海を重ねて
それまでの体育座りから、完全に足を投げ出した体勢になり、御子柴は話し出した。それは、全く、それまでのぼくの話とは関係のないように思える話だった。
「オレは小学生の頃、水泳を習ってたんだ。あ、積木は泳げる?」
「クロールしか出来ない」
「それなら殆どオレと同じだな。オレさ、三年くらい習ってたのに上達しなくて。平泳ぎまではなんとか出来るようになったんだけどなあ。じゃあ次はバタフライを、って時に、ちょっと病気してさ。そんな大したものじゃないんだけど、プールには入れなくなっちゃって」
御子柴は、投げ出した足を、かかとを軸に左右に振る。水にいた時の感触でも思い出しているのかもしれない。
「オレ、水泳好きだったんだ。まあ大概のものは好きになっちゃうんだけど、その時は水泳が一番。サッカーより野球より、とにかく泳いでいたかった。多分、積木にとってのピアノと同じ」
「それは……辛かったね」
「うん。それで腐ってたところを、ピアノが救ってくれたんだ」
ここで、ピアノが出てくるのか。
「近所に、美人のお姉さんが個人で開いてるピアノ教室があってさ。オレは最初、そのお姉さん目当てで前を通るたび覗いたりしてたんだけど、ある時ばったり目が合っちゃって。運命だと思ったね。まさかその運命が、お姉さんとではなくてピアノと結ばれるものだったとは思わなかったけど」
「ふふ」
「それで、試しにって教えてもらったら、もうこれが楽しくて楽しくて。積木と一緒だな。こういう風に弾いてみたい、こういう音を出してみたい、と思ったら、ピアノは応えてくれる。それが分かってきたらのめり込んじゃって、ずっと弾いていたくて、お姉さんに嫌がられても教室に入り浸ってた」
聴いているだけで、こちらも楽しくなってくる。御子柴のピアノに対する思いは、きっとぼくがピアノを始めた頃のものと同じだ。
「でも母さんが、ピアノなんて習わせられないって言うんだな。母さんも、オレが何にでもすぐ熱中することを知っているから、きっとすぐに飽きるだろうと思ったんだ。まあ、それは当たってると言えば当たってるんだけど、少なくともオレのピアノに対する飽きは、まだ来てないな。……で、母さんは、ピアノ教室に通いたいなら何かコンクールで金賞でも取ってみなさいよ、とそう来たんだね。じゃあ最低でもコンクールに参加するまでは習っても良いってことだなと解釈して、それからはお姉さんの教室で、練習を重ねて……どうにかしてピアノを続けたかったから、最初に参加した小さなコンクールで金賞を取って見せた訳」
「それは……凄いね」
恐らく、準備期間はあまり無かっただろう。その中で、相当練習を重ねたとしても……初めて参加する公の場で、実力を発揮しきるのは、容易いことでは無い。
「だろ。まあ、ビギナーズラックもあったと思うよ。実際、それ以降、つまり正式にピアノ教室に通いだしてから参加したコンクールでは、最近になるまで全然良い結果を得られなかったしね」
「御子柴、本気出さなかったんでしょ」
「……ばれたか」
御子柴はちろりと舌を出し、肩をすくめた。
「コンクールに参加するってのは、母さんに対する大義名分だったからさ。最初ので金賞を取れて、教室に通う権利を獲得しただけで満足してたんだよな。……でも、何度かコンクールに出場するうちに、周りの皆、真剣だってことが分かって来てさ。多分、積木のこともその頃に見かけたと思う」
「……え」
突然、自分が話に登場した。思わず背筋を伸ばす。
「コンクールで上位になった奴らって、やっぱり皆、すげえ上手いんだよな。その中に入って競おうってのに、何でオレは真剣になってないんだって思った。そう思ってからは、色々な人の演奏を積極的に聴くようになったんだ。それまではただ闇雲に弾いてばかりいたけど、世界中に凄いピアニストが沢山いるんだってことが分かった。奏さんのファンにもなった。確実に、オレの世界は広がったよ」
そうか。御子柴は、ピアノが好きなだけじゃない。ピアノに出逢えたことに感謝しているんだ。ぼくのような、必然的な出会いではなかっただけに……その重みが、同じだけれども僅かに、違うのだ。
「オレは小学生の頃、水泳を習ってたんだ。あ、積木は泳げる?」
「クロールしか出来ない」
「それなら殆どオレと同じだな。オレさ、三年くらい習ってたのに上達しなくて。平泳ぎまではなんとか出来るようになったんだけどなあ。じゃあ次はバタフライを、って時に、ちょっと病気してさ。そんな大したものじゃないんだけど、プールには入れなくなっちゃって」
御子柴は、投げ出した足を、かかとを軸に左右に振る。水にいた時の感触でも思い出しているのかもしれない。
「オレ、水泳好きだったんだ。まあ大概のものは好きになっちゃうんだけど、その時は水泳が一番。サッカーより野球より、とにかく泳いでいたかった。多分、積木にとってのピアノと同じ」
「それは……辛かったね」
「うん。それで腐ってたところを、ピアノが救ってくれたんだ」
ここで、ピアノが出てくるのか。
「近所に、美人のお姉さんが個人で開いてるピアノ教室があってさ。オレは最初、そのお姉さん目当てで前を通るたび覗いたりしてたんだけど、ある時ばったり目が合っちゃって。運命だと思ったね。まさかその運命が、お姉さんとではなくてピアノと結ばれるものだったとは思わなかったけど」
「ふふ」
「それで、試しにって教えてもらったら、もうこれが楽しくて楽しくて。積木と一緒だな。こういう風に弾いてみたい、こういう音を出してみたい、と思ったら、ピアノは応えてくれる。それが分かってきたらのめり込んじゃって、ずっと弾いていたくて、お姉さんに嫌がられても教室に入り浸ってた」
聴いているだけで、こちらも楽しくなってくる。御子柴のピアノに対する思いは、きっとぼくがピアノを始めた頃のものと同じだ。
「でも母さんが、ピアノなんて習わせられないって言うんだな。母さんも、オレが何にでもすぐ熱中することを知っているから、きっとすぐに飽きるだろうと思ったんだ。まあ、それは当たってると言えば当たってるんだけど、少なくともオレのピアノに対する飽きは、まだ来てないな。……で、母さんは、ピアノ教室に通いたいなら何かコンクールで金賞でも取ってみなさいよ、とそう来たんだね。じゃあ最低でもコンクールに参加するまでは習っても良いってことだなと解釈して、それからはお姉さんの教室で、練習を重ねて……どうにかしてピアノを続けたかったから、最初に参加した小さなコンクールで金賞を取って見せた訳」
「それは……凄いね」
恐らく、準備期間はあまり無かっただろう。その中で、相当練習を重ねたとしても……初めて参加する公の場で、実力を発揮しきるのは、容易いことでは無い。
「だろ。まあ、ビギナーズラックもあったと思うよ。実際、それ以降、つまり正式にピアノ教室に通いだしてから参加したコンクールでは、最近になるまで全然良い結果を得られなかったしね」
「御子柴、本気出さなかったんでしょ」
「……ばれたか」
御子柴はちろりと舌を出し、肩をすくめた。
「コンクールに参加するってのは、母さんに対する大義名分だったからさ。最初ので金賞を取れて、教室に通う権利を獲得しただけで満足してたんだよな。……でも、何度かコンクールに出場するうちに、周りの皆、真剣だってことが分かって来てさ。多分、積木のこともその頃に見かけたと思う」
「……え」
突然、自分が話に登場した。思わず背筋を伸ばす。
「コンクールで上位になった奴らって、やっぱり皆、すげえ上手いんだよな。その中に入って競おうってのに、何でオレは真剣になってないんだって思った。そう思ってからは、色々な人の演奏を積極的に聴くようになったんだ。それまではただ闇雲に弾いてばかりいたけど、世界中に凄いピアニストが沢山いるんだってことが分かった。奏さんのファンにもなった。確実に、オレの世界は広がったよ」
そうか。御子柴は、ピアノが好きなだけじゃない。ピアノに出逢えたことに感謝しているんだ。ぼくのような、必然的な出会いではなかっただけに……その重みが、同じだけれども僅かに、違うのだ。