海を重ねて
「以上、御子柴活のスピーチ終了!」
「え、もう終わっちゃうの」
あまりに素っ気ない終わり方に、ぼくは驚いて声を上げた。御子柴は、さっと立ち上がって伸びをした。
「じゃ、また弾こう」
御子柴が、手を差し出してくれる。ぼくには出来ない動き方をする、ぼくとは違うその手を、ぼくは握る。立ち上がり、再び並んでピアノの前に座る。
「オレはさ、別にピアニストになりたくて弾いてる訳じゃないんだ」
話を聞いて、それは分かっていたので、ぼくは軽く頷く。
「好きだから弾いていて、真剣に向き合いたいからコンクールにも出てる。でも、それだけなんだ。だからさ、積木も、それで良いんじゃない」
「…………」
御子柴の言うことは分かる。何も、ピアノを好きな人間が全員ピアニストになる必要はない。……でも、これまで生きてきた大半を、その夢を当たり前のものと思ってきてしまったぼくには、そう簡単に頷くことは出来ない。
それに。
ぼくは隣に座る御子柴を、天性の才能に恵まれた人間を見つめた。御子柴はぼくの視線に、「うーん」と唸った。
「積木の言いたいことも分かるよ。オレには才能があるからそんな悠長なことを言えるんだろって」
「うん」
ぼくの即答に、御子柴は苦笑した。
「水泳を習ってた頃、オレはすんげえ下手だった。でも、オレは水泳が大好きだったし、もし身体を壊してなかったら、きっと今でも習ってる。それに、この先、ピアノとは違う何かを見つけたら、きっとそれに夢中になって、ピアノより没頭して、もしかしたらピアノをやめてまで、それにかかりきりになることもあるかもしれない」
「うん」
きっと、そうなのだろう。御子柴は、きっと何でも好きになれるのだ。そして、自分がそれを上手か下手かなんて関係なく、飽きるまで続ける。御子柴は、それが出来る人間だ。
そして、そういう人間がこの世にいるなんて、ぼくは今まで想像すらしたことが無かった。
「オレと積木は別人だからさ、別にオレみたいになれとは言わないよ。でも、積木はオレと同じくらいピアノが好きだろ。だからさ、好きだって気持ちまで忘れようとする必要は無いんじゃないかってこと。まあ、今更かもしれないけど」
「……今更?」
「だってこの一週間連続で、ここに弾きに来てるでしょ」
御子柴が得意そうに笑い、ぼくは顔が熱くなるのを感じた。
そうか。
ぼくは全然、ピアノから離れられていなかったんだ。離れていて辛い、なんて言える立場にはない。結局のところ、ぼくは……。
「恥ずかしがらない、恥ずかしがらない。良いじゃん、好きなものは好きでさ。……それにさ。積木がピアノの道に進まないって言っても、奏さんやお母さんは、反対しなかったんだろ」
「……うん……。やっぱり父さん母さんには、ぼくに才能が無いってことが分かってたんだろうな」
「それは違うと思うよ。……っとと、睨まないでよ」
なぜ御子柴にそんなことが分かる、と思うと、自然と目つきがきつくなっていたらしい。ぼくは慌てて瞬きをした。
「多分、奏さんもお母さんも、積木が好きな道に進むのが一番良いと思ったんだ」
「好きな道……」
「そう。積木がピアノ以外のことをやりたいならそれで良いと思ったんだよ。そもそもピアノだって、積木自身がやりたいって言ったから習うことにしたんだろ」
「それはまあ、確かにそうだった、けど」
言われてみれば、音楽の道に進まないと言った時、理由は聞かれたが、反対はされなかった。そして、……驚かれもしなかった。
あの頃は、やっぱり才能が無いと思われていたのだと嘆いてばかりいたが、……最初から才能の有無なんて関係なかったのだとしたら。思い返してみれば、父さん母さんから「才能がある」とか「ピアニストになれ」とかいう言葉は、言われたことが無い。
ぼくが勝手に、父さんの才能を受け継げなかったことに絶望していただけだったのか。
「そんな……」
そうなのだとしたら。
周囲からの期待など、大した問題では無かった。そんなもの、気にする必要は無かった。
「まあ、オレの勝手な推測だけどね。でもさ、もし子どもに自分の才能や職業を受け継いで欲しいと願ったのだとしたら、……帆高、なんて名前、付けないと思うよ」
帆を高く上げ、大きな海に出て欲しい。
そういう願いのこもった名前だと、母さんから聞いたことがある。大きな海。広い海。それは、ピアノや音楽も含め、色々な可能性が詰まった未知の世界……。
「御子柴……」
「まあ、どれもこれも推測でしかないけどさ。こんなに人について色々推測したのは初めてなんだから、当たってなくても怒らないでくれよ」
何しろ一週間も毎日連弾しに来てくれる奴なんて興味深かったからさ、と御子柴は笑う。窓の外から差していた日光はだんだん弱くなっていくにも関わらず、何故だかとても暖かい。
「……御子柴、弾こう」
「おう!」
ぼくが重ねた和音に、御子柴の旋律が静かに乗る。優しいタッチで、広く深く、大きな海のような世界を紡ぎだしていく。
まだ、夢に対する未練がある。人と話をしたからと言って、すぐに気持ちの切り替えが出来る訳ではない。ぼくは御子柴のように才能が欲しかったし、今、隣で自在に音を操っている、彼のような手が欲しかった。
けれど。
それを忘れる必要はないんだ。無かったことにしてしまう必要も、隠す必要も無い。ぼくは才能が欲しくて、でもそれを持っていない。
でも、それでもピアノが好きなんだ。
だから、今はただ、新たな海を探しながら、この音の波に乗っていよう。
帆を高く上げて、胸を張って。
「え、もう終わっちゃうの」
あまりに素っ気ない終わり方に、ぼくは驚いて声を上げた。御子柴は、さっと立ち上がって伸びをした。
「じゃ、また弾こう」
御子柴が、手を差し出してくれる。ぼくには出来ない動き方をする、ぼくとは違うその手を、ぼくは握る。立ち上がり、再び並んでピアノの前に座る。
「オレはさ、別にピアニストになりたくて弾いてる訳じゃないんだ」
話を聞いて、それは分かっていたので、ぼくは軽く頷く。
「好きだから弾いていて、真剣に向き合いたいからコンクールにも出てる。でも、それだけなんだ。だからさ、積木も、それで良いんじゃない」
「…………」
御子柴の言うことは分かる。何も、ピアノを好きな人間が全員ピアニストになる必要はない。……でも、これまで生きてきた大半を、その夢を当たり前のものと思ってきてしまったぼくには、そう簡単に頷くことは出来ない。
それに。
ぼくは隣に座る御子柴を、天性の才能に恵まれた人間を見つめた。御子柴はぼくの視線に、「うーん」と唸った。
「積木の言いたいことも分かるよ。オレには才能があるからそんな悠長なことを言えるんだろって」
「うん」
ぼくの即答に、御子柴は苦笑した。
「水泳を習ってた頃、オレはすんげえ下手だった。でも、オレは水泳が大好きだったし、もし身体を壊してなかったら、きっと今でも習ってる。それに、この先、ピアノとは違う何かを見つけたら、きっとそれに夢中になって、ピアノより没頭して、もしかしたらピアノをやめてまで、それにかかりきりになることもあるかもしれない」
「うん」
きっと、そうなのだろう。御子柴は、きっと何でも好きになれるのだ。そして、自分がそれを上手か下手かなんて関係なく、飽きるまで続ける。御子柴は、それが出来る人間だ。
そして、そういう人間がこの世にいるなんて、ぼくは今まで想像すらしたことが無かった。
「オレと積木は別人だからさ、別にオレみたいになれとは言わないよ。でも、積木はオレと同じくらいピアノが好きだろ。だからさ、好きだって気持ちまで忘れようとする必要は無いんじゃないかってこと。まあ、今更かもしれないけど」
「……今更?」
「だってこの一週間連続で、ここに弾きに来てるでしょ」
御子柴が得意そうに笑い、ぼくは顔が熱くなるのを感じた。
そうか。
ぼくは全然、ピアノから離れられていなかったんだ。離れていて辛い、なんて言える立場にはない。結局のところ、ぼくは……。
「恥ずかしがらない、恥ずかしがらない。良いじゃん、好きなものは好きでさ。……それにさ。積木がピアノの道に進まないって言っても、奏さんやお母さんは、反対しなかったんだろ」
「……うん……。やっぱり父さん母さんには、ぼくに才能が無いってことが分かってたんだろうな」
「それは違うと思うよ。……っとと、睨まないでよ」
なぜ御子柴にそんなことが分かる、と思うと、自然と目つきがきつくなっていたらしい。ぼくは慌てて瞬きをした。
「多分、奏さんもお母さんも、積木が好きな道に進むのが一番良いと思ったんだ」
「好きな道……」
「そう。積木がピアノ以外のことをやりたいならそれで良いと思ったんだよ。そもそもピアノだって、積木自身がやりたいって言ったから習うことにしたんだろ」
「それはまあ、確かにそうだった、けど」
言われてみれば、音楽の道に進まないと言った時、理由は聞かれたが、反対はされなかった。そして、……驚かれもしなかった。
あの頃は、やっぱり才能が無いと思われていたのだと嘆いてばかりいたが、……最初から才能の有無なんて関係なかったのだとしたら。思い返してみれば、父さん母さんから「才能がある」とか「ピアニストになれ」とかいう言葉は、言われたことが無い。
ぼくが勝手に、父さんの才能を受け継げなかったことに絶望していただけだったのか。
「そんな……」
そうなのだとしたら。
周囲からの期待など、大した問題では無かった。そんなもの、気にする必要は無かった。
「まあ、オレの勝手な推測だけどね。でもさ、もし子どもに自分の才能や職業を受け継いで欲しいと願ったのだとしたら、……帆高、なんて名前、付けないと思うよ」
帆を高く上げ、大きな海に出て欲しい。
そういう願いのこもった名前だと、母さんから聞いたことがある。大きな海。広い海。それは、ピアノや音楽も含め、色々な可能性が詰まった未知の世界……。
「御子柴……」
「まあ、どれもこれも推測でしかないけどさ。こんなに人について色々推測したのは初めてなんだから、当たってなくても怒らないでくれよ」
何しろ一週間も毎日連弾しに来てくれる奴なんて興味深かったからさ、と御子柴は笑う。窓の外から差していた日光はだんだん弱くなっていくにも関わらず、何故だかとても暖かい。
「……御子柴、弾こう」
「おう!」
ぼくが重ねた和音に、御子柴の旋律が静かに乗る。優しいタッチで、広く深く、大きな海のような世界を紡ぎだしていく。
まだ、夢に対する未練がある。人と話をしたからと言って、すぐに気持ちの切り替えが出来る訳ではない。ぼくは御子柴のように才能が欲しかったし、今、隣で自在に音を操っている、彼のような手が欲しかった。
けれど。
それを忘れる必要はないんだ。無かったことにしてしまう必要も、隠す必要も無い。ぼくは才能が欲しくて、でもそれを持っていない。
でも、それでもピアノが好きなんだ。
だから、今はただ、新たな海を探しながら、この音の波に乗っていよう。
帆を高く上げて、胸を張って。
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