五章、父の愛
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ロスロリアンで食事を終えたネルファンディアは、ドワーリンと共に北の地で起きている事態、そしてこれから起こるであろう事態をガラドリエルたちに話した。
「恐らく、ドル=グルドゥアの砦が原因かと。あの砦を先に封じねば」
「我らエルフの力は弱まっている。そして白の会議は今や、サルマンの欠員により……」
「ですが!何とかせねばなりません。ドル=グルドゥアが敵の手に戻っても全てが無に帰します」
ドワーリンとケレボルンが睨み合う。ガラドリエルも黙っている。以前より力が弱まっていることは事実だろう。ネルファンディアは杖を眺めながら、呟くように言った。
「……もし、私が砦を再び封じることに成功すれば?」
「あなたが?いや、しかし……」
「────やってみる価値はあるやもしれません」
ガラドリエルがケレボルンの言葉を遮った。
「そなたの父は、一度ドル=グルドゥアの封印に成功しています。そしてその方法は、オルサンクの書庫の箱の中。厳重に鍵がかけられています」
「また鍵か」
ドワーリンが吐き捨てるように言ったのを聞いて、ガラドリエルは従者に何かを持ってこさせた。従者が目の前に置いたのは、箱だった。
「これがその箱ですか?」
「いいえ、開けてみなさい。これは白の手──サルマンの寵愛を受けた者、あるいはその血を継ぐ者のみだけが開けることの出来る箱。そなたの父が最後の白の会議の際に、突然私に託した物です。そして中つ国でこれを開けることが出来る者は、今は亡きそなたの母とそなたのみ」
ネルファンディアは震える手で箱の蓋を押し上げた。するとそこには、一通の手紙と、皮袋が入っていた。皮袋の中には鍵が入っている。彼女は鍵を置き、急いで手紙を取り出した。流れるような優美で繊細な字。サルマンの字に間違いなかった。
『我が愛する娘、ネルファンディアよ。わしが今から歩む道は、お主とは別なる道であろう。じゃが、わしがそなたを愛する気持ちだけは変わらん。決してそれだけは変わることはない。
これを読んでおるということは、中つ国に再び危機が迫り、わしもこの世におらんということじゃろう。娘にこのような重荷を負わせてしまうなど、わしは父親として失格じゃ。
このような父に出来ることはただ一つ。あの箱の中身はきっと、そなたの手助けをするであろう。箱は、地下の書庫にある。すぐにわかるはずじゃ。
忘れるでない。そなたは独りではない。決して独りではない。いつでもこの父は、そなたの側におる故。そして昔も今も、変わらずそなたを愛しておる。さぁ、行け。そなたなら出来る。何故ならネルファンディアは、この父サルマンの自慢の娘じゃからな。
そなたを最も愛する父、サルマンより』
読み終わったネルファンディアの瞳は、涙で潤んでいる。ガラドリエルは箱を渡された当時のことを思い出していた。
会議が終わったときのことだった。普段なら話すこともないサルマンが、自らガラドリエルに声をかけてきたのだ。彼はいつになく深刻そうな顔をして、彼女にこう言った。
「奥方様。あなたはわしを恨んでおられる」
「────!?」
恨んでいないと言えば、嘘になった。彼女の妹エルミラエル────つまりサルマンの妻でありネルファンディアの母は、彼を愛したことにより命を落としたのだから。エルミラエルはサルマン──彼女はシンダール語でクルニーアと呼んでいた男の側に居るために、西方の地を離れ、その加護を捨てたのだ。
エルミラエルの愛は穏やかでもあり、激しくもあった。両親の反対を押しきり、独りで海を渡り中つ国へサルマンを追うような人だった。そして同時にガラドリエルは、そんな彼女が羨ましくもあった。妹はいつも、生きる喜びに包まれているように思えたからだ。本音を言えば、妬ましくもあった。
だから敢えて、ガラドリエルは何も答えなかった。サルマンは予想通りと言いたげに続けた。
「しかし、あなた以外にこの地には娘の縁者は居りません」
彼は懐から箱を取り出した。
「これを、預かってほしいのです」
「これをですか?」
「はい。この箱にはわしの血の魔法がかけられております。亡き妻のエルミラエルと、娘のネルファンディアだけが開けることの出来る箱です」
「それを何故、私に?」
サルマンはガラドリエルの問いに少し考えてから、重い口を開いた。
「……あの子が独りになったときに、わしが残してやれる唯一のものだからです。そしてそれを必ず渡してくださるのは、あなただからです」
ガラドリエルはまじまじと箱を眺めた。見たこともない美しい装飾が施された、上方エルフの作った箱だったからだ。
「……こう言っては無粋ですが、箱の中身だけは教えて下さい」
「鍵と、手紙です。鍵はドル=グルドゥアの封じ方を記した書を保管している箱のもの。……お願いできますかな?」
断る理由もないので、ガラドリエルは二つ返事で応じた。するとサルマンの表情が和らいだ。
「良かった……これでわしも安心できます」
「この箱を、渡す日が来ないことを願います」
「わしも、そう願っております」
あのとき既に、サルマンは背信を決めていたのか。ガラドリエルは手紙の文面で全てを悟った。そして目を赤く腫らしているネルファンディアから、背信の理由と経緯を聞いた。
彼女の話が終わる頃には、ガラドリエルを含めて全員が沈黙していた。いつの間にか集まってきていた他のドワーフたちも、黙って俯いている。
「そのようなことが……」
「サルマンは、ただ狂気の沙汰に陥ったとばかり……」
ドワーリンが項垂れるネルファンディアの肩に手を置いた。だが、彼女はガラドリエルたちの言葉に首を横に振った。
「いいえ。それでも、許されないことです。私は……」
仲間と使命。そのどちらを取るのか。エレボールへ向かうことなく、ドル=グルドゥアへ行かざるを得なかったガンダルフの気持ちがよく分かった。ネルファンディアは眉間にしわを寄せ、唇を噛み締めながら、震える声で決断を下した。
「────私は、アイゼンガルドへ行きます」
「そんな!ダイン王がお与えになった軍は、既に連絡を受け合流地点へ向かっているはず」
グローインの言葉に、一同はざわついた。そんな中、ドワーリンが指示を出した。
「グローイン。お前たちだけで軍を率いてゴンドール南門へ向かえ。必ず合流する」
「そんな!ドワーリン、あんたまさか……」
「俺は姫様をお守りする。万が一黒の騎手が行く手を阻み、間に合わなかったら……その時は指揮を頼む」
ネルファンディアは目を丸くしている。戦いのために生きているような男なのに、戦へ行けない可能性がある方を選ぶとは。ドワーリンは何を言いたいのかを悟り、彼女に微笑んだ。
「私は決めたのです。主君は二度も失わないと」
ガラドリエルはその様子を見て、何かを取り出してきた。そしてドワーリンに差し出した。
「我が姪を、守ってください。そなたたちの創造者、アウレの恩寵が込められたこの斧を、あなたに授けましょう」
彼は戸惑ったものの深々と頭を下げ、斧を受け取った。ネルファンディアは仲間たちに向き直ると、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、皆。でも、必ず間に合わせるわ。私がサウロンの軍勢に仕返し出来ないなんて、悔しすぎるもの」
その言葉に全員が笑う。かならず再会できる。何故か誰もがそう思うのだった。
ネルファンディアはきちんと他の馬たちを率いて連れてきたレヴァナントに乗り、ドワーリンと共にロスロリアンを後にした。贈り物の力を借りれば、ファンゴルンの森まではすぐだった。
「……この森、薄気味悪くは思いませんか?」
「ええ。でも大丈夫。私の遊び場だったから」
道しるべも一切ない中を、魔法使いは迷いひとつなく進んだ。やがて二人の前に現れたのは、大きな樫の木だった。驚いて斧を構えようとするドワーリンを制し、ネルファンディアは樫の木────エントのビルボに微笑みかけた。
「ビルボ、息災でしたか?」
「ええ。白の魔法使いに成られたと耳にしましたが、誠に立派に成られた」
「ビルボ?あのビルボ・バキンズと関係が?」
ネルファンディアはエントたちのお陰ですっかり水が引いたオルサンクの入り口まで歩いていくと、正面階段を上りながら静かに頷いた。
「ええ。ビルボがビオルンの庭で拾ったどんぐりを一つ貰ったの。それをファンゴルンにあるエント水で育てたら、たったの六十年でああなったわ」
玄関が開かれる。ドワーリンは、エレボールとはまた一味違う天然の要塞であるオルサンクの塔に言葉をなくした。地下に続く階段を下りていく最中、ネルファンディアは薄れることのない記憶を辿りながら、書庫の位置を正確に思い起こした。
「ここへはよく来られたのですか?」
「ええ。森か書庫か庭か。あるいは……父の部屋が私の遊び場だったから」
書庫の扉を開くと、ネルファンディアの嗅覚が懐かしさに反応した。何とも言えない年季を感じるこの香りが大好きだった。そして父の部屋もこれと似ていたため、父の香りといえば書物の香りだった。
サルマン亡き今、書庫の香りに囲まれたネルファンディアは、父に抱き締められているような感覚に陥った。慌てて自分の目的を思い出すと、彼女は箱を探した。確かにそれはすぐに見つかった。不自然なほどに目立つ場所に置かれている、重厚感溢れる箱をネルファンディアは取り出した。
「さ、鍵穴はすぐ見つかったわ」
ドワーリンがその言葉に笑った。鍵が差し込まれ、箱が開かれる。そこから出てきたものは、呪文が記された書物と、意外にもサルマンの日記だった。じっくり読みたい気持ちはやまやまだが、今は時間がない。ネルファンディアはドル=グルドゥアの封印に関する部分に目を通し始めた。
「……これで一旦は敵に打撃を与えられるはず」
「危険な魔法なのでは?」
「ええ。封印の魔法は、必ず己の負担になる。だから……申し訳ないけれど、今日はオルサンクに泊まってもいいかしら?」
「もちろん」
ネルファンディアは箱ごと二冊の本を抱えて自室へ向かった。机の上に日記と箱を残し、彼女はゆっくりと最上階へと続く階段を上った。螺旋階段はドワーリンでさえ息切れするほどに長かったが、ネルファンディアは慣れた様子で上がっていく。
最上階の眺望には、圧巻する壮大さがあった。ネルファンディアは書物をドワーリンに預け、ゆっくりと両手を広げて呪文を唱え始めた。風が少しずつ強くなり始める。
「エン・タガニーエ=ウムラント、ハル・ターリア・メルヴィナーダ、クゥェンナリエン・イル・ネスガディーレ!」
唱え終わったその瞬間、その場に強烈な黒い光が放たれた。ドワーリンは咄嗟に本を抱えながら床に伏した。
その呪文を唱える声は、遥か南のゴンドールに居たガンダルフにも届いた。サルマンによく似た力強い声に、彼はすぐにネルファンディアが唱えた呪文であることに気づいた。
「ネルファンディア……やりおったな」
「何がです?」
きょとんとするピピンに対し、ガンダルフは大喜びしている。
「やりおった!ネルファンディア!白のネルファンディアがやりおった!サウロン!見たか!お主の要、北の要塞ドル=グルドゥアは封じられた!せいぜい解呪に時間を取られるがよい!」
何の話であるかが全くわからないながらも、ピピンは良いことが起きたことぐらいは悟った。そしてその日は終始、ガンダルフの機嫌は良かった。
ロスロリアンに居たガラドリエルも、ドル=グルドゥアの封印が成功したことを肌で感じ取っていた。
「ネルファンディア……」
やはり、彼女は偉大なる魔法使いサルマン────クルニーアの娘なのだ。姪の成長と偉業に、ガラドリエルは僅かに微笑みを浮かべるのだった。
一方、ネルファンディアは封印魔法の効果をしっかりと受けていた。それでも白の魔法使いなだけはあり、トーリンの傷を癒したときのように気絶することはない。
「一先ず、トーリンの仇は半分だけ取れた気がする」
──こんなのじゃ、到底足りないけれど。
ネルファンディアは流石に疲れを覚え、床に座りこんだ。ドワーリンが立ち上がって、彼女を背負いながら階段を下りてくれた。
「懐かしいわね」
「ええ。あなたがトーリンに自分の命を分け与えてくれたとき、気絶なさったことですよね」
「そう。あのときは弱かったわ……今ならきっと何ともないんだろうな」
ドワーリンに支えられて、部屋のベッドに腰掛けたネルファンディアは、サルマンの日記を手に取って目を通し始めた。それは彼女が母の腹に宿ったことを知ったその日から、毎日付けられているものだった。一ページ目は、エルミラエルの妊娠を知ったことから始まっていた。
『今日は至上の喜びが、わしのもとに訪れていたことを知らされた。最愛の妻エルミラエルとの間に、待望の子がやって来たのだ。まだ顔を見ることも、胎動を感じることも出来ない。じゃが、とても嬉しい。早く会いたいよ、我が子よ』
『エルミラエルの腹が随分と大きくなってきた。それに伴い、この胸中に宿る期待も膨らんでいくのがわかる。我が子よ。そなたには、わしの声が聞こえるじゃろうか?一生懸命にイルーヴァタール様の神話を語り聞かせておったら、エルミラエルに笑われてしもうた。この声が聞こえておったかどうかは、産まれてきてから尋ねてみよう。』
毎日、父は自分の誕生を心待ちにしていたことが伝わってきた。そしてついに、ネルファンディア誕生の日に差し掛かった。
『その日は気が気でならんかった。初産が長引き、わしは最悪の事態の覚悟を決めねばならんところまで追い詰められていた。じゃが、そうはならんかった。愛する我が子は、わしの元へついに降り立った。エルミラエルが産んだその子は、想像を遥かに超えた可愛らしさだった。それは筆舌に尽くしがたく、恐らくこの子の愛らしさを余すことなく形容できる言葉は、この中つ国には存在し得ないであろう。ああ、可愛いネルファンディア。我が子の名は、シンダール語で "静寂の一滴" という意味じゃ。この長すぎる人生に、この子はきっとエルミラエルと共に何にも代えがたい幸せをもたらすじゃろう。ゆっくり、ゆっくり育ってくれよ。そなたが大人になるまで沢山、長い時間を共に過ごそう。今はもう、パパと呼んでくれることを楽しみにしている自分が、我ながら欲深くて嫌になるわ』
文字が歪み始める。ネルファンディアは泣いていた。ドワーリンは隣で黙って彼女を見守っている。それでもページをめくる手は止められなかった。
『今日、ようやくパパと呼んでくれたわ。エルミラエルとどちらが先に呼ばれるかと賭けておったんじゃが……お陰で研究をほったらかして、肩をもんでやる羽目になった。楽しいから良いんじゃがな。ネルファンディアはこの日記を書いている今も、パパと言ってゆりかごから顔を出しておる。さて、膝に乗せてやろう。』
その後もネルファンディアさえ覚えていなかった何気ない日常についての日記が続いていた。だが、それはある時期で途絶えてしまった。すぐに彼女は理由を悟った。次の日記は、こんな書き出しから始まっていたからだ。
『……最愛の妻が、亡くなった。今まであんなに簡単に呼べていた名前が、書くことすら辛く思える。ネルファンディアはわしの元で暮らすことを強く望んでおるから、手放す羽目になることはないだろう。じゃが、とても不安な思いで一杯になる。わしは果たして、あの人亡き今、良い父親になれるじゃろうか。あの子を全うに育てられるじゃろうか。この偏屈な父が独りで育てたら、性格が曲がってしまうのではないだろうか。オローリン──ガンダルフは、大丈夫だと励ましてくれた。じゃが、不安はやはり拭い去ることができない。己の声にどれ程魔力を込めようとも、この不安は消えぬじゃろう。』
そのあともずっとサルマンの日記には、今日も良い父であったかどうかという不安と、娘の成長への喜びが綴られていた。日記は途中で最後のページを迎えていた。ネルファンディアは続きがあるはずだと思い、父の部屋へ向かった。雑然としているというより、かなり汚い部屋だった。サルマンは片付けることが苦手で、以前はよく母のエルミラエルが勝手に部屋を片付けていた。その度にガラクタと発明品、紙くずと古文書を間違えて捨てるせいで、よく喧嘩になっていたものだ。ネルファンディアは懐かしくてつい片付けを始めた。ふと、机の隣に大きめの箱があることに気づき、彼女は何気なく蓋を開けてみた。
するとその中は、束ねられた無数の手紙で溢れ返っていた。見なかったことにしようと思って閉めようとしたネルファンディアだったが、その視線は一番上に乗っている手紙に釘付けになった。
「これは……」
それは、ネルファンディアが初めて父に送った手紙だった。彼はずっとこれを置いていたというのか。毎年誕生日の日に書き続けた手紙は、ほぼ三千年分──つまり三千通ほどそのまま残っていた。
彼はこれをどんな思いで、独り虚しいオルサンクの部屋で見ていたのだろうか。もし自分があの時去っていなければ、父のことも救えたのだろうか。ネルファンディアは日記を探し出すのを止めて、涙を両目にためながら父の遺体が眠る寝室へ駆け出した。
ベッドの上には今にも起き上がって、おかえりと微笑んでくれそうなサルマンの姿があった。だが、永遠にその言葉がネルファンディアを迎えてくれることはないだろう。トーリンからの愛の言葉の返事を、ネルファンディア自身が伝えられなかったように。
ようやくネルファンディアは、声を上げて泣くことが出来た。その悲痛な声はいつまでも、オルサンクの塔に響き続けるのだった。
「恐らく、ドル=グルドゥアの砦が原因かと。あの砦を先に封じねば」
「我らエルフの力は弱まっている。そして白の会議は今や、サルマンの欠員により……」
「ですが!何とかせねばなりません。ドル=グルドゥアが敵の手に戻っても全てが無に帰します」
ドワーリンとケレボルンが睨み合う。ガラドリエルも黙っている。以前より力が弱まっていることは事実だろう。ネルファンディアは杖を眺めながら、呟くように言った。
「……もし、私が砦を再び封じることに成功すれば?」
「あなたが?いや、しかし……」
「────やってみる価値はあるやもしれません」
ガラドリエルがケレボルンの言葉を遮った。
「そなたの父は、一度ドル=グルドゥアの封印に成功しています。そしてその方法は、オルサンクの書庫の箱の中。厳重に鍵がかけられています」
「また鍵か」
ドワーリンが吐き捨てるように言ったのを聞いて、ガラドリエルは従者に何かを持ってこさせた。従者が目の前に置いたのは、箱だった。
「これがその箱ですか?」
「いいえ、開けてみなさい。これは白の手──サルマンの寵愛を受けた者、あるいはその血を継ぐ者のみだけが開けることの出来る箱。そなたの父が最後の白の会議の際に、突然私に託した物です。そして中つ国でこれを開けることが出来る者は、今は亡きそなたの母とそなたのみ」
ネルファンディアは震える手で箱の蓋を押し上げた。するとそこには、一通の手紙と、皮袋が入っていた。皮袋の中には鍵が入っている。彼女は鍵を置き、急いで手紙を取り出した。流れるような優美で繊細な字。サルマンの字に間違いなかった。
『我が愛する娘、ネルファンディアよ。わしが今から歩む道は、お主とは別なる道であろう。じゃが、わしがそなたを愛する気持ちだけは変わらん。決してそれだけは変わることはない。
これを読んでおるということは、中つ国に再び危機が迫り、わしもこの世におらんということじゃろう。娘にこのような重荷を負わせてしまうなど、わしは父親として失格じゃ。
このような父に出来ることはただ一つ。あの箱の中身はきっと、そなたの手助けをするであろう。箱は、地下の書庫にある。すぐにわかるはずじゃ。
忘れるでない。そなたは独りではない。決して独りではない。いつでもこの父は、そなたの側におる故。そして昔も今も、変わらずそなたを愛しておる。さぁ、行け。そなたなら出来る。何故ならネルファンディアは、この父サルマンの自慢の娘じゃからな。
そなたを最も愛する父、サルマンより』
読み終わったネルファンディアの瞳は、涙で潤んでいる。ガラドリエルは箱を渡された当時のことを思い出していた。
会議が終わったときのことだった。普段なら話すこともないサルマンが、自らガラドリエルに声をかけてきたのだ。彼はいつになく深刻そうな顔をして、彼女にこう言った。
「奥方様。あなたはわしを恨んでおられる」
「────!?」
恨んでいないと言えば、嘘になった。彼女の妹エルミラエル────つまりサルマンの妻でありネルファンディアの母は、彼を愛したことにより命を落としたのだから。エルミラエルはサルマン──彼女はシンダール語でクルニーアと呼んでいた男の側に居るために、西方の地を離れ、その加護を捨てたのだ。
エルミラエルの愛は穏やかでもあり、激しくもあった。両親の反対を押しきり、独りで海を渡り中つ国へサルマンを追うような人だった。そして同時にガラドリエルは、そんな彼女が羨ましくもあった。妹はいつも、生きる喜びに包まれているように思えたからだ。本音を言えば、妬ましくもあった。
だから敢えて、ガラドリエルは何も答えなかった。サルマンは予想通りと言いたげに続けた。
「しかし、あなた以外にこの地には娘の縁者は居りません」
彼は懐から箱を取り出した。
「これを、預かってほしいのです」
「これをですか?」
「はい。この箱にはわしの血の魔法がかけられております。亡き妻のエルミラエルと、娘のネルファンディアだけが開けることの出来る箱です」
「それを何故、私に?」
サルマンはガラドリエルの問いに少し考えてから、重い口を開いた。
「……あの子が独りになったときに、わしが残してやれる唯一のものだからです。そしてそれを必ず渡してくださるのは、あなただからです」
ガラドリエルはまじまじと箱を眺めた。見たこともない美しい装飾が施された、上方エルフの作った箱だったからだ。
「……こう言っては無粋ですが、箱の中身だけは教えて下さい」
「鍵と、手紙です。鍵はドル=グルドゥアの封じ方を記した書を保管している箱のもの。……お願いできますかな?」
断る理由もないので、ガラドリエルは二つ返事で応じた。するとサルマンの表情が和らいだ。
「良かった……これでわしも安心できます」
「この箱を、渡す日が来ないことを願います」
「わしも、そう願っております」
あのとき既に、サルマンは背信を決めていたのか。ガラドリエルは手紙の文面で全てを悟った。そして目を赤く腫らしているネルファンディアから、背信の理由と経緯を聞いた。
彼女の話が終わる頃には、ガラドリエルを含めて全員が沈黙していた。いつの間にか集まってきていた他のドワーフたちも、黙って俯いている。
「そのようなことが……」
「サルマンは、ただ狂気の沙汰に陥ったとばかり……」
ドワーリンが項垂れるネルファンディアの肩に手を置いた。だが、彼女はガラドリエルたちの言葉に首を横に振った。
「いいえ。それでも、許されないことです。私は……」
仲間と使命。そのどちらを取るのか。エレボールへ向かうことなく、ドル=グルドゥアへ行かざるを得なかったガンダルフの気持ちがよく分かった。ネルファンディアは眉間にしわを寄せ、唇を噛み締めながら、震える声で決断を下した。
「────私は、アイゼンガルドへ行きます」
「そんな!ダイン王がお与えになった軍は、既に連絡を受け合流地点へ向かっているはず」
グローインの言葉に、一同はざわついた。そんな中、ドワーリンが指示を出した。
「グローイン。お前たちだけで軍を率いてゴンドール南門へ向かえ。必ず合流する」
「そんな!ドワーリン、あんたまさか……」
「俺は姫様をお守りする。万が一黒の騎手が行く手を阻み、間に合わなかったら……その時は指揮を頼む」
ネルファンディアは目を丸くしている。戦いのために生きているような男なのに、戦へ行けない可能性がある方を選ぶとは。ドワーリンは何を言いたいのかを悟り、彼女に微笑んだ。
「私は決めたのです。主君は二度も失わないと」
ガラドリエルはその様子を見て、何かを取り出してきた。そしてドワーリンに差し出した。
「我が姪を、守ってください。そなたたちの創造者、アウレの恩寵が込められたこの斧を、あなたに授けましょう」
彼は戸惑ったものの深々と頭を下げ、斧を受け取った。ネルファンディアは仲間たちに向き直ると、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、皆。でも、必ず間に合わせるわ。私がサウロンの軍勢に仕返し出来ないなんて、悔しすぎるもの」
その言葉に全員が笑う。かならず再会できる。何故か誰もがそう思うのだった。
ネルファンディアはきちんと他の馬たちを率いて連れてきたレヴァナントに乗り、ドワーリンと共にロスロリアンを後にした。贈り物の力を借りれば、ファンゴルンの森まではすぐだった。
「……この森、薄気味悪くは思いませんか?」
「ええ。でも大丈夫。私の遊び場だったから」
道しるべも一切ない中を、魔法使いは迷いひとつなく進んだ。やがて二人の前に現れたのは、大きな樫の木だった。驚いて斧を構えようとするドワーリンを制し、ネルファンディアは樫の木────エントのビルボに微笑みかけた。
「ビルボ、息災でしたか?」
「ええ。白の魔法使いに成られたと耳にしましたが、誠に立派に成られた」
「ビルボ?あのビルボ・バキンズと関係が?」
ネルファンディアはエントたちのお陰ですっかり水が引いたオルサンクの入り口まで歩いていくと、正面階段を上りながら静かに頷いた。
「ええ。ビルボがビオルンの庭で拾ったどんぐりを一つ貰ったの。それをファンゴルンにあるエント水で育てたら、たったの六十年でああなったわ」
玄関が開かれる。ドワーリンは、エレボールとはまた一味違う天然の要塞であるオルサンクの塔に言葉をなくした。地下に続く階段を下りていく最中、ネルファンディアは薄れることのない記憶を辿りながら、書庫の位置を正確に思い起こした。
「ここへはよく来られたのですか?」
「ええ。森か書庫か庭か。あるいは……父の部屋が私の遊び場だったから」
書庫の扉を開くと、ネルファンディアの嗅覚が懐かしさに反応した。何とも言えない年季を感じるこの香りが大好きだった。そして父の部屋もこれと似ていたため、父の香りといえば書物の香りだった。
サルマン亡き今、書庫の香りに囲まれたネルファンディアは、父に抱き締められているような感覚に陥った。慌てて自分の目的を思い出すと、彼女は箱を探した。確かにそれはすぐに見つかった。不自然なほどに目立つ場所に置かれている、重厚感溢れる箱をネルファンディアは取り出した。
「さ、鍵穴はすぐ見つかったわ」
ドワーリンがその言葉に笑った。鍵が差し込まれ、箱が開かれる。そこから出てきたものは、呪文が記された書物と、意外にもサルマンの日記だった。じっくり読みたい気持ちはやまやまだが、今は時間がない。ネルファンディアはドル=グルドゥアの封印に関する部分に目を通し始めた。
「……これで一旦は敵に打撃を与えられるはず」
「危険な魔法なのでは?」
「ええ。封印の魔法は、必ず己の負担になる。だから……申し訳ないけれど、今日はオルサンクに泊まってもいいかしら?」
「もちろん」
ネルファンディアは箱ごと二冊の本を抱えて自室へ向かった。机の上に日記と箱を残し、彼女はゆっくりと最上階へと続く階段を上った。螺旋階段はドワーリンでさえ息切れするほどに長かったが、ネルファンディアは慣れた様子で上がっていく。
最上階の眺望には、圧巻する壮大さがあった。ネルファンディアは書物をドワーリンに預け、ゆっくりと両手を広げて呪文を唱え始めた。風が少しずつ強くなり始める。
「エン・タガニーエ=ウムラント、ハル・ターリア・メルヴィナーダ、クゥェンナリエン・イル・ネスガディーレ!」
唱え終わったその瞬間、その場に強烈な黒い光が放たれた。ドワーリンは咄嗟に本を抱えながら床に伏した。
その呪文を唱える声は、遥か南のゴンドールに居たガンダルフにも届いた。サルマンによく似た力強い声に、彼はすぐにネルファンディアが唱えた呪文であることに気づいた。
「ネルファンディア……やりおったな」
「何がです?」
きょとんとするピピンに対し、ガンダルフは大喜びしている。
「やりおった!ネルファンディア!白のネルファンディアがやりおった!サウロン!見たか!お主の要、北の要塞ドル=グルドゥアは封じられた!せいぜい解呪に時間を取られるがよい!」
何の話であるかが全くわからないながらも、ピピンは良いことが起きたことぐらいは悟った。そしてその日は終始、ガンダルフの機嫌は良かった。
ロスロリアンに居たガラドリエルも、ドル=グルドゥアの封印が成功したことを肌で感じ取っていた。
「ネルファンディア……」
やはり、彼女は偉大なる魔法使いサルマン────クルニーアの娘なのだ。姪の成長と偉業に、ガラドリエルは僅かに微笑みを浮かべるのだった。
一方、ネルファンディアは封印魔法の効果をしっかりと受けていた。それでも白の魔法使いなだけはあり、トーリンの傷を癒したときのように気絶することはない。
「一先ず、トーリンの仇は半分だけ取れた気がする」
──こんなのじゃ、到底足りないけれど。
ネルファンディアは流石に疲れを覚え、床に座りこんだ。ドワーリンが立ち上がって、彼女を背負いながら階段を下りてくれた。
「懐かしいわね」
「ええ。あなたがトーリンに自分の命を分け与えてくれたとき、気絶なさったことですよね」
「そう。あのときは弱かったわ……今ならきっと何ともないんだろうな」
ドワーリンに支えられて、部屋のベッドに腰掛けたネルファンディアは、サルマンの日記を手に取って目を通し始めた。それは彼女が母の腹に宿ったことを知ったその日から、毎日付けられているものだった。一ページ目は、エルミラエルの妊娠を知ったことから始まっていた。
『今日は至上の喜びが、わしのもとに訪れていたことを知らされた。最愛の妻エルミラエルとの間に、待望の子がやって来たのだ。まだ顔を見ることも、胎動を感じることも出来ない。じゃが、とても嬉しい。早く会いたいよ、我が子よ』
『エルミラエルの腹が随分と大きくなってきた。それに伴い、この胸中に宿る期待も膨らんでいくのがわかる。我が子よ。そなたには、わしの声が聞こえるじゃろうか?一生懸命にイルーヴァタール様の神話を語り聞かせておったら、エルミラエルに笑われてしもうた。この声が聞こえておったかどうかは、産まれてきてから尋ねてみよう。』
毎日、父は自分の誕生を心待ちにしていたことが伝わってきた。そしてついに、ネルファンディア誕生の日に差し掛かった。
『その日は気が気でならんかった。初産が長引き、わしは最悪の事態の覚悟を決めねばならんところまで追い詰められていた。じゃが、そうはならんかった。愛する我が子は、わしの元へついに降り立った。エルミラエルが産んだその子は、想像を遥かに超えた可愛らしさだった。それは筆舌に尽くしがたく、恐らくこの子の愛らしさを余すことなく形容できる言葉は、この中つ国には存在し得ないであろう。ああ、可愛いネルファンディア。我が子の名は、シンダール語で "静寂の一滴" という意味じゃ。この長すぎる人生に、この子はきっとエルミラエルと共に何にも代えがたい幸せをもたらすじゃろう。ゆっくり、ゆっくり育ってくれよ。そなたが大人になるまで沢山、長い時間を共に過ごそう。今はもう、パパと呼んでくれることを楽しみにしている自分が、我ながら欲深くて嫌になるわ』
文字が歪み始める。ネルファンディアは泣いていた。ドワーリンは隣で黙って彼女を見守っている。それでもページをめくる手は止められなかった。
『今日、ようやくパパと呼んでくれたわ。エルミラエルとどちらが先に呼ばれるかと賭けておったんじゃが……お陰で研究をほったらかして、肩をもんでやる羽目になった。楽しいから良いんじゃがな。ネルファンディアはこの日記を書いている今も、パパと言ってゆりかごから顔を出しておる。さて、膝に乗せてやろう。』
その後もネルファンディアさえ覚えていなかった何気ない日常についての日記が続いていた。だが、それはある時期で途絶えてしまった。すぐに彼女は理由を悟った。次の日記は、こんな書き出しから始まっていたからだ。
『……最愛の妻が、亡くなった。今まであんなに簡単に呼べていた名前が、書くことすら辛く思える。ネルファンディアはわしの元で暮らすことを強く望んでおるから、手放す羽目になることはないだろう。じゃが、とても不安な思いで一杯になる。わしは果たして、あの人亡き今、良い父親になれるじゃろうか。あの子を全うに育てられるじゃろうか。この偏屈な父が独りで育てたら、性格が曲がってしまうのではないだろうか。オローリン──ガンダルフは、大丈夫だと励ましてくれた。じゃが、不安はやはり拭い去ることができない。己の声にどれ程魔力を込めようとも、この不安は消えぬじゃろう。』
そのあともずっとサルマンの日記には、今日も良い父であったかどうかという不安と、娘の成長への喜びが綴られていた。日記は途中で最後のページを迎えていた。ネルファンディアは続きがあるはずだと思い、父の部屋へ向かった。雑然としているというより、かなり汚い部屋だった。サルマンは片付けることが苦手で、以前はよく母のエルミラエルが勝手に部屋を片付けていた。その度にガラクタと発明品、紙くずと古文書を間違えて捨てるせいで、よく喧嘩になっていたものだ。ネルファンディアは懐かしくてつい片付けを始めた。ふと、机の隣に大きめの箱があることに気づき、彼女は何気なく蓋を開けてみた。
するとその中は、束ねられた無数の手紙で溢れ返っていた。見なかったことにしようと思って閉めようとしたネルファンディアだったが、その視線は一番上に乗っている手紙に釘付けになった。
「これは……」
それは、ネルファンディアが初めて父に送った手紙だった。彼はずっとこれを置いていたというのか。毎年誕生日の日に書き続けた手紙は、ほぼ三千年分──つまり三千通ほどそのまま残っていた。
彼はこれをどんな思いで、独り虚しいオルサンクの部屋で見ていたのだろうか。もし自分があの時去っていなければ、父のことも救えたのだろうか。ネルファンディアは日記を探し出すのを止めて、涙を両目にためながら父の遺体が眠る寝室へ駆け出した。
ベッドの上には今にも起き上がって、おかえりと微笑んでくれそうなサルマンの姿があった。だが、永遠にその言葉がネルファンディアを迎えてくれることはないだろう。トーリンからの愛の言葉の返事を、ネルファンディア自身が伝えられなかったように。
ようやくネルファンディアは、声を上げて泣くことが出来た。その悲痛な声はいつまでも、オルサンクの塔に響き続けるのだった。