二章、警告の実現
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ドワーリンが墓守たちに話をつけると、いよいよネルファンディアは墓所に足を踏み入れた。入り口には大きな樫の木が植えられている。オーケンシールド────樫の盾。トーリンの異名を彷彿させるものだった。
緊張と現実に対峙する恐怖を圧し殺し、ネルファンディアは石造りの部屋を真っ直ぐ進んだ。そして、その歩みはトーリンの墓石の前で止まった。
覚悟はしていたが、いざ対面すると唇が震える。喉から熱い何かかが込み上げてくるのを感じた。
ドワーリンは気を遣って、彼女を独りにして外に出た。その直後だった。
「トーリン……こんな形で……会いたく……なかった」
ネルファンディアの悲痛な声が聞こえてきた。一同は聞くに耐えない嗚咽を耳にしながら、改めて二度と戻らぬ王に追悼の念を抱いた。
生前のトーリンによく似た彫刻を撫でながら、ネルファンディアはあの日から行き場を失った想いをゆっくりと吐き出していた。
────トーリン……あなたには、聞こえていたのかしら。私の返事が。あなたを永遠に愛すると言った、あの言葉が。
愛する人は失われた。永遠に、戻らない。ネルファンディアには、この世界にトーリンがまだ存在しているような錯覚に陥る時があった。だが、今ようやく知った。もう自分の愛したトーリン・オーケンシールドは居ないと。すると今度は別の疑問が生じる。
どうしてこの人は、居ないんだろう。どうして自分の肩を抱いて、優しく口づけしてくれないのだろう。
いつもネルファンディアの周りの大切な人は、自分を置いて去ってしまう。父も母も、想い人も。その度に胸を切り裂かれるような苦しみと、終わりのない孤独に苛まれ続けた。だから先に逝ってしまった彼らを恨むことがないと言っては、嘘になる。
人は思い出だけで生きていけると、誰もが言う。けれどそれは違うと、ネルファンディアははっきりと知っていた。
思い出は、触れることも感じることもできない。ただの記憶。いつかは薄れ行き、詳細を思い出せなくなる。
「トーリン……あなたを忘れたくない……」
ネルファンディアはそう言って、墓石に顔を伏せた。とても冷たくとも、今はそうしていたかった。
ネルファンディアは眠っていた。その身体は何故か、森に佇んでいる。裸足で土の感触をかみしめながら、彼女はゆっくりと歩いていく。すると、目の前に黒髪のエルフが現れた。アルウェンだった。彼女は憂鬱な面持ちで、ネルファンディアを見た。理由はよくわからないが、彼女にはこのエルフの姫が何を憂いているのかが分かった。
「────アラゴルンの元を、去るの?」
「ええ、ネルファンディア。決めたの」
「いけないわ。去っては駄目」
ネルファンディアは背中を向けて去ろうとするアルウェンの手を掴んだ。
「駄目。駄目だよ。きっと後悔する。私もそうだったから。そして、結果的に全てを失った。六十年間、ずっと苦しんだ。私たちにとって六十年なんて瞬きの間だって言うかもしれない!でも、違う。違った。その六十年は────たったの六十年は、私にとって一万年よりも長く感じた」
アルウェンは目を見開いてネルファンディアを見ている。友の過去に一体何があったのだろう。そう言いたげな顔をしていた。
「だから……あなたが去りたいと思わない限り、去っては駄目」
アルウェンが何かを言おうとして口を開いた。だがその瞬間、ネルファンディアは目が覚めた。妙に生々しい感覚の夢だった。現実であることを確認すると、彼女はもう一度だけトーリンの墓を見た。
「……見てみたかった。あなたが創る国を」
そして例え、届かないとわかっていてもこれだけは言いたかった。
「────もし、もう一度人生を初めからやり直すとしても、きっと私は同じ道をあなたと辿ると思う。でも、強いて言うならば……」
ネルファンディアは像の頬を撫でて笑った。
「もっと早くに出会えるように、この世界であなたを探すわ」
そうすればもっと沢山、一緒に居られるはずだから。
大きく運命の行き着く先を変えたりすることは望まない。それが彼女の唯一の願いだった。
ネルファンディアは墓所を出て、あるものを渡すために荷物の置いてある客間に向かった。先程までは、それを見せるための決心をつける時間でもあった。
包みをもって、彼女はドワーリンたちの元へ姿を現した。全員が普段とは違う表情に、何か大切な話があるのだと瞬時に悟った。
「────見せたいものがあるの。そして、言わなければならないことも」
ネルファンディアは包みを開いた。そこから出てきたのは、装丁がぼろぼろになった日記────モリアでオーリが書いたマザルブルの書だった。ドワーリンは震える手で書を受け取ると、机の中央に置いてゆっくりとページに目を通し始めた。すぐに兄弟であるノーリとドーリは、その文字かオーリによって書かれたものであると気づいた。
ページの最後を迎える前に、ネルファンディアは淡々と哀しみを抑えて語り始めた。
「……私たちは、霧降山脈を越えようとした。けれど父の妨害に遭い、ギムリの提案でモリアに行くことにした。彼はバーリンが迎えてくれると、とても楽しみにしていた。私も心の中で、彼に会えることを期待していた」
────ネルファンディア殿。あなたはトーリンが心を開いた唯一の女性です。あの方に笑顔が戻ったのは、何年ぶりでしょうか。
トーリンが自分に素直な思慕の念を打ち明けたとき、一番喜んでいたのはバーリンだった。ネルファンディアは両目に涙をためながら続けた。
「────でも、モリアに着いた私たちを待っていたのは……温かな歓迎でも、懐かしい再会でもなかった。モリアで私が目にしたのは、数え切れないほどの死体の山だった」
グローインが息を呑む。ドワーリンは話の結末を察したのか、顔色ひとつ変えずに呆然としている。
「モリアは……美しい宮殿ではなく、ドワーフたちの墓場と化していた。そして、回廊を抜けた先にあった間には……」
────嘘だ!嘘だ!
ギムリの悲痛な叫びが今でも耳に残っている。ネルファンディアは上を見ながら言った。
「モリアの領主、バーリンの墓があった」
「兄……者……」
「オインも、その日記を書いたオーリも命を落とした。そして私たちは彼の書いた書物のお陰で、危機を未然に知り、何とかオークたちの追撃を振り切ってモリアを脱出することができた」
沈黙という名の、悲しみがその場を支配した。ドワーリンはやり場のない怒りに拳を震わせている。グローインがネルファンディアの手を握って、深々と頭を下げた。
「……ありがとう、ネルファンディア。あんたが教えてくれなかったら、弟の死を知らずにいたところだった」
「そして、その仇も」
ドワーリンは瞳を涙で潤ませながら、怒りを露にして言い放った。
「今すぐ兵を集めて、兄弟たちの仇を討とう!いいや、俺たちだけでも行くべきだ!サウロンの野郎をぶっ殺してやる!」
ネルファンディアはそれを聞いて、頭を抱えた。きっとドワーリンを含む仲間たちは、復讐の炎に燃えて意地でもゴンドールへ向かうと言い出す。だから話す覚悟が固まらなかったのだ。最後の戦いに挑む。それは即ちほぼ死を意味していた。
ここで勘の良いボフールがネルファンディアに尋ねた。
「……あんた、まだ何か隠してるよな?俺たちに頼みたいことがあってここまで来たんじゃないのか?」
全員の視線が集まる。ネルファンディアは苦々しい面持ちで、ため息をついた。
「……言えない。あなたたちの同胞を、これ以上死なせることなんて……」
「援軍が、必要なのでは?」
ドワーリンの言葉に、魔法使いは何も答えない。彼は続けた。
「サウロンの本隊と正面から戦いを挑まれるのに、人間の軍ではとても勝てるはずがない!我らの軍をお使いください。きっとあなたに皆付いていくはず!」
「いいえ!いけない。私が許さない。確かにエレボールへ来た理由には援軍要請もあった。でも……いざあなたたちを見たら、やっぱり頼めない……」
「でも、あんたが今回の旅で出会った仲間たちが死んじまう」
その言葉に、ネルファンディアは顔をあげた。かつての仲間たちか、今の旅の仲間たちか。そんなこと、選べるはずがなかった。首を横に振る彼女に、ドワーリンが言った。
「姫。あなたがトーリンから授かった、あのドゥリンの指輪があれば────あれがあれば全ドワーフの王はあなたに従うでしょう。今こそ、あれを使うときです!」
「トーリンを利用するなんて!確かにローハンのセオデン王を説得するときに、その方法を提示しました。ですが、いざ行動に移せと言われたら……私には出来ない。絶対に出来ない。あの人の愛を、あの人の民を殺すために利用するなんて!」
取り乱すネルファンディアの肩に、ドワーリンはそっと手を置いた。彼は聞いたこともないほどに優しい声で言った。
「覚えておいでですか?姫。トーリンは……ドゥリン王朝の者であることの証明になるこの指輪が、きっと役に立つだろうと言ってあなたにお渡しになった。これはトーリンの望みなのです!あの人はそんなことで怒ったりはしない」
確かにトーリンはそう言った。バーリンの言葉が甦ってくる。
────あの方は最後の最後まであなたのことを考えていらっしゃったようですね。
そうだ。六十年経った今でもこの胸が痛むほど、考えてくれていた。
────その指輪はドゥリン王朝の者である証。それがあればすぐに我らドワーフたちは援軍をお送り出来ましょう。そしてその軍の指揮権も得られます。
そんなものは欲しくなかった。ただ、トーリンに側に居て欲しかった。彼の創る国を、隣で見ていたかった。
────それに、ドワーフは心から愛した人に自分が身につけているものを贈るのですから
ネルファンディアは気がつけば泣きながら部屋を飛び出していた。客間のベッドに伏して、彼女は声を殺して泣いた。そして自分の辿ってきた残酷すぎる人生と、背負った運命を呪い続けるのだった。
翌朝、エレボールには昨日以上の忙しさが溢れていた。ドワーフの王たちの会合が始まったのだ。ネルファンディアは泣き疲れて眠っていたことを目覚めてから知ると、荷物をまとめて静かにエレボールを去った。やはり自分は災いを招くだけだった。レヴァナントと歩きながら、彼女は無力さを感じていた。
足の向くままデイルに着いたネルファンディアは、城壁に立つ初老の女性に目を留めた。そのまま通りすぎようとすると、地面の石に躓いて老女が転けそうになったため、ネルファンディアはすかさずその身体を支えた。老女は礼を言ってから顔を上げ、ネルファンディアの顔を見て絶句した。
「────ネルファンディア……さん?」
ネルファンディアは目を丸くした。何故この老女が自分を知っているのか。予言のことならまだしも、名前まで知っているものが居るとは驚きだった。
「ええと……何故私の名前を?あなたも南から来る白の人の予言をご存じで?」
「予言……えぇ。それも知っていますが、そうではありません。私はあなたを知っています。……残念ながら、私は随分と老いてしまいましたが……」
ネルファンディアは目を細めて必死に誰であるかを思い出そうとした。そしてその瞳の輝きに、何かを見つけた。
「……ティルダ?湖の町の射手、バルドの娘の?」
「ええ!そうです!」
老女────ティルダは昔と変わらぬ笑顔でネルファンディアの手を握った。
「お戻りになったなんて……夢のようです」
帰る途中だとは言えず、ネルファンディアは微笑んだ。タウリエルやドワーリンたちに出会えたことだけでも驚きだったというのに、ティルダとも再会できるとは。
そんな彼女が三度目の思いがけない再会に喜んでいると、再びあの警報の角笛が鳴り響いた。タウリエルが見張り台で叫んでいる。
「奇襲よ!奇襲よ!急ぎ備えて!エレボールにも警報を!」
エレボールへの危機を知らせる警報が鳴らされた。その音は、ネルファンディアが黙って戦地に帰ってしまったことに沈むドワーリンたちの耳にも届いた。彼は急いで兵士たちに指示を送ると、自分も戦いに備えて武装した。
「知らせます!南からとんでもない数のオークたちがやって来ます。東夷も居ます!」
ドワーリンはその知らせに青ざめた。ネルファンディアの言うとおり、本隊がやって来たとしか思えなかったからだ。
「急げ!デイルの兵士たちと共に、谷を守れ!隊を二つに分ける。一つは俺に続け!残りはデイルの隊長、タウリエルに従え!」
奇襲には慣れているエレボールのドワーフたちだったが、今回はその量に圧倒されていた。
「隊長!エレボールから援軍が来ました!」
「ありがとう、みんな」
タウリエルが城壁と谷に押し寄せた第一波を倒している間に、ドワーリンも兵を展開し終えた。ボフールたちも武装して出陣している。
「バラク・カザド! カザド=アイメヌ!(ドワーフの斧を見よ!我らが汝らを撃つ!)」
彼の掛け声で残りのドワーフたちも、デイルの軍と迎撃するような形で突撃した。
「なんだ!本隊って言うが、大したことはないな!」
ドワーリンがボフールに気を抜くなと言おうとしたときだった。突然強い風が、彼の頬に吹きつけた。ドラゴンとも違うその羽ばたきに、全員が顔をあげようとした。だがそれよりも前に、一際甲高いこの世のものとは思えぬ声が谷に響き渡った。ドワーリンはその姿に見覚えがあった。再建したエレボールにやって来た、サウロンの使者。指輪の幽鬼にして、忠実な僕────
「ナズグルだ!!」
しかも三体もいる。一体は漆黒のドラゴンのようなものに乗っており、あとの二体は馬に乗っている。
空からの攻撃に、軍は散開した。地上に降りてきたナズグルに、タウリエルが一人立ち向かうが、成す術がない。モルグルの刃の使い手である幽鬼たちの攻撃は、一掠りすることも許されない。傷を負うことは即ち死を意味していた。
元々人間の王だっただけはあり、剣術に長けているナズグルがタウリエルを倒すことは容易だった。地に伏してもがいている彼女に、刃が振り下ろされる────
その時だった。誰かが刃を受け止め、ナズグルを弾き返した。
「間に合ったかしら?」
「ネルファンディア!」
『蒼の姫────ただ一人だけの援軍では、援軍とは言えぬな!』
「ええ、一人ならね」
ネルファンディアは振り返り、南側に目を向けた。だが、地平線には何も見えない。ナズグルが鼻で笑う。
すると、不意に大きな角を持つ白いヘラジカに乗った男がデイルの城壁を越えて現れた。ネルファンディアがにこりと笑いかける相手。そう、スランドゥイルだった。彼は剣を抜き、背後を向いて声をあげた。
「ヘリオ!(突撃せよ!)」
スランドゥイルの命で、その背後にいたらしいエルフ兵たちが加勢した。ネルファンディアはナズグルに向き直って尋ねた。
「さて、これで立派な援軍かしら?」
『小娘が……!』
ナズグルの刃をネルファンディアがオルクリストで受け止める。
『無駄だ!命ある者が生み出した剣では、我らは倒せぬ!』
「それはどうかしら。これは確かにエルフが鍛えた剣。でも、ただの剣じゃない」
オルクリストが光を帯び始める。
「アゾグ。お前たちとその主人もこの名に心当たりがあるはず」
その名を聞いて、ナズグルとドワーリンたちの動きが止まる。トーリンを撃った宿敵。ドワーフたちは疑問にかられた。その名を何故、ナズグルが知っていると言うのだ。ネルファンディアは続けた。
「アゾグはあのとき、サウロンの指示を受けてドウ=グルドゥアから進撃したはず。だが、奴は打ち倒された」
オルクリストがまばゆい光を放ったと思うと、ナズグルが弾き飛ばされた。
「────この剣、オルクリストによって!」
よろめくナズグルに、ネルファンディアは反撃に出た。モルグルの刃とオルクリストが互いに噛み合う。その間にも残りの二体が地に降り立った。
『だが!それでもお前は生あるもの。例えその剣に力を込めようとも、貴様に我らは消し去れぬ!哀れな小娘よ』
ネルファンディアはナズグルから離れると、タウリエルとドワーリンに叫んだ。
「ナズグルは私に任せて!あなたたちは東夷とオークに専念するのよ!」
「ですが!」
もう、主君を独りにして失いたくはない。ドワーリンはネルファンディアの指示に背いて駆け出そうとした。だが、そんな彼に白の魔法使いは威厳ある微笑みを送った。
「大丈夫、ドワーリン」
父から使命を受け継ぎ、共に戦っている証である杖をナズグルに向け、ネルファンディアは地の底から沸き上がるようなあの声で言った。
「────私はネルファンディア。確かにこの身には生あるエルフの血が流れている。だが、忘れてはならぬ。私のもう半分には、父の血が流れている」
風が巻き起こり、凄まじい力が杖に流れ込み始めた。スランドゥイルまでもがその光景に目を見張っている。
「────私は、半エルフ。そして、半マイア(精霊)の魔法使い、白のネルファンディアだ」
二体のナズグルも剣を抜く。
「────この生無きものたちは、私が倒す」
ネルファンディアが杖を振り下ろしてナズグルたちを迎え撃った。その場に強烈な光の波動が生じた。タウリエルとスランドゥイルは呆然としていたが、すぐに顔をあげて次の指示を出した。
「東夷とオークを迎撃するのよ!」
「魔法使いの手を煩わせるな!彼女とエレボールを守れ!余についてこい!」
「俺たちも続け!」
ドワーリンたちも走り出した。闇の森のエルフとエレボールのドワーフが共に戦うのは、実に五軍の戦い以来なので六十年ぶりだった。
一方、ネルファンディアは全力で応戦していた。しかし相手もかなりの力を復活させているらしく、その戦いは困難を極めた。
「お前の主人に伝えなさい!私は決して────お前たちには屈さないと!」
『伝えてやろう。貴様が死んだ暁にな』
「いいえ、お前たちが先にここで消滅するのよ!トーリンの受けた痛みを喰らいなさい!」
善戦により、敵が引いていく。話し合いの途中で戦が始まったせいで出遅れたダインが現れたときには、既に軍は退却を始めていた。
「勝ったぞ!みろ!敵が引いていく!」
ナズグルも現れたときのような悲鳴を上げ、ネルファンディアの元から逃げるように立ち去った。今までならこれほどの魔力を使えば倒れていた彼女だったが、白になったためなのか、まだ余裕を見せている。ナズグルたちは引き揚げたが、少し離れた場所にある烏ヶ丘に退却して様子を見ているようだった。
ネルファンディアはスランドゥイルに礼を述べた。
「構わぬ。余とそなたの契約ゆえ」
「スランドゥイル王。一体どうやってここの奇襲をご存じに?」
タウリエルの質問にエルフ王が答える。
「そなたらが警報を鳴らしておる間に、ネルファンディアがツグミを使って知らせてくれたのだ」
ダインはネルファンディアに深々と礼を尽くして頭を下げた。
「我らだけでは本隊の一陣さえも倒せませんでした。何とお礼を言えば良いか……」
「いいえ、頭を下げるのは私の方です。陛下の許可もとらず、勝手なことを。……それより、言っておかねばなりません」
ネルファンディアは遥か南、モルドールの方角を睨み付けた。
「────これは、敵の本隊ではありません。斥候に過ぎない数です」
「何……?ネルファンディア、これよりも多いと言うのか?」
「はい」
流石のスランドゥイルも動揺している。
「敵は本気でここを落とそうとしています。かつて、五軍の合戦で進軍したときのように」
「なんと……」
ネルファンディアはレヴァナントを呼ぶと、彼の背に飛び乗った。
「ですから私が、本隊との連絡を遮断するためにサウロンの使者を討ちます」
その復讐に燃えている視線が烏ヶ丘に向けられる。
「────まずは三人。私の愛した人の仇を、正にあの場所で償ってもらいます」
レヴァナントが吹雪のような荒々しさで走り出す。ドワーリンはその姿のどこかに、トーリンに重なるものを感じて胸騒ぎを覚えた。彼は戦いのために駆り出された山羊に飛び乗ると、ボフールたちに告げた。
「お前たちにこっちのことは頼んだ!俺は烏ヶ丘へ行く」
残されたドワーフたちの制止も聞かず、彼は走り出した。
────もう、決してあの場所で主君を失ったりはしない。そんな決意を噛み締めながら、彼は悲しみばかりが残る烏ヶ丘へと向かうのだった。
緊張と現実に対峙する恐怖を圧し殺し、ネルファンディアは石造りの部屋を真っ直ぐ進んだ。そして、その歩みはトーリンの墓石の前で止まった。
覚悟はしていたが、いざ対面すると唇が震える。喉から熱い何かかが込み上げてくるのを感じた。
ドワーリンは気を遣って、彼女を独りにして外に出た。その直後だった。
「トーリン……こんな形で……会いたく……なかった」
ネルファンディアの悲痛な声が聞こえてきた。一同は聞くに耐えない嗚咽を耳にしながら、改めて二度と戻らぬ王に追悼の念を抱いた。
生前のトーリンによく似た彫刻を撫でながら、ネルファンディアはあの日から行き場を失った想いをゆっくりと吐き出していた。
────トーリン……あなたには、聞こえていたのかしら。私の返事が。あなたを永遠に愛すると言った、あの言葉が。
愛する人は失われた。永遠に、戻らない。ネルファンディアには、この世界にトーリンがまだ存在しているような錯覚に陥る時があった。だが、今ようやく知った。もう自分の愛したトーリン・オーケンシールドは居ないと。すると今度は別の疑問が生じる。
どうしてこの人は、居ないんだろう。どうして自分の肩を抱いて、優しく口づけしてくれないのだろう。
いつもネルファンディアの周りの大切な人は、自分を置いて去ってしまう。父も母も、想い人も。その度に胸を切り裂かれるような苦しみと、終わりのない孤独に苛まれ続けた。だから先に逝ってしまった彼らを恨むことがないと言っては、嘘になる。
人は思い出だけで生きていけると、誰もが言う。けれどそれは違うと、ネルファンディアははっきりと知っていた。
思い出は、触れることも感じることもできない。ただの記憶。いつかは薄れ行き、詳細を思い出せなくなる。
「トーリン……あなたを忘れたくない……」
ネルファンディアはそう言って、墓石に顔を伏せた。とても冷たくとも、今はそうしていたかった。
ネルファンディアは眠っていた。その身体は何故か、森に佇んでいる。裸足で土の感触をかみしめながら、彼女はゆっくりと歩いていく。すると、目の前に黒髪のエルフが現れた。アルウェンだった。彼女は憂鬱な面持ちで、ネルファンディアを見た。理由はよくわからないが、彼女にはこのエルフの姫が何を憂いているのかが分かった。
「────アラゴルンの元を、去るの?」
「ええ、ネルファンディア。決めたの」
「いけないわ。去っては駄目」
ネルファンディアは背中を向けて去ろうとするアルウェンの手を掴んだ。
「駄目。駄目だよ。きっと後悔する。私もそうだったから。そして、結果的に全てを失った。六十年間、ずっと苦しんだ。私たちにとって六十年なんて瞬きの間だって言うかもしれない!でも、違う。違った。その六十年は────たったの六十年は、私にとって一万年よりも長く感じた」
アルウェンは目を見開いてネルファンディアを見ている。友の過去に一体何があったのだろう。そう言いたげな顔をしていた。
「だから……あなたが去りたいと思わない限り、去っては駄目」
アルウェンが何かを言おうとして口を開いた。だがその瞬間、ネルファンディアは目が覚めた。妙に生々しい感覚の夢だった。現実であることを確認すると、彼女はもう一度だけトーリンの墓を見た。
「……見てみたかった。あなたが創る国を」
そして例え、届かないとわかっていてもこれだけは言いたかった。
「────もし、もう一度人生を初めからやり直すとしても、きっと私は同じ道をあなたと辿ると思う。でも、強いて言うならば……」
ネルファンディアは像の頬を撫でて笑った。
「もっと早くに出会えるように、この世界であなたを探すわ」
そうすればもっと沢山、一緒に居られるはずだから。
大きく運命の行き着く先を変えたりすることは望まない。それが彼女の唯一の願いだった。
ネルファンディアは墓所を出て、あるものを渡すために荷物の置いてある客間に向かった。先程までは、それを見せるための決心をつける時間でもあった。
包みをもって、彼女はドワーリンたちの元へ姿を現した。全員が普段とは違う表情に、何か大切な話があるのだと瞬時に悟った。
「────見せたいものがあるの。そして、言わなければならないことも」
ネルファンディアは包みを開いた。そこから出てきたのは、装丁がぼろぼろになった日記────モリアでオーリが書いたマザルブルの書だった。ドワーリンは震える手で書を受け取ると、机の中央に置いてゆっくりとページに目を通し始めた。すぐに兄弟であるノーリとドーリは、その文字かオーリによって書かれたものであると気づいた。
ページの最後を迎える前に、ネルファンディアは淡々と哀しみを抑えて語り始めた。
「……私たちは、霧降山脈を越えようとした。けれど父の妨害に遭い、ギムリの提案でモリアに行くことにした。彼はバーリンが迎えてくれると、とても楽しみにしていた。私も心の中で、彼に会えることを期待していた」
────ネルファンディア殿。あなたはトーリンが心を開いた唯一の女性です。あの方に笑顔が戻ったのは、何年ぶりでしょうか。
トーリンが自分に素直な思慕の念を打ち明けたとき、一番喜んでいたのはバーリンだった。ネルファンディアは両目に涙をためながら続けた。
「────でも、モリアに着いた私たちを待っていたのは……温かな歓迎でも、懐かしい再会でもなかった。モリアで私が目にしたのは、数え切れないほどの死体の山だった」
グローインが息を呑む。ドワーリンは話の結末を察したのか、顔色ひとつ変えずに呆然としている。
「モリアは……美しい宮殿ではなく、ドワーフたちの墓場と化していた。そして、回廊を抜けた先にあった間には……」
────嘘だ!嘘だ!
ギムリの悲痛な叫びが今でも耳に残っている。ネルファンディアは上を見ながら言った。
「モリアの領主、バーリンの墓があった」
「兄……者……」
「オインも、その日記を書いたオーリも命を落とした。そして私たちは彼の書いた書物のお陰で、危機を未然に知り、何とかオークたちの追撃を振り切ってモリアを脱出することができた」
沈黙という名の、悲しみがその場を支配した。ドワーリンはやり場のない怒りに拳を震わせている。グローインがネルファンディアの手を握って、深々と頭を下げた。
「……ありがとう、ネルファンディア。あんたが教えてくれなかったら、弟の死を知らずにいたところだった」
「そして、その仇も」
ドワーリンは瞳を涙で潤ませながら、怒りを露にして言い放った。
「今すぐ兵を集めて、兄弟たちの仇を討とう!いいや、俺たちだけでも行くべきだ!サウロンの野郎をぶっ殺してやる!」
ネルファンディアはそれを聞いて、頭を抱えた。きっとドワーリンを含む仲間たちは、復讐の炎に燃えて意地でもゴンドールへ向かうと言い出す。だから話す覚悟が固まらなかったのだ。最後の戦いに挑む。それは即ちほぼ死を意味していた。
ここで勘の良いボフールがネルファンディアに尋ねた。
「……あんた、まだ何か隠してるよな?俺たちに頼みたいことがあってここまで来たんじゃないのか?」
全員の視線が集まる。ネルファンディアは苦々しい面持ちで、ため息をついた。
「……言えない。あなたたちの同胞を、これ以上死なせることなんて……」
「援軍が、必要なのでは?」
ドワーリンの言葉に、魔法使いは何も答えない。彼は続けた。
「サウロンの本隊と正面から戦いを挑まれるのに、人間の軍ではとても勝てるはずがない!我らの軍をお使いください。きっとあなたに皆付いていくはず!」
「いいえ!いけない。私が許さない。確かにエレボールへ来た理由には援軍要請もあった。でも……いざあなたたちを見たら、やっぱり頼めない……」
「でも、あんたが今回の旅で出会った仲間たちが死んじまう」
その言葉に、ネルファンディアは顔をあげた。かつての仲間たちか、今の旅の仲間たちか。そんなこと、選べるはずがなかった。首を横に振る彼女に、ドワーリンが言った。
「姫。あなたがトーリンから授かった、あのドゥリンの指輪があれば────あれがあれば全ドワーフの王はあなたに従うでしょう。今こそ、あれを使うときです!」
「トーリンを利用するなんて!確かにローハンのセオデン王を説得するときに、その方法を提示しました。ですが、いざ行動に移せと言われたら……私には出来ない。絶対に出来ない。あの人の愛を、あの人の民を殺すために利用するなんて!」
取り乱すネルファンディアの肩に、ドワーリンはそっと手を置いた。彼は聞いたこともないほどに優しい声で言った。
「覚えておいでですか?姫。トーリンは……ドゥリン王朝の者であることの証明になるこの指輪が、きっと役に立つだろうと言ってあなたにお渡しになった。これはトーリンの望みなのです!あの人はそんなことで怒ったりはしない」
確かにトーリンはそう言った。バーリンの言葉が甦ってくる。
────あの方は最後の最後まであなたのことを考えていらっしゃったようですね。
そうだ。六十年経った今でもこの胸が痛むほど、考えてくれていた。
────その指輪はドゥリン王朝の者である証。それがあればすぐに我らドワーフたちは援軍をお送り出来ましょう。そしてその軍の指揮権も得られます。
そんなものは欲しくなかった。ただ、トーリンに側に居て欲しかった。彼の創る国を、隣で見ていたかった。
────それに、ドワーフは心から愛した人に自分が身につけているものを贈るのですから
ネルファンディアは気がつけば泣きながら部屋を飛び出していた。客間のベッドに伏して、彼女は声を殺して泣いた。そして自分の辿ってきた残酷すぎる人生と、背負った運命を呪い続けるのだった。
翌朝、エレボールには昨日以上の忙しさが溢れていた。ドワーフの王たちの会合が始まったのだ。ネルファンディアは泣き疲れて眠っていたことを目覚めてから知ると、荷物をまとめて静かにエレボールを去った。やはり自分は災いを招くだけだった。レヴァナントと歩きながら、彼女は無力さを感じていた。
足の向くままデイルに着いたネルファンディアは、城壁に立つ初老の女性に目を留めた。そのまま通りすぎようとすると、地面の石に躓いて老女が転けそうになったため、ネルファンディアはすかさずその身体を支えた。老女は礼を言ってから顔を上げ、ネルファンディアの顔を見て絶句した。
「────ネルファンディア……さん?」
ネルファンディアは目を丸くした。何故この老女が自分を知っているのか。予言のことならまだしも、名前まで知っているものが居るとは驚きだった。
「ええと……何故私の名前を?あなたも南から来る白の人の予言をご存じで?」
「予言……えぇ。それも知っていますが、そうではありません。私はあなたを知っています。……残念ながら、私は随分と老いてしまいましたが……」
ネルファンディアは目を細めて必死に誰であるかを思い出そうとした。そしてその瞳の輝きに、何かを見つけた。
「……ティルダ?湖の町の射手、バルドの娘の?」
「ええ!そうです!」
老女────ティルダは昔と変わらぬ笑顔でネルファンディアの手を握った。
「お戻りになったなんて……夢のようです」
帰る途中だとは言えず、ネルファンディアは微笑んだ。タウリエルやドワーリンたちに出会えたことだけでも驚きだったというのに、ティルダとも再会できるとは。
そんな彼女が三度目の思いがけない再会に喜んでいると、再びあの警報の角笛が鳴り響いた。タウリエルが見張り台で叫んでいる。
「奇襲よ!奇襲よ!急ぎ備えて!エレボールにも警報を!」
エレボールへの危機を知らせる警報が鳴らされた。その音は、ネルファンディアが黙って戦地に帰ってしまったことに沈むドワーリンたちの耳にも届いた。彼は急いで兵士たちに指示を送ると、自分も戦いに備えて武装した。
「知らせます!南からとんでもない数のオークたちがやって来ます。東夷も居ます!」
ドワーリンはその知らせに青ざめた。ネルファンディアの言うとおり、本隊がやって来たとしか思えなかったからだ。
「急げ!デイルの兵士たちと共に、谷を守れ!隊を二つに分ける。一つは俺に続け!残りはデイルの隊長、タウリエルに従え!」
奇襲には慣れているエレボールのドワーフたちだったが、今回はその量に圧倒されていた。
「隊長!エレボールから援軍が来ました!」
「ありがとう、みんな」
タウリエルが城壁と谷に押し寄せた第一波を倒している間に、ドワーリンも兵を展開し終えた。ボフールたちも武装して出陣している。
「バラク・カザド! カザド=アイメヌ!(ドワーフの斧を見よ!我らが汝らを撃つ!)」
彼の掛け声で残りのドワーフたちも、デイルの軍と迎撃するような形で突撃した。
「なんだ!本隊って言うが、大したことはないな!」
ドワーリンがボフールに気を抜くなと言おうとしたときだった。突然強い風が、彼の頬に吹きつけた。ドラゴンとも違うその羽ばたきに、全員が顔をあげようとした。だがそれよりも前に、一際甲高いこの世のものとは思えぬ声が谷に響き渡った。ドワーリンはその姿に見覚えがあった。再建したエレボールにやって来た、サウロンの使者。指輪の幽鬼にして、忠実な僕────
「ナズグルだ!!」
しかも三体もいる。一体は漆黒のドラゴンのようなものに乗っており、あとの二体は馬に乗っている。
空からの攻撃に、軍は散開した。地上に降りてきたナズグルに、タウリエルが一人立ち向かうが、成す術がない。モルグルの刃の使い手である幽鬼たちの攻撃は、一掠りすることも許されない。傷を負うことは即ち死を意味していた。
元々人間の王だっただけはあり、剣術に長けているナズグルがタウリエルを倒すことは容易だった。地に伏してもがいている彼女に、刃が振り下ろされる────
その時だった。誰かが刃を受け止め、ナズグルを弾き返した。
「間に合ったかしら?」
「ネルファンディア!」
『蒼の姫────ただ一人だけの援軍では、援軍とは言えぬな!』
「ええ、一人ならね」
ネルファンディアは振り返り、南側に目を向けた。だが、地平線には何も見えない。ナズグルが鼻で笑う。
すると、不意に大きな角を持つ白いヘラジカに乗った男がデイルの城壁を越えて現れた。ネルファンディアがにこりと笑いかける相手。そう、スランドゥイルだった。彼は剣を抜き、背後を向いて声をあげた。
「ヘリオ!(突撃せよ!)」
スランドゥイルの命で、その背後にいたらしいエルフ兵たちが加勢した。ネルファンディアはナズグルに向き直って尋ねた。
「さて、これで立派な援軍かしら?」
『小娘が……!』
ナズグルの刃をネルファンディアがオルクリストで受け止める。
『無駄だ!命ある者が生み出した剣では、我らは倒せぬ!』
「それはどうかしら。これは確かにエルフが鍛えた剣。でも、ただの剣じゃない」
オルクリストが光を帯び始める。
「アゾグ。お前たちとその主人もこの名に心当たりがあるはず」
その名を聞いて、ナズグルとドワーリンたちの動きが止まる。トーリンを撃った宿敵。ドワーフたちは疑問にかられた。その名を何故、ナズグルが知っていると言うのだ。ネルファンディアは続けた。
「アゾグはあのとき、サウロンの指示を受けてドウ=グルドゥアから進撃したはず。だが、奴は打ち倒された」
オルクリストがまばゆい光を放ったと思うと、ナズグルが弾き飛ばされた。
「────この剣、オルクリストによって!」
よろめくナズグルに、ネルファンディアは反撃に出た。モルグルの刃とオルクリストが互いに噛み合う。その間にも残りの二体が地に降り立った。
『だが!それでもお前は生あるもの。例えその剣に力を込めようとも、貴様に我らは消し去れぬ!哀れな小娘よ』
ネルファンディアはナズグルから離れると、タウリエルとドワーリンに叫んだ。
「ナズグルは私に任せて!あなたたちは東夷とオークに専念するのよ!」
「ですが!」
もう、主君を独りにして失いたくはない。ドワーリンはネルファンディアの指示に背いて駆け出そうとした。だが、そんな彼に白の魔法使いは威厳ある微笑みを送った。
「大丈夫、ドワーリン」
父から使命を受け継ぎ、共に戦っている証である杖をナズグルに向け、ネルファンディアは地の底から沸き上がるようなあの声で言った。
「────私はネルファンディア。確かにこの身には生あるエルフの血が流れている。だが、忘れてはならぬ。私のもう半分には、父の血が流れている」
風が巻き起こり、凄まじい力が杖に流れ込み始めた。スランドゥイルまでもがその光景に目を見張っている。
「────私は、半エルフ。そして、半マイア(精霊)の魔法使い、白のネルファンディアだ」
二体のナズグルも剣を抜く。
「────この生無きものたちは、私が倒す」
ネルファンディアが杖を振り下ろしてナズグルたちを迎え撃った。その場に強烈な光の波動が生じた。タウリエルとスランドゥイルは呆然としていたが、すぐに顔をあげて次の指示を出した。
「東夷とオークを迎撃するのよ!」
「魔法使いの手を煩わせるな!彼女とエレボールを守れ!余についてこい!」
「俺たちも続け!」
ドワーリンたちも走り出した。闇の森のエルフとエレボールのドワーフが共に戦うのは、実に五軍の戦い以来なので六十年ぶりだった。
一方、ネルファンディアは全力で応戦していた。しかし相手もかなりの力を復活させているらしく、その戦いは困難を極めた。
「お前の主人に伝えなさい!私は決して────お前たちには屈さないと!」
『伝えてやろう。貴様が死んだ暁にな』
「いいえ、お前たちが先にここで消滅するのよ!トーリンの受けた痛みを喰らいなさい!」
善戦により、敵が引いていく。話し合いの途中で戦が始まったせいで出遅れたダインが現れたときには、既に軍は退却を始めていた。
「勝ったぞ!みろ!敵が引いていく!」
ナズグルも現れたときのような悲鳴を上げ、ネルファンディアの元から逃げるように立ち去った。今までならこれほどの魔力を使えば倒れていた彼女だったが、白になったためなのか、まだ余裕を見せている。ナズグルたちは引き揚げたが、少し離れた場所にある烏ヶ丘に退却して様子を見ているようだった。
ネルファンディアはスランドゥイルに礼を述べた。
「構わぬ。余とそなたの契約ゆえ」
「スランドゥイル王。一体どうやってここの奇襲をご存じに?」
タウリエルの質問にエルフ王が答える。
「そなたらが警報を鳴らしておる間に、ネルファンディアがツグミを使って知らせてくれたのだ」
ダインはネルファンディアに深々と礼を尽くして頭を下げた。
「我らだけでは本隊の一陣さえも倒せませんでした。何とお礼を言えば良いか……」
「いいえ、頭を下げるのは私の方です。陛下の許可もとらず、勝手なことを。……それより、言っておかねばなりません」
ネルファンディアは遥か南、モルドールの方角を睨み付けた。
「────これは、敵の本隊ではありません。斥候に過ぎない数です」
「何……?ネルファンディア、これよりも多いと言うのか?」
「はい」
流石のスランドゥイルも動揺している。
「敵は本気でここを落とそうとしています。かつて、五軍の合戦で進軍したときのように」
「なんと……」
ネルファンディアはレヴァナントを呼ぶと、彼の背に飛び乗った。
「ですから私が、本隊との連絡を遮断するためにサウロンの使者を討ちます」
その復讐に燃えている視線が烏ヶ丘に向けられる。
「────まずは三人。私の愛した人の仇を、正にあの場所で償ってもらいます」
レヴァナントが吹雪のような荒々しさで走り出す。ドワーリンはその姿のどこかに、トーリンに重なるものを感じて胸騒ぎを覚えた。彼は戦いのために駆り出された山羊に飛び乗ると、ボフールたちに告げた。
「お前たちにこっちのことは頼んだ!俺は烏ヶ丘へ行く」
残されたドワーフたちの制止も聞かず、彼は走り出した。
────もう、決してあの場所で主君を失ったりはしない。そんな決意を噛み締めながら、彼は悲しみばかりが残る烏ヶ丘へと向かうのだった。