05話:訪問者の憂い
死ぬ気で家の階段を上り、やっとの思いで用意されていた部屋に着いてからのことに関しては、全くと言っていい程記憶がなかった。手伝う気力なんていうものが残っているはずがなかったというのも確かにあるが、男をベットに寝かせた後、その部屋にあったソファーに飛び込んですぐに俺の意識もどこかに飛んだ。それはさながら、本当にこのまま死んでいてももおかしくないくらいだった。例えば一般的な成人男性だったら、これくらいのことでここまで体力を奪われることもなかっただろうが、生憎俺はその一般的な成人男性というものに当てはまりはしないらしい。不規則な生活を送っているせいだというのは簡単だが、これは流石に体力というか気力がなさ過ぎると後々反省した。
ようやく辺りの空気が落ち着いたらしかったのは、いつの間にか寝入っていた俺の意識が覚めた時には既に訪れていた。だが、俺の手には依然として誰とも知らぬ血が僅かに残って離れない。
一体誰が掛けてくれたのか、体にかかったブランケットと共に身体を起こし辺りを一度見回した。
「ああ、やっとお目覚めですか」
俺の様子を見てすぐにそう口にしたのは、向かいのソファーに座っているゼフィルだった。ニシュアとティシーは晩飯の準備で数十分も前に部屋を出たらしい。いくら連れてきた人物が寝入っているからといって、一家の主を見知らぬ男と同じ部屋に置いてはおけないとかなんとか、ゼフィルがまだ部屋に居たのはそういう類いの理由で、俺が起きるまで気が気じゃなかったと最後に言葉を追加した。
テーブルの上には、ご丁寧なことに水差しとコップが置いてある。ゼフィルが注いでくれた水を口に含みながら、俺はまだ目が覚めないらしいエリオットという人物をちらりと視界にいれた。どうやら呼吸も安定しているようだが、その様子を見るに大層な大けがをしているという訳でもなさそうであるというのが少々気がかりで、俺は取りあえず男の状況を把握してみることにした。
「怪我、どうだった?」
そう問いかけると、ゼフィルは少し言葉を選んでいるような素振りを見せた。どうやら、それを説明するには都合の悪い何かが含まれていたらしい。
「……彼、怪我という怪我はしていませんでした。倒れていたのはどちらかというと衰弱が理由かと」
ゼフィルの声に、コップに漂っている水の波打ちが止まったような気がした。
「彼以外の誰かの血と言って、差し支えないかと思います」
続けざまに羅列されたそれらは、到底聞き入れがたい類いのモノだったといって差支えはないだろう。余り考えたくない事柄ではあるが、流石にこれは考えざるを得ないだろう。つまりは、そこで寝ている男以外に怪我をしていた人物がどこかにいたということなのだろうか? 道中それらしい人物には出会っていないし、もしかしたらまだこの近辺のどこかにいるのかも知れない。いや、それとも既に死体としてどこかに転がっている可能性もある。どちらにしても、背筋に悪寒が走るような状況であるということには変わりない。
「レイヴェンから何か連絡あったりしたか?」
「いえ、特には……」
もし大けがをしたという人物が街に戻っているのであればそれなりに大事になっているだろうし、男と会った場所が場所だからレイヴェンが俺の家に連絡してくるということは避けられない。それがないということは……?
「……そういえば、あの小さいのはどうした? ニシュアが連れてきただろ?」
「ああ、彼ならあそこのかごの中に」
ゼフィルの言ったかごというのは、比較的すぐに見つけることが出来た。男の寝ているすぐそばにある腰くらいまでの高さの小さ目な棚に、この家では余り見覚えのないかごが置いてあったのだ。どうやら、ニシュア様が自室から持ってきてくれたもののようだった。
「ずっと起きてたんですけどね。彼も疲れていたようで……」
よく耳を澄ませると、その妖精のもののような寝息が微かに聞こえてくるのがわかった。しかしなんというか、妖精がまるでただの客人のように家にいるというのは少々不思議な感覚である。ゼフィルは妖精がいることに驚き終わったのか、至って普通の返答ばかりだった。
それにしても、ここの家にいる人間に一応良識があって良かったかもしれない。妖精狩りという単語があるくらいだ。オレが起きたら妖精なんて跡形もなく無くなっていたという可能性も、最悪なくはなかっただろう。
「……ニシュアからこいつらの名前聞いたか?」
「いえ……何も聞いていませんが」
その状況に少しだけ安堵したのもつかの間、俺の頭はすぐに回転をはじめる。
「……エリオット」
というのも、妖精が口にしたこの名前に心当たりがあったのだ。
「そこの小さいのが、そう呼んでたんだよな……」
少々独り言のようになってしまったか、妖精が読んでいた名前を反復する。ひじ掛けに該当するそれを置き、思わず片手で頭を支えた。
「……それがどうされました?」
「いや……」
これは少々まずいかもしれない。考えれば考える程、問われた時の回答は適当になった。
(……下手したら大事件ものだな)
出来ることなら今すぐにでもレイヴェンに連絡を取りたい気分だが、そこまでしてあからさまに慌ててしまうと後の対処に困る。面倒だから余り大事にはしたくないというのは当然あるが、しかしそうなるとこれ以上考えても無駄ということになってしまう。少しくらい何か行動を起こしておきたい気持ちはあるが、今の段階では、どうしたってあそこで寝ている男が目を覚まさない限りは全て無意味でしかないだろう。暫くの間は、こうして無意味な考え事をすることで精神を保つことくらいしか出来ないのだ。
ようやく辺りの空気が落ち着いたらしかったのは、いつの間にか寝入っていた俺の意識が覚めた時には既に訪れていた。だが、俺の手には依然として誰とも知らぬ血が僅かに残って離れない。
一体誰が掛けてくれたのか、体にかかったブランケットと共に身体を起こし辺りを一度見回した。
「ああ、やっとお目覚めですか」
俺の様子を見てすぐにそう口にしたのは、向かいのソファーに座っているゼフィルだった。ニシュアとティシーは晩飯の準備で数十分も前に部屋を出たらしい。いくら連れてきた人物が寝入っているからといって、一家の主を見知らぬ男と同じ部屋に置いてはおけないとかなんとか、ゼフィルがまだ部屋に居たのはそういう類いの理由で、俺が起きるまで気が気じゃなかったと最後に言葉を追加した。
テーブルの上には、ご丁寧なことに水差しとコップが置いてある。ゼフィルが注いでくれた水を口に含みながら、俺はまだ目が覚めないらしいエリオットという人物をちらりと視界にいれた。どうやら呼吸も安定しているようだが、その様子を見るに大層な大けがをしているという訳でもなさそうであるというのが少々気がかりで、俺は取りあえず男の状況を把握してみることにした。
「怪我、どうだった?」
そう問いかけると、ゼフィルは少し言葉を選んでいるような素振りを見せた。どうやら、それを説明するには都合の悪い何かが含まれていたらしい。
「……彼、怪我という怪我はしていませんでした。倒れていたのはどちらかというと衰弱が理由かと」
ゼフィルの声に、コップに漂っている水の波打ちが止まったような気がした。
「彼以外の誰かの血と言って、差し支えないかと思います」
続けざまに羅列されたそれらは、到底聞き入れがたい類いのモノだったといって差支えはないだろう。余り考えたくない事柄ではあるが、流石にこれは考えざるを得ないだろう。つまりは、そこで寝ている男以外に怪我をしていた人物がどこかにいたということなのだろうか? 道中それらしい人物には出会っていないし、もしかしたらまだこの近辺のどこかにいるのかも知れない。いや、それとも既に死体としてどこかに転がっている可能性もある。どちらにしても、背筋に悪寒が走るような状況であるということには変わりない。
「レイヴェンから何か連絡あったりしたか?」
「いえ、特には……」
もし大けがをしたという人物が街に戻っているのであればそれなりに大事になっているだろうし、男と会った場所が場所だからレイヴェンが俺の家に連絡してくるということは避けられない。それがないということは……?
「……そういえば、あの小さいのはどうした? ニシュアが連れてきただろ?」
「ああ、彼ならあそこのかごの中に」
ゼフィルの言ったかごというのは、比較的すぐに見つけることが出来た。男の寝ているすぐそばにある腰くらいまでの高さの小さ目な棚に、この家では余り見覚えのないかごが置いてあったのだ。どうやら、ニシュア様が自室から持ってきてくれたもののようだった。
「ずっと起きてたんですけどね。彼も疲れていたようで……」
よく耳を澄ませると、その妖精のもののような寝息が微かに聞こえてくるのがわかった。しかしなんというか、妖精がまるでただの客人のように家にいるというのは少々不思議な感覚である。ゼフィルは妖精がいることに驚き終わったのか、至って普通の返答ばかりだった。
それにしても、ここの家にいる人間に一応良識があって良かったかもしれない。妖精狩りという単語があるくらいだ。オレが起きたら妖精なんて跡形もなく無くなっていたという可能性も、最悪なくはなかっただろう。
「……ニシュアからこいつらの名前聞いたか?」
「いえ……何も聞いていませんが」
その状況に少しだけ安堵したのもつかの間、俺の頭はすぐに回転をはじめる。
「……エリオット」
というのも、妖精が口にしたこの名前に心当たりがあったのだ。
「そこの小さいのが、そう呼んでたんだよな……」
少々独り言のようになってしまったか、妖精が読んでいた名前を反復する。ひじ掛けに該当するそれを置き、思わず片手で頭を支えた。
「……それがどうされました?」
「いや……」
これは少々まずいかもしれない。考えれば考える程、問われた時の回答は適当になった。
(……下手したら大事件ものだな)
出来ることなら今すぐにでもレイヴェンに連絡を取りたい気分だが、そこまでしてあからさまに慌ててしまうと後の対処に困る。面倒だから余り大事にはしたくないというのは当然あるが、しかしそうなるとこれ以上考えても無駄ということになってしまう。少しくらい何か行動を起こしておきたい気持ちはあるが、今の段階では、どうしたってあそこで寝ている男が目を覚まさない限りは全て無意味でしかないだろう。暫くの間は、こうして無意味な考え事をすることで精神を保つことくらいしか出来ないのだ。