第12話:深淵を纏わない誰かの声
街頭の僅かな光と空から降る月の存在は、暗闇の中ではさして役に立つことはない。何故なら、僕がこの時間に外に出ているということとそれは、全くの別問題であるからだ。
正し、逃げるという意味においてだけ言うのなら、無いよりもあった方がマシなのかも知れない。そう思えば、幾らかは存在意味を見出だせる。それなら、今の僕は果たしてどうなのだろう?
「ああもう、やっぱり誰も捕まらないしやるしかないか……」
現状、卑下することしか出来ない僕がそれを考えたところで、答えは決まっていた。
僕を後ろから追ってくるとある存在は、人ならざるモノのであるにも関わらず同じような形成を繕い、到底あり得ない程に黒く染まっている。発せられる異様な靄は、確立された実体が無いにも関わらず何かを求めているかのようで、気味が悪い。
「使っても怒られる歳でもないし、別にいいか」
それを唯一弾くことが出来るのは、魔法だけだ。
いつから手にしていたのか、見慣れない大振りの刃物は、どうも僕の手には馴染まない。魔法を使わない方が身軽に動けるのは確かだけど、それだと確実に逃げられないというのはよく分かっている。この、不規則な動きをするそれからは。
「えっと……どうやるんだっけ」
走りつつ普段使うことをしないモノを手にし、かつ後ろをけん制しながら、というのは中々に無理がある。やっぱり、魔法なんて使わないで早々に逃げてしまった方が良かったのだろうか。いや、それは駄目だ。本当にそれが出来るんだったら、貴族なんている意味がない。人ひとりの力で逃げられるのなら、魔法絡みの事件なんてまず起こらない。
最も、それが貴族によるものではないというのが大前提だけれど。
「あ、こうか……?」
息が少し上がっていることなんてこの際問題でもなく、急停止したことにより上着の裾が空を舞う。それがすぐ側まで迫っているのを確認するよりも前に、手にしていた刃物がようやく役目を果たす時が来た。
身体の奥から湧き出てくるのは、僕が僕であるために使えてしまう魔法の源。恐らくは遺伝子レベルから形成された、僕にしか使えないモノ。それを自身の意思でコントロールし、刃物を振り動かす勢いに任せるようにして、一瞬で手元にそれを注力させる。何か、燃えるような音と共にほんの数ミリ程まで迫ってきていたそれが靄となって消えていく。深淵が燃える、というはさながらよく分からないけれど、感覚的にはそんな感じだろう。
「うわあ、魔法っぽい……」
まるで他人事のような、緊張感の欠片もない言葉が口から落ちる。ノーウェン家の使う魔法。刃物が纏いしそれは、光にも似た炎だ。
宙を這うモノはまだ僕の視界から消えることはなく、視認出来るはずがないのに僕のことを確実に捉えていく。僕もそれから目を離すことは無く、次に来るであろうモノに備えて一歩後退した。それを合図に、深淵が先制する。どうやらさっきのが挑発行為と捉えられてしまったようで、迫ってくる速さが打って変わった。が、正直まだ焦る段階じゃない。速いといえば確かにそうだけれど、防ぐ余裕があり、かつ防ぐと同時に靄となって消えていくということは、これが相手の本気ではないのだろう。最も、その本気というのを僕は見たことがないけれど。
こうして魔法を使ったのは、果たしていつのことだっただろうか。なんてことを考えていられる余裕が、普通にあったのだ。
言ってしまえば、こんなもの使わなければ力の持ち腐れで、貴族である意味なんて何処にも存在しない。周りが色々と五月蝿いから、今まで使うことは避けてきた。でももし、エリスが路地裏に足を運んだ時に僕が居たとしたら、どうだっただろう?慣れないモノの扱いに困りながらも、逃げることくらいは容易だったかも知れない。
あの時とは状況が違うのだから、それだって十分に可能だった。でも、その猶予すら与えられることはなかった。
いっそ僕が普通の市民で、なんの力も使えないただの人間だったらそうは思わなかっただろうに。そう考えてしまうのは、恐らくは僕が貴族であるにも関わらず、魔法を滅多に使わないからだろう。でも仮に、本当にただの市民だったとしても、多分「どうして貴族じゃないんだろう」などと思っていたんじゃないだろうか。
「慣れないことはするものじゃないよ」
聞き覚えのある誰かの声が、風と共に空を舞った。
巻き起こる風によって舞う、光の粒。思わず見惚れてしまう程に艶めいて見えるのは、恐らくは今が夜だから、余計そう見えるだけなのだろう。風が少しずつ消えていき、彼の身体から漏れる、隠すことを許さない魔法の光が、腕を伝う。光を深淵に向けて払うかのように、指先からそれらの粒が離れていく。それが、始まりの合図だった。
深淵の真下から突如放たれたのは、またしても風。邪魔だからちょっと退いてくれないか、とでも聞こえてきそうな程にアルセーヌさんが容易に深淵を消滅させるところを見てしまえば、貴族の方が幾らかはマシだと、そう思えた気がした。
「随分と精力的だね?」
「……そんなことはないと思いますけど」
一度魔法を使っただけで精力的と言われてしまう程に、僕は普段魔法を使わない。それには一応理由はあるし、多分アルセーヌさんも知っている。だからこそ精力的という言葉が出てきたのだろう。
「キミに魔法を使われるのは、少し困るんだけどね?」
「いやぁだって、普通に逃げても逃げられないですし」
ただ、今の僕からしたら、そんなことは別にどうだってよかった。
「さっきの、最近多いですね」
「本当、急に増えると参ってしまうよ」
溜め息をつき、手を払う仕草だけで武器が消えていく姿は、とても手慣れていた。
「過去に一度、あれが暴動した事件があったみたいだね」
「そうでしたっけ?」
「丁度その時じゃないか。キミが死にかけたのは」
「あー……」
自ら地雷を飛ばしてしまったお陰で、僕は言葉に詰まる。そうだ、そうだった。あの時は殆んど時間を家で過ごしていたから、完全に抜けていた。言われたのが兄だったら、呆れて溜め息をつかれていたかも知れない。
「……あれが、犯人の可能性はあるんですかね?」
「可能性だったらいくらでもあるさ。それより……」
細身の剣が光の粒になりながら、風と共に何処かへ去っていく。
「キミの父君に言うつもりは無いけれど、知られたら怒られるのは私だからね。程々に頼むよ」
「はは……。父は、アルセーヌさんには怒りませんよ」
次に口にした僕の声は、自分のことながらも酷く淡々としていた。
「別に次男なんて、居ても居なくても大して変わらないですし」
向こう、まだ見てないので行ってきますね。そう口にしながら、いつの間にか消えてしまった刃物を再び形成させようと、力が手に向かう感覚が走る。その時だった。
「ちょっと待ちなさい」
アルセーヌさんが、僕の腕を掴んでそれを制止させる。創られかけたそれは、光の粒となって夜の街に飛散した。
「キミがどういう考えに基づいて動いているのか、という部分に関しては別にどうでも構わないのだけれど……」
ひとつ、呼吸をおいてアルセーヌさんは言葉を続けた。
「少なくとも、私は怒るよ?」
そう口にする彼の意図がよく分からなくて、ほんの僅かではあるが、時が止まった気がする。その言葉に、僕は疑問を隠せなかったの。
「アルセーヌさんか怒ってるところ、僕は見たこと無いですけど」
「なら結構じゃないか。これからもそうであって欲しいね」
言い終わると、柔和な笑みを浮かべる中にも、掴まれた腕が僅かに軋む。これは完全に釘を刺されてしまった。つまりは、変な気は起こすなということなのだろう。
周りが思っているよりもアルセーヌさんは優しい人だから、怒るという行為を想像するのは容易じゃない。この人が怒るということは、それ相応の理由があるはずなのだ。僕は、どうしてアルセーヌさんがそれを口にしたのかということがイマイチ理解が出来ないまま、腕に絡みつくそれから逃れるために歩を進めた。
正し、逃げるという意味においてだけ言うのなら、無いよりもあった方がマシなのかも知れない。そう思えば、幾らかは存在意味を見出だせる。それなら、今の僕は果たしてどうなのだろう?
「ああもう、やっぱり誰も捕まらないしやるしかないか……」
現状、卑下することしか出来ない僕がそれを考えたところで、答えは決まっていた。
僕を後ろから追ってくるとある存在は、人ならざるモノのであるにも関わらず同じような形成を繕い、到底あり得ない程に黒く染まっている。発せられる異様な靄は、確立された実体が無いにも関わらず何かを求めているかのようで、気味が悪い。
「使っても怒られる歳でもないし、別にいいか」
それを唯一弾くことが出来るのは、魔法だけだ。
いつから手にしていたのか、見慣れない大振りの刃物は、どうも僕の手には馴染まない。魔法を使わない方が身軽に動けるのは確かだけど、それだと確実に逃げられないというのはよく分かっている。この、不規則な動きをするそれからは。
「えっと……どうやるんだっけ」
走りつつ普段使うことをしないモノを手にし、かつ後ろをけん制しながら、というのは中々に無理がある。やっぱり、魔法なんて使わないで早々に逃げてしまった方が良かったのだろうか。いや、それは駄目だ。本当にそれが出来るんだったら、貴族なんている意味がない。人ひとりの力で逃げられるのなら、魔法絡みの事件なんてまず起こらない。
最も、それが貴族によるものではないというのが大前提だけれど。
「あ、こうか……?」
息が少し上がっていることなんてこの際問題でもなく、急停止したことにより上着の裾が空を舞う。それがすぐ側まで迫っているのを確認するよりも前に、手にしていた刃物がようやく役目を果たす時が来た。
身体の奥から湧き出てくるのは、僕が僕であるために使えてしまう魔法の源。恐らくは遺伝子レベルから形成された、僕にしか使えないモノ。それを自身の意思でコントロールし、刃物を振り動かす勢いに任せるようにして、一瞬で手元にそれを注力させる。何か、燃えるような音と共にほんの数ミリ程まで迫ってきていたそれが靄となって消えていく。深淵が燃える、というはさながらよく分からないけれど、感覚的にはそんな感じだろう。
「うわあ、魔法っぽい……」
まるで他人事のような、緊張感の欠片もない言葉が口から落ちる。ノーウェン家の使う魔法。刃物が纏いしそれは、光にも似た炎だ。
宙を這うモノはまだ僕の視界から消えることはなく、視認出来るはずがないのに僕のことを確実に捉えていく。僕もそれから目を離すことは無く、次に来るであろうモノに備えて一歩後退した。それを合図に、深淵が先制する。どうやらさっきのが挑発行為と捉えられてしまったようで、迫ってくる速さが打って変わった。が、正直まだ焦る段階じゃない。速いといえば確かにそうだけれど、防ぐ余裕があり、かつ防ぐと同時に靄となって消えていくということは、これが相手の本気ではないのだろう。最も、その本気というのを僕は見たことがないけれど。
こうして魔法を使ったのは、果たしていつのことだっただろうか。なんてことを考えていられる余裕が、普通にあったのだ。
言ってしまえば、こんなもの使わなければ力の持ち腐れで、貴族である意味なんて何処にも存在しない。周りが色々と五月蝿いから、今まで使うことは避けてきた。でももし、エリスが路地裏に足を運んだ時に僕が居たとしたら、どうだっただろう?慣れないモノの扱いに困りながらも、逃げることくらいは容易だったかも知れない。
あの時とは状況が違うのだから、それだって十分に可能だった。でも、その猶予すら与えられることはなかった。
いっそ僕が普通の市民で、なんの力も使えないただの人間だったらそうは思わなかっただろうに。そう考えてしまうのは、恐らくは僕が貴族であるにも関わらず、魔法を滅多に使わないからだろう。でも仮に、本当にただの市民だったとしても、多分「どうして貴族じゃないんだろう」などと思っていたんじゃないだろうか。
「慣れないことはするものじゃないよ」
聞き覚えのある誰かの声が、風と共に空を舞った。
巻き起こる風によって舞う、光の粒。思わず見惚れてしまう程に艶めいて見えるのは、恐らくは今が夜だから、余計そう見えるだけなのだろう。風が少しずつ消えていき、彼の身体から漏れる、隠すことを許さない魔法の光が、腕を伝う。光を深淵に向けて払うかのように、指先からそれらの粒が離れていく。それが、始まりの合図だった。
深淵の真下から突如放たれたのは、またしても風。邪魔だからちょっと退いてくれないか、とでも聞こえてきそうな程にアルセーヌさんが容易に深淵を消滅させるところを見てしまえば、貴族の方が幾らかはマシだと、そう思えた気がした。
「随分と精力的だね?」
「……そんなことはないと思いますけど」
一度魔法を使っただけで精力的と言われてしまう程に、僕は普段魔法を使わない。それには一応理由はあるし、多分アルセーヌさんも知っている。だからこそ精力的という言葉が出てきたのだろう。
「キミに魔法を使われるのは、少し困るんだけどね?」
「いやぁだって、普通に逃げても逃げられないですし」
ただ、今の僕からしたら、そんなことは別にどうだってよかった。
「さっきの、最近多いですね」
「本当、急に増えると参ってしまうよ」
溜め息をつき、手を払う仕草だけで武器が消えていく姿は、とても手慣れていた。
「過去に一度、あれが暴動した事件があったみたいだね」
「そうでしたっけ?」
「丁度その時じゃないか。キミが死にかけたのは」
「あー……」
自ら地雷を飛ばしてしまったお陰で、僕は言葉に詰まる。そうだ、そうだった。あの時は殆んど時間を家で過ごしていたから、完全に抜けていた。言われたのが兄だったら、呆れて溜め息をつかれていたかも知れない。
「……あれが、犯人の可能性はあるんですかね?」
「可能性だったらいくらでもあるさ。それより……」
細身の剣が光の粒になりながら、風と共に何処かへ去っていく。
「キミの父君に言うつもりは無いけれど、知られたら怒られるのは私だからね。程々に頼むよ」
「はは……。父は、アルセーヌさんには怒りませんよ」
次に口にした僕の声は、自分のことながらも酷く淡々としていた。
「別に次男なんて、居ても居なくても大して変わらないですし」
向こう、まだ見てないので行ってきますね。そう口にしながら、いつの間にか消えてしまった刃物を再び形成させようと、力が手に向かう感覚が走る。その時だった。
「ちょっと待ちなさい」
アルセーヌさんが、僕の腕を掴んでそれを制止させる。創られかけたそれは、光の粒となって夜の街に飛散した。
「キミがどういう考えに基づいて動いているのか、という部分に関しては別にどうでも構わないのだけれど……」
ひとつ、呼吸をおいてアルセーヌさんは言葉を続けた。
「少なくとも、私は怒るよ?」
そう口にする彼の意図がよく分からなくて、ほんの僅かではあるが、時が止まった気がする。その言葉に、僕は疑問を隠せなかったの。
「アルセーヌさんか怒ってるところ、僕は見たこと無いですけど」
「なら結構じゃないか。これからもそうであって欲しいね」
言い終わると、柔和な笑みを浮かべる中にも、掴まれた腕が僅かに軋む。これは完全に釘を刺されてしまった。つまりは、変な気は起こすなということなのだろう。
周りが思っているよりもアルセーヌさんは優しい人だから、怒るという行為を想像するのは容易じゃない。この人が怒るということは、それ相応の理由があるはずなのだ。僕は、どうしてアルセーヌさんがそれを口にしたのかということがイマイチ理解が出来ないまま、腕に絡みつくそれから逃れるために歩を進めた。