる。話に聞くと孤児を育てているらしい。李克用と妃の間には子がない。
 我ながら子供がいないことは惜しいことだと思った。

 反乱軍は長安郊外にある華州の城にこもって抗戦している。
 李克用ら官軍が攻め寄せ、城を取り囲むと、反乱軍の兵士が一人、城壁の上に登って官軍を大声で罵倒し始めた。李克用は配下の胡騎こきに命じて兵士を射させたが、誰一人として兵士に矢を命中させることが出来ずにいた。
 このまま敵からの侮辱に対抗できなければ、自軍のみならず全軍の士気や面子めんつに関わることは明白。加えて官軍も一枚岩ではない。
 李克用が鴉軍から将を出すか決めかねていると、折よく朱全忠から使者が送られた。
「父から遣わされました。朱友裕しゅゆうゆうと申します」
 衆目の中、その十五、六歳の少年は馬を駆って弓を引き絞り、壁上にいる兵士の急所を射抜いた。全軍は沸き立ち、歓声が山谷に響き渡る。
「見事だ」
 李克用は感嘆して朱友裕に良質な弓と百の矢をおくった。

 華州の城は陥落した。賊軍は大勢の捕虜を連れて中原に逃げたようだ。
 驪山りざんが黄金の夕日に照らされ、やがて夜の青い闇に沈んでいく。全軍は長安に帰還することになった。
 朝靄あさもやが山野を覆う。冷たい空気が肌に触れた。雲の隙間から日の光が差す。朱全忠は薬草を採っていた。
 軍営に帰るため、彼女が草の生い茂る木立を通ろうとすると、突如二人の男が刀を持って襲いかかった。
「朱温、覚悟!」
「おおっと」
 朱全忠が籠を捨てて剣を抜くと、男の首に矢が刺さった。叫び声ののち、後ろの男も声をあげる。倒れた男の首には、前の男と同様に左から射られた矢が刺さっていた。
 左を向くと、百歩離れたやぐらの上に李克用が弓を降ろして立っていた。
「油断するな。一人でふらつく大馬鹿が」
 朱全忠は剣を鞘に納め、散らばった薬草を籠に集める。
「一人でもなんとかなりましたよ、独眼竜どの」
 李克用は舌打ちした。独眼は彼にとって不快感を味合あじあわせるものであった。
「ただまあ、一応感謝はしておきましょう。それにしても、たいした武勇だ。この距離から当てるとは」
  彼女は立ち上がって木立を出て、自分の首を軽く二度叩いた。
「はっ、面白くないが、まあいい。先程のは水に流してやろう」
 彼は櫓から降りて歩き、朱全忠の前に立った。
「……それはなんだ」
連翹レンギョウですよ。薬湯にするつもりです」
 その花は黄色かった。朱全忠の首元を見ると、袍の下に鎧を着込んでいるのがわかった。
「お前……」
「ああ、これですか? 軽いものの方がやり易いのですよ」
 目線で気付かれたらしい。賊軍が周辺にいないため鎧を外していると思ったが、どうも抜け目のない性質たちのようだ。
「……帰る」
 心配して後を追うだけ無駄だった。

  長安城内は静まり返っていた。官軍、賊軍の入れ替わりが激しかったこと、両軍共に略奪、放火を行ったことから、いま官軍が賊軍を追い払って入城しても人々は息を潜め、歓声をあげるものはなかった。高楼は燃えて崩れ落ち、街からは死臭が漂う。首を吊った白骨死体が高楼の焼け跡に見えた。
  宮殿は六割方焼け焦げている。被害を受けていない一部の殿舎でんしゃ論功行賞ろんこうこうしょうがなされた。参列者の並んだ控え室や廊で、事前に宦官かんがん楊復光ようふくこうとその他 内官ないかんが宮廷での作法を一人一人に説明している。李克用が官軍に加わったのは彼の提案によるものである。
 軍務といいこの手の雑務といい、仕事のできる奴だ。
 李克用が指導を受ける合間に朱全忠の様子を横目で見ると、楊復光と若干気まずそうにしつつも、お互いに苦笑している様子が窺えた。楊復光は朱全忠の投降に一枚噛んでいたらしい。
 なんだあれは、と嘆息して内官の話に意識を集中させた。

 宮中を退出し、伴の少年・存孝そんこうを連れて街路を見物がてら歩く。長安には焼けた家屋がちらほらあるが、流通が正常化したために、商いの行われている主要な路には活気があった。とはいえかげりはある。行商から使いの子供たちにやる蒸餅チョンビンを買い、天幕のある城外まで帰る途中、従者を伴った朱全忠に出会った。
「おや、奇遇ですね。お帰りで?」
「……朱全忠」
「相変わらずお堅い表情かおですね。そちらの少年は家僮かどうですか? 将来有望そうだ」
 朱全忠は存孝に向かって微笑ほほえんだ。存孝は持っていた籠を腕に下げて拱手きょうしゅする。李克用が口を開いた。
丁度ちょうどいい。今宵は祝勝を兼ねて我々の親睦を深めようではないか。天幕に案内する。ついてくると良い」
 朱全忠は驚いて目を丸くした。
「おや? 意外なお誘いですね。てっきり嫌われているものかと思っておりました」
 色々と思い当たる節があるので、言葉に窮したが、同意を取ることができた。

 城門周辺は荒廃が激しく、生きている人間はほとんど見当たらない。路地を覗けば、瀕死の病人や孤児が汚れた路に倒れているかもしれなかった。
 楼閣の焦げた門を通り城外に出ると、青い草原が広がっている。北側の、門外からそう離れていない場所には賊軍の死体が積まれていた。李克用は天幕のある南に向かった。逆光が眩しい。
「そういえば、官軍の中には敵兵の死体を積んで京観けいかんとするものが居りましたね。あれには驚いたものですが……」
「そんなもの北方では珍しくもない。俺もこの目で見たのは初めてだがな」
  李克用が立ち止まって振り替えった。なにが面白いのか、朱全忠は立って死体の山を眺めていた。
「戦というのは、面白いものではありませんよね?」
「……そうだ。さっさと行くぞ」
 その近くにはあまり居たいものではなかった。粗雑に返して背を向ける。朱全忠は従者に、
「先に行ってくれないか。彼と話したいことがあるのでね」
 と言った。何を話すつもりだろうか?
 存孝も李克用に確認をとって従者とともに立ち去った。二人を見送り、話とはなんだ、と口を開きかけたとき、
「殺人は不得手ふえてですか?」
 朱全忠はすかさず聞いた。
「は?」
 ……こいつは何を言っているんだ?
「いや、言い方が良くありませんね。殺人に抵抗がありますか──と聞きたかったのです」
 彼は心中を見透かしたような彼女の態度に動揺した。
「そんなこと俺たちが気にしてどうなると言うんだ、戦が無くなる訳でもあるまい」
 質問の意図を測りかねた。沙陀の首長としての話か、個人的な話か。いま発した声は動揺で震えてはいなかっただろうか。李克用の不安をよそに、
「ふ、ははは!」
 朱全忠は口を押さえて笑い出した。さも愉快そうに。
「いや、面白い! 異民族の王が殺人をいとうとは!」
 ほがらかな笑いは続いていた。李克用は恥ずかしさのあまり彼女の、らしくない、らしくないが──という言葉の続きを聞かずに、
「なにが可笑おかしい! お前とて元は農民だろう! 先程お前も戦を厭うようなことを言ったが、農民なら農民らしく細々ほそぼそと畑を耕しておれば良いではないか!」
 と言い返すと、朱全忠は笑いを止め急に押し黙った。李克用は戦慄した。
「その通りだ。生きるだけなら、他人を殺さない方法はある」
 低い抑揚のない声。
「それでも私は手を汚した。私は自分が何に突き動かされているのかわからない……」
 これほど強い怨念を隠していた人物を、彼は生涯見たことがなかった。
「ただ怒りだけが──っと」
 朱全忠ははっとしていつもの調子に戻った。
「……いや、申し訳ない。おかしなことを口走った、かな……?」
 李克用はいても立ってもいられず、朱全忠に近づいて両肩をつかんだ。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ。やはりこんな所にいるのがいけない、早く離れよう」
 彼女は少し目を見開いたあと、苦笑した。


 夕方、野営地では沙陀の人々が羊の肉を振る舞う準備をしていた。朱全忠の兵士たちも宴会に加わる。笛や太鼓が用意された。朱全忠の妻と李克用の妃が楽しげに会話している。朱友裕と穏やかそうな壮年の男が手伝いを申し出てくれた。
 李克用は馬に乗って近くの広い池へ向かったらしい。朱全忠は人づてに聞いて行方を追った。

 柳のそばに馬を留める。水際の亭子ていじに李克用がいた。
 真珠の耳飾り、黒い袍、帯、革靴は漢人と変わらない出で立ちだ。しかし、幾筋いくすじも編んだ長髪は胡人特有の習俗であろう。

「釣りですか」
 朱全忠が隣に座った。李克用は釣り糸を垂らしたまま、
「宴会に魚でも持っていこうかと思ってな」
 と言った。少しの間のあと、李克用が口を開いた。
「お前の妻だが、あれは──」
「彼女は知り合いの娘さんでね。反乱の騒ぎの中で会ったものですから、側に置いたほうが安全かと思いまして」
「そうか」
 がまの生えた水面に風がそよぐ。
「私には出来た子ですよ。そちらの奥方はお一人なのですか?」
「……子が出来ぬから、新しく妃を迎えることを彼女から勧められていてな」
 朱全忠が黙っているのに気が回らなかったが、李克用は糸を見つめて、言い出すか迷っていたことを口にした。
「べつに、敬語でなくとも良いのだぞ。その方が気楽だしな」
 意外に思ったようだが、朱全忠は、
「ではお言葉に甘えて」
 と微笑びしょうした。夕闇が辺りを覆い始める。魚は一向にかからない。
「……先刻さっきお前の息子と話している男がいたが、あれは兄か?」
「ああ、一番上の兄だよ。次兄じけいは戦で死んだ」
「俺も弟が死んだよ。ほとほと戦には疲弊させられる。部族が平穏に生きられるのなら、俺はそれで良いのだがな」
「…………」
 沈黙のあと、朱全忠は李克用に近づいた。
「……その釣竿、釣り餌が付いていないようだけど」
 李克用は釣りをよく知らなかった。釣竿は部下が天幕の近くに落ちていたものを拾ったのだ。
「……釣る気あるの? それ」
 苦笑いされると、余計に辛かった。

 宴会の翌朝、李克用ら沙陀は反乱軍を長安から追い出した功績で罪を許されたため、彼に従った諸部族と共に北方へ帰ることとなった。朱全忠とその部下ら数百人も節度使せつどしとして任地へ向かう。
 出発の半刻前、最後に彼女へ個人的な別れの挨拶をしておきたかった。部下の手前だと気軽に話せないからだ。
 これは李克用が首長としての立場から高圧的な態度を取ってしまいがちであることも影響していた。
 朱全忠は川縁の木の上に腰掛けて居た。男物で緑の襦裙じゅくんを着ている。
「何をしている」
 李克用が見上げて声をかけると、
「聞いて覚えた詩を思い出していた。近頃有名な詩人のものだ。君は知ってるかな」
 彼女は木から降りた。
洛神らくしんといえば、他にもよく知られている詩があるね」
 朱全忠は李克用に背を向けて歩き出す。──微幽蘭之芳藹兮、歩踟蹰於山隅。彼女が吟じる詩の意味はわからないが、
「先日の晩は楽しめたか? 俺はこれから北に帰る。お前は賊の逃げた先に行くのだったな」
 言いたいことは言っておきたかった。
「気を付けろよ」
 風が草木を揺らす。彼女が振り替えって話そうとすると、前方から馬に乗った部下が駆けてきた。鎧を着ている。男は馬から降りて礼をした。
「朱全忠様、半刻前ですのでお迎えに上がりました」
「やあ、君か。楊彦洪ようげんこう。ご苦労だね」
 彼女は顔をこちらに向けた。表情は明るく見える。
「親切にありがとう。ところで、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ」
 李克用はあごで先を促した。
貴方あなたがた北族ほくぞくは資源や人手を得るために屡々しばしば略奪を行うが、それについて貴公・・はどうお考えで?」
 笑みを浮かべているが、その目は真剣であった。風が強く吹き、木々がざわめく。李克用は顔を少し伏せ、頭に手を当てた。
「──ああ、そんなことか。仕方あるまい。略奪それは俺の決めることではない。俺は民の望みにこたえるだけだ」
 気にしても仕方のないことを思い起こされ、朱全忠らの隣を横切り苦々しい心持ちで馬に乗る。馬へ掛け声をやって草原に駆け出した。突然何を言い出すのかと思えば。
 あの場から遠く離れた頃、彼女の表情を思い出した。その虚を突かれた表情かおには、悲しみの色が差していなかっただろうか。
 疑念は従者の男の、不可解なにらんだ眼差まなざしにき消された。


 数ヶ月後、中原のちん州が反乱軍に四方しほうを包囲された。周辺のじょ州、きょ州、べん州から救援要請が来る。汴州は朱全忠の任地である。李克用は笑って、北の諸部族と漢民族を混成した五万の兵を率いて出陣した。

 黄河を南へ渡り許州の近辺に天幕を張る。陳州の城は頑健に抵抗しているようだが、四方を賊軍に囲まれていた。
 それよりも不気味なのは、賊軍の陣や彼らが拠点とする南から炊煙すいえんが全く見えないことだった。噂によれば連中は人を食糧としているらしい。おそらく長安から連れてきた捕虜を使っているのだろう。おぞましい話だ。
 許、汴、徐、沙陀の連合軍で、陳州の北側に布陣している主力を西・北・東の三方から攻め寄せる。
 仮子かしとした李存孝は戦場でよく働き、戦いの中で武勇を磨いていた。
「この耳飾り、汴軍の兵からかっこいいって言われました」
 いつの間にか他軍の兵士と馴染んでいたらしい。軽く二度と頭をでると、銀の輪の耳飾りが揺れた。照れくさそうだ。
 賊軍の二つの陣を破ったのち、陳州は解放された。陳州を守っていた将は馬上の朱全忠を城に迎えた。朱全忠は周辺地域の人心を得ているらしい。首魁の黄巣が汴州に程近い地へ逃げたと聞いて、朱全忠は急ぎ汴州に戻った。

 曇天どんてんがさらに暗くなる。翌日、大雨が降り、黄巣が陣を張っていた地は水浸しになった。汴州へ使いを出して挟撃を提案する。互いの兵によって一部の賊軍を殲滅せんめつすることに成功した。
 すると、今度は城の目前に迫った賊軍を撃退した朱全忠の方から連絡が来た。崩れた敵の挟撃を再度狙い、許州の歩兵にも協力をあおいで出陣する。
 正面を彼らに任せ、側面を叩くため騎兵を率いて突撃する。しかし、泥土でいどに足をとられてうまく進めない。賊の兵は槍や刀剣をもって抗戦している。半刻もしないうちに、汴州の兵が到着し、賊軍を北東と南西から挟み撃ちにすることができた。ここで側面を取れたのなら、包囲殲滅が可能なのだが。矢が尽きたため武器を刀に持ち変える。数刻も経たない内に、賊軍は北へ、我々の兵列のない西よりに迂回うかいしつつ壊走かいそうした。

 河を渡って逃げる賊軍を追う。馬を泳がせ、補給した矢で賊を射た。どうも負傷で溺死しているものも多い。黄巣は本拠地に近づこうとしたのか、東へ逃走し始めた。投降する兵もおり、捕虜になった男女はおそらく数万人。遠目に朱全忠とすれ違う。
 日が暮れる頃には人馬も疲れ果て、付いてきた騎兵も疎らになっていた。追撃を止め、体力が続かず後方に残った部隊のいる地点まで戻り、鹵獲ろかくした財貨や人など戦利品を分配した。
 
 戦後処理が落ち着くと、汴州の兵が使いに来た。彼は、わが主は貴方様の戦勝を祝って宴会を開こうとしている、ぜひ城までお越し頂きたい、という旨のことを述べた。
 喜んで参加したい。返答を送り、李克用は三百騎を連れて館に向かった。

 宴会では上等な肉類、饅頭(マントウ)、果物が出た。朱全忠は礼を尽くし、大量の酒壺を用意している。
 酔った部下に請われて今回の戦で挙げた武功について身振りを交えて語った。次第に酔いが回る。妓女の声楽がはっきり聞き取れなくなってきた。気分が高揚する。
 なにか話の流れか、感激して思わず朱全忠の手を取った。連携が上手くいったことについて、直前に部下が話していたような気がする。自分でも何を言っていたのかわからないが、感謝の意を伝えたと思う。その後すぐに泥酔して倒れたとき、揺れる瞳に映ったのは、彼女の苦笑いだった。

 顔にかかった冷たい水で目が覚めた。
「汴帥(べんすい)が殿の殺害を謀っております!」
 郭景銖(かくけいしゅ)の声だ。それを聞き取って、顔まで届く水面、灯りのない暗さ、被せられた布に気づいた。館の床下にいるらしい。彼は自分を脇に抱えている。
 反射的に上へあがると、李存孝が弓矢を掻き集めて来た。帷幕の向こうに車と繋がれた柵と数十から百以上の兵士がいるようだ。射掛けられる矢の中、外へ出て応戦するが、火の手が四方から迫ってきた。激しい雷雨が降り、闇も相まってお互いの姿が視認できない。指笛で馬を呼ぶ。部下たち数人もそれに倣った。馬は嘶きながら、焼けて崩れかける館を飛び越え駆けてきた。乗馬して、前方で敵を引き付けている者たちと逆へ向かう。
 車と柵は館を円形に取り囲んでおり、一人も逃さない構えを取っていた。考えを巡らせたそのとき、雷光が車に落ち、車の一部が焼け崩れた。逃げ道はこれしか無い。馬に乗ったまま燃える瓦礫を飛び越えて、全員が囲いを抜け出した。
 大雨に打たれながら馬を走らせる。城門への道中にかかる橋で数名の兵士が待ち伏せしていた。雄叫びをあげて突撃する薛誌勤(せつしきん)を援護し二人を射た。彼は二刀で三人を討ち取ったが、奥にはさらに多くの兵士が並んでいた。こちらの矢が尽きかけているのを察して、史敬思(しけいし)が殿を買って出た。

 奮戦する彼を残して、城門へ走った。涙が雨に流される。何処で間違えたのか。何を見落としたのか。脳裡にあの言葉が蘇る。
 ──ああ、そうか。「我々と貴方がたは相容れない」、ということか。
 ならば、すべきことは決まっている。
「殺す」
 涙は止まらず、悲しみと後悔が胸を埋め尽くした。


 閃光の中、櫓の上から彼が逃げるのを見送る。楊彦洪が報告した。
「大雨で見分けがつかず、李克用を殺す計画は失敗に終わりましたが、胡人は皆、馬に乗ります。騎乗の者を射れば城内で連中を殲滅することができるでしょう」
「そうかい」
 朱全忠は左右の兵に目で合図を送り、楊彦洪を押さえさせた。驚く彼をよそに、彼女は剣を抜いて彼の胸を突き刺す。楊彦洪は口から血を吐いた。
「悪いが、お前にはこの件の首謀者になってもらう。彼が生き延びるかどうかは五分五分ってところだけど…… ま、いずれにせよお前は始末するつもりだった。扱い辛いんだよね、君」
 朱全忠は楊彦洪の耳元でこう呟いた。
「安心しろよ。君の望みは叶えてやるから」
 胸から剣を抜き、息絶えた彼を放って、朱全忠は階段を降りた。血を払って剣を納める。下には参謀や将軍たち、反乱軍の捕虜から沙陀の捕虜となっていた人々が揃っていた。
 李克用、私は君とは違うよ。私は他人(ヒト)の指図は聞かず、自らの意思で行動する。己が罪業に圧し殺されるまで。
「やぁ、君たち。ここからが始まりだ」
 彼女は笑った。
「共に中華の安寧を取り戻そうじゃないか」
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