第3話:壊れた光

 オレは、迫って来るそれらに対抗することもなく全てを視界から消した。あと数秒後、きっと最悪の事態が起きるのだろうという諦めのような確信。それは、いとも簡単に崩れ落ちた。
 横から勢いよく流れてくる風が、オレと男の間に割って入ってくる。恐る恐る目を開けたその先、そこにいたのは、見えない風なんかではなく、ひとりの男の人だった。
 ナイフを持っている男の腕は、現れたもう一人の人物にしっかりと掴まれる。それに気を取られている隙をついて、足を勢いよく振り上げた。膝が思いっきり腹部に食い込まれたとともに、壁に叩きつけられる。手にしていたナイフは、無造作に空を舞った。男はズルズルと音を立てて地面へとずり落ちていく。多分、数分もなかったこの出来事は、あっという間に終息を迎えた。息を吐く音が、静かになった路地裏に響く。

「……君、大丈夫?」
「え、あ……うん……」

 オレの方へと振り返ったその人物は、さっきのことなんか何もなかったかのように、柔らかな笑みを溢す。それが、ほんの少しの安息を生み出してはいたものの、それに笑顔で返せるような余裕なんてない。

「いやあ、間に合ってよかったよ。それにしても、市民の人がこんなところにいるなんて思……」
「う、後ろ後ろ!」
「え?」

 ゆっくりと、男が立ち上がるのが見える。

「あー、やっぱり駄目か……」

 「困ったなぁ」と緊張感のない言葉を口にしながら、オレとそいつを交互に目で追い始める。この人が一体どういう存在なのか。それをすぐに理解するのは、今の状況では難しい。だけど、その後の出来事が、一つの確信を生み出すことになる。

「退いてはくれないんだよね?」

 男は問いに答えない。代わりに、風でなびく髪が男の鋭い目を一瞬だけ露見させる。嫌悪に満ちたかのようなその視線は、オレに向けられてはいなかった。よく見ると、男の手の周りには光の粒ようなものが舞っている。それが、さっきまで手にされていたナイフを形成しているということに気付くのに、さほど時間はかからなかった。
 勢いよく、男が地面を蹴る。握られたナイフは、迷うことなく貴族の人へと突っ込んでいった。
 刺される。自分のことではないのに、そう思ってしまう。でも、その感情はこの状況において何の意味も持たなかった。いや、持つはずがなかったのだ。

「ふっ……!」

 誰かの息づく声が、一瞬オレの耳を掠める。それは、さっきまでこの場にいなかった人物の声。長剣のような何かが、男を人刺しするかのように一直線に振りかざされる。が、男の体を貫通することはない。何か薄い膜のようなものが間にあるかのようにも感じた。
 突然の出来事に、何が起きたのかを頭が理解するまでに至らない。

「くそ……無理か」

 ミシミシと、力強く長剣を押し付ける音が聞こえてくるが、ナイフを持った男は抵抗しない。それどころか、男の眼光はより一層力を増していた。
 強い風が周囲を吹き荒れる。
 それは、次第に男を取り巻いていき、風は細く小さくなっていく。風にのまれたのかのように、その場にいたはずの男の姿は何処にもなくなっていた。この異様な光景。市民が顔色一つ変えずに不審者を撃退する、なんてことが出来るのだろうか?しかも、そいつは風に呑まれて消えていった。こんなのあり得ない、なんて言うのは簡単だけど、その現象に心当たりがある。
 オレがここに戻って来るときだって、そうたっだじゃないか。
 それはつまりどういうことか?目の前にいるふたりの人物のうち、ひとりが普通なら見ることのないであろう長剣のようなものを手にしている。オレを助けてくれた人だって、顔色ひとつ変えないどころか、妙に軽々しかった。その事実が、ひとつの結論を生み出した。

「はあ……キミが先走ったお陰で逃げてしまったよ」
「いや、今のはアルセーヌさんのせいでは……」

 このふたりは、貴族なのということだ。
 普通に、何事も無かったかのように話始める二人を、オレはただ単に眺めることしか出来ない。言葉が出ないというのは、まさにこういうことを言うのだろう。それは決して恐怖心などではないが、流れるようにして終わった一連の出来事が、一体何を意味しているのか。それを頭の中でまとめるのに少し時間がかかっていた。
 アルセーヌと呼ばれた貴族の人は、チラリとオレのことを見る。ため息のようにも聞こえたそれが、オレに向けて放たれた。

「……で、そこのキミ。路地裏は危ないってこと、知らないのかな?」

 まずい。標的がオレに向けられたことにより、頭がそう判断する。知らない誰かに襲われたという事実も確かにあるけど、今目の前にいる存在が、これまでの日常を非日常へと加速させていくようだったし、何より、今日一日で色んなことが起こりすぎている。
 この状況で答えを求められてしまっては、なにかを言うしかない。ただ、それを言えるほど頭は冷静ではなかった。

「あ、いやえっと……。道に迷って……」

 決して嘘はついていない。大丈夫、オレは確かに道に適当路地裏に入って迷っていたのだ。そして襲われた。ただそれだけのこと。そう、それだけだ。

「ふうん?まあ、今は面倒だから言及はしないでおくよ」

 貴族の追求は、以外とあっさり終わる。それが逆に不信感を募らせていくような、妙な感覚に苛まれた。でも、こう面倒なことになってしまっては、貴族らがオレを見逃してくれることを願うことくらいしか出来ない。貴族とただの市民、どちらが優位かなんて、考えるまでもないのだから。

「……そこを真っ直ぐ行けば、普通の道に繋がるはずだよ」
「え?」
「だから、迷ったのなら早く行ってくれないかな?生憎、我々は今キミに構っている暇はないんだ」
「う、うん……。えっと、ありがとうございました……」

 色々と疑問は残るけど、とにかくこの場から早く去ることが先決だ。お礼もそこそこに、貴族たちを背にしてその場を後にしようと足を翻した。

「ああ、ちょっと待った」

 やっとこの場から抜け出せると思った矢先、また、ひとりの貴族に呼び止められてしまう。余り気乗りはしないけど、仕方なく貴族のいる方へ体を向けた。

「な、なに?」
「次に出会った時は、話を聞かせてもらうよ?」

 ああやっぱりだ。これは完全に目を付けられた。いや、この際それはもういい。とにかく去ろう。オレは、路地裏にはもう二度と入らないと自分に誓いながら走り出した。

 その場に残された貴族は、ほんの少しの静寂を破り話始める。ひとりの貴族の手に握られていた長剣のようなそれは、次第に光の粒となって消えていった。

「……いいんですか?多分あの人……」
「構わないさ。どうせまた会うことになるだろうし。それよりも見つかったかい?」
「いや、やっぱり何もなかったですね」
「そうか。という事はやっぱり……」

 何かを考える素振りを見せるひとりの貴族は、とても難しい顔をしているように見える。それは、ため息という形で空に現れた。

「はあ……」
「どうかしました?」
「いや……。どうして彼がこんな場所にいたのかと、思っただけさ」

 市民が向かった先をただただ眺める彼の顔は、依然として変わらない。その彼の口からは一言だけ言葉が発せられた。

「本当に、どうしてだろうね……?」
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