海を重ねて

 放課後の、穏やかな日差しが、御子柴の明るい茶髪を透かして、ぼくを照らす。コンクールの時、舞台を照らしていた強すぎる照明を思い出す。でも、もうここは舞台ではないし、この光はあれとは全然違う。
 話す、とは言ったが、今まで一度も誰にも話したことの無い感情だから、どう話せば良いのか、よく分からない。仕方ないので、頭に浮かんだ順に口に出していく。
「ぼくの父さんは凄いピアニストで、家にはもちろんピアノが置いてあったし、母さんも音楽業界の人だったから、物心つく前から、ぼくの周りにはいつでも音楽があった」
 それは、父さんの演奏の時もあったし、母さんが携わった別の楽器による曲の時もあった。全然二人とは関係のない曲の時も多かった。父さんと母さんは古今東西、ありとあらゆる音楽を愛し、音楽の中で生きていた。その中で育ったぼくが、音楽を好きにならない筈が無かった。
「それで小さいころから……そうだな、三歳くらいまでにはおもちゃのピアノで遊んでいたし、幼稚園に入る年齢になると、父さんにピアノの基本を習うようになった。他の楽器も、小さいころにいろいろ触らせてもらったんだけど、……やっぱり父さんが格好良くピアノを弾く姿に憧れたんだよね。小学校に入る前に、ピアノ一本に絞って習うようになった」
 あの頃は、多分、純粋に楽しかった。鍵盤を押せば応じてくれる、自分が出したいと思った音を出してくれるピアノという楽器に夢中だった。友達と遊ぶより、ずっとピアノを弾いていたかった。
「だから、当然、他の子たちよりは上手く弾けたんだ。いつも父さんの一流の演奏をお手本代わりに聞いて耳は鍛えられてたし、暇なときはいつでも弾いていたんだから、当たり前の話だよね」
 そう、当たり前の話だった。環境が整っていて、自分もやる気があった。そういう状態が、ピアノ教室に共に通っていた他の子たちよりも、早く用意されていたのだから。
 でも、そんな当たり前に、その頃は気が付いていなかった。周りも、そんな当たり前のことに気が付かなかったのか、それともネタとして消費できれば何でも良かったのか、ぼくのことを「天才」だと形容して囃し立てた。
「ぼくも、ぼくには才能があるんだと思っていた。だって、父さんの子どもなんだ。それに、小学生の時は参加したどのコンクールでも優勝出来たしね」
 あの頃、ぼくは、ピアニストになるのが自分に用意された道だと信じていた。それに必要なだけの実力も才能も持ち合わせているのだと、己惚れていたのではなく、本当に単純に思い込んでいたのだ。
 御子柴は、言葉を挟むことも頷くこともせず、しっかりぼくを見て、聴いてくれている。
「でも……中学生になって、少ししたある時、突然気が付いた。ぼくには才能が無い。才能があると勘違いしていたけれど、他の子たちよりも始めるのが早くて環境が整っていたから、それまではトップだったに過ぎない。今までは必死に努力するということとは無縁で、ただ楽しいと思う気持ちのままにずっと弾いていれば良かった。でもこれからは、才能に恵まれて、しかも血のにじむ思いで努力してきた人たちと競い合わなくては、プロになんてなれない。そして、絶望的なことに、ぼくには才能が無い」
 コンクールで賞を取れなくなったとか、そういう話ではなかった。自分には才能が無いのだと、ある時、天啓を得るように悟ったのだ。そして、それを理解すると同時に、怖くなった。
「それまでは、期待されるっていうことが、自分を認めてもらえていると感じられて、嬉しかったんだ。でも、自分に才能が無いということに気が付いてからは、それが失われるのが怖くなった。期待されなくなるだけじゃない……それが失望や落胆に繋がるんじゃないか。あんな凄いピアニストの息子が、全然才能も無くて、落ちこぼれていくだけだなんて、ってがっかりされるんだろうと思うと、本当に怖くなった。だから、高校に入る少し前、ピアノ自体をやめることにしたんだ」
 自分に才能が無いということに気が付いているのが自分だけである間に、やめてしまうしか無かった。それしか考えられなかった。
 失望されたくなかった。落胆されたくなかった。
 だから、ぼくはその道を降りた。
「……でも、やっぱりぼくは忘れきることが出来なかったんだな。父さんや母さん、周りの人には、ピアノ以外にも色々勉強してみたいんだとか言って、普通科の高校に入学させてもらったって言うのに……音楽室の前を通るたびにピアノに目が行っちゃうし、気が付いたら机の下で、指が動いててさ」
 だから、音楽室から御子柴の演奏が聴こえてきた時、本当に胸が高鳴ったのだ。自分がこう弾きたいと思わされる軽やかな旋律に、居ても立っても居られなかったのだ。
「御子柴は、そんなぼくのピアノを、ちゃんと聴いてくれてた。父さんのことを知っても、それとぼくのピアノとを結びつけようとはしなかった。……それが、嬉しかったんだ」
 ずっと、腹の底に溜め続けていた思いを、すべて吐き出した。すっきりすると同時に、何だか気の抜けたような気分だ。言葉にしてみると、こんなにも呆気ないものだったとは。
 御子柴は、どこかホッとしたような顔で、頷いてくれた。背後から彼を照らす光に負けない程に、その表情は暖かく見えた。
「オッケー、分かった。話してくれてありがとな」
「ううん。べらべら喋っちゃって……。聴いてくれて、ありがとう」
 話す前には身体の中で震える様だった感情が、今は凪のように静まっている。そうか。ぼくはずっと、誰かに聴いてもらいたかったのだ。
 御子柴が、すっと手を挙げた。授業中、教師に当ててもらおうとする生徒のようだ。
「そしたら、オレも話して良い?」
「え? うん」
 何か、ぼくの話にコメントをくれるのだろうか。それにしては、不思議な切り出し方だ。そう思っていると、御子柴はにっと笑った。
「サンキュ」
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