08話:クチナシの戯れ言
春休みが始まるよりも前の話。相谷と出会う前のことだったから、多分そのくらいの時だろう。俺はまた図書館に足を運んだ。少し時間が空いてしまったのには特に意味があるわけではない。そもそも週に二回くれば多い方だったし、行くのもわりと面倒だというのもあった。というよりも、一応高校三年生という節目であるお陰でそこまで暇でもないのだ。
今日は、たまたま目についたという理由だけで手に取ったとある本の入っていた棚の近くにあるテーブル席に座っていた。
結果的に本を読む羽目になってしまったが、今日俺が図書館に来た理由は、別に本を読みに来たわけでも借りに来たわけでもなく、かといって勉強をしに来たわけでもない。いや、本当は宿題でもしようかと思ってわざわざここまで来たんだけど、なんていうか、俺が単に馬鹿だったのだ。
よく考えたらというよりも来る前に気付けよと自分でも思うのだが、今日は宿題なんて面倒なものは存在しなかったのだ。それに気づいたのは、図書館について鞄のチャックを開けた瞬間。それまで本当に気付かなかった。何で気付かなかったのか、俺は俺に問いたいくらいだ。このまま何するでもなく帰ってもよかったが、ここまで来ておいて何もしないというのも馬鹿らしい。結果、本を読むしかなくなってしまったのだ。一応受験生という立場なのだからそれに値する勉強でもすればいいものを、俺はそこまで行動に移さなかった。
今日のことは絶対宇栄原には言わないようにしようと心に刻みつつ、本を読み進んでいく。今読んでいるのは、愛に狂わされた話を多く残している、『フェア・ウェル』という今は亡き海外作家のものだ。
この作家の作品は何度か読んだことがある程度で別に特別好きなわけでは無いが、それなりに有名な人物である。ミステリー小説の比率が多いようだが、その中にかなり狂気に似た感情が蔓延している印象だ。男女間に芽生えた愛ではなく、愛憎をまるでそのまま形にしたかのようで、フィクションであるにも関わらず本当に起きた出来事のように鮮明に書かれていてるのがよく分かる。もしかしてこれら全ては作者自身の身に起きたものなのではないか、なんて思ってしまう内容ばかりだ。
この人の作品を全部知ってる訳では当然ないから、そのうち全部読んでみるのもいいかも知れない。
「あ、あのっ……」
すると、とある誰かの小さな声が耳に入った。俺にわりと近いところで誰かが誰かを呼んでいるようだったが、その呼ばれている誰かは気づいていないのか、返事らしきものは聞こえない。一応、声のする方向へチラリと視線を向けた。それがいけなかった。
視界に入ってきたのはひとりの女性。この前床に本をぶちまけていた、とある女子高生だった。
ばっりちと目が合ってしまったところを見るに、恐らく呼んでいたのは俺のことなのだろう。お互いに名前を知らないから、呼ぶにも呼べなかったのではないだろうか。
何かを言いたげにしつつも、視線はあっちこっちに動いている。その様子は、挙動不審と呼ぶのにピッタリだった。それに対し俺はなにか声をかけるべきだったのかも知れないが、それよりも先に声を上げたのは彼女のほうだった。
「こ、この前は、その……ありがとうございました」
「ああ、いや……」
これは多分本を拾ったことに対して言っているのだろうとは思うが、またその話になるとは思わなくて何とも適当な返答をしてしまった。今時、名前も知らない人物にこうやって改めてお礼を言ってくる人も珍しいし、何より別にそこまでのことを俺はしていないと思うのだが、それは人の価値観というものの違いと言うべきなのだろう。
まあこれ以上話を膨らませるような出来事もないし、また図書館で見かけることはあったとしても、これでもう話をすることもないはずだ。なんて思っていたのだが、どうやらそう思っていたのは俺だけのようだ。
「……そ、その本っ」
「え?」
「その人の本、お好きなんですか……?」
「あ、ああ……まあ……」
思わぬ言葉に、またしても気の抜けた返事をしてしまう。そいつの目が捉えていたのは、俺がさっきまで目を通していた小説だった。決して好きという理由で読んでいた訳ではなかったから、どう答えようかと言葉を濁してしまった。こういう話を振られたということは、相手が少なからず興味のあることなのだから嘘でも相手に同調できれば良かったのかもしれない。だけどそれをしてしまっては、例えばこの作者の話になってしまった場合に困るのは紛れもなく自分だ。
「えっ、あ……いや……な、何でもないですっ!」
俺が答えあぐねていると、「失礼しました……っ」と言いながら、声をかける暇もなく風のように去っていってしまった。それをただ見ていることしかできなかったことにどうしてか若干後悔してしまった理由については、よく分からない。
恐らくはたまたま俺を見かけたから、単にお礼を言いに来ただけなんだとは思う。第一声がそうだったのだからそれに関しては間違ってはいないだろう。しかし、そのお礼を言うという行為に付随するとある感情がきっと相手にはあったのだろうということには、到底気付くことは出来ない。
「……何だったんだ?」
そんな言葉を漏らしてしまう程に、俺は鈍感だったのだ。
今日は、たまたま目についたという理由だけで手に取ったとある本の入っていた棚の近くにあるテーブル席に座っていた。
結果的に本を読む羽目になってしまったが、今日俺が図書館に来た理由は、別に本を読みに来たわけでも借りに来たわけでもなく、かといって勉強をしに来たわけでもない。いや、本当は宿題でもしようかと思ってわざわざここまで来たんだけど、なんていうか、俺が単に馬鹿だったのだ。
よく考えたらというよりも来る前に気付けよと自分でも思うのだが、今日は宿題なんて面倒なものは存在しなかったのだ。それに気づいたのは、図書館について鞄のチャックを開けた瞬間。それまで本当に気付かなかった。何で気付かなかったのか、俺は俺に問いたいくらいだ。このまま何するでもなく帰ってもよかったが、ここまで来ておいて何もしないというのも馬鹿らしい。結果、本を読むしかなくなってしまったのだ。一応受験生という立場なのだからそれに値する勉強でもすればいいものを、俺はそこまで行動に移さなかった。
今日のことは絶対宇栄原には言わないようにしようと心に刻みつつ、本を読み進んでいく。今読んでいるのは、愛に狂わされた話を多く残している、『フェア・ウェル』という今は亡き海外作家のものだ。
この作家の作品は何度か読んだことがある程度で別に特別好きなわけでは無いが、それなりに有名な人物である。ミステリー小説の比率が多いようだが、その中にかなり狂気に似た感情が蔓延している印象だ。男女間に芽生えた愛ではなく、愛憎をまるでそのまま形にしたかのようで、フィクションであるにも関わらず本当に起きた出来事のように鮮明に書かれていてるのがよく分かる。もしかしてこれら全ては作者自身の身に起きたものなのではないか、なんて思ってしまう内容ばかりだ。
この人の作品を全部知ってる訳では当然ないから、そのうち全部読んでみるのもいいかも知れない。
「あ、あのっ……」
すると、とある誰かの小さな声が耳に入った。俺にわりと近いところで誰かが誰かを呼んでいるようだったが、その呼ばれている誰かは気づいていないのか、返事らしきものは聞こえない。一応、声のする方向へチラリと視線を向けた。それがいけなかった。
視界に入ってきたのはひとりの女性。この前床に本をぶちまけていた、とある女子高生だった。
ばっりちと目が合ってしまったところを見るに、恐らく呼んでいたのは俺のことなのだろう。お互いに名前を知らないから、呼ぶにも呼べなかったのではないだろうか。
何かを言いたげにしつつも、視線はあっちこっちに動いている。その様子は、挙動不審と呼ぶのにピッタリだった。それに対し俺はなにか声をかけるべきだったのかも知れないが、それよりも先に声を上げたのは彼女のほうだった。
「こ、この前は、その……ありがとうございました」
「ああ、いや……」
これは多分本を拾ったことに対して言っているのだろうとは思うが、またその話になるとは思わなくて何とも適当な返答をしてしまった。今時、名前も知らない人物にこうやって改めてお礼を言ってくる人も珍しいし、何より別にそこまでのことを俺はしていないと思うのだが、それは人の価値観というものの違いと言うべきなのだろう。
まあこれ以上話を膨らませるような出来事もないし、また図書館で見かけることはあったとしても、これでもう話をすることもないはずだ。なんて思っていたのだが、どうやらそう思っていたのは俺だけのようだ。
「……そ、その本っ」
「え?」
「その人の本、お好きなんですか……?」
「あ、ああ……まあ……」
思わぬ言葉に、またしても気の抜けた返事をしてしまう。そいつの目が捉えていたのは、俺がさっきまで目を通していた小説だった。決して好きという理由で読んでいた訳ではなかったから、どう答えようかと言葉を濁してしまった。こういう話を振られたということは、相手が少なからず興味のあることなのだから嘘でも相手に同調できれば良かったのかもしれない。だけどそれをしてしまっては、例えばこの作者の話になってしまった場合に困るのは紛れもなく自分だ。
「えっ、あ……いや……な、何でもないですっ!」
俺が答えあぐねていると、「失礼しました……っ」と言いながら、声をかける暇もなく風のように去っていってしまった。それをただ見ていることしかできなかったことにどうしてか若干後悔してしまった理由については、よく分からない。
恐らくはたまたま俺を見かけたから、単にお礼を言いに来ただけなんだとは思う。第一声がそうだったのだからそれに関しては間違ってはいないだろう。しかし、そのお礼を言うという行為に付随するとある感情がきっと相手にはあったのだろうということには、到底気付くことは出来ない。
「……何だったんだ?」
そんな言葉を漏らしてしまう程に、俺は鈍感だったのだ。