16話:夕空に浮かぶ嘲笑

「やっと解放された……」

 心労で思わず猫背になりそうなところを必死に抑え、おれはただひとり帰路を歩いている。橋下君に無理矢理連れられて四人でデパートに設置されているようなゲームセンターに足を運んだけど、いわゆる煩わしい音で溢れかえっているちゃんとした場所じゃなくて良かったかも知れない。おれと橋下君はともかく、拓真と相谷君をあの中に放り込むというのは、何と言うか流石に可哀想という言葉に尽きる。
 あの時間、女子高生が特に多くなる一帯に男四人が集まっていくと言うのは確かに中々面白かったけど、そう思っているのは恐らくはおれと橋下君だけだっただろう。
 小さな機械に無理やり押し込められて、言われるがまま適当に背景やフレームを選び、目の補正とか化粧機能とかよく分からないモノを前にあーでもないと言っていたら時間切れになっていたり、とにかく忙しかった。こればっかりはやり慣れないことはするもんじゃないなと、流石のおれも痛感した。
 今ひとりで歩いているのは、当然彼らと別れた後だからな訳だけれど、この辺りはそんなに足を運ばないから少し新鮮だったりもする。帰路が違うというだけでこんな気持ちになってしまうのだから、さながら単純だと言っていいだろう。
 特に変哲のないただの路上に降りかかる夕の日差しが、一体を紅く染める。おれの視界に見えるのはただそれだけだったけど、その中にある僅かな気配が、足の動きを止めさせた。

「……何か、いるのか?」

 いる、というのは少なからず語弊があるかも知れない。特別人通りの少ない場所を通っている訳ではなかった筈なのに、どうしてこんなにも静寂という言葉を体現しているのだろうか? 誰もいない訳じゃないだろうに、それだけが甚だ疑問だった。
 辺りを見渡す限り、人は何処にも見当たらない。それはさながら、人払いされている場所に足を踏み入れているかのようなそんな感覚で、思わず怪訝な顔付きになる。

「……見つけた」

 そしてその考えは、どうやら当たってしまっていたようだった。
 おれの視線の先、僅かに歪んで見える路の瀬に、それこそ微粒子レベルの黒い何かが集約しているのが分かる。それが視界に入る度に総毛立つような感覚が身を馳せるものの、それに呑まれるだなんてことが起こらないのは、恐らくはここにいるのがおれという存在だったからなのだろう。
 近づいてみると分かるのは、左に続く道にその黒いモノが何も通さんとしているかのように広がっていたということだ。
 こういう異端的な現象が起きているということは、その中で誰にも見られたくない何かが起きているのだろう。最もおれはこれまでにそういう事態に陥ったことはないし、ただの憶測に過ぎない。本当にそうだからといって、無暗に首を突っ込むなんていうのは極めて浅はかで向こう見ずだ。無視することの方が、恐らくは賢い選択だろう。
 そうであるのに、いつからかおれの手は蔓延している黒に触れようとしていた。いや、恐らくは既に触れていた。生温い感覚を指先が感じ取る。その時だった。
 促音が、おれの口から漏れる。耳をつんざく程の音を立てながら、何かに弾き飛ばされた感覚が身体を走ったのだ。
 咄嗟に顔を覆った腕を視界から外すと、靄は一斉に散々となり姿を消していくのが分かる。僅かな時間の中で起きた出来事にどうやら頭が追い付いていないようで、さながら時が止まった感覚だった。
 ふと足元を視界にいれると、いつの間にか割れ散乱した硝子のような欠片が幾つも転がっていた。いや、それは硝子なんていう可愛いモノなんかじゃない。おれに気付かれたことを良しとしないかのように、瞬時に黒い粒子と化し、空を舞った。
 そうでないことはよく分かっているのに、風の音が今日はじめて耳を掠めた気がした。
 静けさに溺れた街から、僅かながらのゆっくりと環境音が聞こえてくるのがよく分かる。それはきっと、今までもちゃんとそこに存在していた筈なのに、何かの力が作用してそうすることを許されなかったのだろう。
 果たして何がそうさせたのか? 恐らくは、おれにはそれを知る権利があった。そう思ってしまう程に、足は勝手に動いていた。
 だって今は、こういうことに関しては妙に過敏な態度をとる人間も側にいないし、逆にそれに首を突っ込みたがる人間もいないし、この事柄に縁のなさそうな人間もいない。ひとりなら、これらの人間に気を使う必要なんてどこにもない訳であって、言ってしまえばバレなければ無問題だ。
 そういう思考になってしまうと、いつにも増して行動は早い。あの黒いモノには見覚えがあったから、もし仮にその類いのモノだったらと思うと余計だった。
 地面を踏みつける速度が上がっていることに気づいたのは、とある人物が視界に入ってからのことだ。
 それほどの距離でもなかった筈なのに、おれの息が僅かに乱れていたのが歩の進みがゆっくりになるごとによく分かる。

「……遅かったか?」

 そんな言葉が自然と口から零れ落ちたのは、今この場所にはおれとひとりの人物しかそこに居なかったからだ。微かに地面に堕ちている、散々となって消えかけている靄の残党。それが、おれが数回ほど見たことのある黒い何かが纏っているモノであるということは、すぐに理解が出来た。

「君、さっきまで誰かと一緒にいなかった?」

 だから、例えばこの人物がその類のモノを視えるとか視えないとか、そういうのは正直別にどうでもよかった。

「靄を纏った何か、この辺りに居ると思ったんだけど」

 彼女の揺れた瞳をちゃんと視界に入れる、その時までは。
4/4ページ
スキ!