一章、喜ばしい再会
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縦の湖の町エスガロスへの入り口である桟橋に、白馬を連れて降り立つ一人の女性がいた。誰もが皆、見慣れぬその姿に好奇の目を向けている。ある者はエルフだと言い、またある者は精霊だと言った。どちらも正解で、どちらも不正解だった。
ネルファンディアは愛馬レヴァナントを船に預けると、上着を手に入れるための店の場所を尋ねた。船頭によって出港の合図が出される。
「上着なら、港を降りてデイルの町へ向かうための中継地点の桟橋前に売ってるよ」
「ありがとう。随分寒いわね……」
「そりゃあそうですよ。だってまだ離れ山は雪解け草すら咲いていませんからね」
「雪解け草?」
肩につもった雪を払いながら、ネルファンディアは男に尋ねた。
「ああ。雪解けの時期になると地面から顔をだして咲く、とても良い匂いのする綺麗な花のことだよ。エレボールの辺りにしか咲いていないんだ」
「へぇ……エレボールとデイルは、60年前に戦と竜のせいで散々になったって聞いているけど、今はどうなの?」
すると男は大笑いして、こう言った。
「何も問題はないさ!すっかり昔通りとは言えないが、それに近いところまで再建されたよ」
「エスガロスも?」
「ああ。……ところで、随分詳しいじゃないか。あんた、ここの人か?」
その質問に、ネルファンディアは戸惑った。もちろん正直に答えるつもりはなく、彼女は杖を見せないようにぐるぐる巻きにした布を縛り直して答えた。
「昔、来たことがあるの」
「へぇ。お若いのに、昔って言葉を使うのは変わってるなぁ」
「そうかしら?」
「まぁ、いい。さぁ着いたよ、お嬢さん。ようこそ、エスガロスへ!」
顔をあげて、ネルファンディアは目を疑った。かつてスマウグによって灰に変わった水上の町は、すっかり繁栄を取り戻していた。トーリンが言っていた通り、北方貿易の中心地であるため、港は品物を積んだ船で溢れ返っていた。市場にも活気が宿り、どこか寒さを吹き飛ばす温かさがある。ネルファンディアは船頭に礼を告げ、心付けを握らせて船を降りた。レヴァナントも懐かしいと思っているのか、どこか楽しそうだ。
「レヴァナント。今日はここで一泊しないのよ。早くデイルへ行かないと」
しょぼくれるレヴァナントに人参を一本買い与えると、ネルファンディアは寒さに身を震わせながらも、上着を買うために店へ立ち寄った。
店に入ると、何故か全員が彼女に注目を集めた。特段奇怪なことをしたつもりは無かったので、首をかしげながらも裏に毛皮が付いた黒い羽織を店員に差し出した。
すると、奥から老婆の声がした。
「あぁ……予言だよ……!予言が来た!!」
「予言?」
ネルファンディアは代金を払って、これ以上は耐えられそうも無かったので上着を着た。そして老婆の近くへ歩み寄った。
「止めとけ。また婆さんのおとぎ話だよ」
「いいや!……あんたは南から来たね。間違いない……」
店員の制止を無視し、ネルファンディアは老婆の隣にやって来た。老婆は指先を震わせながら、白の魔法使いのことを指した。
「有名な予言にはこうある。『南から白き衣を纏い、黒樫の杖を携えて現れる、白き馬を連れた乙女が、北の大地が紅く染まるを知らせる』とね。また或いは、こうも言われている────」
老婆は遠い記憶を振り返りながら、目を見開いた。ネルファンディアは無言で耳を傾けている。
「────その帰還は、山の下の夜明けを握る」
前半の予言は理解できた。恐らくネルファンディア自身のことだ。だが、後半の予言はさっぱりだった。彼女は老婆に微笑むと、一言礼を言って店を去ろうとした。だが、まだ老婆の話は続く。
「予言は皆知っている!信じていないだけさ」
ネルファンディアは振り返らずに店を出た。直ぐに上着を深く着直し、白い衣を隠した。更に杖もしっかり背にかけ直し、誰の目にも触れられないことを確認する。そして逃げるようにデイル行きの船に金を払い、レヴァナントと共に飛び乗った。
────私がエレボールに戦をもたらし、エレボールの命運を左右するとでも言いたいの?
ネルファンディアは目を閉じ、膝を抱え込んだ。それでもその脳裏では、いつまでも老婆の予言が反芻され続けるのだった。
ネルファンディアがデイルに着いた頃には、既に昼前になろうとしていた。日の光を浴びてそびえ立つデイルの町並みは、かつての廃墟の面影さえ残していない。彼女はレヴァナントを引きながら、ゆっくりと王国の入り口へと向かった。だが、突然辺りに甲高い角笛の音が響き渡った。兵士たちが慌ただしさを帯びて、城門を閉めた。
「襲撃だ!オークが来たぞ!!」
ネルファンディアは狼狽して動転する人々を押し退け、オークたちが現れた方向を見た。ワーグに乗った彼らは、刻一刻とこちらに迫ってくる。すると敵の群れに、デイルの兵士を率いて戦いを挑む赤毛の女性が見えた。
「隊長!ご指示を!」
「私はワーグを殺る。弓隊は援護して。他の者はオークたちを倒すのよ!」
隊長と呼ばれたその女性は、人間とは思えぬ軽い身のこなしでワーグたちを二本の細長い剣で倒し始めた。どこかで見たことのあるその姿に、ネルファンディアは目を凝らした。
だが、誰であるかをはっきりさせるより前に、敵の援軍が現れた。
「トロルだ!」
衛兵たちがトロルによってなぎ倒されていく。隊長と呼ばれたその人も、ワーグとトロルの攻撃を避けることに必死になっている。もう駄目だ。誰もがそう思ったときだった。
目映い光がトロルの顔を直撃したと思うと、疾走する白馬がオークたちの包囲網を蹴散らし始めた。
ネルファンディアだった。兵士たちが唖然とする中、まだ半分ほど杖を覆っていた布を完全に剥がしきり、彼女はレヴァナントから飛び降りた。トロルの背に回り込み、深々とオルクリストを突き刺す。兵士たちと同じく呆然としていた隊長は、我に返って攻撃を命じた。
戦局は一気に巻き返され、闇の軍勢たちは退却を余儀なくされた。敵が去ったことを確認してから、隊長は恩人に礼を述べようと声をかけた。
振り返ったネルファンディアは、驚きで言葉をなくした。
「あなたは────!!」
赤毛の女隊長は、なんとシルヴァンエルフのタウリエルだったのだ。彼女の方も、どこかで見たことのある相手に眉を潜めている。
「タウリエル、私よ。ネルファンディアです」
「────蒼の姫!なんとお礼を申せば良いか……ですが、随分と白っぽくなられましたね」
ネルファンディアは微笑むと、杖を持ち直してタウリエルと並んで歩き始めた。
「隊長と呼ばれていたけれど、今も闇の森の隊長を?」
「いいえ。今はデイルの軍事隊長をしています。あなたは?」
「私は見ての通り、魔法使いをやらせてもらっているわ。最近白に昇格したの」
戦いで火照った体を冷ますために、ネルファンディアは上着を脱いだ。デイルの門を難なく通過した彼女を迎えたのは、活気づく町の風景だけではなかった。高台にあるデイルから見える、離れ山────山の下の王国エレボールも目に飛び込んできた。お互いにエレボールには辛い過去を持つタウリエルとネルファンディアは、黙ってその頂を眺めた。
「……エレボールへ警告に来たの。謁見許可を取る必要はあるかしら?」
「いいえ、ありません。ですが、何の警告に?」
ネルファンディアはエレボールから視線を逸らすことなく、悲哀のこもった声で答えた。
「サウロン軍の侵攻が、ここにもやって来ることを。奴等はドル=グルドゥアの砦を取り戻すべく、再びこの地を戦に染めるでしょう」
タウリエルは無言でネルファンディアを見た。賢者の瞳の奥には、トーリンへの変わらぬ愛が確かに燃えているのだった。
エレボールでは、懐かしい仲間たちが仕事に励んでいた。あれから採掘加工場の長になったボフールは、宝石の鑑定に没頭しているグローイン────ギムリの父の隣で眠りこけている。そんな彼に背後から忍び寄ったドワーリンが、げんこつをお見舞いした。痛みのあまり、ボフールが飛び起きる。
「いてぇな!何するんだよ、ドワーリン!」
「煩い奴だ。仕事をしろ!仕事を!」
「はいはい。しかし、呑気なもんだよ。南の方ではサウロン軍と人間の戦だっていうのにな」
「まさか、本隊がエレボールまで来ることはないでしょう」
ボフールの言葉に、書類を整理していたドーリが笑う。同じく書類に印を押していたノーリも頷いている。
「全く……お前たちは一度、戦場へ行くべきかもな」
「ああ!そうだとも。ボフール、起こされた端から寝るな」
ボフールの従兄弟、ビフールが再び頭を叩く。五軍の合戦の際、頭に刺さっていた斧の破片が抜けたので話せるようになったのだ。ボフールが再び何かを言い返そうとしたときだった。外がにわかに騒がしくなり始めた。ドワーリンは駆け込んできた兵士に尋ねた。
「何があった?」
「わかりません。デイルの方からまっすぐ、谷を渡ってエレボールに向かってくる白馬が見えたので、皆大騒ぎしているんです」
「白馬?」
ドワーリンは首をかしげながらも、見張りのバルコニーへ出た。兵士が指差す方向には、確かにこちらへ駆けてくる白馬が見える。戦で鍛えられた目で、ドワーリンはそれだけではないことを知った。馬上には純白の何かが乗っている。その美しさは、彼の君主トーリン・オーケンシールドと共に埋葬されたアーケン石のようであり、透明で気高い白さだった。後ろの方でやいのやいのと騒いでいる仲間たちを無視して、ドワーリンはもっと見なければと身を乗り出した。
すると、ようやく人が長髪の人であることまで把握できた。その額には、地下から涌き出る泉のように深い青色の宝石が輝いている。ここまで理解して、ドワーリンの心が何かを叫び始めた。
────あの人は、まさか……
「ドワーリン?どこへ行くんだ?」
ボフールの質問も投げ捨てて、ドワーリンは走り出した。
────まさか、まさか。あの人がここに来るはずは……いや、どうかそうであってほしい。あの方であってほしい!
心の中で自分の予想が正しいことを祈りながら、ドワーリンは城門に駆けつけた。既にそこには例の人物が到着していた。
「だから!何の用だ!無礼なやつめ!」
「陛下に会わせてください。知らせねば」
「帰れ!無礼なやつは絶対に通さん。ドワーフでない者は特にお断りだ!」
兵士と一触即発の口論も辞さないその人は、目映い白銀の長髪の女性だった。いささか記憶の中のその人よりも白すぎるが、間違いはなかった。ドワーリンは再会の喜びに打ち震えながら、兵士を押し退けて姿を現した。白銀の乙女も驚きに啖呵を切っていることを忘れて、老戦士を見ている。
ドワーリンは深々と、ドワーフの儀礼中でも最上級の礼を尽くして頭を下げた。言い争っていた兵士たちが目を丸くする。
「────お久しゅうございます、賢者の姫君」
「ドワーリン……殿?」
姫────ネルファンディアはしばらく立ち尽くしていたが、やがて事の次第を理解すると、かつての笑顔をドワーリンに向けた。
「ドワーリン殿!」
「ネルファンディア姫!」
状況を理解できていない周りが、この奇怪な取り合わせに唖然としていると、ボフールたちもやって来た。彼らも同じようにしばらく言葉をなくしていたが、やがて再会の喜びに包まれて懐かしい友の元へ駆け出した。
「ネルファンディア!」
「ネルファンディアさん!」
「ネルファンディア殿!!」
口々に名前を叫びながら、彼らはネルファンディアに飛び付いた。一気に押し寄せてきた再会に、彼女は笑顔が止まらない。
「ボフール、ドーリ、ノーリ、グローイン────ギムリは変わりないわ。それからビフール……あなた、話せるようなったの?」
懐かしい。ネルファンディアは六十年前に戻ったかのような気持ちになった。彼女と口論をしていた兵士を殴り飛ばし、ドワーリンは玉座の間へと案内をした。
再建されたエレボールは、トーリンが語っていた通りの場所だった。王宮の姿に見とれているネルファンディアだったが、その間にも矢継ぎ早に質問が刺さってくる。
「どうして白いんだ?真っ白じゃないか」
「本当にアーケン石みたいになってしまわれたな」
「色々事情があって……」
「それより、杖が変わったんですか?お父上のものとそっくりだ」
「それも理由が……」
「どうしてここに?我々に会うためですか?」
「宴の準備をしなくっちゃな!」
「お前たち!シャザラー!黙れ!」
口々に騒ぐ仲間たちに静まるように怒鳴ると、ドワーリンは執事に取り次いだ。
ドワーリンを通すと許可が降りるのが早く、ネルファンディアは直ぐに玉座の間へと通された。思わず目頭が熱くなる。
ここは、トーリンと夜通し夢を語り合った場所。竜の病に侵されていた彼だったが、ずっとネルファンディアにだけは優しかった。
だが、その玉座に彼の姿はない。代わりに出迎えたのは、彼の従兄弟であるダインだった。ネルファンディアは今の山の下の王に、深々と一礼した。
「ようこそ、エレボールへ。ネルファンディア姫」
快く迎えてくれたダインだったが、その周りに控えている重臣たちは明らかな嫌悪を示している。
「ネルファンディア姫と言えば……」
「あの、裏切り者サルマンの娘か……」
「忌々しい……」
ネルファンディアは聞こえていると言わんばかりに話し始めた。
「父────白のサルマンは、死にました。彼が放棄した使命、そして私が生まれもって課された使命を全うすべく、ここへ来ました」
「サルマンが死んだだと────?」
中つ国最果ての地と言っても過言でないエレボールには、サルマンの悪評は流れても、その死の知らせは届いていなかったようだ。ダインも重臣たちと共に僅かに動揺の色をみせている。
「し、しかし!背信者の娘をエレボールに入れるとは!陛下、今すぐつまみ出すべきです。幽閉して然るべきかと」
この言葉に、ドワーリンが激怒した。
「つまみ出すとは無礼な!この方を誰と心得る!」
一触即発の状況に陥った彼と側近が睨み合う。ネルファンディアが諭そうとした時だった。
「────相変わらず、ドゥリンの血筋の石頭には困ったものよ。控えぬか、山の下の王共々。この者は蒼の魔法使いではない。白のネルファンディアだ」
冷徹で厳格な声。誰もが喧騒を止めて顔をあげた。声の主は、闇の森の王スランドゥイルだった。彼は誰にも下げない頭を、唯一ネルファンディアだけに下げた。
彼女がエスガロスに到着する一日前のことだった。闇の森を通った際に、レゴラスの消息くらいは告げるべきだろうと思い立ち、スランドゥイルの居所へ立ち寄ったのだ。もちろんサルマンの噂は闇の森の奥深くにまで広がっていたので、快い歓迎は受けなかった。
「ネルファンディア。そなた、随分と変わったな」
「私がですか?いいえ、何も変わっていません。今こうしている間も、心はいつも────」
「山の下に眠る王を、想っているのか」
ネルファンディアは項垂れた。彼女の愛が真実だったことは、スランドゥイルも知っていた。そして、トーリンの愛も本心からのものだったことも。
王は玉座に座り、ネルファンディアの話を一部始終黙って聞いた。何よりも息子が負傷することもなく存命であることを知り、彼は大いに喜んだ。そしてネルファンディアは最後に、自分がアウレによって白の賢者の後を継いだことを話した。スランドゥイルは目を見開き、しばらく言葉をなくしていたがすぐに立ち上がると、深々と一礼した。
「無礼を許していただきたい、白のネルファンディア」
「そんな、やめてください」
「あなたを介して、白の議会と余の間に、最初で最後の同盟を結ぼう。────書き留めよ!余は白のネルファンディアを介し、闇の森の王として同盟を結ぶ。余は白の魔法使いの如何なる危機も支援する、と」
スランドゥイルは出来上がった書類を差し出し、首を少しだけ傾げた。だが、ネルファンディアは受け取らずにこう言った。
「もし、それがドワーフ族を救うための説得に尽力していただくことでも、協力いただけますか?」
「……エレボールが、危機にあるのか?」
「はい。私には義務があります。あの人が愛した民を守ること。そしてこの中つ国全ての民を守ることです」
彼は少し時間がほしいと言った。だからネルファンディアはこの場にスランドゥイルが直々に現れたことに、驚きを隠すことができなかった。彼は側近たちを睨み付けると、ネルファンディアに話を続けるように促した。
「────エレボールは、まもなく北で集められた敵の本隊に攻められるでしょう」
「何?北にサウロンの本隊が?まさか。南の間違いでは?」
ダインの言葉に、ネルファンディアが首を横に振る。
「いいえ、違います。間違いなくゴンドールだけでなく、エレボールも標的です。その最大の目論みとして、ドル=グルドゥアの要塞を取り戻すことが含まれることは明らか!」
その場にいる全員が動揺した。事の詳細を知らなかったスランドゥイルも狼狽している。
「万が一、ドル=グルドゥアに火が戻れば。中つ国は間違いなく、終焉を迎えるでしょう」
ダインは予想以上に深刻な事態に、頭を抱えた。スランドゥイルは契約書を手に取り、ネルファンディアに握らせた。
「余は、そなたに従おう」
「スランドゥイル王……」
「ダイン卿、猶予はないぞ。今こそドワーフの王たちを召集し、会議を開くべきだ」
スランドゥイルの話も最もだった。ダインはしばらく黙っていたが、やがて速やかにドワーフの王たちを集めるように指示した。
自分たちのことで精一杯なドワーフたちに、援軍など頼めるはずもない。ネルファンディアは同胞たちが危機にあることを伏せ、固く口を閉ざした。結局その日は警告だけに終わり、彼女は仲間たちが用意してくれたささやかな宴に招かれた。
皿を配りながら、ボフールが感慨深く言った。
「何だか、ビルボの家に押し掛けて食事したことを思い出すなぁ」
「ボフール。お前この前ビルボが来たときもそう言ってたぞ」
その言葉にネルファンディアは目を丸くした。
「え?ビルボが?」
「ああ。一度な」
「何でも、俺たちの話を書いてる最中だったよ」
裂け谷で再会したときには、既に物語は完成していた。それを考えれば、その前に向かったのか。だが何故言わなかったのか。ネルファンディアはビルボらしい気遣いがあったのだろうと思い、僅かに微笑んだ。
「さて!我らがネルファンディア姫がお戻りになったことに乾杯!」
「乾杯!」
ジョッキを掲げ、全員がビールを飲み干した。もちろんネルファンディアもゆっくりではあるが、エレボールのビールを嗜んだ。
「いやー、それにしても久しぶりだな。そうだ、ドワーリン。姫が旅に加わるまでの話をするのはどうだ?」
「それ、私も知りたかったの!教えてもらえる?」
ドワーフたちはすっかり上機嫌になると、口々に時系列も無視して話を始めた。ネルファンディアの顔には、その空気に浸るだけで笑顔が溢れた。
一通り話と食事が終わったところで、ネルファンディアはドワーリンに頼みがあると言った。
「どんな頼みですか?」
「……トーリンに、会いたい」
トーリンと聞いて、ボフールたちが悲しそうな表情に変わる。ドワーリンは黙ってうなずくと、ネルファンディアを連れてトーリンの墓所へ向かうのだった。
ネルファンディアは愛馬レヴァナントを船に預けると、上着を手に入れるための店の場所を尋ねた。船頭によって出港の合図が出される。
「上着なら、港を降りてデイルの町へ向かうための中継地点の桟橋前に売ってるよ」
「ありがとう。随分寒いわね……」
「そりゃあそうですよ。だってまだ離れ山は雪解け草すら咲いていませんからね」
「雪解け草?」
肩につもった雪を払いながら、ネルファンディアは男に尋ねた。
「ああ。雪解けの時期になると地面から顔をだして咲く、とても良い匂いのする綺麗な花のことだよ。エレボールの辺りにしか咲いていないんだ」
「へぇ……エレボールとデイルは、60年前に戦と竜のせいで散々になったって聞いているけど、今はどうなの?」
すると男は大笑いして、こう言った。
「何も問題はないさ!すっかり昔通りとは言えないが、それに近いところまで再建されたよ」
「エスガロスも?」
「ああ。……ところで、随分詳しいじゃないか。あんた、ここの人か?」
その質問に、ネルファンディアは戸惑った。もちろん正直に答えるつもりはなく、彼女は杖を見せないようにぐるぐる巻きにした布を縛り直して答えた。
「昔、来たことがあるの」
「へぇ。お若いのに、昔って言葉を使うのは変わってるなぁ」
「そうかしら?」
「まぁ、いい。さぁ着いたよ、お嬢さん。ようこそ、エスガロスへ!」
顔をあげて、ネルファンディアは目を疑った。かつてスマウグによって灰に変わった水上の町は、すっかり繁栄を取り戻していた。トーリンが言っていた通り、北方貿易の中心地であるため、港は品物を積んだ船で溢れ返っていた。市場にも活気が宿り、どこか寒さを吹き飛ばす温かさがある。ネルファンディアは船頭に礼を告げ、心付けを握らせて船を降りた。レヴァナントも懐かしいと思っているのか、どこか楽しそうだ。
「レヴァナント。今日はここで一泊しないのよ。早くデイルへ行かないと」
しょぼくれるレヴァナントに人参を一本買い与えると、ネルファンディアは寒さに身を震わせながらも、上着を買うために店へ立ち寄った。
店に入ると、何故か全員が彼女に注目を集めた。特段奇怪なことをしたつもりは無かったので、首をかしげながらも裏に毛皮が付いた黒い羽織を店員に差し出した。
すると、奥から老婆の声がした。
「あぁ……予言だよ……!予言が来た!!」
「予言?」
ネルファンディアは代金を払って、これ以上は耐えられそうも無かったので上着を着た。そして老婆の近くへ歩み寄った。
「止めとけ。また婆さんのおとぎ話だよ」
「いいや!……あんたは南から来たね。間違いない……」
店員の制止を無視し、ネルファンディアは老婆の隣にやって来た。老婆は指先を震わせながら、白の魔法使いのことを指した。
「有名な予言にはこうある。『南から白き衣を纏い、黒樫の杖を携えて現れる、白き馬を連れた乙女が、北の大地が紅く染まるを知らせる』とね。また或いは、こうも言われている────」
老婆は遠い記憶を振り返りながら、目を見開いた。ネルファンディアは無言で耳を傾けている。
「────その帰還は、山の下の夜明けを握る」
前半の予言は理解できた。恐らくネルファンディア自身のことだ。だが、後半の予言はさっぱりだった。彼女は老婆に微笑むと、一言礼を言って店を去ろうとした。だが、まだ老婆の話は続く。
「予言は皆知っている!信じていないだけさ」
ネルファンディアは振り返らずに店を出た。直ぐに上着を深く着直し、白い衣を隠した。更に杖もしっかり背にかけ直し、誰の目にも触れられないことを確認する。そして逃げるようにデイル行きの船に金を払い、レヴァナントと共に飛び乗った。
────私がエレボールに戦をもたらし、エレボールの命運を左右するとでも言いたいの?
ネルファンディアは目を閉じ、膝を抱え込んだ。それでもその脳裏では、いつまでも老婆の予言が反芻され続けるのだった。
ネルファンディアがデイルに着いた頃には、既に昼前になろうとしていた。日の光を浴びてそびえ立つデイルの町並みは、かつての廃墟の面影さえ残していない。彼女はレヴァナントを引きながら、ゆっくりと王国の入り口へと向かった。だが、突然辺りに甲高い角笛の音が響き渡った。兵士たちが慌ただしさを帯びて、城門を閉めた。
「襲撃だ!オークが来たぞ!!」
ネルファンディアは狼狽して動転する人々を押し退け、オークたちが現れた方向を見た。ワーグに乗った彼らは、刻一刻とこちらに迫ってくる。すると敵の群れに、デイルの兵士を率いて戦いを挑む赤毛の女性が見えた。
「隊長!ご指示を!」
「私はワーグを殺る。弓隊は援護して。他の者はオークたちを倒すのよ!」
隊長と呼ばれたその女性は、人間とは思えぬ軽い身のこなしでワーグたちを二本の細長い剣で倒し始めた。どこかで見たことのあるその姿に、ネルファンディアは目を凝らした。
だが、誰であるかをはっきりさせるより前に、敵の援軍が現れた。
「トロルだ!」
衛兵たちがトロルによってなぎ倒されていく。隊長と呼ばれたその人も、ワーグとトロルの攻撃を避けることに必死になっている。もう駄目だ。誰もがそう思ったときだった。
目映い光がトロルの顔を直撃したと思うと、疾走する白馬がオークたちの包囲網を蹴散らし始めた。
ネルファンディアだった。兵士たちが唖然とする中、まだ半分ほど杖を覆っていた布を完全に剥がしきり、彼女はレヴァナントから飛び降りた。トロルの背に回り込み、深々とオルクリストを突き刺す。兵士たちと同じく呆然としていた隊長は、我に返って攻撃を命じた。
戦局は一気に巻き返され、闇の軍勢たちは退却を余儀なくされた。敵が去ったことを確認してから、隊長は恩人に礼を述べようと声をかけた。
振り返ったネルファンディアは、驚きで言葉をなくした。
「あなたは────!!」
赤毛の女隊長は、なんとシルヴァンエルフのタウリエルだったのだ。彼女の方も、どこかで見たことのある相手に眉を潜めている。
「タウリエル、私よ。ネルファンディアです」
「────蒼の姫!なんとお礼を申せば良いか……ですが、随分と白っぽくなられましたね」
ネルファンディアは微笑むと、杖を持ち直してタウリエルと並んで歩き始めた。
「隊長と呼ばれていたけれど、今も闇の森の隊長を?」
「いいえ。今はデイルの軍事隊長をしています。あなたは?」
「私は見ての通り、魔法使いをやらせてもらっているわ。最近白に昇格したの」
戦いで火照った体を冷ますために、ネルファンディアは上着を脱いだ。デイルの門を難なく通過した彼女を迎えたのは、活気づく町の風景だけではなかった。高台にあるデイルから見える、離れ山────山の下の王国エレボールも目に飛び込んできた。お互いにエレボールには辛い過去を持つタウリエルとネルファンディアは、黙ってその頂を眺めた。
「……エレボールへ警告に来たの。謁見許可を取る必要はあるかしら?」
「いいえ、ありません。ですが、何の警告に?」
ネルファンディアはエレボールから視線を逸らすことなく、悲哀のこもった声で答えた。
「サウロン軍の侵攻が、ここにもやって来ることを。奴等はドル=グルドゥアの砦を取り戻すべく、再びこの地を戦に染めるでしょう」
タウリエルは無言でネルファンディアを見た。賢者の瞳の奥には、トーリンへの変わらぬ愛が確かに燃えているのだった。
エレボールでは、懐かしい仲間たちが仕事に励んでいた。あれから採掘加工場の長になったボフールは、宝石の鑑定に没頭しているグローイン────ギムリの父の隣で眠りこけている。そんな彼に背後から忍び寄ったドワーリンが、げんこつをお見舞いした。痛みのあまり、ボフールが飛び起きる。
「いてぇな!何するんだよ、ドワーリン!」
「煩い奴だ。仕事をしろ!仕事を!」
「はいはい。しかし、呑気なもんだよ。南の方ではサウロン軍と人間の戦だっていうのにな」
「まさか、本隊がエレボールまで来ることはないでしょう」
ボフールの言葉に、書類を整理していたドーリが笑う。同じく書類に印を押していたノーリも頷いている。
「全く……お前たちは一度、戦場へ行くべきかもな」
「ああ!そうだとも。ボフール、起こされた端から寝るな」
ボフールの従兄弟、ビフールが再び頭を叩く。五軍の合戦の際、頭に刺さっていた斧の破片が抜けたので話せるようになったのだ。ボフールが再び何かを言い返そうとしたときだった。外がにわかに騒がしくなり始めた。ドワーリンは駆け込んできた兵士に尋ねた。
「何があった?」
「わかりません。デイルの方からまっすぐ、谷を渡ってエレボールに向かってくる白馬が見えたので、皆大騒ぎしているんです」
「白馬?」
ドワーリンは首をかしげながらも、見張りのバルコニーへ出た。兵士が指差す方向には、確かにこちらへ駆けてくる白馬が見える。戦で鍛えられた目で、ドワーリンはそれだけではないことを知った。馬上には純白の何かが乗っている。その美しさは、彼の君主トーリン・オーケンシールドと共に埋葬されたアーケン石のようであり、透明で気高い白さだった。後ろの方でやいのやいのと騒いでいる仲間たちを無視して、ドワーリンはもっと見なければと身を乗り出した。
すると、ようやく人が長髪の人であることまで把握できた。その額には、地下から涌き出る泉のように深い青色の宝石が輝いている。ここまで理解して、ドワーリンの心が何かを叫び始めた。
────あの人は、まさか……
「ドワーリン?どこへ行くんだ?」
ボフールの質問も投げ捨てて、ドワーリンは走り出した。
────まさか、まさか。あの人がここに来るはずは……いや、どうかそうであってほしい。あの方であってほしい!
心の中で自分の予想が正しいことを祈りながら、ドワーリンは城門に駆けつけた。既にそこには例の人物が到着していた。
「だから!何の用だ!無礼なやつめ!」
「陛下に会わせてください。知らせねば」
「帰れ!無礼なやつは絶対に通さん。ドワーフでない者は特にお断りだ!」
兵士と一触即発の口論も辞さないその人は、目映い白銀の長髪の女性だった。いささか記憶の中のその人よりも白すぎるが、間違いはなかった。ドワーリンは再会の喜びに打ち震えながら、兵士を押し退けて姿を現した。白銀の乙女も驚きに啖呵を切っていることを忘れて、老戦士を見ている。
ドワーリンは深々と、ドワーフの儀礼中でも最上級の礼を尽くして頭を下げた。言い争っていた兵士たちが目を丸くする。
「────お久しゅうございます、賢者の姫君」
「ドワーリン……殿?」
姫────ネルファンディアはしばらく立ち尽くしていたが、やがて事の次第を理解すると、かつての笑顔をドワーリンに向けた。
「ドワーリン殿!」
「ネルファンディア姫!」
状況を理解できていない周りが、この奇怪な取り合わせに唖然としていると、ボフールたちもやって来た。彼らも同じようにしばらく言葉をなくしていたが、やがて再会の喜びに包まれて懐かしい友の元へ駆け出した。
「ネルファンディア!」
「ネルファンディアさん!」
「ネルファンディア殿!!」
口々に名前を叫びながら、彼らはネルファンディアに飛び付いた。一気に押し寄せてきた再会に、彼女は笑顔が止まらない。
「ボフール、ドーリ、ノーリ、グローイン────ギムリは変わりないわ。それからビフール……あなた、話せるようなったの?」
懐かしい。ネルファンディアは六十年前に戻ったかのような気持ちになった。彼女と口論をしていた兵士を殴り飛ばし、ドワーリンは玉座の間へと案内をした。
再建されたエレボールは、トーリンが語っていた通りの場所だった。王宮の姿に見とれているネルファンディアだったが、その間にも矢継ぎ早に質問が刺さってくる。
「どうして白いんだ?真っ白じゃないか」
「本当にアーケン石みたいになってしまわれたな」
「色々事情があって……」
「それより、杖が変わったんですか?お父上のものとそっくりだ」
「それも理由が……」
「どうしてここに?我々に会うためですか?」
「宴の準備をしなくっちゃな!」
「お前たち!シャザラー!黙れ!」
口々に騒ぐ仲間たちに静まるように怒鳴ると、ドワーリンは執事に取り次いだ。
ドワーリンを通すと許可が降りるのが早く、ネルファンディアは直ぐに玉座の間へと通された。思わず目頭が熱くなる。
ここは、トーリンと夜通し夢を語り合った場所。竜の病に侵されていた彼だったが、ずっとネルファンディアにだけは優しかった。
だが、その玉座に彼の姿はない。代わりに出迎えたのは、彼の従兄弟であるダインだった。ネルファンディアは今の山の下の王に、深々と一礼した。
「ようこそ、エレボールへ。ネルファンディア姫」
快く迎えてくれたダインだったが、その周りに控えている重臣たちは明らかな嫌悪を示している。
「ネルファンディア姫と言えば……」
「あの、裏切り者サルマンの娘か……」
「忌々しい……」
ネルファンディアは聞こえていると言わんばかりに話し始めた。
「父────白のサルマンは、死にました。彼が放棄した使命、そして私が生まれもって課された使命を全うすべく、ここへ来ました」
「サルマンが死んだだと────?」
中つ国最果ての地と言っても過言でないエレボールには、サルマンの悪評は流れても、その死の知らせは届いていなかったようだ。ダインも重臣たちと共に僅かに動揺の色をみせている。
「し、しかし!背信者の娘をエレボールに入れるとは!陛下、今すぐつまみ出すべきです。幽閉して然るべきかと」
この言葉に、ドワーリンが激怒した。
「つまみ出すとは無礼な!この方を誰と心得る!」
一触即発の状況に陥った彼と側近が睨み合う。ネルファンディアが諭そうとした時だった。
「────相変わらず、ドゥリンの血筋の石頭には困ったものよ。控えぬか、山の下の王共々。この者は蒼の魔法使いではない。白のネルファンディアだ」
冷徹で厳格な声。誰もが喧騒を止めて顔をあげた。声の主は、闇の森の王スランドゥイルだった。彼は誰にも下げない頭を、唯一ネルファンディアだけに下げた。
彼女がエスガロスに到着する一日前のことだった。闇の森を通った際に、レゴラスの消息くらいは告げるべきだろうと思い立ち、スランドゥイルの居所へ立ち寄ったのだ。もちろんサルマンの噂は闇の森の奥深くにまで広がっていたので、快い歓迎は受けなかった。
「ネルファンディア。そなた、随分と変わったな」
「私がですか?いいえ、何も変わっていません。今こうしている間も、心はいつも────」
「山の下に眠る王を、想っているのか」
ネルファンディアは項垂れた。彼女の愛が真実だったことは、スランドゥイルも知っていた。そして、トーリンの愛も本心からのものだったことも。
王は玉座に座り、ネルファンディアの話を一部始終黙って聞いた。何よりも息子が負傷することもなく存命であることを知り、彼は大いに喜んだ。そしてネルファンディアは最後に、自分がアウレによって白の賢者の後を継いだことを話した。スランドゥイルは目を見開き、しばらく言葉をなくしていたがすぐに立ち上がると、深々と一礼した。
「無礼を許していただきたい、白のネルファンディア」
「そんな、やめてください」
「あなたを介して、白の議会と余の間に、最初で最後の同盟を結ぼう。────書き留めよ!余は白のネルファンディアを介し、闇の森の王として同盟を結ぶ。余は白の魔法使いの如何なる危機も支援する、と」
スランドゥイルは出来上がった書類を差し出し、首を少しだけ傾げた。だが、ネルファンディアは受け取らずにこう言った。
「もし、それがドワーフ族を救うための説得に尽力していただくことでも、協力いただけますか?」
「……エレボールが、危機にあるのか?」
「はい。私には義務があります。あの人が愛した民を守ること。そしてこの中つ国全ての民を守ることです」
彼は少し時間がほしいと言った。だからネルファンディアはこの場にスランドゥイルが直々に現れたことに、驚きを隠すことができなかった。彼は側近たちを睨み付けると、ネルファンディアに話を続けるように促した。
「────エレボールは、まもなく北で集められた敵の本隊に攻められるでしょう」
「何?北にサウロンの本隊が?まさか。南の間違いでは?」
ダインの言葉に、ネルファンディアが首を横に振る。
「いいえ、違います。間違いなくゴンドールだけでなく、エレボールも標的です。その最大の目論みとして、ドル=グルドゥアの要塞を取り戻すことが含まれることは明らか!」
その場にいる全員が動揺した。事の詳細を知らなかったスランドゥイルも狼狽している。
「万が一、ドル=グルドゥアに火が戻れば。中つ国は間違いなく、終焉を迎えるでしょう」
ダインは予想以上に深刻な事態に、頭を抱えた。スランドゥイルは契約書を手に取り、ネルファンディアに握らせた。
「余は、そなたに従おう」
「スランドゥイル王……」
「ダイン卿、猶予はないぞ。今こそドワーフの王たちを召集し、会議を開くべきだ」
スランドゥイルの話も最もだった。ダインはしばらく黙っていたが、やがて速やかにドワーフの王たちを集めるように指示した。
自分たちのことで精一杯なドワーフたちに、援軍など頼めるはずもない。ネルファンディアは同胞たちが危機にあることを伏せ、固く口を閉ざした。結局その日は警告だけに終わり、彼女は仲間たちが用意してくれたささやかな宴に招かれた。
皿を配りながら、ボフールが感慨深く言った。
「何だか、ビルボの家に押し掛けて食事したことを思い出すなぁ」
「ボフール。お前この前ビルボが来たときもそう言ってたぞ」
その言葉にネルファンディアは目を丸くした。
「え?ビルボが?」
「ああ。一度な」
「何でも、俺たちの話を書いてる最中だったよ」
裂け谷で再会したときには、既に物語は完成していた。それを考えれば、その前に向かったのか。だが何故言わなかったのか。ネルファンディアはビルボらしい気遣いがあったのだろうと思い、僅かに微笑んだ。
「さて!我らがネルファンディア姫がお戻りになったことに乾杯!」
「乾杯!」
ジョッキを掲げ、全員がビールを飲み干した。もちろんネルファンディアもゆっくりではあるが、エレボールのビールを嗜んだ。
「いやー、それにしても久しぶりだな。そうだ、ドワーリン。姫が旅に加わるまでの話をするのはどうだ?」
「それ、私も知りたかったの!教えてもらえる?」
ドワーフたちはすっかり上機嫌になると、口々に時系列も無視して話を始めた。ネルファンディアの顔には、その空気に浸るだけで笑顔が溢れた。
一通り話と食事が終わったところで、ネルファンディアはドワーリンに頼みがあると言った。
「どんな頼みですか?」
「……トーリンに、会いたい」
トーリンと聞いて、ボフールたちが悲しそうな表情に変わる。ドワーリンは黙ってうなずくと、ネルファンディアを連れてトーリンの墓所へ向かうのだった。