10話:想い思うは他人事

「神崎さん神崎さん」
「……なんだよ」

 うるさい案内人という人物が、しつこく俺に声を投げた。

「神崎さんって中々ここから出ていかないですけど、本当にそれでいいんですか?」
「……どういう意味だ?」
「どういう意味もなにも、そのまんまですよ」

 向かいのソファに座って、肘掛けを使って頬杖をついているこの案内人という男が言いたいのは、つまり「帰るチャンスがあるのに、どうしてまだここに居座っているのか」ということなのだろう。その問いに俺は答えることをしなかった。代わりに相谷に飛び火した点に関しては、少々申し訳なさが募る。

「相谷さんはどう思います?」
「え……ぼ、僕?」

 案内人の左手に座っていた相谷は、突然名指しされたからかとても焦っていた。
 俺とばっちり目を合わせたかと思うと、考えが纏まらないといった様子で、目を泳がせていく。目を逸らされるのはわりといつものことだけれど、ここまで挙動不審なところは見たことがない。正直調子が狂う。

「えっと……帰れるなら、帰った方がいいと思いますけど……」
「ほらあー。知り合いがそう言ってるんですから、聞いておいた方がいいと思いますけどねぇ」

 完全に案内人に言わされているような気がしなくもないが、それはこの際置いておく。俺だって別に、こんなところに居たくて居るわけじゃない。
 ただ、気になることがあるだけだ。

「……あ、あの」

 相谷の声が、俺に向けられる。実に久し振りに感じたが、そもそもこうして喋ったことがあったかどうかすらも怪しいくらいだ。

「先輩は、どうしてここにいるんですか……?」
「……そういうお前こそ、どうしてこんなところにいるんだよ」
「ぼ、僕は……だって……」

 段々と、相谷の声が小さくなっていく。言い澱むそれに続く言葉を探しているからなのか、もしかしたら聞いてはいけないことだったかもしれない。少しばかりの沈黙に耐えられなくなったのか、相谷が再び口を開いた。

「ここに来たとき、自分の名前も覚えてなくて……」

 その言葉に、俺は思わず目を見開いた。そう言って俯いたっきり相谷と目があうことはなかった。一番最初、ここに来た時支配人とかいう人物に名前の確認されたのだが、その時の説明で「ここに来るとき、稀に記憶が無くなる場合がある」とかなんとか言われたような気がするが、つまりはそういうことなのだろうか? 確かにそう言われれば、相谷の言動にもある程度納得がいく。
 ということは、今どうして自分がここに居るのかもよく分かっていないということなのだろうが、そうなってしまうと、俺がここにいる意味はあるのかという部分に疑問をせざるを得ない。ある程度の時間を一緒の空間で過ごしていたにも関わらず、相谷がここに来なければならない理由というものを俺には見つけることが出来ないのだ。
 それはつまり、自分のことで精一杯になった挙句、周りの変化に気付くことが出来なかったということに等しいだろう。

「……俺は、宇栄原とか橋下みたいに、ああいう違和感になにも気付けない人間だ」

 その罪悪感が、俺の口を開かせた。
 どうして俺がここにいるのかは、ただの誤送だと支配人とかいう人物が言っていた。簡単に言えば俺はまだ生きているし、別に致命的な傷なんて無かった訳で、もっと言うならいつだって帰れる状態だ。
 だけど、おれ以外の二人に関してはそうじゃないのだろう。分かっている。何を聞かされなくても分かっているのだ。

「……だから、お前がここにいる理由も、橋下がここにいる理由も教えてやることが出来ない」

 綺麗ごとか、はたまた自分の思い上がりか。自分がこいつらと親しかったと言える自信はない。

「どうしたって、分からないんだよな……」

 しかし、どうせならこいつらがここでどういう選択をするのか、どういう思いでここを去っていくのか。
 せめてそれを、この目で確かめてから帰りたい。
 ただ、それだけだった。

「あーなんだ、そういうことか……」

 案内人が、何かを納得したかのように独り言を溢す。その瞳は、俺を見据えていた。まるで俺の考えが纏まるのを待っていたかのようなタイミングだった。

「ねえ神崎さん。神崎さんは戻れる人だ。だから、ここで出会った知り合いや、あなたの記憶の中で出会った誰かという存在に惑わされては駄目です。あなたが、その誰かの為にここにいる必要なんてどこにもない」

 どこか、俺のことを憐れんでいるようにも見えるその表情と、それらに付随する言葉の数々。

「……同情は行き過ぎると自分を滅ぼすってこと、もう十分知ってるでしょう?」

 それらは、俺がここに留まる全ての理由だった。

「もう一度聞きますけど、神崎さんはどうしたいんですか?」

 しかし、しかしだ。

「……帰らないと、宇栄原に何言われるか分かったもんじゃない」

 帰らないといけないということも、ここに居てはいけないということも分かっている。

「やらないといけないことが、向こうでまだ残ってるんだよな……」

 まだ帰りたくないなんていうのは、ただの俺の我が儘だ。

「……羨ましいですね」
「……は?」
「ああいや……。そうやって、自分を想ってくれている人のことを考えて、悩んで。そういうの、私はもう出来ないですから。だから、羨ましいというより……」

 案内人の言葉が一瞬止まる。それと同時に視線を逸らすその様子は、なにか過去にあったことを思い出しているかのようなそれに見えた。

「……ま、それはどうでもいいんですけど。じゃあ、取り合えず行きますか」

 何かを振り解くかのように、「よいしょお」なんて良いながら、案内人は面倒くさそうに立ち上がる。

「行くって、何処に……?」
「何処ってそりゃ、神崎さんの部屋に決まってるじゃないですかぁ」

 その言葉に、俺は眉をひそめた。

「……あの部屋に行くのか?」
「そんな露骨に嫌な顔しないでくださいよ。確かに、あれは偽りの色ではありますけど。それをどうにかする為にいるのが、我々ですよ?」

 案内人は、そうして相谷に視線を送る。

「相谷さんも行きますか?」
「え……」

 当然のように、相谷は驚いていた。

「い、いいんですか?」
「いいんじゃないですかね? 神崎さんがいいって言えばですけど」

 案内人がそうやって言うと、ふたりは俺に視線を向ける。ああもう、こんな風に今の相谷に見られてしまっては、断るなんて出来ないじゃないか。

「……好きにしてくれ」

 それだけ言って、俺はふたりを置いて席から離れようとした。だけど、それは案内人によってせき止められてしまう。

「あ、ちょっと待って下さい。あの人がいるか見てくるので」

 俺を制止した案内人は、そそくさと書庫室の扉を開ける。

「掃除士さー……っていないし。あの人仕事早すぎ」

 案内人の声が、どこからともなく響く。来た時から思っていたけど、こいつは本当によく喋るし、何より声がでかい。まあ、こういうことはそういう人間のほうが合っているのかも知れないと思えば、自然と納得は出来た。
 あの人、またどこか行ったみたいなので多分大丈夫ですね。と、一体何が大丈夫なのかよく分からないが案内人は「早く早く」と急き立てるように手招きをする。それを合図に、俺らは書庫室を後にした。
 あの人とは恐らく掃除士のことなのだろうが、そういえば廊下で死んでいるかのように寝ていたあの人物は、普段何をしているんだろうか。いや多分掃除なんだろうけど、そこら辺で寝てる姿しか見たことがないから、その肩書きが本当なのかと疑ってしまう。別にそれを知ったからといってどうもしないけど。

「か、神崎さん」

 後ろをついてくる相谷が、俺のことを呼ぶ。

「……なに」
「あの……神崎さんの部屋、何色なんですか?」

 ただの興味本位なのだろうが、これまでの相谷に比べれば驚くほどに純粋な顔で聞いてくるそれは、大げさに言うのであればまるで小さな子供のようだった。普段の相谷だったら、こんなことを聞いてくるだなんてことがあっただろうか? そう考えると、少し気持ちに余裕が無くなってしまう。それをどうにか抑えるように、俺は無理矢理言葉を吐いた。

「……お前には教えない」
「えっ」

 それだけ答えると、相谷の言葉はそれで止まってしまう。後ろを向いて見えたその様子は、驚いたというよりは完全に落ち込んでいるようだった。

「い、行けば分かるだろ……」
「だ、だって……」
「別に言えばいいじゃないですかぁ。相谷さん、この人の部屋の色って――」
「止めろ」
「ちょっ……蹴らないで神崎さん。分かりましたから」

 このお喋り案内人が。とは口に出さないけど、俺の足がそれを訴えるようにして動いていた。こういう人間がこの類の仕事に合っているとかなんとか思ったのは撤回だ。

「あーここですよ相谷さん。行き過ぎです」

 案内人が、行き過ぎた相谷の腕を掴む。相谷の部屋がどこにあるのかは知らないけど、その様子からしてこいつの部屋番号は俺よりも早いらしい。

「……ここ?」
「わりと適当なんですよ、部屋の割り振り」

 132号室と書かれたドアを、案内人が開ける。入ることに少し躊躇しながらも、ここまで来てしまったのだから仕方がない。覗き込むようにしながら、俺はその部屋に足を踏み入れた。
 そして、そこにあった色に俺は目を奪われた。

「……想思鼠(そうしねず)、いい色でしょう?」

 それは俺が来た時の色とは違う。本当の色だと、そう思った。

「……ほんとだな」

 それはきっと、ここに来て初めて口にした心からの言葉だった。

「……なあ」

 だからという訳でもないけど、どうしてか少しだけ我が儘を口にしたくなってしまった。

「なんですか?」

 どうやったって、相谷らとは一緒には戻れない。それは、もうどうすることも出来ない事実としてそこに存在してしまっている。でも、どうしてかこの場所に俺が送られてしまって、その先にお前らがいた。出会ってしまったのは紛れもない事実だ。
 この場所での俺は、ある意味では異端だろう。だったら別に、これくらい言っても構わないはずだ。

「俺って、ここに来てまだ一週間経ってないよな?」
「まあ一応、そうですね」
「……客の我が儘は、何処まで聞いてもらえる?」
「んー、内容次第ですかねぇ」

「でもまあ――」と、付け加えられた案内人の言葉をが耳に入る。そこに提示された言葉を聞いて、俺は「そうか……」と、端的に言葉だけを述べた。
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