海を重ねて

「もし違ってたら恥ずかしいんだけど……積木の父さんってもしかして、あの積木かなで?」
 思いがけないタイミングで頬を打たれたような気がした。口が半開きのまま、凍り付いて動かない。呼吸が浅くなっていくのが分かる。軽く握っていた拳の、指先から冷え切っていく感覚。
 逃げ出したい。しかし、脚も動かない。
『流石、奏さんのご子息ですわ。やはり血筋でしょうか』
『この親にしてこの子あり、といったところですなあ、奏さん』
『さぞかし鼻が高いでしょう』
帆高ほたか君、お父様の才能を受け継いだのね』
 色んな人が、色んな声で、耳元で囁く。ぞっとする。
「……積木? 大丈夫?」
 御子柴が心配そうにのぞき込むので、どうにか、喉元で停滞している空気を押し出す。
「そうだって言ったら……?」
 きっと御子柴は、落胆したに違いない。国内屈指の名ピアニストと謳われる積木奏の息子が、こんなレベルの演奏しか出来ないのかと。誰にもそう思われたくなくて、音楽の道を諦めて普通科の高校に入学したと言うのに、結局、ぼくは……。
「サイン欲しい!」
「……へ?」
 全く予想外の言葉が耳に飛び込んできて、ぼくは呆けたように御子柴を見つめた。
「オレ、奏さんの大ファンでさ。前にコンサートにも行ったんだ。その時買ったCDがあるから、それにサイン欲しいなあ」
 御子柴の頬は上気して、瞳が輝いている。どうやら本気だ。
「み、御子柴は……父さんに比べてぼくは、とか……思わないの」
 音楽から離れようと決めるまで、つまりぼくのこれまでの人生の殆ど全ては、父さんとセットで語られるものだった。名ピアニストの息子。父の才能を受け継いだ息子。父と同じ道を歩むであろう息子。そういうパターンで切り抜かれてきたのがぼくで、そしてぼく自身も、それに満足していた。大好きで、尊敬もしている父さんとセットで語られるのは、その頃のぼくにとって、単純に嬉しいことだったのだ。
 だから、こと音楽に関して、父さんと比べられないことがあり得るなんて、ぼくにとっては驚くべきことだった。
 御子柴は逆に首をかしげて、明るく答えた。
「なんで? 積木帆高と積木奏は別の人だろ?」
「…………っ」
 鼻の奥が、つんと痛む。慌てて立ち上がって、ピアノの後ろに回り込んで蹲った。
「え、何、どうした積木」
「……いや、……ちょっと、」
「泣いてるのか?」
 焦ったように、御子柴が近づいてくる気配がする。ああ、格好悪い……恥ずかしい。人前で泣くなんて、あまり経験が無い。
 御子柴は、蹲るぼくの隣に座った。目もとを拭いながら見ると、困ったような顔をして、ぼくを見ていた。
「積木、なんか泣かせるようなこと言ったなら謝るよ。ごめん」
「え、や、そうじゃないんだ……ぼくの方こそ、いきなり泣き出してごめん。えっと……御子柴は悪くないから」
 なんとか呼吸を落ち着かせ、ぼくはそのままピアノの脚に寄りかかった。いつもよく喋る筈の御子柴は、その間もずっと黙って、ぼくではなく、窓の外を眺めているようだった。ここからは空以外、何も見えないのに。
 最後に一つ深呼吸をして、ぼくは御子柴の横顔に尋ねた。
「……泣いた理由、話しても良い?」
 御子柴は柔らかく笑って、頷いてくれた。
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