09話:クチナシが馨る

 あれから数日後。とても長く感じたなんの変哲もない平日が終わり、ついに土曜日が来てしまった。
 とある駅の外。気持ち早く着いてしまったせいで、無駄に視線をうろうろさせてしまう。つまりは落ち着きがなかった。昨日の放課後、「っていうか、それって普通にデートですよね?」とかなんとか言っていた橋下のせいで、なんか余計なことまで考えてしまう。あいつ、月曜になったら絶対倒す。
 自転車で行けるほどの距離。それをわざわざ歩いて来てしまったのは、どっかの誰かのせいでもある。「いや、電車で行った方が良くない? 自転車あったら話すのに邪魔でしょ」とかなんとか言っていた宇栄原とかいうやつ。どうしようか色々と考えた結果、あいつの言う通りになってしまった。こいつも後で倒す。相谷は……別にどうでもいいとか思ってそうだから気にしないでおく。それよりも……。

「あ……神崎さん……っ!」

 待ち人の声が何処からか鮮明に聞こえてきたことにより、考えていたことが全て払拭されてしまった。左を向けくと、そいつが近付いてくるのがよく分かった。いつもと違う服に身を包んだ雅間を前に、さながら目を奪われた。今まで制服姿しか知らなかったのだから、当然といえば当然だろう。

「すみません、待ちましたか?」
「いや、今来た……」

 じっと、雅間から目が離せなくなっている自分に気付くのは、次に発せられた雅間の言葉を聞いてすぐだった。

「な、なにか……?」

 そうして、俺がはじめて雅間を凝視していることに気付く。こうなってしまっては、いつもと違う雅間の姿を今度はちゃんと見ることが出来なくなってしまう。

「別に……」

 何か言葉を返さなければいけないと覚えば思うほど適当な返事をしてしまう。長年こうなのだからもう直すのは到底無理だろう。

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ! そっちじゃないです!」

 雅間の声は、今の俺に届いていない。我に帰るのは、もう少し後のことだった。どうやらこいつの家はここから十分程度らしく、雅間の言う通りに道なりに進んでいく。その間、特に何かを話すということはしなかった。手を伸ばしても届くかどうか。それくらい微妙に開いているふたりの距離が、それを物語っていた。

「あ、あのっ」

 ようやくといったところか、最初に声を出したのは雅間だった。

「今日は、なんか、あの……すみません。気付いたらこんなことに……」
「な、なんで謝るんだよ……」
「いやだって、よく考えたら……」

 よく考えたら、の続きが一向に返ってこない。そこから先の言葉は何なのかは知らないが、まあ確かに、展開的に言えばどうしてこうなったのかよく分からないところはある。というか、このご時世お互いの連絡先を知らないにも関わらず、異性の家に行くなんてことあるだろうか?

「……嫌じゃなかったら来ないだろ」
「そ……そうですよねっ」

 世の中は、おかしなことだらけで溢れている。

「あ、ここですよ」

 そうしてたどり着いた、雅間の家。一軒家の、それなりに大きな家がそこにはあった。

「ちょ、ちょっと待っててくださいね」

 ひとり急ぎめに家に入っていく雅間のうしろ姿を、そのまま見送る。ほんの少しした後、なにか大きな音が家の中から聞こえてきたような気がした。余り気にしてはいけないのだろうが、急に何も聞こえなくなったせいで余計気になってしまう。かと思うと、雅間が徐に玄関を開けて戻ってきた。

「は、入ります……よね?」

 恐る恐る聞いてくるその様子に、俺は肯定も否定も出来なかった。

「ど、どうぞっ」

 結果、促されるまま家の中へと足を運ぶことになった。もうこの際、さっきのは何も聞かなかったことにしようと思う。左手にあるリビングへと通され、流れるままソファに座った。テーブルには、既にカップに入った紅茶らしきものとクッキーが置かれてあった。

「た、食べますか?」

 一応、といったていで聞いてはくるけど、なんていうか、そんな目で見られてしまっては食べるしかほかない。適当に目に付いたものをひとつ手に取り、口に運ぶ。お世辞などではなく普通に美味かったのだが、こういうの、ちゃんと素直に言える人間だったらよかったのかも知れない。左手は、既に独りでに次のクッキーを求めていた。
 ふと、視線は自然と窓から見える庭へと向かう。ここから見ても良くわかるくらいによく色が溢れていた。特に、今の時期によく映える紫色が目に入る。

「……あれ、アヤメだろ?」
「え? あ……よ、よく分かりますね」
「まあ……」

 これだと、本当にただ花が好きな男がクチナシを見に来ただけになってしまう。まあ、あながち間違いではないのだが。庭、行ってもいいか? という今日初めてレベルの俺の主張に、一瞬だけ驚いたような様子を見せる雅間だったけど、「は、はいっ!」と元気な返事が返ってきた。バタバタと音を立てて一足早く玄関へと向かうそいつを見て、思わず急いで紅茶を口にした。
 玄関で靴に履き替えて、庭へと向かう。微かに香る花の匂いのせいで、俺を誘っているのではないかというような錯覚に陥った。

「大体は母の趣味なんですけど……あのっ、この辺りは私が好きにやってるっていうか……」

 雅間が「この辺り」とジェスチャーで主張している箇所には、忘れかけていた今日の目当てであるクチナシがあった。青々とした葉っぱの中にある、まだ花が咲く前のそれが幾つも存在しているのがよく分かる。
 庭をちゃんと見渡すと、花の色味とか、いつどのタイミングで花が咲くのかまでちゃんと計算されているように見えた。……庭を見ただけで分かってしまうというのは、さながら少し気色が悪い。

「……花、好きなんだな」
「す、好きっていうか……まあ、好き……なんですかね?」

 どうしてそこで疑問形になるのかがよく分からなかったが、ここまで綺麗に整備して、かつ色使いだって初心者のそれとは違うのが分かる。嫌いというにはほど遠いだろう。こういうの、俺はずっと見ていたくなるんだけど、多分希少な部類に入るのだろうか。そのせいか、さっきから雅間の視線が明らかに俺を刺していた。

「……なに」
「えっ! いや、は、花が綺麗に……咲いてるなあって!」
「あ、そう……」

 明らかに声が上ずっている。それが一体何を意味するのか、俺には分からなかった。いや、分かってしまいたくなかったのかも知れない。

「……その、クチナシって、あと一か月もしないくらいで咲くじゃないですか。毎朝咲いてるかなって確認して、学校が終わって家に帰ったらまた確認して……。あの、周りからしたらちょっと過敏過ぎなのかもしれないんですけど、なんていうか……。そういうの、私はとても楽しいんです。あ、いや……別にだからどうってわけじゃないんですけど」

 前から思っていたけど、こういう自分の好きなことの話をする時のこいつってよく喋る。そして、決まって喋り過ぎたと勝手に反省するのだ。そういうの、別に聞いてるのは嫌いじゃないからいいけど。

「……過敏になってるくらいが丁度いいと思うけどな。こういうのは」
「そ、そうですかね……?」

 花が咲く時期とか色味がどうとか思っている俺も、完全にあいつの花屋で培われてしまった知識が暴走しているから人のことは言えないだろうが、その知識をひけらかすまでに至らないというのが、少々不思議だ。

「あの……その、また図書館に行ったら、神崎さんに会えたりしますかね……?」
「……別に、図書館じゃなくても会えはするだろ」
「そ、そうですね……そうですよねっ」

 なにか、自分の中で納得させるかのように同じ言葉を口にする。その様子を見たからなのか、それとも最初からそんなことを思っていたのかは分からない。俺は、雅間のことを見ることをせず口を動かしていた。

「……今度」
「え……?」
「クチナシの花が咲いた時、また教えてくれ……」

 沈黙の間に流れる風が、どうしてか心地よかった。

「あ……はいっ」

 どうしてかいつにも増して嬉しそうな雅間の様子。それが、今でも酷く脳裏に焼き付いている。でも、それは当たり前なのかも知れない。だってこれ以降俺は、雅間の家に行くことも話すこともなかったのだから。

 ――とあるニュースが僅か三十秒ほどテレビに流れていったのは、この時からはおおよそ4日ほど経った朝の七時半頃のことだった。
 どこかの図書館付近で、大きな交通事故があったらしい。トラックが横転した様子が映され、トラックを運転していた人物の名前と死亡したという情報。それに巻き込まれたひとりの女子高生の名前が映し出された。名前は確か、なんだっただろう? 普段なら思い出そうと思うことなんてないのだが、この時はどうしても引っかかって仕方がなかった。いや、この際だから正確に俺の意思を確立させておかなければならない。

 雅間 梨絵という某人のことを、思い出したくなんてことはなかったのだ。

 これが、俺と雅間が出会ってから約一年間の間に起きた出来事だ。特別何か大きな出来事があったという訳でもなんでもない。図書館で出会い、自然と一緒に帰る時間が増え、自然と図書館でも隣同士で座るようになった。なんてことをして、そのまま時が過ぎていった。その道中に雅間の家に行くことになって、そしてあの事故が起きた。ただそれだけのことだ。それこそ、単に知り合いだったという解釈の方がしっくり来るかも知れない。
 俺が雅間の事故を知ったのが、学校に行く前にどこかのテレビ番組で報じられたニュースだった。聞き覚えのある名前に知っている場所。それを見た時の俺は、きっと時間が止まったかのようにテレビを見つめていたと思う。あくまでも憶測に過ぎないが。
 当然雅間の両親との面識はなかったし、かつ連絡先なんてものは交換していなかったから、特別葬儀に参加するとかそういうことはしなかったのをよく覚えている。宇栄原にはそのことに関してわりと問い詰められた。本当に行かなくていいのかと、何度も言われた。でも、それでも俺は行くことをしなかった。そのせいもあって、その時の俺と宇栄原を取り巻いていた空気は本当に悪かった。よくあの空気のまま関係が終わらなかったなと、その点だけいうなら感心する。まあある意味では腐れ縁だし、ある意味ではお互い馬鹿なんだと思う。
 決してタブーという訳ではなかったけど、雅間の話はそれ以降することがなかった。というよりも、もう存在しないからする必要がなくなったのだ。

 あの場所で、もう一度雅間の姿を見るまでは。
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