10話:想い思うは他人事

「……なんだ、ここ」

 俺がこの場所に来た時に発した第一声は、特に面白みもない言葉だった。
 一面の白。そうであるのに、なにかこの世のものではない黒い何かが這っているように感じたのは、恐らく気のせいではなかったのだろう。背筋が凍るとはよく言ったもので、背中の辺りから徐々に焦りにも似た恐怖のようなものがせり上がってきたのを感じた。
 ここに居てはいけない。俺の中の直感的な何かがそう警告をしているのがよく分かる。しかし、辺りを見回してみても何も存在しないこの空間の中で何をすることも叶わない。視えない何かの気配が背中を刺す。だが振り返ってもそこには何もいないのだ。確実に焦っているのが自分でもよく分かる。それくらいに、いつもより鼓動が酷く騒がしい。
 これはまずい。直感的なそれとは別に、一瞬にして鳥肌が立った。
 体中に見えない何かが這いつくばってくるような見えない気配。
 普段だったら到底あり得ないであろう、心臓をそのまま掴まれそうになるこの拭いようのないこの感覚。
 俺という存在が『死ぬ』という前触れのようで、途端に嘔気に晒される。その時だった。

『――全く、集るなんて無様だな』

 誰かの冷ややかな声が後ろからしたと思ったと同時に、何かに腕を掴まれた。俺以外に誰もいなかったはずの空間に突然現れたそのひとりの男の手が、俺にようやく感覚を取り戻させた。
 万年筆のようなモノを手にしたその男のが現れた途端今まで取り巻いていた空気が一変、一瞬で何かが消えていくような感覚が走った。さっきまでの嘔気すらも無くなってしまったほどだ。

『ああ、良かった。間に合わなかったらどうしようかとヒヤヒヤしたよ』

 帽子を被り直しながらそう口にした男は、自身のことを『支配人』と呼んだ。
 そいつに連れられて訪れた、『time out』という場所。支配人という人物曰く、ここはとある条件下によって訪れた人間の魂が、『魂の浄化』をする目的で作られた場所であるらしい。どうやら本来俺はその条件外らしく、俺がこの場所に来たことが異常事態であるということから、記憶の選定が行われなかったんだとかなんとか。なんか色々言ってたけど、正直余り覚えていない。あの心臓をそのまま掴まれたかのような感覚が忘れることが出来ず、上の空だったのだ。

「ここに来てしまったという事態は、起きてしまったことだからこの際置いておこう」

 飄々とした支配人の目は、俺をしっかりと捉えている。

「キミ、向こうに戻る気はあるかい?」
「……向こう?」
「簡単にいうと、キミがさっきまで居た世界さ」

 言っている意味が、よく分からなかった。

「キミは別に、ここに居る必要のないニンゲンだ。だからというわけではないが、戻ろうと思えばいつでも戻れるんだよ。但し、逆に言うなら戻らないという選択も可能でね」

 ここに来る前のことは、かなり鮮明に覚えている。
 支配人は、俺がまだ生きていると言った。しかし、この異様な空間の中で本当に俺が生きているのだろうか? そんな疑問が拭えない。だってあの時、ここに来る前の出来事で俺はどうなった?
 それを思い出すだけでこんなにも息が詰まるというのに、この人は、俺がまだ死んでいないと言うのだろうか?

「……別に、それに轢かれたからといって必ず死ぬという訳ではないのだろう?」

 どうやら、俺の考えていることは支配人には全て露見しているようだった。それには確かに驚いたし、ある意味では不快だった。しかし、この場所においてそれは本当に些細なことであるということを、これから嫌になるほど痛感することになる。

「さっきも言ったが、ここはある意味では魂の停留所だ。だが、言ってしまえば今のキミには関係のない場所だし、ワタシとしてはこのままキミは向こうに戻るという選択をするのが本来あるべき姿だと思っている。でもね、ワタシはここに来た人物の意思というものを出来るだけ尊重したい。どうやら、ただの事故ではないようだからね」

 ただの事故ではないというのは、雅間というもう消えた存在が起こしたことだからということなのだろうか? というか、俺はここに来て数分しか経っていないはずなのに、なんでこいつは俺が事故にあったことを知っているんだ? 俺はまだ、この場所に来てまだ数回しか口を開いていないというのに。

「……どうする?」

 現実ではない、何処か夢にも通ずるところがある空間。本来ならば、こんなところすぐにでも出ていくのが先決なのだろう。そんなことは分かっている。分かってはいる。しかし、その問いに俺はどうしてかすぐに答えることが出来なかった。

「まあ、どちらにしても猶予は一週間だ。それまでに答えを聞かせてくれ」

 ああそれと……。言い忘れていた、と続きそうな言葉を経て、支配人は更に言葉を続けた。
 俺よりも前にこの場所に来ている人物がいるという話だった。

「……あいつ、本当にここにいるのか?」

 そいつの名前は『橋下 香』という、俺のよく知っている人物だった。

「居るよ。見に行くかい?」

 そう問われ、俺は思わず言葉を噤んだ。
 決してここに来る前に喧嘩したとかそういう訳でもないし、特別な理由があるわけでもない。恐らくそれは橋下も同じなのだろう。意味もなくばつが悪かったのだ。

「まぁ別に今すぐじゃなくても構わないけどね。彼はキミよりも早くここにきているから、そこまでの時間はないよ。それだけ念頭に入れておくといい」
「……なんで橋下がここにいるんだ?」

 俺がここに来た理由もさることながら、橋下がいるというのもよく分からない。というより、正直理解が及ばなかった。

「気になるなら、会って聞いてみたらいいんじゃないかな?」

 それだけ言うと、次は案内人が俺の相手をし始めた。どうやら、こいつは俺を部屋まで案内する役目を担っているらしい。案内された場所は、急遽用意されたらしい『132号室』。どうやら、そこが俺の部屋のようだった。
 道中の廊下には、当たり前の様に掃除士という人物が死んだように寝転がっていた。「急だったから、疲れてるんですよ」とか最もらしいことを案内人は言っていたけど、掃除ってあんなになるまでしないといけないようなことだっただろうか?
 転がっている掃除士はそのまま、案内人が部屋の扉を開ける。視界に入った部屋を見て、俺は思わず時間という概念を忘れた。

「黄色……?」
「梔子色(くちなしいろ)ですよ」
「クチナシ……」

 なにかがおかしい。そう思ったのは、それが俺の目に入ってすぐのことだった。
 一面が黄色の部屋。ただそれだけのことなのにかなり居心地が悪い。それは決して白い場所から急にこの色が目に入ったからとか、そういうことではない。
 まるで計ったかのような名前の色に囲まれたこの場所。

「この色、嫌いですか?」

 案内人の問いに答えるのは、とても簡単だった。

「……大っ嫌いだ」

 その言葉は、俺の口からいとも簡単に零れていった。

「……なら書庫室にでも行きます? 今ならまあ……橋下さんも来ないでしょうし。それに眠いでしょう?」
「……そんなこと言われたら眠くなるだろ」
「それは自覚がなかっただけだと思うんですけどねぇ」

 ただの客の我儘に、どうして案内人がここまで気を遣ってきたのかは今でもよく分からない。でも、その言葉を聞いてしまってからは確かにとても眠気に襲われていた。眠くて、眠りについたらそのまま一週間が終わってしまいそうで、それにのまれたらきっと本当に全てが終わってしまうのだろうと思ってしまうほどだった。男の言う通りにするのは少々不服だったが、ここに居るよりは断然ましだろう。そう判断した。

 案内をされてから暫く。どれくらいの時間が経ったのかは知らないが、すっかり寝入ってしまった俺を無理矢理起こしに来たのは、またしても案内人だった。

「神崎さーん。起きてます?」
「……今度はなんだ」
「相谷 光希って人、知ってますよね?」

 また聞きたくない名前が、耳を掠めた。

「……なんでそんなこと聞くんだよ?」
「いや、そのうち来ると思うので一応聞いておこうかなと思って」

 なんでこんなにも、立て続けにここに知り合いが来るんだ? 偶然? 本当にそうか? ある一定の条件下じゃないと来ることが出来ないらしいこの空間に知り合いが三人も集まるだなんて、それを偶然だと本当に言えるのだろうか?

「知り合いなんですよね?」

 次にこいつの口から出てくる言葉なんて、どうせ決まっている。

「会いますか?」
「……んなこと聞くなよ」
「もー、神崎さん。そんなんだとすぐ一週間経っちゃいますよ?」

 だったらなんだ?

「戻りたくないんですか?」

 戻るとか戻らないとか、そういうのは今どうでもいい。少なからず、あの二人がここに来ないといけないような状況が俺の知らないところであった。そしてそれに気付けなかった。
 その事実は、俺をここに留まらせるのには十分過ぎる。

「あー……どーりで……」

 なにかひとりで勝手に納得している案内人は、続けて言葉を並べた。

「まあ、どっちにしろ相谷さんは連れてきますから。別に部屋に逃げてもいいですけど、それをしないなら覚悟はしておいてくださいね?」

 それだけ言って、案内人は俺の前から姿を消していく。
 どうして相谷にまで会いたくなかったのか? その答えは至って簡単だ。
 もし会ってしまったら、俺はきっと自分も残るというとかいう行動を本当に取ってしまいそうだった。現に会ってすらいないにも関わらず、確実にその行動を取ってしまいかねないような思考だった。
 でも、この考えは矛盾していることも知っている。戻るべきであるということも分かっている。
 最初ここに来た時、もし本当に雅間が俺を殺そうとしてたのだとしたら戻らない方がいいんじゃないかと思った。それが最善だとするならそうしていた。しかし、向こうにはまだ宇栄原がいるはずだ。だとするなら、俺が帰らないという決断をしてしまってはあいつはどうなるだろう? 自分のことよりも幽霊のことを気にするようなやつだ。恐らく自分のことばかり責め立てるだろう。それなら戻るという決断のほうが正しいだろうし、そもそもここに来てしまったのが異例なのだから留まるという選択肢があるのもおかしな話だ。
 しかし、橋下がここに居るということを知り、おまけに相谷までここに来るらしいということを知ってしまった。
 ここに留まったからといってそれで何かが解決するなんてことは思っていない。そこまで自分に影響力があるとも思っていない。帰るべきだというのは十分分かっている。でもだからこそ、決められなかった。こんなところでなんて会いたくなんてなかったふたりの知り合い。それが、俺の考えを少しだけ歪ませた。

 ――あくまでもこれは、もしもの話だ。
 出来ることなら、今この時間もいつものように宇栄原がいて、よく喋る橋下がいて、若干面倒くさそうにしている相谷がいる。それが理想だ。
 その未来が俺を待っていたのなら、俺はこの場所でこんなに悩むことは無かったのかも知れない。
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