七章、全ての終焉
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
サウロンはずっと、この時を待ち続けていた。自ら望みの物がこの地に足を踏み入れることを。
そして今が、その時だった。
ネルファンディアは灼熱の目の前に対峙し、熱風で揺らぐ髪を気にすることもなく宿敵に告げた。
「サウロン!私は来たぞ」
『堕落したマイアールの娘よ。父が父なら子も子。お前も堕落するだろう』
「いいえ、父は堕落してなどいなかった。父はただ、家族を取り戻したかっただけだった」
サウロンは言葉巧みに心を揺さぶってくる奴とは聞いていたが、ここまで弁舌に長けた男だったとは。ネルファンディアは気を引き締めながら、目の中心────彼の本体を見据えた。
『そうか。だが、お前も欲しいはずだ。死者を甦らせる力が』
すると、突然世界が暗闇に包まれた。ネルファンディアはすぐに幻覚を見せられていることを悟ったが、どうしようもない。抗う術もなく真っ直ぐに前を見ていると、どこからか懐かしい声が聞こえてきた。聞こえるはずもない声。ネルファンディアは耳を塞ぎたくなった。
「ネルファンディア……ネルファンディア……」
「違う。あなたは死んだ。ここには居ない。お前は幻想!サウロン!私の愛する人を、貴様の穢れた幻覚で貶めるのは許さない!」
「ネルファンディア、何故そんなことを言うんだ。私はこんなにそなたに会えて嬉しいというのに」
目の前に現れたのは、紛れもなくトーリン・オーケンシールドだった。ネルファンディアは幻覚とは知りつつも、思わず息をのんだ。
「さぁ、ネルファンディア。この手を取るのだ。私の手を取って。共に行こう」
差し出された手は確かに、トーリンの手だった。いつも優しく頭を撫でてくれた手だった。この手を取れば、本当に彼に会えるのだろうか。ネルファンディアが見上げると、トーリンはあの時と変わらない笑顔を浮かべている。
「トーリン……」
頬を涙が一筋伝う。ゆっくりとネルファンディアは手を伸ばした。トーリンは変わらず微笑んでいる。すると次の瞬間、彼女はオルクリストを掴んでトーリンを切り捨てた。
幻影は消え去り、目の前には再びサウロンの目が現れた。父サルマンは恐らく、母エルミラエルの姿を見せられたのだろうとネルファンディアは察した。この方法では崩すことができないと悟ったサウロンは、次の手段に出た。
『思いしるがいい、下位に属するアウレの下僕め!』
冥王が吠えると同時に、ネルファンディアの身体は宙に飛ばされて地面に叩きつけられた。呻き声が漏れる。更に黒の力が全身を締め付け始め、ネルファンディアは息苦しさの余りに気を失った。
遠くの方から、誰かの叫びが聞こえてくる。あれは仲間の一人のものなのだろうか。全てが終わる。冥王の企みを変えることなど、半マイアールの自分には出来るわけがなかった。大切なものを奪われるだけ奪われ、闇に屈して呑まれて終わるのだ。ネルファンディアはそう思いながら、絶望に飲み込まれた。一人で立ち向かうなど、到底無理なのだから。再び世界が闇に包まれる。
立ち上がらなければならない。そんなことはわかっていた。けれど、この闇から抜け出すための光を与えてくれる人はこの世に居ない。全てサウロンがネルファンディアから奪い去ってしまったのだから。
ふと、彼女は何かが暗闇で光っていることに目を留めた。それは自分の首に掛けられている、トーリンの指輪だった。同時にトーリンの声が響く。
────そなたは、決して独りではない。私の愛する人よ。独りで立ち上がることが難しいなら、私が側にいよう。
そうだった。ネルファンディアは横たわりながら哀しげに微笑んだ。いつでもトーリンが側に居るような気がしていた。いや、居るはずだと思い込もうとしていた。そうしなければ、耐え難い悲しみが自分を壊してしまいそうだったから。
そんなことを考えていると、今度は母の声が聞こえてきた。
────ネルファンディア。あなたは闇の中になんて居ない。いつでも光の中を、祝福を受けながら歩いているのよ。
「お母様……」
ネルファンディアは言うことを聞かない手を必死に動かし、指先で額に掛けられているエンディアンの石に触れた。その石はひんやりと深淵の水のように冷たかったが、どこか懐かしさを帯びている。
そして最後に、厳しい声が響いた。
────ネルファンディア。立ち上がりなさい。このようなところで倒れてどうする。
「お父様……」
サルマンの声だった。ネルファンディアは朦朧とする意識の中で、杖を掴んだ。肩で息をしながら、彼女は自分が言ったある言葉を思い出した。
────だから一緒に行きましょう。独りで歩まねばならない道だから。
そうだ。何を嘆いていたのだろうか。ネルファンディアはゆっくりと目を開けた。
自分は独りではない。背後で戦い続けている仲間たちがいるではないか。フロドの戦いも終わってはいない。それだけではない。ネルファンディアの身体には確かに、父と母の血が流れている。二人の記憶もはっきりと頭に残っている。そしてトーリンのことも。まだ声は鮮明に覚えている。
彼女は最後の力を振り絞って立ち上がった。全ては、フロドが指輪を葬るための時間稼ぎだ。このままサウロンの望み通りに終わらせるわけにはいかない。手には父のものと同じ杖が握られている。
────共に戦うわ、お父様。
「私は、お前には屈しない」
ネルファンディアは一歩ずつサウロンに近づき始めた。足取りはおぼつかないが、しっかりとしている。彼女の衣の周りで渦巻いていた闇が、強さを増し始めた光にかき消されていく。サウロンは灼熱の力で以てこれに対抗しようとしたが、エンディアンの石の加護が炎を遮った。
────ありがとう、お母様。
「そしてお前の好きにもさせたりはしない。私から奪った分だけ、お前の望みは全て打ち砕いてやる!」
黒の力で出来た無数の腕が伸びてきたが、ネルファンディアはオルクリストでそれらを切り払った。
────トーリン、私は一人じゃない。
そしてついに、サウロンの目の前までやって来た。ネルファンディアは冥王を睨み付け、朗々と告げた。
「私は……ネルファンディア。賢者サルマンが娘にして、白のイスタリだ!」
彼女は杖を突き出し、ありったけの力を込めて力を放った。指輪を失った完全体でないサウロンの力は、ネルファンディアの魔力を跳ね返すことが出来ない。
黒門の外では、白の軍勢が圧倒的な劣勢に追い込まれている。ネルファンディアは肩越しにそれを見て、再びサウロンの方に視線を戻した。
『哀れな小娘。全てが終わるのだ』
だがサウロンがそう言ったときだった。何かを感じ、彼は慌てて滅びの裂け目に目を向けようとした。ネルファンディアがそうはさせないと言わんばかりに力を強める。フロドが滅びの裂け目に到着したことは、その場をみていなくとも彼女には分かった。
「ええ、そうね。お前の全てが終わる」
サウロンが呻き声を上げる。ネルファンディアは滅びの裂け目を見つめてから、そっと目を閉じた。
────フロド、あなたの使命を果たしなさい。共に歩むことができなかった私だけれど、今ならきっとあなたの役に立てるはず。
「炎で全てが終わるなら、貴様も共に燃え尽きるまで!」
それはトーリンの言葉だった。ネルファンディアは不敵な笑みを浮かべ、杖に限界を超える力を込めた。全てはフロドの使命を果たすため。トーリンや両親が迎えることのできなかった明日を、誰かに迎えてもらうため。
そして、世界が白に包まれた。
アラゴルンはその瞬間を、はっきりと己の目で見た。堅碁なバラド=ドゥーアが、突然崩れ落ちたのだ。更には闇の軍勢が居た場所は全て亀裂に飲み込まれていく。
初めは呆然としていたが、やがて彼は悟った。
「終わった……」
アラゴルンは辺りを見回し、次に歓喜の声をあげた。
「終わった!全てが終わった!」
レゴラスやギムリ、ドワーリンたちも唖然としている。そんな中、ボフールがガンダルフの不在に気づいた。更にレゴラスも二人のホビット────メリーとピピンが居ないことに気づいた。するとその場に大鷲の声が響いた。
「鷲だ……」
ドワーリンは見覚えのあるその姿に、勝利をようやく実感した。だがそれよりもネルファンディアのことが気がかりだった。きっと鷲があの時のように運んでくれるはず。彼にはそう祈ることしかできなかった。
ネルファンディアが目覚めたのは、鷲の背の上だった。いつも遅いのに、今日は早いじゃない。彼女はそう言おうとして口を動かしたが、思うように声が出ない。
────あれ……?私、どうしたんだろう。
ゴンドールへ向かっているのは解るが、景色がはっきりと見えない。身体が動かないからだ。メリーとピピンの声が聞こえる。
「ネルファンディア!!」
「ネルファンディア!!しっかりして!」
ありがとう、私は大丈夫よ。
そう言いたいのに、安心させてあげたいのに、やはり声が出ない。少しずつ全身から力が抜けていく感覚が広がっていく。今まで幾度となくそんな感覚を覚えたものだが、今回は何かが違う。とても戻ってこれそうにない力の抜け方だ。
大鷲はネルファンディアをミナス・ティリスの城壁の上に下ろすと、そのまま飛び去ってしまった。隣には同じように運ばれたらしいフロドとサムが居る。ようやく喋れるようになった彼女は、取り乱した様子で駆け寄るガンダルフに言った。
「……先に……フロドと……サム……を」
「いかん!お主も危険じゃ」
「ガン……ダルフ!」
ネルファンディアはガンダルフの腕を掴んだ。その力強さに、彼は驚いた。何故ならネルファンディアは既に力を使いきり、生命のほとんどを削っていたからだ。
だが、彼女はそれに気づいていない。ガンダルフは涙目になりながら、フロドとサムの手当てを始めた。入れ替わるようにして、メリーとピピンがその場に駆け付けた。
「ネルファンディア!」
「ネルファンディア!しっかりして!」
二人の反応を見て、ようやくネルファンディアは悟った。自分の死が近いことを。
だが、もう何の悔いもない。全てを終わらせるための使命を助けた末に訪れる死の、一体何を恥じると言うのか。しかし、そう思っているのは彼女だけだった。戦場から戻ったアラゴルンとドワーリンたちは、憔悴しきっているネルファンディアの姿を見て、悲痛な声をあげた。
「ネルファンディア殿……!約束したではありませんか!あんまりです!」
「ごめん……ね、ドワーリン……殿」
涙を見せたことのないドワーリンが、嗚咽を漏らしている。そんなに自分は死にそうな顔をしているのか。ネルファンディアは力なく笑ってみせたが、それは返ってドワーリンを悲しませてしまった。
「ネルファンディア、しっかりするんだ。エレボールで……皆で一緒に暮らそう」
「あり……がとう、ボフール……」
エレボール。トーリンの眠るあの頂を毎日見ながら、静かに暮らすのも悪くないかもしれない。ネルファンディアは朦朧とする意識のまま、空を見た。暗黒がそこまで伸びていたとはとても思えない、今までで一番綺麗な空だった。
彼女は隣に来たアラゴルンに、力を振り絞って告げた。
「アラゴルン……あなたに、恩寵を……授けます」
ネルファンディアは涙を浮かべるアラゴルンの瞳を見据えながら、穏やかに言った。
「この地に降り立ち……統治する人の子らよ。そなたの子孫は……世界の終わりが来るその日まで……この世界の一員で……あり続けるであろう」
言い終わると、ネルファンディアの容態が悪化し始めた。ガンダルフは周りの人を掻き分け、彼女の身体を抱き締めた。
「行くな!わしとの約束を破る気か!?」
混濁した感覚の中で、ネルファンディアの耳にガンダルフの声は届いていそうもない。代わりに彼女は、うわごとのように何かを呟き始めた。
「トー……リン……」
震える手を伸ばす方向には、何もない。だが、ネルファンディアには確かにトーリンの姿が見えていた。バラド=ドゥーアで見た幻のように、手を差し伸べてくれている。
ああ、トーリン。次は幻であっても、その手を握りましょう。あなたが居るなら、きっと何も怖くはないから。
その手が空を切ろうとする。しかし、そうはならなかった。最期の願いを叶えるべく、ドワーリンがその手を取ったのだ。その瞬間、確かにネルファンディアは最高に美しく、幸せな笑顔を浮かべた。そして、その青く透き通った硝子のような目を閉じた。涙が一筋こぼれ落ち、身体からは力が完全に抜けた。
誰も、何も言うことはない。
こうして中つ国の第三紀は、二人の偉大なイスタリを失って幕を閉じた。その勝利を虚しいと思うのか、誇らしいと思うのか。あるいはそのどちらでもあるのか。残された仲間たちは無言で考え続けるのだった。
そして今が、その時だった。
ネルファンディアは灼熱の目の前に対峙し、熱風で揺らぐ髪を気にすることもなく宿敵に告げた。
「サウロン!私は来たぞ」
『堕落したマイアールの娘よ。父が父なら子も子。お前も堕落するだろう』
「いいえ、父は堕落してなどいなかった。父はただ、家族を取り戻したかっただけだった」
サウロンは言葉巧みに心を揺さぶってくる奴とは聞いていたが、ここまで弁舌に長けた男だったとは。ネルファンディアは気を引き締めながら、目の中心────彼の本体を見据えた。
『そうか。だが、お前も欲しいはずだ。死者を甦らせる力が』
すると、突然世界が暗闇に包まれた。ネルファンディアはすぐに幻覚を見せられていることを悟ったが、どうしようもない。抗う術もなく真っ直ぐに前を見ていると、どこからか懐かしい声が聞こえてきた。聞こえるはずもない声。ネルファンディアは耳を塞ぎたくなった。
「ネルファンディア……ネルファンディア……」
「違う。あなたは死んだ。ここには居ない。お前は幻想!サウロン!私の愛する人を、貴様の穢れた幻覚で貶めるのは許さない!」
「ネルファンディア、何故そんなことを言うんだ。私はこんなにそなたに会えて嬉しいというのに」
目の前に現れたのは、紛れもなくトーリン・オーケンシールドだった。ネルファンディアは幻覚とは知りつつも、思わず息をのんだ。
「さぁ、ネルファンディア。この手を取るのだ。私の手を取って。共に行こう」
差し出された手は確かに、トーリンの手だった。いつも優しく頭を撫でてくれた手だった。この手を取れば、本当に彼に会えるのだろうか。ネルファンディアが見上げると、トーリンはあの時と変わらない笑顔を浮かべている。
「トーリン……」
頬を涙が一筋伝う。ゆっくりとネルファンディアは手を伸ばした。トーリンは変わらず微笑んでいる。すると次の瞬間、彼女はオルクリストを掴んでトーリンを切り捨てた。
幻影は消え去り、目の前には再びサウロンの目が現れた。父サルマンは恐らく、母エルミラエルの姿を見せられたのだろうとネルファンディアは察した。この方法では崩すことができないと悟ったサウロンは、次の手段に出た。
『思いしるがいい、下位に属するアウレの下僕め!』
冥王が吠えると同時に、ネルファンディアの身体は宙に飛ばされて地面に叩きつけられた。呻き声が漏れる。更に黒の力が全身を締め付け始め、ネルファンディアは息苦しさの余りに気を失った。
遠くの方から、誰かの叫びが聞こえてくる。あれは仲間の一人のものなのだろうか。全てが終わる。冥王の企みを変えることなど、半マイアールの自分には出来るわけがなかった。大切なものを奪われるだけ奪われ、闇に屈して呑まれて終わるのだ。ネルファンディアはそう思いながら、絶望に飲み込まれた。一人で立ち向かうなど、到底無理なのだから。再び世界が闇に包まれる。
立ち上がらなければならない。そんなことはわかっていた。けれど、この闇から抜け出すための光を与えてくれる人はこの世に居ない。全てサウロンがネルファンディアから奪い去ってしまったのだから。
ふと、彼女は何かが暗闇で光っていることに目を留めた。それは自分の首に掛けられている、トーリンの指輪だった。同時にトーリンの声が響く。
────そなたは、決して独りではない。私の愛する人よ。独りで立ち上がることが難しいなら、私が側にいよう。
そうだった。ネルファンディアは横たわりながら哀しげに微笑んだ。いつでもトーリンが側に居るような気がしていた。いや、居るはずだと思い込もうとしていた。そうしなければ、耐え難い悲しみが自分を壊してしまいそうだったから。
そんなことを考えていると、今度は母の声が聞こえてきた。
────ネルファンディア。あなたは闇の中になんて居ない。いつでも光の中を、祝福を受けながら歩いているのよ。
「お母様……」
ネルファンディアは言うことを聞かない手を必死に動かし、指先で額に掛けられているエンディアンの石に触れた。その石はひんやりと深淵の水のように冷たかったが、どこか懐かしさを帯びている。
そして最後に、厳しい声が響いた。
────ネルファンディア。立ち上がりなさい。このようなところで倒れてどうする。
「お父様……」
サルマンの声だった。ネルファンディアは朦朧とする意識の中で、杖を掴んだ。肩で息をしながら、彼女は自分が言ったある言葉を思い出した。
────だから一緒に行きましょう。独りで歩まねばならない道だから。
そうだ。何を嘆いていたのだろうか。ネルファンディアはゆっくりと目を開けた。
自分は独りではない。背後で戦い続けている仲間たちがいるではないか。フロドの戦いも終わってはいない。それだけではない。ネルファンディアの身体には確かに、父と母の血が流れている。二人の記憶もはっきりと頭に残っている。そしてトーリンのことも。まだ声は鮮明に覚えている。
彼女は最後の力を振り絞って立ち上がった。全ては、フロドが指輪を葬るための時間稼ぎだ。このままサウロンの望み通りに終わらせるわけにはいかない。手には父のものと同じ杖が握られている。
────共に戦うわ、お父様。
「私は、お前には屈しない」
ネルファンディアは一歩ずつサウロンに近づき始めた。足取りはおぼつかないが、しっかりとしている。彼女の衣の周りで渦巻いていた闇が、強さを増し始めた光にかき消されていく。サウロンは灼熱の力で以てこれに対抗しようとしたが、エンディアンの石の加護が炎を遮った。
────ありがとう、お母様。
「そしてお前の好きにもさせたりはしない。私から奪った分だけ、お前の望みは全て打ち砕いてやる!」
黒の力で出来た無数の腕が伸びてきたが、ネルファンディアはオルクリストでそれらを切り払った。
────トーリン、私は一人じゃない。
そしてついに、サウロンの目の前までやって来た。ネルファンディアは冥王を睨み付け、朗々と告げた。
「私は……ネルファンディア。賢者サルマンが娘にして、白のイスタリだ!」
彼女は杖を突き出し、ありったけの力を込めて力を放った。指輪を失った完全体でないサウロンの力は、ネルファンディアの魔力を跳ね返すことが出来ない。
黒門の外では、白の軍勢が圧倒的な劣勢に追い込まれている。ネルファンディアは肩越しにそれを見て、再びサウロンの方に視線を戻した。
『哀れな小娘。全てが終わるのだ』
だがサウロンがそう言ったときだった。何かを感じ、彼は慌てて滅びの裂け目に目を向けようとした。ネルファンディアがそうはさせないと言わんばかりに力を強める。フロドが滅びの裂け目に到着したことは、その場をみていなくとも彼女には分かった。
「ええ、そうね。お前の全てが終わる」
サウロンが呻き声を上げる。ネルファンディアは滅びの裂け目を見つめてから、そっと目を閉じた。
────フロド、あなたの使命を果たしなさい。共に歩むことができなかった私だけれど、今ならきっとあなたの役に立てるはず。
「炎で全てが終わるなら、貴様も共に燃え尽きるまで!」
それはトーリンの言葉だった。ネルファンディアは不敵な笑みを浮かべ、杖に限界を超える力を込めた。全てはフロドの使命を果たすため。トーリンや両親が迎えることのできなかった明日を、誰かに迎えてもらうため。
そして、世界が白に包まれた。
アラゴルンはその瞬間を、はっきりと己の目で見た。堅碁なバラド=ドゥーアが、突然崩れ落ちたのだ。更には闇の軍勢が居た場所は全て亀裂に飲み込まれていく。
初めは呆然としていたが、やがて彼は悟った。
「終わった……」
アラゴルンは辺りを見回し、次に歓喜の声をあげた。
「終わった!全てが終わった!」
レゴラスやギムリ、ドワーリンたちも唖然としている。そんな中、ボフールがガンダルフの不在に気づいた。更にレゴラスも二人のホビット────メリーとピピンが居ないことに気づいた。するとその場に大鷲の声が響いた。
「鷲だ……」
ドワーリンは見覚えのあるその姿に、勝利をようやく実感した。だがそれよりもネルファンディアのことが気がかりだった。きっと鷲があの時のように運んでくれるはず。彼にはそう祈ることしかできなかった。
ネルファンディアが目覚めたのは、鷲の背の上だった。いつも遅いのに、今日は早いじゃない。彼女はそう言おうとして口を動かしたが、思うように声が出ない。
────あれ……?私、どうしたんだろう。
ゴンドールへ向かっているのは解るが、景色がはっきりと見えない。身体が動かないからだ。メリーとピピンの声が聞こえる。
「ネルファンディア!!」
「ネルファンディア!!しっかりして!」
ありがとう、私は大丈夫よ。
そう言いたいのに、安心させてあげたいのに、やはり声が出ない。少しずつ全身から力が抜けていく感覚が広がっていく。今まで幾度となくそんな感覚を覚えたものだが、今回は何かが違う。とても戻ってこれそうにない力の抜け方だ。
大鷲はネルファンディアをミナス・ティリスの城壁の上に下ろすと、そのまま飛び去ってしまった。隣には同じように運ばれたらしいフロドとサムが居る。ようやく喋れるようになった彼女は、取り乱した様子で駆け寄るガンダルフに言った。
「……先に……フロドと……サム……を」
「いかん!お主も危険じゃ」
「ガン……ダルフ!」
ネルファンディアはガンダルフの腕を掴んだ。その力強さに、彼は驚いた。何故ならネルファンディアは既に力を使いきり、生命のほとんどを削っていたからだ。
だが、彼女はそれに気づいていない。ガンダルフは涙目になりながら、フロドとサムの手当てを始めた。入れ替わるようにして、メリーとピピンがその場に駆け付けた。
「ネルファンディア!」
「ネルファンディア!しっかりして!」
二人の反応を見て、ようやくネルファンディアは悟った。自分の死が近いことを。
だが、もう何の悔いもない。全てを終わらせるための使命を助けた末に訪れる死の、一体何を恥じると言うのか。しかし、そう思っているのは彼女だけだった。戦場から戻ったアラゴルンとドワーリンたちは、憔悴しきっているネルファンディアの姿を見て、悲痛な声をあげた。
「ネルファンディア殿……!約束したではありませんか!あんまりです!」
「ごめん……ね、ドワーリン……殿」
涙を見せたことのないドワーリンが、嗚咽を漏らしている。そんなに自分は死にそうな顔をしているのか。ネルファンディアは力なく笑ってみせたが、それは返ってドワーリンを悲しませてしまった。
「ネルファンディア、しっかりするんだ。エレボールで……皆で一緒に暮らそう」
「あり……がとう、ボフール……」
エレボール。トーリンの眠るあの頂を毎日見ながら、静かに暮らすのも悪くないかもしれない。ネルファンディアは朦朧とする意識のまま、空を見た。暗黒がそこまで伸びていたとはとても思えない、今までで一番綺麗な空だった。
彼女は隣に来たアラゴルンに、力を振り絞って告げた。
「アラゴルン……あなたに、恩寵を……授けます」
ネルファンディアは涙を浮かべるアラゴルンの瞳を見据えながら、穏やかに言った。
「この地に降り立ち……統治する人の子らよ。そなたの子孫は……世界の終わりが来るその日まで……この世界の一員で……あり続けるであろう」
言い終わると、ネルファンディアの容態が悪化し始めた。ガンダルフは周りの人を掻き分け、彼女の身体を抱き締めた。
「行くな!わしとの約束を破る気か!?」
混濁した感覚の中で、ネルファンディアの耳にガンダルフの声は届いていそうもない。代わりに彼女は、うわごとのように何かを呟き始めた。
「トー……リン……」
震える手を伸ばす方向には、何もない。だが、ネルファンディアには確かにトーリンの姿が見えていた。バラド=ドゥーアで見た幻のように、手を差し伸べてくれている。
ああ、トーリン。次は幻であっても、その手を握りましょう。あなたが居るなら、きっと何も怖くはないから。
その手が空を切ろうとする。しかし、そうはならなかった。最期の願いを叶えるべく、ドワーリンがその手を取ったのだ。その瞬間、確かにネルファンディアは最高に美しく、幸せな笑顔を浮かべた。そして、その青く透き通った硝子のような目を閉じた。涙が一筋こぼれ落ち、身体からは力が完全に抜けた。
誰も、何も言うことはない。
こうして中つ国の第三紀は、二人の偉大なイスタリを失って幕を閉じた。その勝利を虚しいと思うのか、誇らしいと思うのか。あるいはそのどちらでもあるのか。残された仲間たちは無言で考え続けるのだった。