追憶の国

「……けれど先生。私はそれでも生きていくしかないと思ったのです」
 女が、私の事務所の椅子に座って、俯き加減に言う。あの国を出て転々としたらしい彼女は、あの大量出国からさらに半年が経った今になって、渡しておいた名刺を頼りに、ここまで来たのだった。あの国で私を案内してくれた彼女とは別人のような、しかし、そのどこかに、確かに、あのときの彼女がいるような。
 女の目は、その髪と同じく、深い黒色だった。
「『保管所』を失って初めて、私たちは、外の人たちと同じように世界を見ました。『幽霊』のいない世界を。それは本当に、絶望でした。もう、私は兄に会えないのだと思うと、胸の奥から地面に崩れ落ちていくような、世界の全てが私に冷たくそっぽを向いてしまったかのような、そんな気がしました」
 女の声は、以前と同様に淡々としているが、それは既に、何かを信じる者の冷静さゆえではなかった。そのことが私の胸を冷たく重く、そして僅かに安堵させた。
「私も、他の全ての国民同様に、絶望しました。そう、あれが本当に、絶望というものだったのでしょう。信じていたものが、頼っていたものが、瞬間に消え失せたのです」
 特に信心する対象を持ち合わせていない私にも、その心情は、察するにあまりある。事前に「文章にしてくださっても構いません」と言われてはいたが、そんな気には到底なれそうになかった。
「あの国を復興して、そのまま暮らし続けようとは、とても思えませんでした。……外の人たちには、我々のそういう姿が、利己的に映ったのではありませんか」
 それまで伏せられていた彼女の目が、私をまともに見上げた。どきりとして、思わず、視線を逸らす。逸らすべきではないと思いながら。女の視線が、頬に突き刺さるのを感じる。
「我々は、我々の国は、一世紀近くに渡って、記憶を保存し、『幽霊』と共に生きることを選択してきました。それが、全てだったのです。であるならば、それが不可能になってなお、そこに留まり続けることに、どんな意味があったでしょう。政府も、我々が出て行こうとするのを引き止めたりなどしませんでした。むしろ空港で、積極的に出国手続きを奨励していました」
 政府までもが出国を推奨していたというのは、初めて聞く話だった。おそらく、国を出た誰も、そんなことをわざわざ人に話したりなどしなかったのだろう。そんなことを話す必要性すら、彼らにはない。
「飛行機の中で、既に何人かが毒を呷っているのを見ました。絶望し切った誰かが、混乱の最中に病院から持ち出したのでしょう。私にも分けてくれと頼みましたが、もうないと言われました。だから、生きて、この国に来たのです」
 相槌を打つことすら、ためらわれた。死を考えるほどに追い詰められた彼らに、私などが何を言えるだろう。女はしかし、その声を震わせることすらない。
「でも、この国に来て、あちこちを彷徨っているうちに、気がつきました。これが、本来の世界だったのだと」
 私は、ようやく女の顔に視線を合わせることができた。その声に宿っているものが、絶望とは違うものだと、ようやく気がついた。
「以前、先生が仰った意味を、この国に来て初めて理解することができました。記憶による忠実な再現であっても、あれは本当の兄ではなかったし、……『兄の幽霊』ですらなかった。そんな当たり前のことに、我々はなぜ、こんなに長いこと、気が付かずにいたのでしょう。人間は死んだら、死んでいるもの。『永遠の生』など、あり得ない。だからこそ、記憶が大切なのですね」
 女はゆっくりと、しかし決然たる態度で立ち上がった。事務所のドアを開けたときに感じた暗い影が、こちらの勝手な印象だったことを悟る。一度、絶望を乗り越え、その感情に向き合った彼女には、そんな影は微塵も取り憑いていなかったのだ。
 私はよろよろと、手を差し出した。
「お話を聞かせていただいて、とても、その……ためになりました。勝手な印象を抱いていたようで、申し訳ない」
 私の謝罪に、しかし女は、からりと笑った。あの旅行中、夏の日差しの中で、もう二度と味わうことのできないだろうジュースを、口に含んでいた姿を思い出した。
「先生。命を絶った我々の中で、女は圧倒的に数が少ないことを、ご存じですか。男たちはそれこそ瓦礫の上や空港や飛行機の中でさっさと死んでしまった者が多いのですが、女は、私を含めてその大半が、しっかり今も、生きているのですよ」
 こんなことを申し上げたら、差別だと怒られるかもしれませんね、と付け加え、彼女は事務所のドアを開いた。
「人間は誰でもロマンを求めるものですが、それを失ったときに別のロマンを見出せるかどうかが、結局は絶望するかしないかの分かれ目なのかもしれませんね」
 それでは、あなたの見出した新しいロマンとは、夢とは何なのか。それこそ私が、次に書くべき主題なのではないか。
 そんな言葉は、彼女の爽やかな表情の前に抑え込まれた。開いたドアから差し込む陽光に、彼女の姿が包み込まれていく。
「陳腐な言葉ですが、兄は、私の中に生きています。他の家族も、一緒に。私はもう、彼らを街路で見かけることも、家で眺めることもできません。けれど、記憶の中で、だんだん美しくなる彼らと、いつでも言葉を交わすことができる。あの国で、映像として会うことができていたときには映像を目にしない限り思い出さなかった彼らのことを、私は今、好きなときに思い出すことができるのです」
 そんな言葉を残して、彼女は去った。
 あの国を出国した人間の自殺者数は、もう報道さえされない。被災直後に物凄い勢いを記録したきり、あとはずっと落ち着いている。もちろん全員が全員、彼女のように考えたわけではないだろう。だが、きっと多くの人間が、あの国にいたのでは見えなかったものに気がつき始めているのだろう。

 この国には、幽霊などいない。
 いるとしたら、それはいつだって、私たちの中に、記憶の中に住んでいるのだ。
7/7ページ
スキ