08話:クチナシの戯れ言

 深く小さな息を吐き、私は逃げるようにしてその場を後にする。その様子は、まるで悪いことをしてしまった時のそれとよく似ていた。人気の少ない角の席は私の心を落ち着かせるのに十分だったけど、そんなことなんてお構いなしとでも言うように呼吸は少し乱れているし、心臓の音が騒がしく聞こえる。
 ああ、やってしまった。そんな言葉を吐き出しそうになるけど、今のこの空間にそれは到底似合わない。どうにかして必死に飲み込んだものの、そのせいで私の気持ちは余計に爆発しそうだった。こんなことを思うのは大抵何かを後悔した時だが、今回はそれともうひとつ別の感情があった。

(ほ、本当に話しかけてしまった……)

 心臓が破裂しそうなくらいに、という表現がピッタリな今の状況だろう。気を付けなければ何かが口から出てきてしまいそうだし、体の熱が中々抜けてくれない。それ程にわたしは動揺していたし、焦っていた。今日はもう、本を読むとか勉強するとかそういう気持ちには到底なれないだろう。
 この前わたしが本を落とした時に拾ってくれた名前の分からない学生に自ら話しかけるという、我ながら大それたことをしてしまったのだからそれは当然というものだ。わたしよりも何処か大人びた人だから、きっと年上なのだろう。それだけのことしか知らないし、名前くらい聞けばよかったかもしれない。しかし、わたしはその人のことを前から知っていた。否、知っているというのは少し語弊があるかも知れない。しかし、あの人が図書館にいる時は心なしかそわそわしてしまっていたのは事実だ。

 こういうことを軽々しく言ってしまうのは余り好きではないけれど、一言でいうなら一目惚れと言っても差支えは無いかも知れない。

 それが一体いつの出来事なのかは、自分でもよく分からない。前からよく見かけるなとは思っていたけれど、気付いた時には図書館の外で見かければ「今日はいるんだな」なんて思っていたし、中に入ればあの人がいないだろうかと目で探してしまうし、入って来る姿を見ればその姿をじっと眺めてしまっていたりもした。あとこれは余談だけれど、図書館に来るまでの道がどうやら途中まで同じらしいということを知った時は、もしかして自分はストーカーなんじゃないかと気が気じゃなかった。
 初めて喋ったあの時。きっとわたしはとても挙動不審だったと思う。例えば、あの時本を拾ってくれた人が小さな子供だったり、優しそうな女の人だったり、背広を着たサラリーマンとかだったら、少し愛想のいい私だけがそこにいたのだろう。だけど、わたしはそうすることが出来なかった。それくらい動揺していたのだ。
 手を伸ばせば届きそうな程に近くにいるというのを理解した瞬間から、頭が回らなかった。お世辞にも上手くお礼が言えたとは決して思ってなかったから、次に会った時は死ぬ気で話しかけてみようとその時をずっと待っていたのだ。でもあれ以来、暫くは図書館で見かけることもあの道で見かけることもなかったから、もしかしたら変な女がいると思われたかも知れないと思っていたのだが、そもそもそこまで心配することがおこがましかったのだ。向こうにも予定は当然ある訳だし、そうは言うものの私だって毎日図書館に足を運んでいたかというとそうではない。別に知り合いでもないのに、姿が見えないというだけで寂しいなんて思ってしまっていたのは反省するべきところだろう。
 本当はお礼だけ言って終わりにしようと思っていたんだけど、あの人が私の好きな作家さんの作品を読んでいたから、気が付いたら口が勝手に動いてしまっていた。少し食い気味に話しかけてしまったような気もするし、私にとってはよく見たことのある人という認識であっても、あの人からしたらそんなことはなく、どこからどう見てもただの他人だっただろう。せいぜい図書館で本を巻き散らかした人間に過ぎないのだから、その点に関しても後悔の念が留まるところを知らない。

(……でも)

 やっぱりというか、改めてとでも言えばいいのだろうか。後悔以上の別の感情が、私を押しつぶそうとしているのがよく分かった。それこそ、あの人と話をするよりも前から私をずっと取り巻いているものだが、再認識してしまったのだ。
 少しだけ落ち着きを取り戻した私の周りには、いつもの静寂が蔓延っている。こんなにも静かな図書館に響く、私にしか聞こえることのない自身の鼓動のせいで、思わず口が開いてしまう。

「格好良かったな……」

 そんな言葉が、テーブルに置いてあった本に零れていた。
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