05話:訪問者の憂い

 微睡む意識の中、遠くから誰かが俺のことを呼んでいる。そんな気がした。

「……んんー?」

 これは、眠気に負けていつものように机に突っ伏している時の出来事である。
 何かが机にのし掛かるような音が聞こえたかと思ったら、間髪入れずに俺の頭が無造作に叩かれる。俺が起きるその時までパシパシと続くそれに、俺はやむ無く重たい瞼をあげた。

「な、なんだよクロード……。飯はさっき食わなかったっけ……」
「んにゃあ」
「いや痛い……。髪の毛抜ける……」

 やかましいクロードの猫パンチで起こされた俺は、クロードの体を掴むべく上半身を起こす。いつもだったら、大体飯の時間か俺が約束の時間ギリギリまで寝てる時とかに叩かれることが多いのだが、昼飯はもうとっくに終わった時間だし、今日は約束事なんてなかったはずた。……いや多分、なかったと思う。まあ、大体の約束事はレイヴェンとだから別に遅れてもいいのだけれど。

「お前ー……珍しく構ってちゃんか?」

 うにゃうにゃと声をあげたまま俺の手からすり抜けようとする辺り、どうやら構って欲しいというのとは少し違うらしい。
 クロードは一言だけ声をあげると、いとも簡単に俺の元から離れていく。軽やかにクロードが向かったのは、すぐ側にある庭を見渡すことのできる窓だ。カリカリと引っ掻く音が部屋に響く。傷がつくから心底やめて欲しいと思う中、近づくと聞こえてきたのは、外から誰かが何かを言っている声だ。ようやく聞こえてきた誰かの声に、俺はクロードを牽制して窓を覗きこむ。

「んんー……?」

 そこにいたのは、街から帰ってきたばかりらしいやたら大きな声を出しているニシュアだった。俺が覗き込んだのが分かると、尚更身ぶりを大きくしていく。少しだけ錆び付いた窓の鍵を易々と開けると、僅かに風が入り込んでいるのが分かった。

「お兄ちゃん! お兄ちゃんってば!」
「なんだよー、そんな大声で……」

 ニシュアに引き換え、俺はまるで寝起き時の貧相な声しか出てこない。いや、寝てたからそりゃそうなんだけど。まさかクロードは、ニシュアが俺を呼んでいたから起こそうとしていたのだろうか? なんて主人想いの優秀な猫なんだ。

「すぐそこに……っ、血まみれの男のひとが!」

 ……などと思っている場合では、どうやらないらしい。

「な、何でもいいから早くーっ!」
「分かった、分かったから。ちょっと待ってろ!」

 明らかに焦っているニシュアに一度待ったをかけて、俺は早々に窓を閉める。開いた手は、自然とすぐ側にいるクロードの頭に置いていた。

「教えてくれてありがとなぁ」

 このまま飽きるまで撫で回してやりたい気分ではあるものの、生憎そういうわけにもいかない。俺は、窓の鍵を閉めることをせずに足早に部屋を出た。
 血塗れの男がすぐそこに。そう言っていたニシュアの言葉をそう簡単に呑み込みたくはないが、本当にそうだとするならとんでもない事態であることには間違いない。自然と早足になっていたのがその証拠だろう。

「あ、リベリオ様。さっきから――」
「あー! 丁度良かった。何処でもいいから部屋ひとつ用意しといてくれ。一応な!」
「……ニシュア様が大声で叫んでましたけど、それと関係あるんですか?」
「俺ちょっと行ってくるから、後は頼んだわ!」
「ちょ、ちょっと……!」

 何処と無く噛み合っていないゼフィルとの会話を僅か数秒で終わらせ、そのまま止まることなく俺は玄関へと歩を進めた。中々縮まないニシュアとの距離を前に、こういう時家が無駄にデカいと面倒だと改めて思い知らされる。出来れば、もう少し簡素で分かりやすいただの民家だったら幾らかマシだっただろう。

「こっち!」

 窓から見た時は庭のど真ん中にいたニシュアだったが、居ても立っても居られなかったのだろう。いつの間にか正門の近くへと移動していた。妹を先導に、街へと続く木に囲まれた道を進んでいく。いつもの見慣れた景色の中に現れるその男を、俺は今か今かと待ちわびていた。

「……え、そっち?」

 ニシュアが向かったのは、街のある道ではなくどういうわけか花畑がある方だ。街からここにやって来るとするなら、そっちはまず通らないであろう道である。もっと正確に言うのであれば、通ることの出来ない道だと言っていいだろう。それなのにそっちに人がいるというのは、思わず怪訝な顔をせざるを得ない。
 いや、心当たりは確かにある。あるにはあるのだけれど、出来ればそれは考えたくないというのが本音だった。

「あそこ……っ」

 声を漏らしたニシュアの足取りが、ゆっくりと落ちていく。俺は一歩、少し息を切らした妹の前に立った。すると、何かに縋るようにニシュアが俺の裾を掴んだ感覚が走った。
 まるでそれは、道端のゴミのように転がっていたと言って相違はない。少し遠くからでも嫌になるくらいによく目に映った血に塗れているそいつは、微塵も動く素振りを見せることはない。生きているのかというのは、ここからだと把握することは難しい。
 足取りは決して軽くはないが、段々とその人物との距離は縮まっていった。散乱している髪の毛のお陰で顔は余り見えず、隙間から僅かに見える瞼は動く気配は全くない。男との距離は僅か数歩。微かに聞こえてきたのは、風によって擦れる葉の音である。

「うえっ……ぐす……」

 それと、何処かから聞こえてくる声にもならない嗚咽だった。
 当然それは男の声などではない。男の上着に隠れるようにして僅かに見えたのは、とても小さな顔のいわゆる小人だ。本当はもう少し情報があれば完璧だったのだけれど、それよりも前に口が勝手に言葉を出してしまう。

「……妖精、か?」

 ただ一言、その単語だけで十分過ぎる存在がそこにはいた。

「ふえ……?」

 そう俺が口にしてすぐ、それはやっと俺らのことに気付いたようで、声と同時に顔をあげる。その時はじめて見えた綺麗な羽根に、ようやくその存在が妖精であるという確信を持った。はじめて出会ったその存在に、当然ながら俺の瞳はまじまじとそれを捉えていた。

「に、にんげん増えたあぁ……!」

 大粒の涙を浮かべた妖精と思わしき彼が、いかにも慌てた様子でそう口にする。
 瞳から流れたそれが合図であるかのようにして巻き起こったのは、大きな風だ。それはさながら、大きな竜巻が起こる時のようにまわりを取り巻く円を描いたモノだった。

「わ、わわっ……!」
「やば……」

 ニシュアの驚いた声に、俺は咄嗟にニシュアの肩を寄せた。

「ちょ、ちょっと待てタンマ! 何もしないって!」
「うえええん……っ!」

 見知らぬ人間の声なんて、今の妖精には届かない。相当動揺しているのか、手にしていた小さな棒のようなモノをブンブンと振るたびに風が強くなっていくのを感じた。
 このままだと収拾がつかなくなってしまうどころかこっちの分が悪すぎてかなりマズイ。せめてそこに転がっている男の素性だけでも知りたいのだが、だからといってこれ以上容易に近づくことも出来ない。何か、なにか解決策は――。

「落ち着けって……」

 その時、妙に沈んだトーンの声が辺りを蔓延った。声の主は、勿論俺でもニシュアでもそこにいる妖精でもない。

「……まだ、死んでない」

 地面に転がっている男が発した声に、恐らくは誰もが息をのんだ。

「うえっ……エリオット……」

 僅かに動いた左手が、妖精の頬を撫でる。風が穏やかになったのは一体いつのことだったか、俺は思い出すことが出来なかった。いや、この際そんなことはどうだってよかった。

(エリオット……?)

 妖精が口にしたその名前を、思わず心の中で反復してしまう。
 やっと他の人間がいることに気づいたのか、妖精からエリオットと呼ばれた人物が顔を動かした。邪魔をしていた髪がようやくはだけて見えた顔には、朱くこびり付いたそれがよく映えていた。恐らくは夕に染まり始めていたからそう感じたのだろう。そいつと目があったのは、ほんの数秒のことだった。

「あんた、向こうの道の先に住んでるやつか……?」
「え? まあ、そうだけど……」

 喋る気力だけはあったのか、それとも無理矢理だったのかは分からない。そうか、と、それだけ言い終えると、エリオットと呼ばれた男は再び瞼を綴じた。残された妖精は、止まりかけていた涙を溢し始める。声にならないその嗚咽が痛々しくて、俺はニシュアを寄せていた右手を離し、一歩だけ歩を進めた。後ろから俺のことを呼ぶ声が聞こえたが、左手で牽制する以上の余計なことはしない。
 出来るだけ妖精の目線に合わせるようにして、俺は道の真ん中で行儀悪くしゃがむ。

「なあ、この人……エリオットだっけ? 俺の家に運びたいんだけど許してくれる? ここにずっといたんじゃ、いろんな意味で危ないからさ」
「うえええん……」
「ほらほら、そんなに泣いてたら干からびるぞ? それでもいいなら止めないけど」
「いやだああぁ……」

 泣いてばかりの小さいのに構ってるとキリが無さそうだし、俺はその言葉を都合良く肯定と取って、転がっているそいつを何とかおぶれるようにと身体を動かしていく。その様子を見てなのか、ニシュアがようやく俺に合わせて動き出した。でも、当然のように蔓延してる血に滅茶苦茶焦ってたから、取りあえず妖精と仲良くしておくことを勧めておいた。どうやらそれは正解だったようで、ニシュアが妖精を抱くように手に収めてからはさっきと比べて非常に大人しくなった。鼻を啜る音は相変わらずではあるが。
 おぶっているのが男だから尚更なのか、力の抜けた人間ってどうしてこうも重たいのだろうかと多少の文句が湧いてしまう。まるで体力が男に吸い取られるようで、正直あんまりいい気はしない。それよりも考えなければならないのは、助けるのはいいけどこれからどうするかということだろう。一瞬だけ過った俺の考えが当たっていなければいいと真底思うし、変にややこしいことにならなければ当然一番いい。
 エリオットと呼ばれた人物を背負いながら、俺の思考は休まることはしない。

「ちょっと、先に行ってあいつら呼んどいてくんない? 着いてからのことは、俺だけじゃちょっと無理があるから」
「わ、分かった!」

 先にニシュアと妖精を家に帰らせ、俺は身体に重くのし掛かるそれらを背負い歩いた。やけに静かになった道中聞こえていたのは、いつもより鈍く響く足音に、まるで帰路を導いてくれているかのようになだからに漂う風。そして、僅かに俺の耳にかかる誰かの寝息だけである。

「はぁ……。なんか家遠くない? 俺が代わりに死にそうなんだけど……」

 俺の喧しい独り言は、自分が地面を踏みしめたと同時に消えてなくなっていく。俺が代わりに死ぬほうがよっぽど楽なのかもしれないなどと馬鹿らしいことを思いながら、仕方なく歩みを進めていった。こういう時、本当に目的地にちゃんと近付いているのだろうかと不安になるが、その心配は不要らしかった。

「リベリオ様!」

 聞きなれた声と、その奥に見える自分の家に自然と安堵の息が零れる。どうやら家の門のすぐ傍で待っていたらしく、ニシュアから聞いて外に出てきたところだったようだ。

「私が代わります」
「あ? あー……いや、いいわ。めんどい」
「……部屋二階なんですけど本当に大丈夫ですか?」
「余計なこと言うなよ……」

 今までの人生の中、これほどまでに家までの帰路を恨むなんてことはそうそうなかっただろう。家の門が見えた時、正直このまま倒れてやろうかと思った。変な意地を張った自分を殴りたい気分だが、かと言ってゼフィルに代わってもらうということは出来ればやりたくはない。それよりも問題は、恐らくこの後部屋に着いてからだろう。
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