追憶の国
長らく付き合っているボストンテリアのARガイドに導かれてたどり着いたのは、この地域のランドマークである、十階建てのビルほどもある時計塔だった。「memento memoria」と記された古めかしい文字盤に、黒い針が重々しい音を立てているのを見上げる。眺めていると時が経つのを忘れてしまいそうだったので、慌ててARマップに表示されたアイコンを辿った。その先に、赤いサマーニットの女が、こちらに体を向けて待っていた。
「記憶を記憶せよ、なんて、おかしいでしょう」
含み笑いとともにそう言って、女は右手を差し出した。地理の関係で年がら年中吹き渡るという涼しい風が、女の短い髪を揺らす。カラコンだろうか、青緑のような不思議な色をした瞳が、私をしっかりと捉えた。
「先生の作品は、全て読んでおります。ガイドできて光栄です」
取材のために歩き回りたいということを、身元を明かして観光会社に伝えていたことを思い出した。しかし、私の作品を読んだ人がガイドになるとは思っていなかった。体が一気に熱くなる。
「それは……ありがとうございます。しかし、私の書いたものを知っている方と一緒に歩き回るなんて緊張してしまいますね」
顔が赤くなっていなければいいが、と思いながら言うと、女は目を軽く見開いて笑った。
「大丈夫です、ガイド中に先生のお仕事について聞くなんてことはしませんから。少しでもお役に立てれば嬉しいです」
女は手始めにと、時計塔の説明を始めた。
「この時計塔は、この国がまだ小さな町だった頃からあるのです。その頃から人々は、記憶というものの力に惹かれ、同時に恐れ、崇拝していました。我々は、いつか必ず死ぬ、ちっぽけな存在ですが、人の記憶に残ることで、その存在は永遠たり得る……そんな考えが、私たちの祖先を支配していたようです」
それは確かに、真理たり得る考え方ではあるだろう。だが、多くの国ではそういうものを、神格化した何者かの偉大な力の一部ということにして納得しようとするものだが、この国の人々は、そうではなかった。彼らは、記憶そのものを純粋に敬い、自分たちが持つ力の一つであるということからは目を逸らさなかった。
「ここに来る前に読んでいた資料では、この国の人々は、神ではなく記憶を崇めていたらしいですが……」
「ああ、そうなんです。この国には国教というものがないのです。あるのはただ、私たちの持つ記憶という力に対する畏敬の念だけ。自然の神格化も、超自然的な何者かの想定も、我々の祖先はしてこなかった。ただ、人間が永遠に生きるために必要なのは、誰かの記憶に残り続けることであり、信仰ではなかった」
女と私は、時計塔の螺旋階段を上った。石造の内部は外部の夏の陽気を遮断し、ひんやりと肌の火照りを冷ましてくれた。かつかつという女の足音と、幾分、引きずるような私の足音だけが、反響する。観光シーズンにはまだ少し早い今の時期は観光客もまばらであり、ガイドブックでも大きく扱われているわけではないこの時計塔には、私たち以外に人は見当たらなかった。ただ、昔にここを歩いた人たちの「幽霊」と、すれ違うばかりだ。
「ここは、地元の人間にとってはパワースポットのようなものなんです。先祖が建てた、時を刻む塔ですから。我々地元民にとって、時と記憶とはセットで語られる概念なのです」
冷たい空気が薄まったのを感じた。階段は終わりに近づき、陽の光が差し込んでいるのが見える。女に続いて上りきった先には、地上からは見えなかった小さな鐘が吊り下がっていた。
「この鐘は、建国記念の日に鳴らされるのです。我々が永遠に生きられることを祝福して」
「その……、永遠に生きるという概念ですが、あなた方は、心底からそう思っているんですか。それとも、そういう考え方もあると思って、その考え方を選択している、というものなのでしょうか」
これは、是非とも聴きたいと思っていたことだった。確かに、人の記憶に残るということは、残り続ける限り永遠に生きることと同義ということもできるだろう。だが、それでも肉体は死んでいるのだ。永遠の生だなどとは、ただの言葉の綾に過ぎないのではないか。そして、彼らはそれを自覚的に行なっているのではないか。
しかし、女の返答は、私の予想外だった。
「ええ、心底から思っているのですよ」
女の青緑色の瞳が、きらりと光る。
「キリスト教徒が楽園の存在を信じ、そこに向かうために日々の信仰を大切にするように。また、他の宗教を信じる人々とも同様に。我々は、他人の記憶に残る自分を信じています。それがARとしてこの世に残り続けるということが、永遠の生と同義であると、心底から信じているのです」
何と答えるべきか分からず、私はただ、彼女の揺らぐ瞳の光から目を離せない。
「我々は、楽園よりも、遥かに信憑性のあるものを信仰しているのです。スマートCLという物は、この世に実在していますから。この国にいる限り、我々は永遠に生きることができる。そう信じるからこそ、この国の人々は心穏やかに過ごすことができるんです」
女は階段を降り始めた。塔の中腹で、ひとりの「幽霊」らしき男性とすれ違った時、彼女は足を止めて、その後ろ姿をじっと眺めて見送った。「先月死んだ、兄です」と、彼女は言った。
「記憶を記憶せよ、なんて、おかしいでしょう」
含み笑いとともにそう言って、女は右手を差し出した。地理の関係で年がら年中吹き渡るという涼しい風が、女の短い髪を揺らす。カラコンだろうか、青緑のような不思議な色をした瞳が、私をしっかりと捉えた。
「先生の作品は、全て読んでおります。ガイドできて光栄です」
取材のために歩き回りたいということを、身元を明かして観光会社に伝えていたことを思い出した。しかし、私の作品を読んだ人がガイドになるとは思っていなかった。体が一気に熱くなる。
「それは……ありがとうございます。しかし、私の書いたものを知っている方と一緒に歩き回るなんて緊張してしまいますね」
顔が赤くなっていなければいいが、と思いながら言うと、女は目を軽く見開いて笑った。
「大丈夫です、ガイド中に先生のお仕事について聞くなんてことはしませんから。少しでもお役に立てれば嬉しいです」
女は手始めにと、時計塔の説明を始めた。
「この時計塔は、この国がまだ小さな町だった頃からあるのです。その頃から人々は、記憶というものの力に惹かれ、同時に恐れ、崇拝していました。我々は、いつか必ず死ぬ、ちっぽけな存在ですが、人の記憶に残ることで、その存在は永遠たり得る……そんな考えが、私たちの祖先を支配していたようです」
それは確かに、真理たり得る考え方ではあるだろう。だが、多くの国ではそういうものを、神格化した何者かの偉大な力の一部ということにして納得しようとするものだが、この国の人々は、そうではなかった。彼らは、記憶そのものを純粋に敬い、自分たちが持つ力の一つであるということからは目を逸らさなかった。
「ここに来る前に読んでいた資料では、この国の人々は、神ではなく記憶を崇めていたらしいですが……」
「ああ、そうなんです。この国には国教というものがないのです。あるのはただ、私たちの持つ記憶という力に対する畏敬の念だけ。自然の神格化も、超自然的な何者かの想定も、我々の祖先はしてこなかった。ただ、人間が永遠に生きるために必要なのは、誰かの記憶に残り続けることであり、信仰ではなかった」
女と私は、時計塔の螺旋階段を上った。石造の内部は外部の夏の陽気を遮断し、ひんやりと肌の火照りを冷ましてくれた。かつかつという女の足音と、幾分、引きずるような私の足音だけが、反響する。観光シーズンにはまだ少し早い今の時期は観光客もまばらであり、ガイドブックでも大きく扱われているわけではないこの時計塔には、私たち以外に人は見当たらなかった。ただ、昔にここを歩いた人たちの「幽霊」と、すれ違うばかりだ。
「ここは、地元の人間にとってはパワースポットのようなものなんです。先祖が建てた、時を刻む塔ですから。我々地元民にとって、時と記憶とはセットで語られる概念なのです」
冷たい空気が薄まったのを感じた。階段は終わりに近づき、陽の光が差し込んでいるのが見える。女に続いて上りきった先には、地上からは見えなかった小さな鐘が吊り下がっていた。
「この鐘は、建国記念の日に鳴らされるのです。我々が永遠に生きられることを祝福して」
「その……、永遠に生きるという概念ですが、あなた方は、心底からそう思っているんですか。それとも、そういう考え方もあると思って、その考え方を選択している、というものなのでしょうか」
これは、是非とも聴きたいと思っていたことだった。確かに、人の記憶に残るということは、残り続ける限り永遠に生きることと同義ということもできるだろう。だが、それでも肉体は死んでいるのだ。永遠の生だなどとは、ただの言葉の綾に過ぎないのではないか。そして、彼らはそれを自覚的に行なっているのではないか。
しかし、女の返答は、私の予想外だった。
「ええ、心底から思っているのですよ」
女の青緑色の瞳が、きらりと光る。
「キリスト教徒が楽園の存在を信じ、そこに向かうために日々の信仰を大切にするように。また、他の宗教を信じる人々とも同様に。我々は、他人の記憶に残る自分を信じています。それがARとしてこの世に残り続けるということが、永遠の生と同義であると、心底から信じているのです」
何と答えるべきか分からず、私はただ、彼女の揺らぐ瞳の光から目を離せない。
「我々は、楽園よりも、遥かに信憑性のあるものを信仰しているのです。スマートCLという物は、この世に実在していますから。この国にいる限り、我々は永遠に生きることができる。そう信じるからこそ、この国の人々は心穏やかに過ごすことができるんです」
女は階段を降り始めた。塔の中腹で、ひとりの「幽霊」らしき男性とすれ違った時、彼女は足を止めて、その後ろ姿をじっと眺めて見送った。「先月死んだ、兄です」と、彼女は言った。