海を重ねて
名前など無い旋律を、二人で奏でる。
黒白の鍵を指でなぞり、弾き、叩くたび、ぼくと、隣に座る御子柴 とが抱える世界が交わるのが分かる。二組の手が一つの鍵盤、一つの世界を共有し、また新しい世界を紡いでいく。こんな楽しさを、ぼくは久しく忘れていた。
御子柴の両手が軽やかに飛ぶ。音と音との距離を慎重に測るぼくよりも、遥か先に行ってしまう。思わず急いで追おうとすると、御子柴の手が少し止まる。演奏している時、お互いの表情なんて一度も見ていない筈なのに、彼は、ぼくが焦るといつでもこうして待っていてくれる。
それが嬉しいのと同時に、同じくらい悔しい。
いつものように、ぼくと御子柴は同時に連弾を終えた。音の余韻が音楽室の壁に吸収されて消えた途端、御子柴はやはりいつものように、ぼくに満面の笑みを向ける。普段は丸い目が、笑うと糸のように細まる。
「楽しかった! やっぱり積木 と一緒に弾くの、すっげえ楽しい! ありがとう!」
「う、うん……。ぼくも」
眩しさに、目を逸らしたくなる。本当は、楽しいばかりではない。
ピアノの前に二人で座ると、どうしても間近に、御子柴の手の動きが見えてしまう。ぼくとは全然違う、海の波のように柔らかく動く、その手。そういう動かし方を、ぼくは出来るようになりたかった。そういう風に動く手で、弾いてみたかった。
「積木、ここのところ毎日付き合ってくれて、ありがとうな! オレ、ずっとこうやって誰かと連弾してみたかったんだ」
「それを言うなら、ぼくの方こそ……。そもそも、御子柴が一人で弾いてるところに、ぼくが勝手に上がり込んだ訳だし」
そうなのだった。
数日前の放課後、帰宅しようと廊下を歩いていると、誰かがピアノを演奏する音が聞こえてきた。学校では極力、音楽室の近くには行かないことに決めていたのだけれども、どうしても、誰が弾いているのか確かめたくなってしまった。その音はどう考えても、プロ級の技術力を持った人の手によるものだったからだ。もしかしたらプロのピアニストが、音楽教師の友人か何かということで来ていたりするかもしれない。そこでそっと覗いてみると、同じ学校の制服を着た生徒が弾いていたので、つい驚いて……。
「ははっ。あの時は驚いたよ。全然話したこと無い別のクラスの奴が、血相変えて飛び込んで来たんだもん」
御子柴は思い出したのか、心底面白そうに膝を叩いた。
「いや、あの時は本当ごめん。だってまさか、あんな上手にあれを弾ける人が校内にいるなんて思わなかったから……」
「オレも、まさかあの曲で興味持って覗きに来る奴なんかいないと思ってたよ」
御子柴は言いながら、右手を鍵盤において、その時弾いていた難曲のフレーズをさらった。その何げなさに反比例する、複雑な運指。ぼくが思わず見入ると、御子柴は照れたように指を引っ込めてしまった。
「まあ、オレはそれよりも、積木がオレのことを知っていたってのに驚いたけど」
「え?」
「だって、オレ別にそんな有名人じゃないからさ。クラスメートだって、オレがピアノ弾くってことしか知らない……と言うか、そもそもピアノに興味無いみたいだし。オレも別に自慢したいわけでもないから話さないけどさ」
「いやいやいや……有名だよ、御子柴活 ! ピアノを習ってる人間なら誰だって知ってるよ」
音楽の世界から意識的に離れようとしているにも関わらず、書店に行くたび未だに手に取ってしまう雑誌に、御子柴が載っていないことは無い。小学生の時から何度も、ぼくが彼と同じコンクールに出場していたということを、その雑誌で知ったのは最近だ。ぼくが音楽から離れようと思い始めた時期と、ちょうど入れ替わるように、御子柴は頭角を現し始めたらしい。
だから当然、彼は芸術系の高校に進学したのだとばかり思っていた。それがまさか、同じ高校に通っていたとは。
「技巧も表現力も兼ね備えていて、まさに天才少年だって……」
「あー、そう言う奴もいるけどさ。でもそんなの、他人が言う事だろ。そんなことより、オレが言いたいのはさ。積木みたいに丁寧に音を追う奴がオレのことを知っててくれたのが嬉しいってこと。あ、まあそう考えると、雑誌に載ったりするのも悪いことじゃないか」
「御子柴……」
昔の自分の姿が、御子柴の隣に浮かぶ。コンクールで優勝して、インタビューに答えていた自分の、雑誌に載った、あの表情。ぼくが覚えているのは、インタビューに答えている時の自分ではなく、その雑誌で見た、自分の表情だ。取材を受けて、先生に褒められて、周りから褒められて、期待されていた時の、一番明るい表情だ。
けれど、今、御子柴が浮かべている表情の方が。
「そうだ積木、気になってたんだけど」
「ん?」
御子柴が、すぐ隣に座っているにもかかわらず、更に身を乗り出してきた。思わず後ろに身を反らし、ぼくより少し背の高い相手を見上げる。御子柴はさっきまでとは打って変わって、いつになく真剣な様子だ。
黒白の鍵を指でなぞり、弾き、叩くたび、ぼくと、隣に座る
御子柴の両手が軽やかに飛ぶ。音と音との距離を慎重に測るぼくよりも、遥か先に行ってしまう。思わず急いで追おうとすると、御子柴の手が少し止まる。演奏している時、お互いの表情なんて一度も見ていない筈なのに、彼は、ぼくが焦るといつでもこうして待っていてくれる。
それが嬉しいのと同時に、同じくらい悔しい。
いつものように、ぼくと御子柴は同時に連弾を終えた。音の余韻が音楽室の壁に吸収されて消えた途端、御子柴はやはりいつものように、ぼくに満面の笑みを向ける。普段は丸い目が、笑うと糸のように細まる。
「楽しかった! やっぱり
「う、うん……。ぼくも」
眩しさに、目を逸らしたくなる。本当は、楽しいばかりではない。
ピアノの前に二人で座ると、どうしても間近に、御子柴の手の動きが見えてしまう。ぼくとは全然違う、海の波のように柔らかく動く、その手。そういう動かし方を、ぼくは出来るようになりたかった。そういう風に動く手で、弾いてみたかった。
「積木、ここのところ毎日付き合ってくれて、ありがとうな! オレ、ずっとこうやって誰かと連弾してみたかったんだ」
「それを言うなら、ぼくの方こそ……。そもそも、御子柴が一人で弾いてるところに、ぼくが勝手に上がり込んだ訳だし」
そうなのだった。
数日前の放課後、帰宅しようと廊下を歩いていると、誰かがピアノを演奏する音が聞こえてきた。学校では極力、音楽室の近くには行かないことに決めていたのだけれども、どうしても、誰が弾いているのか確かめたくなってしまった。その音はどう考えても、プロ級の技術力を持った人の手によるものだったからだ。もしかしたらプロのピアニストが、音楽教師の友人か何かということで来ていたりするかもしれない。そこでそっと覗いてみると、同じ学校の制服を着た生徒が弾いていたので、つい驚いて……。
「ははっ。あの時は驚いたよ。全然話したこと無い別のクラスの奴が、血相変えて飛び込んで来たんだもん」
御子柴は思い出したのか、心底面白そうに膝を叩いた。
「いや、あの時は本当ごめん。だってまさか、あんな上手にあれを弾ける人が校内にいるなんて思わなかったから……」
「オレも、まさかあの曲で興味持って覗きに来る奴なんかいないと思ってたよ」
御子柴は言いながら、右手を鍵盤において、その時弾いていた難曲のフレーズをさらった。その何げなさに反比例する、複雑な運指。ぼくが思わず見入ると、御子柴は照れたように指を引っ込めてしまった。
「まあ、オレはそれよりも、積木がオレのことを知っていたってのに驚いたけど」
「え?」
「だって、オレ別にそんな有名人じゃないからさ。クラスメートだって、オレがピアノ弾くってことしか知らない……と言うか、そもそもピアノに興味無いみたいだし。オレも別に自慢したいわけでもないから話さないけどさ」
「いやいやいや……有名だよ、御子柴
音楽の世界から意識的に離れようとしているにも関わらず、書店に行くたび未だに手に取ってしまう雑誌に、御子柴が載っていないことは無い。小学生の時から何度も、ぼくが彼と同じコンクールに出場していたということを、その雑誌で知ったのは最近だ。ぼくが音楽から離れようと思い始めた時期と、ちょうど入れ替わるように、御子柴は頭角を現し始めたらしい。
だから当然、彼は芸術系の高校に進学したのだとばかり思っていた。それがまさか、同じ高校に通っていたとは。
「技巧も表現力も兼ね備えていて、まさに天才少年だって……」
「あー、そう言う奴もいるけどさ。でもそんなの、他人が言う事だろ。そんなことより、オレが言いたいのはさ。積木みたいに丁寧に音を追う奴がオレのことを知っててくれたのが嬉しいってこと。あ、まあそう考えると、雑誌に載ったりするのも悪いことじゃないか」
「御子柴……」
昔の自分の姿が、御子柴の隣に浮かぶ。コンクールで優勝して、インタビューに答えていた自分の、雑誌に載った、あの表情。ぼくが覚えているのは、インタビューに答えている時の自分ではなく、その雑誌で見た、自分の表情だ。取材を受けて、先生に褒められて、周りから褒められて、期待されていた時の、一番明るい表情だ。
けれど、今、御子柴が浮かべている表情の方が。
「そうだ積木、気になってたんだけど」
「ん?」
御子柴が、すぐ隣に座っているにもかかわらず、更に身を乗り出してきた。思わず後ろに身を反らし、ぼくより少し背の高い相手を見上げる。御子柴はさっきまでとは打って変わって、いつになく真剣な様子だ。
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