第12話:深淵を纏わない誰かの声

 店を離れてからの約数十歩。僕の手を引くエリスという人物は、僕のほうを振り向くことはしなかった。

「エ、エリス……」
「お店の子と一緒にいた彼、あの子もお店の人なのかしら? この前来た時はいなかったと思うんだけど……」
「ちょっと待って、話を聞いて」
「なあに? ああ、もしかしてこれのこと怒ってるのかしら?」

 髪の毛に触れながら、あのお店で買ったというイヤリングを僕に見せてくる。あの時はちゃんと口に出すことはしなかったけど、控えめに言ってもとても似合っている。本当に、そう思ったのだ。

「だって、あのお店で彼に捕まった時、目がキラキラしてたんだもの。買わないのも悪いじゃない?」
「いや、そうじゃなくて――」

 でも、だからこそ言えなかった。あの場所にふたりが居たから、それは尚更だった。

「……どうしたの?」

 雑踏が少しだけ薄れた道。その真ん中で、僕らは立ち止まった。
 人が多少減ったと言っても、今はまだ日が落ちる前というだけあって、僕らを通り過ぎる人はそれなりにいる。それら全ての、僕の周辺を蔓延る音が耳をつんざくように酷く五月蝿くて、騒がしくて煩わしい。どういうわけか、言葉にならない声を発しそうになるのを必死に堪えながら。

「どうして君が、こんなところにいるのかなって」

 僕は、そう言葉を口にした。

「……なんで、そんなこと聞くの?」

 はじめて訪れる沈黙に、ようやく辺りが静寂に包まれたような錯覚に陥ってしまう。
 本当、彼女の言う通りだ。どうしてこんなことを聞かないといけないのだろう? 普通ならこんなことを言えば驚くだろうし、何を言っているんだと思われるはずだ。でも、目の前にいる彼女は至って冷静で、それでいて柔らかな笑みを浮かべている。

「まだ数週間しか経ってないから、よく覚えてるよ」

 こういう時、僕は自分が貴族であるということを恨みそうになってしまうのは、きっとどうしようもないことなのだろう。

「僕の知っている君は、死んだって記憶してる」

 風が僕らふたりの廻りを舞っているのが、唯一ここが現実であるということを表していた。イヤリングが揺れるのを合図に、地上を這うような嗤い声がする。そんな気がした。

「やっぱり、アナタもちゃんと貴族なのね」

 僕を掴んでいた彼女の手が、するりと解けていく。

「あそこで言及しなかったのは、人通りが多かったから? それとも、あのふたりの前だったからなのからしら? 他の貴族より随分と優しいじゃない」

 そう言ったかと思うと、彼女を取り巻く空気が途端に変わっていった。

「……優しいっていうより、甘いわね」

 いや、変わったと言うよりは、わざと変えたというのが正しいのかもしれない。
 目の前にいる彼女の、賎しい笑み。果たして彼女は、こういう笑い方をする人だっただろうか。そうじゃないと思いたいのに、目の前にエリスとして存在している誰かのせいで、思わずそうだったんじゃないかと結論付けてしまいそうになる。

「でもワタシ、暫くはずっと大人しくしてたでしょう? 動けなかったっていうのもあるけど」

 誉めて欲しいくらい。そう口にしながら目の前にいる彼女の、賎しい笑み。果たして、彼女はこういう笑い方をする人だっただろうか。

「……なら、どうして今になって動き始めたのかな?」
「それは簡単な話よ。抑制するものが無くなったの」
「抑制……?」

 その僕の言葉に、彼女は答えなかった。目の前にエリスとして存在している誰かのせいで、思わずそうだったんじゃないかと結論付けてしまいそうになる。でも、それに付随する数々の言葉を持ってしても、僕は冷静さを失うことはしなかった。していないと思っていた。
 横を抜ける風に負け、髪を撫でる仕草はどう見ても彼女そのものだ。目の前にいる誰かが笑う代わりに、僕の眉が酷く歪んでいく。僕は、全ての邪心を消すように、誰にも気付かれることなく深く息を吐いた。

「それにしても、やっぱりいいわね。人の身体ってよく動くじゃない? 実体が無いのはやっぱり面白くないもの」

 くるりと回ってみせるそれを見るに、どうやら本当にそう思っているらしい。人の身体という表現をする辺りがなんとも嫌らしかったが、そんなことはもう些細なことだった。

「もっとはぐらかされると思ってたんだけど、隠す気はないんだね?」
「こんな話、貴族相手に適当な嘘ついたってしょうがないでしょう? それに、別に隠してなんかいないもの。そういうアナタこそ、余り驚かないのね?」
「……それくらいじゃ、まだ動揺はしないかな」
「そう? ちょっとザンネン」

 僕が問いに答えるごとに増える、まるで茶化しているかのように周りをうろつく黒い靄。

「どうして今日接触してきたの? ただの散歩ならまだいいんだけど」
「まさか」

 果たして、周りの市民には見えているのだろうか? 否、そんなことは考えなくても分かる。

「私ね、落ちた光が反射した時の、あの輝きがずっと忘れられないの」

 これは、貴族にしか分からない嫌な特権だ。

「本当に、虫酸が走る」

 目を細め、眉を顔の中央に寄せながら言うその言葉に、内から冷える感覚を覚えた。
 口にすることはしなかった、何処かの誰か、という存在。考えるまでもなく、とある人物が目に浮かんだのは、恐らくさっきまでその彼が側に居たからだろう。

「ねえアルベル」

 不意に名前を呼ばれ、思わず目を見開いてしまう。

「私、本当に貴方からのプレゼントを楽しみにしてたんだからね?」

 そこに居たのは、正しく彼女そのものだった。
 これは果たして、誰の言葉だったのか? その疑問を抱いたのは、もう少しした後。
 少しずつ増えていく、エリスの周りをうろつく黒い靄。それが一体何を意味するのかなんて、考えなくても分かってしまう。もし僕が貴族じゃなかったら。いや、もしこの世界に魔法なんてものが存在しなかったら、恐らく起こることはなかったであろうこの一連の会話。出来れば、何かの間違いだったらいいなどと思っている中、「そろそろ行くわ」と、誰かがそう口を動かした。

「じゃあね」

 気付けば、目の前には黒いそれだけが蔓延していた。
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