蒼の吸血鬼

 それは、凄惨、という平凡な表現では、いくら何でも言葉が足りぬ。

 死にたての死骸が、そこここに転がり、地獄絵図だ。

 エレベーターホールにも、共用の通路にも、例の変形しきった異様な白骨死体が幾つも転がっている。
 その白骨に元々はまとわりついていたのであろう血肉が、強烈な臭気を放つ汚液となって、床を汚している。
 これがたまたま外に出た人間の死骸だけであろうから、青灰色に塗装された扉の奥、それぞれ部屋番号が振られた室内には、どれだけの死骸が山積みとなっているか、見当もつかない。
 それを裏付けるように、まさに放置された腐乱死体のような身も蓋もない悪臭は、すでに耐えがたいばかり。
 数百年以上は生き、無残な屍の無造作に転がる戦場などというものをみたことのある古株組はともかく、今の時代の子であるクロイワなどはすっかり混乱しきっているようだ。

「ぶぇぇ、臭いよお。なにこれぇ」

 悪臭がひどすぎてもはや目に染みるのか、クロイワがずるずる足を引きずって進みながらも、泣き言を口にする。
 本来お洒落なアマネも、下賤なものになぞ触れたくもないツバキも、ついでに言うなら、下位とは言え神の一柱に数えられるほどの格を持つヨルノも、歓迎したくない状態に曝されている訳だが、それでも文句を言ってもどうになるものでない、くらいのことを悟る程度には経験を積んでいる。

 彼らは全員、地獄の奥底へ通じる道であるかのようなマンションの廊下を、六階のその部屋を目指す。

「人外と人間の橋渡しをする」と標榜したHコンサルティング。

 ある意味無残なことには、電源などはまだ生きているため、エレベーターも通常通りに動いていた。
 エレベーターホールとエレベーターの間、扉にはさまって、奇怪な白骨死体が、まるで手入れもされていない蔓薔薇みたいに放埓な形状で横たわっていたのはある程度予想の範囲だ。
 もう一基のエレベーターを使い、アマネたちは六階にやってきた。
 普段なら眺めが良くて気分がいいであろうそのエレベーター内部にも死臭は染み込んでおり、到底眺めで気晴らしする
気になぞなれない。
 下手をするとエレベーター向かい側の別の雑居ビルのベランダ、転がる白骨死体が見えるのだから。
 近代的で、燦燦と明るく、本来なら清潔感と高級感に満ちているであろうそうした場所が、これほど無残に思える状況というのを、年長の人外たちといえども、初めて経験したというもの。


 ◇ ◆ ◇

「ああ、ここに間違いないだろうが」

 アマネが先頭に立って、その扉の前に立つ。

 さんさんと磨き上げられた強化ガラスの外壁から光が射し込むその下、まだ新しいプレートには「Hコンサルティング」と読める。

 その扉の向こうからは、他の部屋と同様に、人の気配はしない。
 死臭は濃厚なのだろうが、いい加減全員鼻がマヒしてしまって、しかとは判別できぬ。
 スマホで閲覧したサイトに記載されている営業時間を見れば、すでに営業が始まっている時間ではあるのだが、この状態で誰が出勤してきただろう。

「……ん?」

「……なんじゃ、どうしたアマネ?」

 ヨルノがアマネの手元を覗き込む。

「……扉が開いてる?」

 アマネは大きくきらきら光る茜色の瞳を細める。

「ほほう?」

 嘆声を上げたのはツバキ。

「仕事柄なのかも知れんが、誰か招こうとしたのかの?」

「……中に、きゅうけつきさん?」

 クロイワが涙目で確認してくる。

「この状態で居座っているとは考えにくいが……」

 アマネが端麗な眉を寄せて考え込む。

「いや、誰もおらんの。内部はもぬけの殻じゃ。少なくとも、生きて動いておるのはおらんわな」

 ツバキが探知の術を発動させて断言する。
 確かにツバキの水準の探知術に引っ掛からないなら、そうなのであろう。

 思い切ったように、アマネが扉に手をかけノブを回す。
 円筒状に中庭分の空間が取られ、まばゆい光が射し込む室内が露わになる。
 広々としたオフィスだ。
 造りのしっかりしたデスクが並んでいるが、そこに人影はない。
 ぐるりと見回して、アマネは中に踏み込んだ。
 ヨルノ、ツバキ、クロイワも後に続く。

「……誰もおらんの。それに、ずいぶんがらんとしておらんか?」

 ヨルノの声にわずかに困惑が混じる。
 現代を生きる人外として、オフィスの光景など見慣れたものであるが、これは。

「人がいないだけではなくて、業務用のパソコンの類が一切ないわな。普通はデスクの上に据えられておるはず」

 言われてみれば、ノートパソコンにしろデスクトップパソコンにしろ、業務で必須であるはずのパソコンが一切存在しない。

 いや。
 デスクトップのパソコンがほんの少し前まであったであろうことは、すぐに理解できる。
 デスクの天板に、パソコンの置かれていた痕跡が見て取れ、きちんと配線もデスク下に見える。

「急に引っ越したという体でもないわな。他の私物の類は、そのままじゃ」

 ツバキは、デスクの上に放り出されたままの、さまざまの文房具その他に視線を落とす。
 ビタミンカラーのホッチキス、やや末広がりに成型された金属のペン立て、何の印か、小さく今日の日付に〇を描いた卓上カレンダー。
 たった今まで、誰かが働いていたといった風情である。

「ねえ。あれ」

 クロイワの声が聞こえたが、姿が見えぬ。
 大人たちはきょろきょろ探すばかり。

「この机の下、なんか書類みたいなのが入った箱、あるよ」

 一番奥のデスクの下から、クロイワがひょいと顔を出した。
 どうも、大人たちの話が退屈なので、机の下にもぐって遊んでいたようだ。

 アマネたちが覗き込むと、蜜柑箱程度の大きさの段ボールに、どこでも見られる大手メーカーの厚いファイルが詰められている。
 背中のラベルに、「急」の字や「秘」の字がしたためられているのが見受けられ、全員の目を引く。

「……パソコンは処理できても、これは運び出す時間がなかったのか、それとも記してあるほど重要でもないのか。どっちかの?」

 ヨルノの目が底光る。

 クロイワを除く全員で、ファイルを繰って調べることにする。

「……大したものだな。呪殺や、暗殺の領収書だの契約書だの」

 流石のアマネも心中穏やかでいられない、それは凄惨な裏稼業の証拠である。
 内容から推察するに、ここの構成員には、人外に対抗できるような異能の人間がいたらしい。
 彼らが、具体的にどうやってかはともかく、依頼人の邪魔になるような人外、あるいは恨みに思っている人外をこの世から排除していったようだ。
 それで、かなりの高額報酬を得ている。
 要するに、人外専門の殺し屋、としか、アマネたちには思えぬような事実が、無機的な書類に淡々と印字してあるのだ。

「……読めてきたわいな。こやつら、殺しの対象に、日本産吸血鬼を……」

 ツバキが一枚の領収書に、白い指を滑らせ、何かの術を使った時。

「うわ、うわああああああ!!!」

 破裂するような、クロイワの悲鳴が上がった。

 思わず振り返った全員の目に見えたもの。
 磨き上げられたガラスの向こうで、陰火の燃える巨大な目玉を光らせる、巨大な骸骨の姿をした怪物であった。
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