16話:夕空に浮かぶ嘲笑

 それからわたしは、果たしてどれくらいの時間を図書室で過ごしていたのかは覚えていない。でも日が落ちかけてしまっているということは、一時間くらいはあそこに留まっていたということは確かだろう。

「鞄、ちょっと重くなっちゃったな……」

 しかし、探していた本とは他に数冊気になる本があったせいで、わたしが想像していたよりも荷物が増えてしまったということが難点だった。
 見たい本があったとは言え、普段はそこまで本を読むことをしないのに少し調子に乗ってしまったかもしれないと後悔しつつ、肩にのし掛かる本の重みを感じながら、わたしは家までの帰路を歩いている。必然的に図書館のある方へと向かうことにはなるけど、だからと言ってそこにたどり着くことはない。そこまで近いわけでもないし、というより、今行ったら多分途中で力尽きると思う。

「結局、栞持って帰ってきちゃった……」

 図書室で見つけた栞。それは今、わたしの鞄の中で静かに佇んでいる。本当ならカウンターにいる人に預けてもよかったし、そうするべきだったのだけれど、如何せんわたしの口がそれを拒んでしまった。
 目的の本があったということと、自分のモノでもない栞を持ち帰ってしまったこと。嬉しさと罪悪感が共存するとこうも居たたまれない心持になってしまうのかと思うと、やっぱり後悔の方が大きくなっていく。最早自分でもよく分からなかった。

「……ん?」

 だから、恐らく視える人間に限りがあるのであろうモノに出会いたくなんて無かったというのが、この時の本音だ。

(久し振りに視ちゃった……)

 向かいの歩道。道路を挟んだところにある小路に、黒い何かが潜んでいるのがハッキリと視えてしまった。幽霊という捉え方が一番分かりやすいだろう。
 だが、幽霊というのとはちょっと違う何かであるというのはすぐに理解が出来た。だから、余計視えないフリをしたかったのだ。
 どういうわけか幽霊は何回か見たことあるけど、形があるのかないのかも分からないような黒いそれを視るのははじめてだった。
 それが何なのかは全然分からないけど、どうやら周りの人たちは気づいていないみたいだ。いわゆる、視える人には視えるという状況だろう。こういうのはまわりと同じく気付いていないふりをして見ない方が吉。向こうがわたしが視えると認識してしまったら、付きまとわれるのなんて分かっている。それで後悔する目には何度かあってきたのだ。
 幸いといえばいいのか、それはわたしの向かう方向にはいないし、そもそもあれが何なのかもよく分からないし、運が良ければこのまま素通り出来るかもしれない。
 あくまでも、運が良ければの話だけれど。

(な、なんか動いてない? 考えすぎか……)

 絶対に振り向かないと心に決めてすぐのことだ。その何かを通りすぎた筈なのに、どんなに歩いてもその黒いモノが視界の隅にくっついて離れなかったのだ。
 一瞬思考が追い付かなくなりそうだったけど、もしかして気付かれてしまったのだろうか? 全く見覚えのない何かに気付かれるというのは、さながら幽霊を視たときよりも嫌な気配に晒される。
 この時、わたしは自分の鼓動を聞くことに精一杯で、辺りはいつの間にか静まり返っているということに気付かなかった。

(走ったら振りきれたりしないかな……。いや、それはそれで私が気付いてるってことがバレる気が……)

 例えばの話、家にまでついてこられるとかなり困るし、もし本当についてきているのだとしたら、どうにかして帰ってもらいたい。ただ、こういう場合において、相手が気付いていないというのはごく稀な出来事であるということを、経験上わたしは知っていた。

「……あれ?」

 何となく違和感を覚えたわたしは、思わず足を止めた。
 いつもと同じ景色の筈なのに、いつもと違う。何処が違うのかと問われたら解答に困るけれど、まるで誰も住んでいないかのような静寂がそこにはあった。
 あれだけ振り向かないと決めた筈なのに咄嗟に振り返ってしまったその先、得体の知れない黒い何かはそこにいなかった。しかしそれだけではなく、さっきまでいたはずの知らない人達の姿すら何処にもいない。わたしは少し早足で歩いていた道に戻った。
 この時間ならある程度の環境音が聞こえてくるはずなのに、わたしの耳には一向に何も入ってこない。唯一これが現実であるということの象徴のように、卑しく感じる生温い風が辺りを纏っていた。
 これはもう、気付かれていないなんて悠長なことは到底言えないと捉えていいだろう。存在の知れない何かによって、わたしは迷わされている。相手が視えると判断したのか、完全に遊ばれているのだ。
 運が良ければ助かるかもね? とでも言いたげな風が、わたしの両端を走る。自然と心拍数が上がっていくのが、嫌になるほど分かった。普段ならそれと同時に聞こえているのであろう葉の擦れる音なんてものは、わたしの耳に一切届いてこない。

『なにか探し物?』

 変わりに聞こえたのは、知らない誰かの声だ。
 周りには誰もいなかったはずなのに、僅か数ミリにも満たないほどの距離で囁かれたようで、一気に背筋から悪寒が広がった。
 わたしは急いで後ろから聞こえてきたそれを振りほどくようにして、咄嗟の勢いで誰かから距離をとった。荒く響く自身の息が、ようやく耳に入った。

「向こう。俺を越えたその先まで行けば、もしかしたら出られるかもね?」

 ほんの数歩で縮まってしまうであろう距離にいるのは、悪戯に笑う男の人だ。
 夕陽が造り出す逆光のせいだろうか? どうしてか、人を確実に嘲笑っているようにも見えるそれ。すぐ側にいるというだけなのに、胸の奥底にある何かを掴まれているかのような感覚に苛まれる。

「でも、ただ視えるだけのお嬢さんが俺を越えるっていうのは無理かなぁなんて思ってるんだけど、どう思う?」

 とある制服を纏っただけの男子生徒が、そこに居るというだけの話なのに。

「俺は、君の意見が聞きたいな」

 いや、ただの男子生徒と言うにはかなり無理があった。本当にただの男子生徒がわたしをからかっているだけだったら、恐らくはまだマシだったのだろう。

「ゆ、幽霊……?」
「まあ確かに、有り体に言えばそうかも知れないね。でも今は、そういう話をする時間すらも惜しい」

 まるでその人の声に反応するように、黒い靄がゆらりと動きをつける。目の前にいる人物が一体何を口にしているのかという部分に関しては、この際気にしている暇はない。少なからず言えるのは、この人の言う通り逃げる術なんて何処にもないということだ。
 わたしは、何かに縋るようにして自分の鞄を強く握りしめていた。

「少しだけ俺と遊ぼうよ、迷子のお嬢さん?」

 まるで子供のように無垢な笑顔で一言、そう口にする誰かの声がわたしの何かを突き刺した。
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