薔薇の香
花を描くのが苦手だった。木々や人物、動物や果物を描くことは造作もなかったが、花の色彩には目が眩む。素描では簡単に形をとらえることができるのだが、色を塗っていくときにはいつも筆が迷い、かろうじて花と見なすことのできる赤や白の塊が葉の上に塗りたくられている不恰好な絵が出来上がる。特に薔薇は難しい。薔薇は率直すぎる。その色彩の鮮やかさ、明るさは、当時の私の心を憂鬱にした。
アイザックとメアリーは数少ない私の友人だ。同じ大学で油絵を専攻していたが、二人とも一学年上の先輩だった。
アイザックは気さくで温和、多くの友人に恵まれていたが、周囲の人々とは異なっており、立ち振舞いや言葉の内、透徹 とした灰色の瞳は優しさと厳しさを兼ね備えていた。初めて彼を見たとき、私はこのような人物がいるのかと目を見張った。今でもはっきりと彼の姿を脳裏に描くことができるほど、私は彼に惹き付けられた。
メアリーは周囲から孤立していた私に好奇心を持ち、度々からかってきた。彼女に話しかけられるのは不愉快ではなかったが、私は彼女よりもアイザックに興味があった。
「花を描くのが苦手なの? じゃあ練習しよう。僕が描き方を教えるから」
アイザックは私を植物園に連れ出した。初めは桜を、次は蘭を描いたが、どちらも描き方を教わる前には不気味な印象だった。彼の教え方は丁寧で、私の思い込みや認識の不足を指摘し正しく導いてくれる。おかげで上達にはさほど時間がかからず、目で見た通りの花が描けるようになった。私が彼のことを誉めると、
「君の呑み込みが早いからだよ」
と言って少し照れたように微笑んだ。その微笑みは私に、彼のような人と友人になれたことは人生においてこの上ない幸運だと思わせた。しかし、薔薇においては彼の指導も実を結ばなかった。
「薔薇は苦手だ。何より色がきつい」
「他の花はだいぶ良くなったのにね」
アイザックは不思議そうにこちらを見た。
「じゃあ、息抜きに他の絵でも描く? 例えば人物画」
「俺が人を描くとどうも冷たい印象になる。向いてないのかも知れないな」
「僕を描くのはどう?」
「は?」
思わず変な声が出てしまい、彼は目を丸くした。
「え、そこで驚くの? 君ってやっぱり面白いよね」
何か含み笑いをする彼を見て私はやや不機嫌になったものの、薔薇を描けない原因について彼にもあたりをつけられたらしい。全くあたりをつけられていないという訳ではなく、単に薔薇への印象、心理的な忌避感からそれが描けない。
そうだ。私は率直に気持ちを伝えるのが苦手だ。他人を信用することができない。皆本質的には自分や身内のことだけを考えているのではないか。他人のことには目もくれないし、もちろん私も他人を正しく捉えることができるわけではない。その上一貫性がなく気分によって考えをころころ変える。己にせよ他人にせよ、どちらも期待するには不信を拭い去ることができない。
だが、アイザックは違う。アイザックは私に向き合ってくれる。私のような無愛想で排他的な人間にもその暖かい眼差しを注いでくれる。彼がいるからこそ、私はこの無関心な世界で生きるのも悪くないと思えるのだ。だからこそ、私も彼に同様の親愛を贈りたくなる。しかし、どうしても感情を伝えるのは面映 ゆいとともに気がひける。
彼を描くことはどうにか断ったが、代わりに私の家で絵の講評をすることになった。彼も植物園でいくつか油絵を描いていたので、合わせて10枚ほどになった。アイザックは部屋を物珍しそうに見回している。
「へぇ~、ずいぶん広いね。家具が少ないからかな?」
「広くはないだろ」
「あっ、写真だ」
低い棚の上にある写真には父と母、子どもの頃の私が写っていた。
「お父さんとお母さんかな。今日は留守なのか」
「いや、死んだよ。少し前にな」
普段であれば誤魔化すところだが、彼相手なら構わないと思って正直に話した。アイザックは少しうつ向いた。
「そうか。道理で人気がないわけだ。この部屋に置いてあった家具とか、売っちゃったの?」
「まあ、金無いしな。卒業までの学費を払ったら貯金も底をつく。売れるものは売っておいたほうが生活が楽なんだよ」
「……お父さんとお母さんのことは好きじゃなかった?」
絵を並べながら質問している彼の表情はよく見えなかった。
「育ててもらって感謝はしてるけど、それだけだな。二人とも俺に興味あったのかよくわからないし」
一通り講評を終えたあと、アイザックは廊下に掛けてある作品を眺めていた。夜空を描いたもので、縦横2メートルある。星のよく見える田舎に出掛けて長期休暇の間に仕上げたものだ。
「その作品がどうかしたか」
「綺麗だね。暗くて冷たくて……でも寂しそうだ」
彼はこちらを向いて悲しげに微笑んだ。
「コニー、君を愛しているのは僕だけじゃないんだ。君もいつかきっとそのことに気づくだろう」
突然かけられた言葉に私は心臓を掴まれたような心地がした。彼の言うことがそのときはわからなかった。
ある寒い日、大学に向かう途中でメアリーと出会った。彼女は厚手のコートを着てズボンを履いていた。
「最近はアイザックと仲良くしているようね。話していて面白い人? 彼」
「ああ、面白いというか…面白がられてるのかな」
「面白がられてる? わかるわ、彼の気持ち。あなたって本当からかい甲斐があるわよね」
メアリーはくすりと笑った。
「そのマフラー、彼にもらったんでしょ。編み物が得意らしいわね。自由で良いと思うわ、そういうの」
彼女が自由というのは当時の価値観を念頭に置いてのことだ。
「あいつは周りのこと考えてるような考えてないような奴だからな」
二人でアイザックの話をしていると、後ろから青年が慌てて駆けてきた。
「メアリー、大変だ! 彼が、彼が――」
その狼狽ぶりは彼女を驚かせたが、私は彼の様子を関心もなく眺めていた。しかし……
「ちょっと、落ち着いて! 何があったの」
「アイザックが――アイザックが死んだんだ。寝ているときにストーブの故障で。彼の家に行ったのだけど」
耳を疑った。性質の悪い冗談かと思った。私は息を切らしている青年の胸ぐらを掴んで問い詰めた。
「おい、お前今何て言った? 冗談のつもりか?」
メアリーの同級生は小さな悲鳴を上げ、目線で彼女に助けを求めた。
「だ、誰だ。離せ。メアリーの知り合いか?」
「止めなさい、コンスタンティン。ジョン、この子は私の友人」
彼女は私たちの間に割って入り、毅然として私の腕を押さえ、青年を気遣った。そして私に向かって、
「ここで彼を責めても意味がないのよ。確かめたいなら彼の家に向かうしかない。私も彼とは同級だし、事実をこの目で確かめたい」
と言った。
それから先のことはよく覚えていない。彼が病院に運ばれたこと、一酸化炭素中毒で睡眠中に亡くなったことを知ったが、彼の葬式には行かなかった。その後、徴兵があり、私は戦場に行って死んでも良い気持ちで訓練に臨んだ。しかし配属されたのは戦場ではなく国内だった。
兵役を終えたのち、アイザックの墓参りに行った。葬式には参加しなかったが、どんな様子だったか、どこに埋葬されたかはメアリーの手紙から知らされていた。
電車は市街を抜け、バスは墓地に向かった。霧が濃く、朝日の差し込む余地はなかった。墓地に並ぶ白い墓碑たちは、私の目には無機質に見えた。
私は彼の墓に薔薇を手向けて立ち尽くし、泣いた。この世のどこにも彼のいないことを認めなくなかった。
しかし私は生きてこれからも彼のいない世界を過ごすだろう。なぜ運命は私から生きる歓びを奪ったのか。答えは出なかった。
帰路、霧は晴れて眩しい日の光が人々の行き交う街を照らしたが、私の心は沈んでいた。
復学し大学を卒業して家を引き払ったあとは、かつて繊維工場だったビルの空き部屋で暮らした。なるべく家賃のかからないところに住みたかった。
その地区は工業の衰退によって廃墟となった工場や倉庫が増えており、夜間は人通りが全くと言っていいほどなかった。部屋には寝台と机、椅子のほかはキャンバスとアイザックがくれた彼の作品を持ち込んだ。白い窓の向こうには青空と麦畑が広がっている。青空の中心にはコバルトブルーの星が光輝く油絵。これを見ている間は心が慰められた。
昼は広告の仕事をし、早朝や夜には作品に取りかかることもあった。特に雨の日の静寂な青さや深夜の無音は、日々心臓に溜まる鬱屈を吐き出させる。描いた作品は小さな画廊のグループ展に出すこともあったが、他人の作品で興味の引かれるものはなかった。
部屋の高い天井と窓は日の光をよく取り入れた。休日の晴天には、夜間に明かりが漏れないようすべての窓に掛けた黒い布をひとつだけ外し、椅子に座ってぼんやり青空を眺めることが習慣になっていた。
その日も私は背もたれに寄りかかって晴れた空を眺めていた。
すると不意に隣の窓を叩く音がした。建物の中央には非常階段が取り付けられていたのだ。黒い布を押し退けて窓の外を見ると、一人の青年が立っていた。
「上に越してきました。どうぞ宜しく」
そう言うと彼は小さいバスケットの牛乳を示した。私はその超然とした態度に驚いたが、窓を押し上げ、手渡された瓶の牛乳を受け取った。呆気にとられた私を残して、彼の姿は階段を上がって見えなくなった。
彼の名はヨハネスといった。芸術家で、生花や造花を使った作品を作っているらしい。内階段ですれ違うとき、花束や液体の入った容器を運んでいるのをよく見かける。お互い軽く会釈はするが、口をきくことはなかった。たまに二、三人の友人が車を停めて運搬の手伝いに来ていたのを見かけたことがある。
ある日の早朝、車の後部にはマリーゴールドが溢 れんばかりに積まれていた。彼は同乗していたようで、運搬後に友人と別れたあと作品に取りかかっていたようだ。
寝台に横たわって天井を眺めていると、がたがたと物を動かす音が聞こえる。その日から二日間は何かを動かしている音がしばしば聞こえていたが、夜間は注意しているのかそれほど音がしなかったので、不快には思わなかった。
しかし、今回は少し大きい。それほど大がかりな作品を作っているのかと思いを馳せていると、突然何かが勢い良く割れた音が聞こえた。高いところから落としたらしく、衝撃は大きかった。
しばらく経っても物音がしなかったので、様子が気になって外階段を登り彼の部屋を見た。窓は空いていて、彼はこぼした液体を拭いていた。飛び散ったガラスはそのままにされている。風が窓から吹き込み、開いているカーテンを揺らして、ヨハネスがこちらを見た。
「ああ、迷惑だったか? 蓋を落としてしまってね」
私はその声の落ち着きように少し面食らった。
「いや、大丈夫かと思って……塵取りいるか?」
彼が頷いたのを見たあと、箒と塵取りを持って、空いた窓から彼の部屋に入ってガラスの片付けをした。ヨハネスは新しい蓋を取り付けている。
「助かるよ。いつも騒がしくして済まないね。花の匂いが君の部屋まで溢れてなければ良いのだけど」
彼の声音は抑揚がない。しかし不器用な優しさが滲 んでいた。私は下を向いてガラスを集めながら返事をした。
「問題ない。片付けたらさっさとお暇するよ」
と言って彼の方を向くと、マリーゴールドに埋もれた骸骨が目に入った。それはガラスケースの中に納められており、満杯の液体で固められていた。
私はそれを気に入った。
「とても良いな」
「気に入ったか?」
「ああ」
それは死を直接型どっていたが、恐怖を表してはいなかった。死を前向きに受け入れ直視する意志があった。骸骨は模型だが重厚だ。メキシコの祭りを参考にしているのだろうが、作品は陽気さよりも荘厳な力強さを放っている。奥に他の作品もあったので、興味を惹かれて彼にたずねた。
「奥のものは何だ」
「あれは『安らぎ』という作品だ」
古い天蓋付きの寝台に白、青、黄、赤、桃など色とりどりの造花が飾られ、骸骨が寝かされていた。花は薔薇や百合、ガーベラ、ユッカだった。これも死の恐怖ではなく、人生の果ての大往生を表現しきっていた。
彼は私と違って死に不吉な、後暗い印象を抱いていない。やがて訪れる人生の終わりまで生き抜く深い洞察と確かな意思があるのだ。
私は一通り彼の作品を見て感嘆した。
「やはり他人の考えは面白いな。それに比べて俺自身は少しも面白くない。だから余計にそう感じられるんだろうな」
思わず笑みをこぼすと、ヨハネスは初めて表情を変えた。虚を突かれたようだった。
「そんなことはないよ。前に君の作品を画廊で見たが、あれは良い出来だった」
動揺を感じ取れたが、少し俯 いたあと、私に向き直り落ち着いた声で、
「しかし、停滞しているように思えたな。あれが君の全てなのか?」
と言った。
停滞? 停滞とはなんだろうか。自分の作品が停滞しているという指摘に一瞬疑問を抱いたが、思い返してみれば微かな違和感はあった。私は作品を描く時、それが何か考えるのを放棄して見逃し続けていたことに気付いた。目を逸らしていた事実に気付かせた彼の言葉は不意に私の心の栓を引き抜き、底に燻っていたものを徐々に湧き出させた。
「確かに、俺の作品はまだ不完全だ」
彼の意見には賛成だった。しかし、意地の悪い嫌味な笑みが浮かぶのを止めることができなかった。
「じゃあ、どうすれば良いんだ? お前には解決法がわかるのかよ。この心に溜まったやりきれなさの」
「………」
私の高圧的な物言いに対して、ヨハネスは黙っていた。とはいえ言いたいことはあるようだった。
「……片付けを手伝ってくれてありがとう。今日はもう帰ってくれ」
冷たい声だったが、悲しさが滲んでいた。そのあとは気まずくなって自分の部屋に帰った。
私も言いすぎたのだ。
数日後、買い物から帰って部屋の扉を開けると、メアリーが寝台に腰掛けていた。私は驚いた。
「メアリー」
「こんなところにいたのね。教えてくれないなんてひどいわ」
「どうやって知ったんだ」
「扉開けっ放しだったわよ。無用心ね」
「……いや、すぐ帰ってくるつもりだったから」
「それより、ヨハネスと喧嘩したらしいじゃない。彼、落ち込んでたわよ」
ヨハネスの名前が彼女の口から出たことは意外だった。
「彼と知り合いなのか?」
「そう。知人のギャラリーでよく会うから」
メアリーがここにいること、彼が彼女の知り合いだということに困惑していると、ヨハネスが扉の前に現れた。メアリーを探していたらしい。私とヨハネスはお互い目を逸らした。ほぼ初対面の相手に厚かましい態度を取ってしまった気まずさがあった。
「あーあ、何やってんの。二人とも仲良くなれそうなのにねぇ」
彼女は呆れ顔で溜め息を吐いたあと、突然思い付いたように手を叩いた。
「そうだ。ヨハネスもコニーの作品を観てみれば良いじゃない。ちょうど壁に並べてあるし」
私たちの間に起きたトラブルをヨハネスから聞かされていたらしい。
「勝手なことをいうな。そもそも急に押し掛けてくるなんて――」
言うがはやいか、ヨハネスは私の三、四ある作品を眺めていた。メアリーも寝台から降りて鑑賞し始めた。私は文句も言い切れず立ち尽くした。
こうして他人に作品を見られるのはやはり気恥ずかしい。
この時期描いていたのは冷たく輝く星や青い夜、静かな街、白い天使だった。
「やはり良いじゃないか。君はまだ伸びるよ。この間は不躾な言い方をして申し訳なかった」
ヨハネスが謝ると、こちらも申し訳ない気持ちになった。
「いや、いいんだ。こちらこそすまない。急に押し掛けて機嫌悪くするなんておかしいよな」
彼は落ち込んだように見えたが、私はこの雰囲気をどうして良いかわからずまごついていた。
「ねぇ、これは貴方のじゃないわよね」
メアリーが後ろで話したので、私たちは振り返った。
「ああ、僕も気になっていたんだが……買ったものか?」
ヨハネスが聞いた。二人が見ていたのは、アイザックのくれた絵画だった。
「死んだ友人の作品なんだ。形見だな」
口にしたあとで、また場が気まずくなる余計なことを言ったと思った。
「そうか」
「…………」
ヨハネスとメアリーは作品を見て少し黙っていたが、ヨハネスが不意に口を開いた。
「見ていて思ったのだが、この絵を描いた人は君のことを心配しているようだな」
言い終わると、彼ははっとして目を伏せた。
「すまない。また踏み込んだことを言ってしまった……かな」
申し訳なさそうにこちらを見る彼の言葉を聞いて、私は唐突に気づいた。
そうだ。誰にでも美点と欠点がある。どちらかだけの人間などそういない。
私は自分の至らなさを棚に上げて他人をよく嫌悪していたが、それは間違いだ。しかし、殊更 に自分を嫌うのもまた間違いなのだ。人は自分というガラスを通して物事を見る。ガラスの色は濃くても薄くてもいけない。
「いや、ありがとう。今まで気付かなかったから」
私はアイザックのことを思い続けていたが、彼の想いには気付いていなかった。ようやく彼にまた会うことができた。私が微笑むと、ヨハネスは、
「そうか」
と言って含羞 んだ。
「今の二人の表情、良かったなぁ。撮りたくなるよ」
メアリーは快活に笑った。
それから私たちはよく会うようになった。ヨハネスとは芸術について語り、メアリーには外に連れ出され、街の図書館や美術館を見て回った。
その日は公園へ連れ出された。彼女は二眼カメラを持っていた。互いに話をしながら並んで歩いていると、彼女はふと止まって、木々や鳥、空、遊ぶ子供たち、憩う人々をフィルムに収めた。
微笑む彼女が見ている自然や人々に目を向けると、心からわだかまりが出ていき、爽やかな風を自然に受け入れることができた。アイザックのような心を持つ人は特別ではないのかもしれない。誰しも、大なり小なり彼のような誠心を持っているのだ。大切なものは昔からそこにあった。
「メアリー、ありがとう」
「あら、どういたしまして」
メアリーは不思議そうに微笑んだ。
私は私の信じる作品を描こう。
アイザックとメアリーは数少ない私の友人だ。同じ大学で油絵を専攻していたが、二人とも一学年上の先輩だった。
アイザックは気さくで温和、多くの友人に恵まれていたが、周囲の人々とは異なっており、立ち振舞いや言葉の内、
メアリーは周囲から孤立していた私に好奇心を持ち、度々からかってきた。彼女に話しかけられるのは不愉快ではなかったが、私は彼女よりもアイザックに興味があった。
「花を描くのが苦手なの? じゃあ練習しよう。僕が描き方を教えるから」
アイザックは私を植物園に連れ出した。初めは桜を、次は蘭を描いたが、どちらも描き方を教わる前には不気味な印象だった。彼の教え方は丁寧で、私の思い込みや認識の不足を指摘し正しく導いてくれる。おかげで上達にはさほど時間がかからず、目で見た通りの花が描けるようになった。私が彼のことを誉めると、
「君の呑み込みが早いからだよ」
と言って少し照れたように微笑んだ。その微笑みは私に、彼のような人と友人になれたことは人生においてこの上ない幸運だと思わせた。しかし、薔薇においては彼の指導も実を結ばなかった。
「薔薇は苦手だ。何より色がきつい」
「他の花はだいぶ良くなったのにね」
アイザックは不思議そうにこちらを見た。
「じゃあ、息抜きに他の絵でも描く? 例えば人物画」
「俺が人を描くとどうも冷たい印象になる。向いてないのかも知れないな」
「僕を描くのはどう?」
「は?」
思わず変な声が出てしまい、彼は目を丸くした。
「え、そこで驚くの? 君ってやっぱり面白いよね」
何か含み笑いをする彼を見て私はやや不機嫌になったものの、薔薇を描けない原因について彼にもあたりをつけられたらしい。全くあたりをつけられていないという訳ではなく、単に薔薇への印象、心理的な忌避感からそれが描けない。
そうだ。私は率直に気持ちを伝えるのが苦手だ。他人を信用することができない。皆本質的には自分や身内のことだけを考えているのではないか。他人のことには目もくれないし、もちろん私も他人を正しく捉えることができるわけではない。その上一貫性がなく気分によって考えをころころ変える。己にせよ他人にせよ、どちらも期待するには不信を拭い去ることができない。
だが、アイザックは違う。アイザックは私に向き合ってくれる。私のような無愛想で排他的な人間にもその暖かい眼差しを注いでくれる。彼がいるからこそ、私はこの無関心な世界で生きるのも悪くないと思えるのだ。だからこそ、私も彼に同様の親愛を贈りたくなる。しかし、どうしても感情を伝えるのは
彼を描くことはどうにか断ったが、代わりに私の家で絵の講評をすることになった。彼も植物園でいくつか油絵を描いていたので、合わせて10枚ほどになった。アイザックは部屋を物珍しそうに見回している。
「へぇ~、ずいぶん広いね。家具が少ないからかな?」
「広くはないだろ」
「あっ、写真だ」
低い棚の上にある写真には父と母、子どもの頃の私が写っていた。
「お父さんとお母さんかな。今日は留守なのか」
「いや、死んだよ。少し前にな」
普段であれば誤魔化すところだが、彼相手なら構わないと思って正直に話した。アイザックは少しうつ向いた。
「そうか。道理で人気がないわけだ。この部屋に置いてあった家具とか、売っちゃったの?」
「まあ、金無いしな。卒業までの学費を払ったら貯金も底をつく。売れるものは売っておいたほうが生活が楽なんだよ」
「……お父さんとお母さんのことは好きじゃなかった?」
絵を並べながら質問している彼の表情はよく見えなかった。
「育ててもらって感謝はしてるけど、それだけだな。二人とも俺に興味あったのかよくわからないし」
一通り講評を終えたあと、アイザックは廊下に掛けてある作品を眺めていた。夜空を描いたもので、縦横2メートルある。星のよく見える田舎に出掛けて長期休暇の間に仕上げたものだ。
「その作品がどうかしたか」
「綺麗だね。暗くて冷たくて……でも寂しそうだ」
彼はこちらを向いて悲しげに微笑んだ。
「コニー、君を愛しているのは僕だけじゃないんだ。君もいつかきっとそのことに気づくだろう」
突然かけられた言葉に私は心臓を掴まれたような心地がした。彼の言うことがそのときはわからなかった。
ある寒い日、大学に向かう途中でメアリーと出会った。彼女は厚手のコートを着てズボンを履いていた。
「最近はアイザックと仲良くしているようね。話していて面白い人? 彼」
「ああ、面白いというか…面白がられてるのかな」
「面白がられてる? わかるわ、彼の気持ち。あなたって本当からかい甲斐があるわよね」
メアリーはくすりと笑った。
「そのマフラー、彼にもらったんでしょ。編み物が得意らしいわね。自由で良いと思うわ、そういうの」
彼女が自由というのは当時の価値観を念頭に置いてのことだ。
「あいつは周りのこと考えてるような考えてないような奴だからな」
二人でアイザックの話をしていると、後ろから青年が慌てて駆けてきた。
「メアリー、大変だ! 彼が、彼が――」
その狼狽ぶりは彼女を驚かせたが、私は彼の様子を関心もなく眺めていた。しかし……
「ちょっと、落ち着いて! 何があったの」
「アイザックが――アイザックが死んだんだ。寝ているときにストーブの故障で。彼の家に行ったのだけど」
耳を疑った。性質の悪い冗談かと思った。私は息を切らしている青年の胸ぐらを掴んで問い詰めた。
「おい、お前今何て言った? 冗談のつもりか?」
メアリーの同級生は小さな悲鳴を上げ、目線で彼女に助けを求めた。
「だ、誰だ。離せ。メアリーの知り合いか?」
「止めなさい、コンスタンティン。ジョン、この子は私の友人」
彼女は私たちの間に割って入り、毅然として私の腕を押さえ、青年を気遣った。そして私に向かって、
「ここで彼を責めても意味がないのよ。確かめたいなら彼の家に向かうしかない。私も彼とは同級だし、事実をこの目で確かめたい」
と言った。
それから先のことはよく覚えていない。彼が病院に運ばれたこと、一酸化炭素中毒で睡眠中に亡くなったことを知ったが、彼の葬式には行かなかった。その後、徴兵があり、私は戦場に行って死んでも良い気持ちで訓練に臨んだ。しかし配属されたのは戦場ではなく国内だった。
兵役を終えたのち、アイザックの墓参りに行った。葬式には参加しなかったが、どんな様子だったか、どこに埋葬されたかはメアリーの手紙から知らされていた。
電車は市街を抜け、バスは墓地に向かった。霧が濃く、朝日の差し込む余地はなかった。墓地に並ぶ白い墓碑たちは、私の目には無機質に見えた。
私は彼の墓に薔薇を手向けて立ち尽くし、泣いた。この世のどこにも彼のいないことを認めなくなかった。
しかし私は生きてこれからも彼のいない世界を過ごすだろう。なぜ運命は私から生きる歓びを奪ったのか。答えは出なかった。
帰路、霧は晴れて眩しい日の光が人々の行き交う街を照らしたが、私の心は沈んでいた。
復学し大学を卒業して家を引き払ったあとは、かつて繊維工場だったビルの空き部屋で暮らした。なるべく家賃のかからないところに住みたかった。
その地区は工業の衰退によって廃墟となった工場や倉庫が増えており、夜間は人通りが全くと言っていいほどなかった。部屋には寝台と机、椅子のほかはキャンバスとアイザックがくれた彼の作品を持ち込んだ。白い窓の向こうには青空と麦畑が広がっている。青空の中心にはコバルトブルーの星が光輝く油絵。これを見ている間は心が慰められた。
昼は広告の仕事をし、早朝や夜には作品に取りかかることもあった。特に雨の日の静寂な青さや深夜の無音は、日々心臓に溜まる鬱屈を吐き出させる。描いた作品は小さな画廊のグループ展に出すこともあったが、他人の作品で興味の引かれるものはなかった。
部屋の高い天井と窓は日の光をよく取り入れた。休日の晴天には、夜間に明かりが漏れないようすべての窓に掛けた黒い布をひとつだけ外し、椅子に座ってぼんやり青空を眺めることが習慣になっていた。
その日も私は背もたれに寄りかかって晴れた空を眺めていた。
すると不意に隣の窓を叩く音がした。建物の中央には非常階段が取り付けられていたのだ。黒い布を押し退けて窓の外を見ると、一人の青年が立っていた。
「上に越してきました。どうぞ宜しく」
そう言うと彼は小さいバスケットの牛乳を示した。私はその超然とした態度に驚いたが、窓を押し上げ、手渡された瓶の牛乳を受け取った。呆気にとられた私を残して、彼の姿は階段を上がって見えなくなった。
彼の名はヨハネスといった。芸術家で、生花や造花を使った作品を作っているらしい。内階段ですれ違うとき、花束や液体の入った容器を運んでいるのをよく見かける。お互い軽く会釈はするが、口をきくことはなかった。たまに二、三人の友人が車を停めて運搬の手伝いに来ていたのを見かけたことがある。
ある日の早朝、車の後部にはマリーゴールドが
寝台に横たわって天井を眺めていると、がたがたと物を動かす音が聞こえる。その日から二日間は何かを動かしている音がしばしば聞こえていたが、夜間は注意しているのかそれほど音がしなかったので、不快には思わなかった。
しかし、今回は少し大きい。それほど大がかりな作品を作っているのかと思いを馳せていると、突然何かが勢い良く割れた音が聞こえた。高いところから落としたらしく、衝撃は大きかった。
しばらく経っても物音がしなかったので、様子が気になって外階段を登り彼の部屋を見た。窓は空いていて、彼はこぼした液体を拭いていた。飛び散ったガラスはそのままにされている。風が窓から吹き込み、開いているカーテンを揺らして、ヨハネスがこちらを見た。
「ああ、迷惑だったか? 蓋を落としてしまってね」
私はその声の落ち着きように少し面食らった。
「いや、大丈夫かと思って……塵取りいるか?」
彼が頷いたのを見たあと、箒と塵取りを持って、空いた窓から彼の部屋に入ってガラスの片付けをした。ヨハネスは新しい蓋を取り付けている。
「助かるよ。いつも騒がしくして済まないね。花の匂いが君の部屋まで溢れてなければ良いのだけど」
彼の声音は抑揚がない。しかし不器用な優しさが
「問題ない。片付けたらさっさとお暇するよ」
と言って彼の方を向くと、マリーゴールドに埋もれた骸骨が目に入った。それはガラスケースの中に納められており、満杯の液体で固められていた。
私はそれを気に入った。
「とても良いな」
「気に入ったか?」
「ああ」
それは死を直接型どっていたが、恐怖を表してはいなかった。死を前向きに受け入れ直視する意志があった。骸骨は模型だが重厚だ。メキシコの祭りを参考にしているのだろうが、作品は陽気さよりも荘厳な力強さを放っている。奥に他の作品もあったので、興味を惹かれて彼にたずねた。
「奥のものは何だ」
「あれは『安らぎ』という作品だ」
古い天蓋付きの寝台に白、青、黄、赤、桃など色とりどりの造花が飾られ、骸骨が寝かされていた。花は薔薇や百合、ガーベラ、ユッカだった。これも死の恐怖ではなく、人生の果ての大往生を表現しきっていた。
彼は私と違って死に不吉な、後暗い印象を抱いていない。やがて訪れる人生の終わりまで生き抜く深い洞察と確かな意思があるのだ。
私は一通り彼の作品を見て感嘆した。
「やはり他人の考えは面白いな。それに比べて俺自身は少しも面白くない。だから余計にそう感じられるんだろうな」
思わず笑みをこぼすと、ヨハネスは初めて表情を変えた。虚を突かれたようだった。
「そんなことはないよ。前に君の作品を画廊で見たが、あれは良い出来だった」
動揺を感じ取れたが、少し
「しかし、停滞しているように思えたな。あれが君の全てなのか?」
と言った。
停滞? 停滞とはなんだろうか。自分の作品が停滞しているという指摘に一瞬疑問を抱いたが、思い返してみれば微かな違和感はあった。私は作品を描く時、それが何か考えるのを放棄して見逃し続けていたことに気付いた。目を逸らしていた事実に気付かせた彼の言葉は不意に私の心の栓を引き抜き、底に燻っていたものを徐々に湧き出させた。
「確かに、俺の作品はまだ不完全だ」
彼の意見には賛成だった。しかし、意地の悪い嫌味な笑みが浮かぶのを止めることができなかった。
「じゃあ、どうすれば良いんだ? お前には解決法がわかるのかよ。この心に溜まったやりきれなさの」
「………」
私の高圧的な物言いに対して、ヨハネスは黙っていた。とはいえ言いたいことはあるようだった。
「……片付けを手伝ってくれてありがとう。今日はもう帰ってくれ」
冷たい声だったが、悲しさが滲んでいた。そのあとは気まずくなって自分の部屋に帰った。
私も言いすぎたのだ。
数日後、買い物から帰って部屋の扉を開けると、メアリーが寝台に腰掛けていた。私は驚いた。
「メアリー」
「こんなところにいたのね。教えてくれないなんてひどいわ」
「どうやって知ったんだ」
「扉開けっ放しだったわよ。無用心ね」
「……いや、すぐ帰ってくるつもりだったから」
「それより、ヨハネスと喧嘩したらしいじゃない。彼、落ち込んでたわよ」
ヨハネスの名前が彼女の口から出たことは意外だった。
「彼と知り合いなのか?」
「そう。知人のギャラリーでよく会うから」
メアリーがここにいること、彼が彼女の知り合いだということに困惑していると、ヨハネスが扉の前に現れた。メアリーを探していたらしい。私とヨハネスはお互い目を逸らした。ほぼ初対面の相手に厚かましい態度を取ってしまった気まずさがあった。
「あーあ、何やってんの。二人とも仲良くなれそうなのにねぇ」
彼女は呆れ顔で溜め息を吐いたあと、突然思い付いたように手を叩いた。
「そうだ。ヨハネスもコニーの作品を観てみれば良いじゃない。ちょうど壁に並べてあるし」
私たちの間に起きたトラブルをヨハネスから聞かされていたらしい。
「勝手なことをいうな。そもそも急に押し掛けてくるなんて――」
言うがはやいか、ヨハネスは私の三、四ある作品を眺めていた。メアリーも寝台から降りて鑑賞し始めた。私は文句も言い切れず立ち尽くした。
こうして他人に作品を見られるのはやはり気恥ずかしい。
この時期描いていたのは冷たく輝く星や青い夜、静かな街、白い天使だった。
「やはり良いじゃないか。君はまだ伸びるよ。この間は不躾な言い方をして申し訳なかった」
ヨハネスが謝ると、こちらも申し訳ない気持ちになった。
「いや、いいんだ。こちらこそすまない。急に押し掛けて機嫌悪くするなんておかしいよな」
彼は落ち込んだように見えたが、私はこの雰囲気をどうして良いかわからずまごついていた。
「ねぇ、これは貴方のじゃないわよね」
メアリーが後ろで話したので、私たちは振り返った。
「ああ、僕も気になっていたんだが……買ったものか?」
ヨハネスが聞いた。二人が見ていたのは、アイザックのくれた絵画だった。
「死んだ友人の作品なんだ。形見だな」
口にしたあとで、また場が気まずくなる余計なことを言ったと思った。
「そうか」
「…………」
ヨハネスとメアリーは作品を見て少し黙っていたが、ヨハネスが不意に口を開いた。
「見ていて思ったのだが、この絵を描いた人は君のことを心配しているようだな」
言い終わると、彼ははっとして目を伏せた。
「すまない。また踏み込んだことを言ってしまった……かな」
申し訳なさそうにこちらを見る彼の言葉を聞いて、私は唐突に気づいた。
そうだ。誰にでも美点と欠点がある。どちらかだけの人間などそういない。
私は自分の至らなさを棚に上げて他人をよく嫌悪していたが、それは間違いだ。しかし、
「いや、ありがとう。今まで気付かなかったから」
私はアイザックのことを思い続けていたが、彼の想いには気付いていなかった。ようやく彼にまた会うことができた。私が微笑むと、ヨハネスは、
「そうか」
と言って
「今の二人の表情、良かったなぁ。撮りたくなるよ」
メアリーは快活に笑った。
それから私たちはよく会うようになった。ヨハネスとは芸術について語り、メアリーには外に連れ出され、街の図書館や美術館を見て回った。
その日は公園へ連れ出された。彼女は二眼カメラを持っていた。互いに話をしながら並んで歩いていると、彼女はふと止まって、木々や鳥、空、遊ぶ子供たち、憩う人々をフィルムに収めた。
微笑む彼女が見ている自然や人々に目を向けると、心からわだかまりが出ていき、爽やかな風を自然に受け入れることができた。アイザックのような心を持つ人は特別ではないのかもしれない。誰しも、大なり小なり彼のような誠心を持っているのだ。大切なものは昔からそこにあった。
「メアリー、ありがとう」
「あら、どういたしまして」
メアリーは不思議そうに微笑んだ。
私は私の信じる作品を描こう。
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