第12話:深淵を纏わない誰かの声
そろそろ日差しも落ちる準備を始める頃、雑踏の蔓延る市場の中で、オレともうひとりは特に何をするでもなく道を行き交う人らを眺めていた。
「お兄ちゃーん」
「んー?」
「暇だね」
「まあ……そうだね」
「トランプでもする?」
「いや、店番中にするものじゃなくない?」
「えー、せっかくお兄ちゃんが来てくれたのに」
「別に来たくて来たわけじゃないっていうか……。オレは通りすぎただけだし」
市場を歩いていてエトガーに呼び止められてしまったのは、まあいつものことだから別に気にしてはいない。ただ、まさかオレが店の護りをすることになるとは思わなかった。いつもはエトガーのお父さんが必ず店の奥に居るのだけれど、どうやら父親が遠出をしているようで、エトガーのお母さんが出かけることに難色を示していたところにオレが通り過ぎてしまったらしい。十を過ぎたばかりのエトガーをひとり店に残すというのは余り宜しくないからと、戻って来るまでの約二時間ほど、オレが店番をすることになっていたのだ。という理由は一応あるにせよ、簡単に言うならオレがエトガーの圧しに負けた形になる。
ローザおばさんに頼まれた買い物をした後だったから別によかったけど、唯一の難点は、平日だからというのもあって暇だったということ。
「あ……」
そんな中、知り合いを誰よりも早く見つけてしまうのは、オレがよっぽど人の行き交う様子を眺めていたからなのか、それとも見慣れてしまったからよく目に付いただけなのか、どっちだったのかは分からない。
「……こんなところで何してるの?」
「店番、の手伝い? みたいな……。なんかそんな感じ」
その知り合いというのは、アルベルだった。
「あー! この前のお兄さんだ」
エトガーは、暇だったこの状況を変える状況を待ってましたと言わんばかりに声をあげる。なんかアルベルに対して凄い馴れ馴れしいけど、そういえばこのふたりって図書館で会っていたような気がする。その時も確か馴れ馴れしかったなと思えるくらいの余裕が、いつの間にか出ていたということには、オレ自身が気付くことは無い。
「そっか、ここって君のお店なんだね」
「うん。今日お父さん居なくて僕とお母さんだけなんだけど、お母さんが買い物行くっていうから、丁度通りすぎたお兄ちゃん捕まえて一緒に店番してるの」
「へえ……」
エトガーが言い終わると、分かっているのかいないのか適当な言葉を口にした。すると、オレとアルベルの視線が交わる。苦笑いを浮かべるオレに合わせてなのか、当たり前のように笑みを返してきた。
こういう何でもない時に貴族と出会うというのは、なんとも不思議な心持ちだ。図書館で会った時は、当然のことながら貴族と市民という関係図に基づいていたし、そもそもアルベルと話した記憶がない。というより、貴族と話すってこと自体本当なら中々起こらないことのはずなんだけど、いつのまにか、オレの周りは貴族とそれに関係している人たちにまみれている。
理由が理由だから、ある意味ではそれは当然なのかも知れない。でも、やっぱりそれは非日常なのだ。
「雑貨屋……で、いいのかな?」
「うんっ! あ、これ僕が作ったんだよ」
「君が?」
市民で溢れた市場の中、どうして貴族がこうして当たり前のように店の前で立ち話をしているのかも、オレにはよく分からない。
「ねえねえ、お兄さんはイヤリングしないの?」
全然そんなことを思っていなさそうなエトガーが手にしているは、光が射すと黄色に輝くイヤリングだ。
「イヤリングは……僕にはちょっと似合わないかな」
「そう? じゃあピアスは?」
「ピアスもちょっと……」
「似合うと思うんだけどなー」などと、エトガーがかなり無責任なことを言っているけど、アルベル本人が言うように、似合うかどうかと言われたら正直なところちょっと疑問だ。まあ、イヤリングとピアスの違いもよく分からないオレが思うことなんて、あんまり当てにはならないけど。
「あ、お姉さんだー!」
落ち着きを見せることのないエトガーの声が、オレの右側から通っていく。エトガーの視線は、アルベルの後ろに向かれている。知り合いであるというのだけは分かるけれど、お姉さんと呼ばれた人物は一体誰なのだろうか?アルベルを避けるようにして顔を向け人の流れを見ると、知らない誰かがこちらに視線を向けていた。
「あら……」
「……ん?」
その誰かの声に反応したのか、アルベルは後ろを振り向いた。これは多分オレの気のせいだと思うけど、その瞬間、アルベルの取り巻く空気がどこか変わったような、そんな気がした。
「エリス……?」
疑問を掲げながらアルベルが声に出したのは、女性の名前だ。
「久しぶりね。暫く会ってなかったから、こんなところで会うなんて思わなかった」
「あれ、ふたりって知り合いなの?」
「まあ……そんなところかな」
エトガーの質問にアルベルが答えると、エリスと呼ばれた人物がなにかを察してか言葉を返す。
「最近ね、たまたまここ通ったら呼び止められちゃって。あ、ねえ見て。その時、彼に勧められて買っちゃったの」
そう言いながら髪の毛を掻き揚げて見せるのは、ダイヤの形をした青緑に光る装飾が映えるイヤリング。……だと思う。もしかしたらピアスかも知れないけど、そういうのに疎過ぎでオレが見ただけだとよく分からない。
「お姉さん、それ似合ってるよ! やっぱり僕の言った通りだったでしょ?」
「そうね。ここって人通りが多いから余り通らないんだけど、あの時は来てみて正解だったみたい」
談笑をしながらも、髪の毛の間を縫って揺れ動くのが見て取れる。ああ確かに、青緑のそれが、この人の雰囲気によく合っているかもしれない。あんまりそういうのに興味がないオレでもそうだと分かるということは、きっとそこに何ら違和感がなかったからだろう。
「……どうしたの? アルベルは気に入らなかった?」
ただ、どうやらアルベルだけは違ったらしい。
「あ、いや……。そういう訳じゃないよ、うん」
「本当? ならいいんだけど」
このアルベルの言い方が、どうしてか自分に言い聞かせているように聞こえたのは、多分オレの気のせいじゃなかったんだと思う。
「ねえアルベル。この後時間ある? 暫く会ってなかったから、ちょっと付き合って欲しいんだけど」
「え……今から?」
「あー! お兄さんとお姉さんって、もしかしてもしかしたりする?」
「あら、それってどういう意味かしら?」
「えー? それ聞いちゃう?」
職業柄なのか、よくもまあこうやってエトガーはすぐに人と仲良くなれるなと感心する。オレはといえば、この人とはまだ一言も会話をしていないというのに。
女の人のすぐ隣にいるアルベルはといえば、中腰になりながらさっきエトガーに差し出されたイヤリングをそっと手に取り、目を伏せる。なにか物思いに更けているようだった。
「……買うの?」
「あ、いや……」
オレの言葉に顔をあげたアルベルは、どうも歯切れの悪い返事だけを口にし、手にしていたそれを元あった場所にそっと戻していく。僅かに眉を歪ませているのが分かった時、オレはそれ以上のことを言うことが出来なかった。
「そうだ、ねえ? どうせなら、お兄さんの彼女さんのいる喫茶店でも行きましょうよ。あなたと行こうと思って、私ずっと我慢してたんだから」
エリスと呼ばれた人は、アルベルの顔を少し覗き込みながら腕に手を絡ませていく。いかにも親しげで自然なその行動を見るに、やっぱりそれなりに親交の深い間柄なのだろう。やや不自然なアルベルを除けば、の話だけれど。
「ちょ、ちょっと……!」
「じゃあ、またね」
その言葉だけを残し、エリスという人とそれに半強制的に引っ張られるアルベルは、すぐに視界から外れていく。じゃあねーと言いながら手を振るエトガーの声に、アルベルこちらを視界に入れはするものの、特にどうということもなく距離はあっという間に離れていった。
「……行っちゃったね。本当に恋人なのかなあ?」
「さあ……。って、ふたりってそういう関係なの?」
「お兄ちゃん聞いてなかったの? お姉さんが言ってたよ」
「へー……」
全然聞いてなかったけど、エトガーの言葉を鵜呑みするのなら、どうやらエリスという人の話ではそういうことらしい。でも、アルベルの言動を思い返して見ると、本当にそんな関係なのかちょっと疑問が残る。
果たして何が本当なのか、気付けばオレは空を見つめながら考えてしまっていた。
「あ、いらっしゃーい! おねーさん見てみて! これ、今週新しく入ったんだよ」
入れ替わるようにして客が来た途端、エトガーはすぐに切り替えて誰かへと言葉を並べはじめる。名前も知らないふたり組の女の人と、それに合わせて適当に何かを喋っているエトガーの声を聞きながら、既に雑沓の中に消えたふたりの後を、オレは再び眺めていた。
「お兄ちゃーん」
「んー?」
「暇だね」
「まあ……そうだね」
「トランプでもする?」
「いや、店番中にするものじゃなくない?」
「えー、せっかくお兄ちゃんが来てくれたのに」
「別に来たくて来たわけじゃないっていうか……。オレは通りすぎただけだし」
市場を歩いていてエトガーに呼び止められてしまったのは、まあいつものことだから別に気にしてはいない。ただ、まさかオレが店の護りをすることになるとは思わなかった。いつもはエトガーのお父さんが必ず店の奥に居るのだけれど、どうやら父親が遠出をしているようで、エトガーのお母さんが出かけることに難色を示していたところにオレが通り過ぎてしまったらしい。十を過ぎたばかりのエトガーをひとり店に残すというのは余り宜しくないからと、戻って来るまでの約二時間ほど、オレが店番をすることになっていたのだ。という理由は一応あるにせよ、簡単に言うならオレがエトガーの圧しに負けた形になる。
ローザおばさんに頼まれた買い物をした後だったから別によかったけど、唯一の難点は、平日だからというのもあって暇だったということ。
「あ……」
そんな中、知り合いを誰よりも早く見つけてしまうのは、オレがよっぽど人の行き交う様子を眺めていたからなのか、それとも見慣れてしまったからよく目に付いただけなのか、どっちだったのかは分からない。
「……こんなところで何してるの?」
「店番、の手伝い? みたいな……。なんかそんな感じ」
その知り合いというのは、アルベルだった。
「あー! この前のお兄さんだ」
エトガーは、暇だったこの状況を変える状況を待ってましたと言わんばかりに声をあげる。なんかアルベルに対して凄い馴れ馴れしいけど、そういえばこのふたりって図書館で会っていたような気がする。その時も確か馴れ馴れしかったなと思えるくらいの余裕が、いつの間にか出ていたということには、オレ自身が気付くことは無い。
「そっか、ここって君のお店なんだね」
「うん。今日お父さん居なくて僕とお母さんだけなんだけど、お母さんが買い物行くっていうから、丁度通りすぎたお兄ちゃん捕まえて一緒に店番してるの」
「へえ……」
エトガーが言い終わると、分かっているのかいないのか適当な言葉を口にした。すると、オレとアルベルの視線が交わる。苦笑いを浮かべるオレに合わせてなのか、当たり前のように笑みを返してきた。
こういう何でもない時に貴族と出会うというのは、なんとも不思議な心持ちだ。図書館で会った時は、当然のことながら貴族と市民という関係図に基づいていたし、そもそもアルベルと話した記憶がない。というより、貴族と話すってこと自体本当なら中々起こらないことのはずなんだけど、いつのまにか、オレの周りは貴族とそれに関係している人たちにまみれている。
理由が理由だから、ある意味ではそれは当然なのかも知れない。でも、やっぱりそれは非日常なのだ。
「雑貨屋……で、いいのかな?」
「うんっ! あ、これ僕が作ったんだよ」
「君が?」
市民で溢れた市場の中、どうして貴族がこうして当たり前のように店の前で立ち話をしているのかも、オレにはよく分からない。
「ねえねえ、お兄さんはイヤリングしないの?」
全然そんなことを思っていなさそうなエトガーが手にしているは、光が射すと黄色に輝くイヤリングだ。
「イヤリングは……僕にはちょっと似合わないかな」
「そう? じゃあピアスは?」
「ピアスもちょっと……」
「似合うと思うんだけどなー」などと、エトガーがかなり無責任なことを言っているけど、アルベル本人が言うように、似合うかどうかと言われたら正直なところちょっと疑問だ。まあ、イヤリングとピアスの違いもよく分からないオレが思うことなんて、あんまり当てにはならないけど。
「あ、お姉さんだー!」
落ち着きを見せることのないエトガーの声が、オレの右側から通っていく。エトガーの視線は、アルベルの後ろに向かれている。知り合いであるというのだけは分かるけれど、お姉さんと呼ばれた人物は一体誰なのだろうか?アルベルを避けるようにして顔を向け人の流れを見ると、知らない誰かがこちらに視線を向けていた。
「あら……」
「……ん?」
その誰かの声に反応したのか、アルベルは後ろを振り向いた。これは多分オレの気のせいだと思うけど、その瞬間、アルベルの取り巻く空気がどこか変わったような、そんな気がした。
「エリス……?」
疑問を掲げながらアルベルが声に出したのは、女性の名前だ。
「久しぶりね。暫く会ってなかったから、こんなところで会うなんて思わなかった」
「あれ、ふたりって知り合いなの?」
「まあ……そんなところかな」
エトガーの質問にアルベルが答えると、エリスと呼ばれた人物がなにかを察してか言葉を返す。
「最近ね、たまたまここ通ったら呼び止められちゃって。あ、ねえ見て。その時、彼に勧められて買っちゃったの」
そう言いながら髪の毛を掻き揚げて見せるのは、ダイヤの形をした青緑に光る装飾が映えるイヤリング。……だと思う。もしかしたらピアスかも知れないけど、そういうのに疎過ぎでオレが見ただけだとよく分からない。
「お姉さん、それ似合ってるよ! やっぱり僕の言った通りだったでしょ?」
「そうね。ここって人通りが多いから余り通らないんだけど、あの時は来てみて正解だったみたい」
談笑をしながらも、髪の毛の間を縫って揺れ動くのが見て取れる。ああ確かに、青緑のそれが、この人の雰囲気によく合っているかもしれない。あんまりそういうのに興味がないオレでもそうだと分かるということは、きっとそこに何ら違和感がなかったからだろう。
「……どうしたの? アルベルは気に入らなかった?」
ただ、どうやらアルベルだけは違ったらしい。
「あ、いや……。そういう訳じゃないよ、うん」
「本当? ならいいんだけど」
このアルベルの言い方が、どうしてか自分に言い聞かせているように聞こえたのは、多分オレの気のせいじゃなかったんだと思う。
「ねえアルベル。この後時間ある? 暫く会ってなかったから、ちょっと付き合って欲しいんだけど」
「え……今から?」
「あー! お兄さんとお姉さんって、もしかしてもしかしたりする?」
「あら、それってどういう意味かしら?」
「えー? それ聞いちゃう?」
職業柄なのか、よくもまあこうやってエトガーはすぐに人と仲良くなれるなと感心する。オレはといえば、この人とはまだ一言も会話をしていないというのに。
女の人のすぐ隣にいるアルベルはといえば、中腰になりながらさっきエトガーに差し出されたイヤリングをそっと手に取り、目を伏せる。なにか物思いに更けているようだった。
「……買うの?」
「あ、いや……」
オレの言葉に顔をあげたアルベルは、どうも歯切れの悪い返事だけを口にし、手にしていたそれを元あった場所にそっと戻していく。僅かに眉を歪ませているのが分かった時、オレはそれ以上のことを言うことが出来なかった。
「そうだ、ねえ? どうせなら、お兄さんの彼女さんのいる喫茶店でも行きましょうよ。あなたと行こうと思って、私ずっと我慢してたんだから」
エリスと呼ばれた人は、アルベルの顔を少し覗き込みながら腕に手を絡ませていく。いかにも親しげで自然なその行動を見るに、やっぱりそれなりに親交の深い間柄なのだろう。やや不自然なアルベルを除けば、の話だけれど。
「ちょ、ちょっと……!」
「じゃあ、またね」
その言葉だけを残し、エリスという人とそれに半強制的に引っ張られるアルベルは、すぐに視界から外れていく。じゃあねーと言いながら手を振るエトガーの声に、アルベルこちらを視界に入れはするものの、特にどうということもなく距離はあっという間に離れていった。
「……行っちゃったね。本当に恋人なのかなあ?」
「さあ……。って、ふたりってそういう関係なの?」
「お兄ちゃん聞いてなかったの? お姉さんが言ってたよ」
「へー……」
全然聞いてなかったけど、エトガーの言葉を鵜呑みするのなら、どうやらエリスという人の話ではそういうことらしい。でも、アルベルの言動を思い返して見ると、本当にそんな関係なのかちょっと疑問が残る。
果たして何が本当なのか、気付けばオレは空を見つめながら考えてしまっていた。
「あ、いらっしゃーい! おねーさん見てみて! これ、今週新しく入ったんだよ」
入れ替わるようにして客が来た途端、エトガーはすぐに切り替えて誰かへと言葉を並べはじめる。名前も知らないふたり組の女の人と、それに合わせて適当に何かを喋っているエトガーの声を聞きながら、既に雑沓の中に消えたふたりの後を、オレは再び眺めていた。