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『世界がいくつあったとしても』

第27話:“知らない天井……”

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ザーッ、キュッ……

 シャワーでボディソープの残った泡を十分に洗い流していくと、やがて渦を巻いて排水口へ吸い込まれていく湯が透明になっていく。
それを合図に蛇口を捻りシャワーを止めると、たっぷりと湯の張られた浴槽へと清めた身体を沈めてゆく。

チャプン

「ふぅ……」

 元々シャワーで十分に温まっていたはずなのだが、それでも湯船に浸かると気持ちよさのあまり漏れる声は、自分が日本人なんだと実感する瞬間だった。
湯船に浸かりながら湯を両の手で掬い、それで顔、髪へと摩り上げると見上げた。
するとカビ一つない綺麗な天井が眼前に広がり、それを見ながら隼人はボソリと呟いた。

「知らない天井……って訳じゃないんだよな……」

 見上げるとそこにある天井といい、湯の中で触れると感じる七瀬の使うボディソープを拝借したときの肌のすべすべ具合など、どれも“夢”で幾度も経験してきた感覚であった。
風呂場を見渡すと自分のシャンプーや洗顔料の類がなく、バスチェアが女子向けの小さく可愛らしいものを除けば見覚えがあるものばかりだった。
湯もたっぷりと張られていたが浸かっても溢れ出るギリギリだったり、何も言っていないのに丁度良い湯加減なのも夢と同じだった。

「ここってやっぱり……」

 色々と見て感じとった結果、ここが七瀬と同棲していた部屋なのだという結論に至る隼人。
だが、部屋に足を踏み入れてからずっと感じる違和感の正体を未だ掴めないことだけが気になっていた。
“夢”では始めから既に七瀬とは同棲していて、足りない家具を一緒に買いに出掛けたことを憶えている。
だが、この部屋に来て驚くべきは、物こそ違うが既にそこに家具があったのだ。
ソファーや絨毯など置かれていたものはまだ十分な程に綺麗で、買い替えるような状態になかった。
夢で買いに行ったのは今から数年後という可能性も考えたが、七瀬の誕生日を祝う場面を見ていたことからそれも考え難かった。
では何を違和感と感じているのかと考える隼人の脳裏に、一つ見落としているかも知れないことが浮かんだ。

 それはソファーに置かれていた“ぬいぐるみ”の存在だった。
コケタニくんは“夢”の世界でもソファーに置かれていることがあった。
七瀬が大事にしている物であったから、気になって理由を聞いたはずなのだ。

「あの時、七瀬はなんて言っていたかな……」

 だが、肝心の七瀬との会話内容だけが思い出せなかった。
思い出せないこと程悩ましいことはなく、隼人は思わず天井を仰ぎながら「う~ん」と小さく唸った。

 すると外の脱衣所を兼ねた洗面所でガチャッと音がしたかと思うと、摺りガラスになっている浴室の扉に人影シルエットが映った。

「隼人、湯加減はどう?」

 聞こえてきたその声は当然のごとく七瀬のものであった。

「う、うん。 丁度いいよ」

 自分は七瀬の家にいるのだから家主が声を掛けてくるのは至極自然なことであり、特段驚くようなことではない。
ところが本人のことを考えていた絶妙のタイミングであったことや、扉越しとはいえ夢ではなく実物ほんにんが居るのだと思うと、緊張してしまい隼人は思わず上ずった声を出していた。

「良かった。 バスタオル、扉のとこに掛けとくで」

 幸いにも扉越しだったことで細かな言葉のニュアンスを聞き取れなかったのか、七瀬からは疑問にも思っていない様子の返事が返って来た。

「ありがとう」

 その様子にほっとした隼人は扉越しの七瀬に礼を伝える。
すると七瀬は「ちゃんと温まるんやで?」と言い残し洗面所から消えていった。
七瀬の気配が部屋から消えたのを察した隼人は胸を撫で下ろした。

「ふぅ……」

 暫くし風呂から上がった隼人がリビングへ戻ると丁度テレビでは映画『バイオハザードV:リトリビューション』が流れていた。

ゥガァッ――

 ゲームが原題で“ミラ・ジョボビッチ”扮するアリスが、ド派手なアクションをゾンビなどの様々なクリチャーを相手に繰り広げる人気の映画である。
普段の隼人であれば好きな映画のジャンルできっと画面に釘付けになって観ていたことだろう。
ところが今の隼人の目にアリスの雄姿は映っていなかった。
代わりに映るのはソファーでコケタニくんを抱き締めながらテレビを観ている七瀬の姿だった。

「あっ、上がったんやね。 温まった?」

 テレビに魅入っていた七瀬だったが、隼人の存在に気付き彼を見て満面の笑みを浮かべる。

「う、うん。 丁度良い湯加だったよ」

「せやろ?」

 “丁度良い”という言葉を隼人から聞き、自信があったのだろう七瀬の表情が一段と明るくなった。
湯の好みなど人によって千差万別で相手を良く知っていなければ出来ない芸当である。
だが何故か七瀬は隼人が好むだろう温度が分かり、しかも正確に言えば極自然に手が動き、何も考えずに温度を設定していた。
その事に自分が違和感を感じない事に違和感があったが、今の七瀬にとって些事であり隼人が喜んでくれたのならば良いとさえ思っていた。

 七瀬がそのような事を思っているとは露知らず、彼女の笑みの可愛さに隼人は見取れる。

「ほな、ななもお風呂入ってこよ」

 そんな隼人の様子など気付かない七瀬は、そう言いながら立ち上がった。
持っていたコケタニくんをソファーへ丁寧に座らせると、そのままリビングを出て行こうとする。

「隼人はソファーでテレビでも観ててな」

 すれ違い様に七瀬にそう言われ、隼人は「うん」と相打ちしながら目で彼女の背中を追った。
やがて七瀬は廊下へと出ていくと扉を半分程閉めたところで、隙間からひょこっと顔を覗かせる。
そして怪しい笑みを浮かべ隼人に告げた。

「覗いたらあかんで?」

「!?」

 隼人は七瀬のその言葉に思わず真っ赤になる。
それを見て七瀬は満足そうに笑うと廊下へ消えていった。

 妖艶な表情はまるで七瀬の内の“女”を見た気がした。
しなやかな身体が隼人の動きに合わせ跳ね、唇からは淫靡な声を漏らす七瀬の姿。
そんな“夢”での出来事とはいえ、身体を重ねた時の事を思い出した隼人は思わずドギマギした。

 そして同時に脳裏を掠めるのは、思い出せず終いのままのコケタニ君について語られていたはずの夢の内での言葉。
一見無関係に思える2つの出来事が、まるで因果があるとでもいう様に何度も脳裏に浮かんでは消える。
喉のつかえのように思い出せそうでだせない状態のまま、結局風呂から七瀬が上がってくるまで隼人はコケタニくんを見つめていた。

………………

…………

……

 七瀬も風呂から上がり、2人はリビングでソファーで寛ぎながら談笑していた。
「隣に“まいやん”おるのに“昨日はどうだった?”なんて聞いてくるんやで? ほんま“ななみん”ってSなんやから」

「そんなことがあったんだね……」

 とは言ったものの、心から寛いでいたのはどうも七瀬だけの様で、隼人は隣で手を膝に置き姿勢を正すようにして座っていた。
しかも“橋本 奈々未”に対する愚痴ともとれる内容なのに何故か上機嫌な七瀬を余所に、隼人は相槌を打ってはいたが彼女を極力見ないようにしていた。

 それもその筈、高校生ともなれば性に対する興味も尽きない年齢である。
しかも夢の内でのこととはいえ七瀬とのSEXそういうことを経験済みとあれば尚の事。
それだけに現実世界のすぐ隣に七瀬が居るとなれば、湯上がりで上気した艶めかしい肌に鼓動は高まり、彼女からボディソープとも違う香りが漂ってくれば大人しくそこに座っているだけで精一杯になるのは致し方ないことであろう。

「朝もいつもやったら寝てるのに、今日なんかななが控室入ったら起きてて、ニコニコしてるんやで? 絶対うちらのこと楽しんでんねんで」

 時折打たれる隼人からの的確な相槌。
それによって隼人が手一杯であることなど知る由もない七瀬は話を続けていた。
楽しそうにする七瀬の様子に真面目な隼人は無意識に普段と同じように相手と視線を合わせ相槌を打とうとしてしまう。
その瞬間、わずかに七瀬の方を見ることになる。

 だが、それが間違いであった。
楽しそうに話す横顔は、化粧水で保湿しているのだろうが化粧は落とした所謂“すっぴん”状態の七瀬。
ところが、話す度に動く程よく厚みを持った七瀬の唇だけは艶やかにプルンとしていて、隼人は思わずそこに目がいってしまう。

 その唇の柔らかさ、触れた後の七瀬の反応、どれも隼人は夢の内で経験し知っていた。
だから、数時間前までの赤の他人ではなく“恋人”となった今、現実(リアル)な七瀬を前にし相槌など忘れ、吸い込まれるように膝に置かれていた手が伸びる。

「それでな……ふぁ~」

 ところが絶妙のタイミング、隼人が手をその唇へ伸ばすのを気付かれる寸でのところで、七瀬が眠気に見舞われたのか欠伸をした。

 七瀬の反応に思わず伸ばしかけた手をサッと引っ込める隼人。
七瀬が望んでいない事かもしれない、そう思うと憑き物が落ちたように、隼人はその心の内にあった欲望の灯火がフッと消えた。
そして欠伸をする七瀬を見て優しく微笑むと、部屋の壁に掛けられた時計の時刻を確認する。

「もう、こんな時間なんだね。 七瀬は明日の仕事は大丈夫?」

 そう言って隼人は欠伸をし目を眠そうに擦る七瀬を見つめる。
すると七瀬は擦った目をパチクリとしながら隼人を見た後、時計を見ると時刻は午前1時を過ぎていた。
七瀬はそのまま傍らにあったスマートフォンでスケジュールを確認する。

「あかん、明日現場入り10時や……」

 本人からするともっと話をしていたかったのだろう、思いの外早かった現場入りの時間に思わず嘆く七瀬。
あまりに残念そうな様子であったが、七瀬が朝弱いことを夢の内で身を持って知る隼人は苦笑しながら彼女に声を掛ける。

「もっと俺も話していたいけどお仕事じゃあ仕方ないよ。 七瀬そろそろ寝よう。 ね?」

 至極真っ当な事をお願いするような言い方をする隼人。
そんな言い方を“恋人すきなひと”にされたら拒否など出来ようもない。
それに加え、アイドルでありながら恋人を作ったことで、少なくとも仕事に影響を及ぼしてはならないと駄々を捏ねようとする気持ちを抑え、渋々ではあったが七瀬は隼人の提案を受けることにした。

「そうやね。 寝なあかんな」

「じゃあ、俺はここで寝れば――」

「そんなんあかん。 こっち」

 自分が座っているソファーにタオルケットでも貰い寝るつもりでいた隼人は、七瀬に”いいよね”と確認するつもりであった。
ところが言い終える前に遮られたばかりか七瀬に手を引かれ、そのまま隼人はリビングから廊下へと出ることに。

「ちょっ……」

 突然のことでされるがままの隼人ではあったが、ある部屋の前で七瀬が立ち止まった時、夢の内でそこが何であったかを思い出し彼女の言わんとすることを理解した。

ガチャッ

 七瀬はそのまま立ち止まった部屋の扉を開け、壁際のスイッチを手探りで入れる。

「ん?」

 カチッと音がし明かりが点ると部屋の全貌が現れる。
そこには察していた通りの部屋があった。

 だが、そこには隼人が想像していたものが存在していなかった――。
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