16話:夕空に浮かぶ嘲笑
生温かった辺りを漂う異様な風がわたしの横を通りすぎたのは、存外すぐのことだった。いや、きっとその時に感じたモノも正確には風ではなかったのかも知れない。
わたしが何かしらの行動を起こすよりも前に、夕の悪戯で紅く染まっていた景色が一瞬にして黒く染まる。この時何が起きたのかは、具体的にはよく分からない。誰かの廻りを漂っていた黒い粒子のような何かが、まるで意思を持っているかのようにして迫ってきたのだ。
嗚咽を漏らしてしまうのを必死に抑えるように、無意識的に手で口を覆ってしまう。どうしてか息が出来なくなってしまうような息苦しさと、何かが細胞という細胞を掻き分けながら、わたしという枠の中に存在する、深い底にある見えない何かを探して身体に滲んでいくような感覚がわたしをそうさせたのだ。
と言っても、その見えない何かというのが果たして何なのかというのは、自分でもよく分からない。でも、廻り一帯が不確定なモノを躍起になって探しているのは明白で、わたしは本能的な部分でそれに抵抗するかのように、声にならない言葉を押し潰す。
「なるほどね……」
僅かに残る五感のひとつは辛うじて機能しており、何かを納得したような声を上げた傍観者は、首をかしげながら足を動かしてこちらに向かってくるのが辛うじて垣間見えた。
「お嬢さん、何か隠してるでしょ? それともお嬢さんがしぶといだけなのかな?」
男がなにか、わたしに疑問を提示しているようだったが、一体何を言っているのかよく分からなかった。言い終わった途端、わたしを取り巻いていた黒色はするりと男の側へと戻っていく。抵抗する術を知らないわたしがどうやっても振りほどけなかったそれを、いとも簡単に操ったのだ。
纏うように男の右手に集まってくる黒いそれは、意識的に何かを形成していくように見えた。少しずつモノとしての自覚が生み出されていく頃にようやく理解した、その鋭利な何か。
こういうのって、一回で死ぬんだっけ? まるでちょっとした実験のようにそう口にする男の、刺すような瞳。
「……アンマリ好きじゃないんだよなあ、こういうの」
そうであるはずなのに、わたしを写しているそれはどうしてか酷く揺れ動いていた。そう口にしながらも、手に持たれた黒い鋭利な何かが夕空から堕ちる光を捉えはじめたのを合図にするかのように、男が卑しい笑みを向ける。
「どっちにしろ手遅れだし、別にどうでもいっか」
振りかざされたそれがわたしの何処かを貫いた時。それがきっと、わたしがわたしじゃ無くなる瞬間だったのだろう。咄嗟的に、わたしの瞳はそれら全ての事柄を映すことを拒んでいた。
――ことが起きたのは、そのほんの数秒後だった。
なにか、ガラスの破片が割れるかのようなけたたましく響く音と同時に、光のようなモノがわたしと男の間に割って入る。咄嗟に身体を動かしたのかそれとも弾き飛ばされたのか、男との間に数歩の距離が空いた。それは一瞬の出来事だった。
果たして何が起きたのかはよく分からない。唯一理解出来るのは、わたしが理解するには到底及ばない出来事が取り巻いているということだけだ。誰かが助けてくれるなんてことから程遠いようなこの状況でそんなことが起こるということは、何か別の力が働いたということだろうか? でも、これはわたしの力じゃない。そうであるはずがない。だってわたしは、視えるというだけでこんなことが出来る力なんて持っていないはずなのだから。仮に持っていたとするなら、こんな状況に陥る前にどうにかなっているはずだ。
時が止まったかのように目を丸くしていた男は、何かを悟ったように言葉を口にした。
「あー……なるほど、お嬢さんじゃなかったかぁ。まあでも、ある意味正解か」
そうかそうかと、わざとらしく同じ言葉を繰り返す男の手の中で踊る刃物は、光に拒絶を起こしたかのように細かい粒子となって空を舞う。空いた手を額に当て、呆れにも似た困窮した様子をみせた。
「計算かどうなのか知らないけど、邪魔ばっかりするもんなぁああいうヤツらって。まあそっか、そりゃ当然だよね」
ケタケタと誰かの発する微笑が、どういう訳か頭の中に五月蝿くまとわりつく。わたしはそれを、何をするでもなくただ視界に入れていることしか出来ないでいる中に蔓延った、とある台詞。
「――やっぱり、殺さないと駄目か?」
果たして誰のことを指しているのか、その一言だけは妙に冷えきっていたのをよく覚えている。
「今日はもういいや。状況掴めたし一気に冷めた。バレるのもダルいし」
じゃあね、お嬢さん。柔和な笑みを浮かべた誰かがそう言ったかと思うと、右半身からまるで砂のように散となり、靄の雲谷の中に静かに吸い込まれていく。
この一連の流れは、完全に向こうのペースだった。
靡く髪の毛に気付いた時、ようやく現実に戻されはじめたのを肌で感じた。風の音がようやく耳に入り、わたしはどこか安堵していた。しかし、その間を縫うようにして誰かが走ってくるような音が聞こえたことにより、わたしはまたしても意味もなく反射的に振り向いてしまう。
「遅かったか……?」
走ってきた人物は、わたしと同じ学校の制服を着た男子生徒だ。さっきまでここにいた人とはまるで違う、夕日の空に光る、わたしでは到底敵うことのないくらいに眩しい人。
「……君、さっきまで誰かと一緒にいなかった?」
その人は、少しだけ息を切らしながらわたしに言葉を投げる。何処かで聞いたことのある声に、わたしは思わず驚嘆した。
わたしが何かしらの行動を起こすよりも前に、夕の悪戯で紅く染まっていた景色が一瞬にして黒く染まる。この時何が起きたのかは、具体的にはよく分からない。誰かの廻りを漂っていた黒い粒子のような何かが、まるで意思を持っているかのようにして迫ってきたのだ。
嗚咽を漏らしてしまうのを必死に抑えるように、無意識的に手で口を覆ってしまう。どうしてか息が出来なくなってしまうような息苦しさと、何かが細胞という細胞を掻き分けながら、わたしという枠の中に存在する、深い底にある見えない何かを探して身体に滲んでいくような感覚がわたしをそうさせたのだ。
と言っても、その見えない何かというのが果たして何なのかというのは、自分でもよく分からない。でも、廻り一帯が不確定なモノを躍起になって探しているのは明白で、わたしは本能的な部分でそれに抵抗するかのように、声にならない言葉を押し潰す。
「なるほどね……」
僅かに残る五感のひとつは辛うじて機能しており、何かを納得したような声を上げた傍観者は、首をかしげながら足を動かしてこちらに向かってくるのが辛うじて垣間見えた。
「お嬢さん、何か隠してるでしょ? それともお嬢さんがしぶといだけなのかな?」
男がなにか、わたしに疑問を提示しているようだったが、一体何を言っているのかよく分からなかった。言い終わった途端、わたしを取り巻いていた黒色はするりと男の側へと戻っていく。抵抗する術を知らないわたしがどうやっても振りほどけなかったそれを、いとも簡単に操ったのだ。
纏うように男の右手に集まってくる黒いそれは、意識的に何かを形成していくように見えた。少しずつモノとしての自覚が生み出されていく頃にようやく理解した、その鋭利な何か。
こういうのって、一回で死ぬんだっけ? まるでちょっとした実験のようにそう口にする男の、刺すような瞳。
「……アンマリ好きじゃないんだよなあ、こういうの」
そうであるはずなのに、わたしを写しているそれはどうしてか酷く揺れ動いていた。そう口にしながらも、手に持たれた黒い鋭利な何かが夕空から堕ちる光を捉えはじめたのを合図にするかのように、男が卑しい笑みを向ける。
「どっちにしろ手遅れだし、別にどうでもいっか」
振りかざされたそれがわたしの何処かを貫いた時。それがきっと、わたしがわたしじゃ無くなる瞬間だったのだろう。咄嗟的に、わたしの瞳はそれら全ての事柄を映すことを拒んでいた。
――ことが起きたのは、そのほんの数秒後だった。
なにか、ガラスの破片が割れるかのようなけたたましく響く音と同時に、光のようなモノがわたしと男の間に割って入る。咄嗟に身体を動かしたのかそれとも弾き飛ばされたのか、男との間に数歩の距離が空いた。それは一瞬の出来事だった。
果たして何が起きたのかはよく分からない。唯一理解出来るのは、わたしが理解するには到底及ばない出来事が取り巻いているということだけだ。誰かが助けてくれるなんてことから程遠いようなこの状況でそんなことが起こるということは、何か別の力が働いたということだろうか? でも、これはわたしの力じゃない。そうであるはずがない。だってわたしは、視えるというだけでこんなことが出来る力なんて持っていないはずなのだから。仮に持っていたとするなら、こんな状況に陥る前にどうにかなっているはずだ。
時が止まったかのように目を丸くしていた男は、何かを悟ったように言葉を口にした。
「あー……なるほど、お嬢さんじゃなかったかぁ。まあでも、ある意味正解か」
そうかそうかと、わざとらしく同じ言葉を繰り返す男の手の中で踊る刃物は、光に拒絶を起こしたかのように細かい粒子となって空を舞う。空いた手を額に当て、呆れにも似た困窮した様子をみせた。
「計算かどうなのか知らないけど、邪魔ばっかりするもんなぁああいうヤツらって。まあそっか、そりゃ当然だよね」
ケタケタと誰かの発する微笑が、どういう訳か頭の中に五月蝿くまとわりつく。わたしはそれを、何をするでもなくただ視界に入れていることしか出来ないでいる中に蔓延った、とある台詞。
「――やっぱり、殺さないと駄目か?」
果たして誰のことを指しているのか、その一言だけは妙に冷えきっていたのをよく覚えている。
「今日はもういいや。状況掴めたし一気に冷めた。バレるのもダルいし」
じゃあね、お嬢さん。柔和な笑みを浮かべた誰かがそう言ったかと思うと、右半身からまるで砂のように散となり、靄の雲谷の中に静かに吸い込まれていく。
この一連の流れは、完全に向こうのペースだった。
靡く髪の毛に気付いた時、ようやく現実に戻されはじめたのを肌で感じた。風の音がようやく耳に入り、わたしはどこか安堵していた。しかし、その間を縫うようにして誰かが走ってくるような音が聞こえたことにより、わたしはまたしても意味もなく反射的に振り向いてしまう。
「遅かったか……?」
走ってきた人物は、わたしと同じ学校の制服を着た男子生徒だ。さっきまでここにいた人とはまるで違う、夕日の空に光る、わたしでは到底敵うことのないくらいに眩しい人。
「……君、さっきまで誰かと一緒にいなかった?」
その人は、少しだけ息を切らしながらわたしに言葉を投げる。何処かで聞いたことのある声に、わたしは思わず驚嘆した。