14話:陽気な声は聞こえない

 建物の中から外に出た時というのは、得てして本来の気温よりも寒く感じるものだけれど、今日はいつもと勝手が違う。

「寒……」

 口に出してしまうほどに、寒い。それに風がとにかく冷たかった。冬だから、なんていう言葉で片付けてしまってはつまらない上に、今日は度を越している。
 原因は、稀に見る天気の悪さともうひとつ。

「予報、当たったらやだなあ……」
「……さっきの奴が喜びそうだな」
「はは……」

 あの場で言うことはしなかったけど、今日の予報は確かそんな感じだった記憶がある。そう思うと、寒さが余計おれをつんざいた。

「……あいつの言ってたこと、本当か?」

 あいつの言ってたこと、というのは、恐らくただの雑談の中に埋もれてしまっているであろうあれ。
 おれがひとりで家に帰っている道中、橋下君が公園で異端物質と話をしていたところを見た。というのは本当か? ということだろう。

「まあ、うん。大体合ってるかな」

 幸い橋下君の言っていたことに相違は無かったし、別におれ自身に何かあったわけでもないから、ここで下手な嘘は言わない。強いて口にしていないことを上げるのであれば、橋下君が詮索する隙をおれに一切与えなかったところを見ると、恐らく余り関わってはいけないものだったのだろうという、おれの推測だけだ。

「……本当かよって顔してるけど、それ以外のことは特に無かったからね?」
「別に疑ってはないけど」
「じゃあ何? 普通に気になるって話?」
「気になるっていうか……」

 口をつぐんだのも暫く、拓真の口から言葉が出されるのにそう時間はかからなかった。

「なんか、変に巻き込まれそうだなって思っただけ」
「そうでもないと思うけど? こういうのって、どっちかっていうとおれらより――」

 何の関係のない人の方が巻き込まれやすいと思うんだけど。そう言おうと思った時だ。
 思わず、口から声が漏れそうになる。それと同時に、おれは足を自然に止めてしまっていた。ああ、こういうの。お約束とでも言えばいいのだろうか。こういう話をすると寄ってくるという話はよく聞くけど、その実本当なのかも知れない。
 黒く淀んだ気配が、冷たい風と共に僅かに横切った。
 こんなところに、というのがこの時の正直な感想で、今まで当たり前に通っていた場所に急に現れたとなると、恐らく未練があって等という理由でこの辺りにいるという訳ではないのだと推測ができる。
 対象物が場所を転々としているということになるだろうけど、どちらにしても明らかにおかしかった。
 簡単に言うと、黒いもやが学校付近をうろついている。それが本体ではないというのは分かるのだけれど、問題なのはそこではない。

「おれさあ、拓真がいるところでこういうこと言いたくないんだけど……」

 少しだけ思案した後、口から出たのはおおよそ想定通りの言葉だった。

「見ちゃったものを放っておくのは、やっぱり無理があるっていうか」

 そう言うと、拓真はため息を落とす。この馬鹿をどうするか、といった様子で頭に手をやるその実、多分考えていることはそんなに多くはないのだろう。

「だったら俺も行く」
「……ま、勝手にしてよ」

 そう言いつつも、本当は勝手にして欲しくはない。だが、拓真って大人しそうな顔して言い出したら簡単に退かないタイプだし、無理矢理退いてもらう方が面倒だったから、この際それはしょうがない。おれが退くという選択肢も、当然存在しないのだけれど。
 目先にある黒いそれ、もやが発する先を辿っていく。この時間だから学生ばかりが目立つけど、誰もそのもやに気づいている様子はない。こういうのを視ると、あの時橋下君が言っていたように、自分以外にこういうのが視える人なんていないんじゃないかという錯覚に陥ってしまう。
 人間の本能的な部分なのだろうか。近づく度に、まるで示し合わせたようにして人が減っていくのが不思議で仕方がなかった。まるで、全ての事柄が仕組まれているのではないかと思うくらいに、だ。
 帰路を外れ、大通りを抜けたすぐ左の道に入る。段々と黒いそれが色濃くなっていくのが、手に取るように分かった。天気も相まってか、何となく空気も淀んでいるような気がしてならない。

「あそこ、いるけど拓真は視えないよね?」

 細い道の丁度真ん中辺りだろうか。

「……何もない見えないけど」

 黒いヒト型の何かが、そこにはいた。
 一応拓真にも説明したが、ふうん……と適当な返事を返してくる辺り、この人物は絶対に分かっていない。
 もやのようなものを纏っている存在には、確かに何度か会ったことはある。でも、あれは単純に幽霊だった。だから何とかなった。しかし、今回ばかりは様子が違う。唯一、あれが靄の集合体なのではないかという憶測程度のことしか分からなかった。

「どうするんだ?」
「どうするって言われても……。おれ、あんなの視たことないし」

 それを聞いた途端、拓真は当然怪訝な顔した。

「お前、それで追ったのか?」
「いやさ、おれだっていつもだったら追わないけど……。これは予想してなかったっていうか」
「……お前の追わないは信用できない」

 五月蝿いな。というおれの一言と同時に、少し力を込めた左肘が拓真のどこかに当たる。「おま……マジふざけんな……」という力のない言葉を残して声が聞こえなくなった辺り、かなり変なところに当たったらしいが、今はそんなこと気にしてられない。
 一瞬、黒い何かの隙間から身体のようなモノが視えたような、そんな気がした。
 ……この似たような状況。靄の程度は違えど、おれは最近見たことがある。
 あの時は確か、灰色を纏ったこれまた視たことのないモノだった。果たしてこれが同一の存在なのか、何が正しくて何が間違っているのか。それを見極めるにはまだ何かが足りない。そうであるはずなのに、言い様のない既視感に溺れてしまう。

 ――逝邪。

 どういうわけか、その言葉が何故かおれの頭をよぎった。
 どこかの誰かが言っていたけど、その単語を説明するのに必要な文字列は確かこうだ。

『幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。おれみたいなのでは手に負えないような、いわゆる怨霊・悪霊という存在を、無条件でとある場所に送り出すためだけに存在していて、それ以外の行動は禁止されているモノのこと』

 誰かが確か、そんなことを言っていた。
 今日の放課後までは知らなかった言葉が、頭を駆け巡る。意識せざるを得なくなってしまったのは、完全にどこかの誰かのせいだ。

「あれ、また会いましたね」

 ……後ろから、聞きたくない声が走る。
 この状況には到底似つかない軽快な声。確認するまでもなく、振り向けばそこには橋下君の姿があった。
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